2016.07.05

なぜ各政党は対中政策について思考停止に陥るのか――日中の「立憲主義」の現状をめぐって

梶谷懐 現代中国経済論

政治 #18歳からの選挙入門#自民党憲法法案

6月22日公示、7月10日投開票の第24回参議院議員選挙。選挙権年齢が18歳以上に引き下げられてから最初の投票となります。シノドスでは「18歳からの選挙入門」と題して、今回初めて投票権を持つ高校生を対象に、経済、社会保障、教育、国際、労働など、さまざまな分野の専門家にポイントを解説していただく連載を始めます。本稿を参考に、改めて各党の公約・政策を検討いただければ幸いです。今回は、自民党憲法法案と中国憲法の類似性について、梶谷懐さんにご寄稿をいただきました。(シノドス編集部)

各党、似たり寄ったりの対中政策

7月10日の参院選に関して、SYNODOS編集部より、18歳以上の高校生向けに、日中関係をめぐる論点について、解説するような原稿を書いてほしい、という依頼をいただきました。しかし、正直なところ、参院選で日中関係が争点になることはほとんどなさそうです。各党の選挙公約に目を通してみても、中国との関係について書かれた記述自体がそれほど多くありませんし、しかもその内容は与党も野党も似たり寄ったりです。

たとえば、自民党の選挙公約では、「V.国の基本」という項目の中で、

国際協調主義に基づく積極的平和外交のもと、地球儀を俯瞰して戦略的な外交を展開し、日米同盟を基軸に、豪州、インド、ASEAN、欧州など普遍的価値を共有する国々との連携を強化するとともに、わが国の領土等に関し必要な主張を行いつつ、戦略的利益を共有する韓国をはじめ、中国、ロシア等の近隣諸国との関係改善の流れを一層加速し、地域や国際社会の平和、安定及び発展に一層貢献

することを選挙公約として述べています。

また公明党のマニュフェストでは「5.日中、日韓関係の改善」という項目を設け、

2015年の日中首脳会談等を踏まえて、継続的な首脳会談をはじめハイレベル交流などを活性化させるとともに、議員交流、青少年交流などの人的交流や経済、環境など様々な分野の実務的協力を進め、戦略的互恵関係を発展させます

中国による海洋進出に対しては国際法に則った対応を求めていくとともに、日中間の偶発的な衝突回避のため、「海空連絡メカニズム」の早期運用開始など、不測の事態に対する未然防止の仕組みをつくります

と述べています。

要は、これからも対話を通じて中国との関係改善を図っていく一方、尖閣諸島をめぐる問題など安全保障にかかわる領域については米国などと協調しつつ中国を牽制する、というのが与党の基本姿勢であると言ってよいでしょう。

では、これに対して野党の方はどうでしょうか。民進党の選挙公約では、中国という国名を明記した記述がそもそも見当たりません。ただし、「国を守り、世界に貢献する重点政策」という項目では、

尖閣諸島などで武力攻撃に至らないグレーゾーン事態が発生した時に備え、警察・海保と自衛隊が連携して迅速に対応できるよう、領域警備法をつくります。米軍に対する自衛隊の後方支援については、日本の「周辺」という概念を維持しながら、公海上における対米支援任務を拡大するなど重要影響事態法を改正し、日米の共同対処能力を高めます。

と述べています。もちろん、安全保障関連の法整備に対する考え方は与党とは異なりますが、「関係改善を図りつつ、安全保障については米国と協調しつつ中国を牽制」するという対中政策の基本姿勢については与党とほとんど変わらない、ということがここから見てとれるでしょう。

他の政党についてもこれは似たり寄ったりです。ただし、選挙公約の中で明確に中国を脅威として名指しし、

中国の人権状況を調査して、国際社会に中国の横暴による自由の危機を訴えるとともに、中国の民主化を促します。香港の民主化勢力を支援すべく、国際世論の形成に尽力します。

とうたっている幸福実現党を除けば、ですが。

一方で、安倍政権が一時期改憲に積極的な姿勢を明確にしていたことから――選挙前になって安倍首相は改憲を争点としない姿勢に転じましたが――改憲議論があちこちで盛り上がっています。

昨年夏の安保法案が違憲であるとの批判がある中で成立したことや、政権党である自民党が2012年4月に公表した憲法草案がいくつかの点で立憲主義に反するのではないか、という批判があることから、改憲をめぐる議論が「立憲主義」をめぐるそれと並行して行われていることが昨今の状況を特徴づけている、と言っていいでしょう。

その自民党の憲法草案(以下、「自民党草案」)が、中国の憲法と発想が似ている、というと驚かれるかもしれません。現行の中華人民共和国憲法(以下、「中国憲法」)は1982年に制定されたものがベースになっていますが、そこには民主主義的集中制という、われわれにとってなじみのある三権分立とは異質の原理が採用されています(鈴木2016)。

たとえば、中国憲法の前文には、「四つの基本原則」(社会主義、人民民主主義独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を憲法の指導原理とし、その堅持が「中国の各民族人民」の法的義務であるとしています。つまり、人民の利益を代表する「前衛党」である共産党に権力を集中させ、他の機関によるチェック・アンド・バランスの対象としない、ということです。

この考え方が、西洋近代的な立憲主義の考え方とは相容れないことは言うまでもありません。その中国憲法と自民党草案が似ているというのは、どういうことでしょうか。

というわけで、以下では、日中関係に関する従来の議論とは少し見方を変えて、日本国内における憲法や「立憲主義」をめぐる議論を出発点に、これからの中国との関係をどう考えていけばよいのか、中長期的な視点から考えてみたいと思います。

自民党草案は中国憲法に似ている?

今年の3月から、朝日新聞の紙面で自民党草案に対する検証・批判を詳細に行った「憲法を考える」というシリーズが長期連載されています。そこでの議論などを参考に、自民党草案の中で、特に立憲主義の観点から問題とされている部分現行の中国憲法の条文ではどのようになっているか、関連する条文を対比させながら検討しておきましょう。なお、中国憲法の日本語訳はウェブサイト「恋する中国」などで読むことができます。

(1)前文に国家の伝統を書き込むことについて

さて、自民党草案の前文には、次のような文言が並んでいます。

「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇をいただく国家であって」

「先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」

「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる」

これについて憲法学者や弁護士などからは、「歴史・文化・伝統など、個々の評価や価値観が違うものについて憲法に載せることは、特定の評価や価値観を押し付け、また、異なる考えの人を排除することにつながる」(伊藤2014、13ページ)と厳しい評価が行われてきました。

中国憲法でも、中国近代史において帝国主義、封建主義、官僚資本主義を打ち倒して、人民を主人公とする国を樹立したのは共産党の指導のたまものであることが具体的な歴史の叙述を交えて強調されています。

憲法前文でこのように歴史的な経緯を詳細に書き連ねるのは、旧ソ連憲法以来の社会主義憲法の伝統ですが、なぜそうなっているのか、中国法が専門の鈴木賢の指摘を、以下に引用しておきましょう。

これは憲法において複数の政治的選択肢を用意することを拒否することを正当化するためには必要な手続きであり、そういう態度をとる憲法制定権力の正当性の根拠を示そうとするものである。もっとも、新たに王朝を開いた皇帝が全王朝の正史を編纂するのは、中国の長い歴史の中で繰り返されてきたことであり、その意味で実は中国の政治文化とも軌を一にする(鈴木2014)。

つまり、社会主義憲法では天賦人権を取らず、「国家が憲法で定めて初めて基本的人権が認められる」という立場をとります。前文において歴史的経緯や社会主義の理念が示されるのも、基本的に同じ理由―現政権が西側のブルジョワ国家と異なる正統性を持つものだということを示すため―だといってよいでしょう。

もちろん、自民党草案の前文について、「西側のブルジョワ国家と異なる歴史的正統性を示す」ものとまで言えないかもしれません。ただし、憲法に歴史的伝統や普遍的価値観を書き込むことは日本がお手本にしてきた欧米諸国の憲法観とはそぐわないという懸念は、改憲を主張する保守派の政治家からもしばしば示されてきました。

分かりやすく言えば、「美しい」とか「醜い」とかいう形容詞は、憲法前文にはそぐわないのである。(中略)復古調が強すぎても、特定の価値観が色濃く出ていても、それが反発を呼んで野党や広範な国民の支持を得ることができなくなれば、憲法改正ができなくなる。(舛添2014、71ページ)

アメリカ、フランス、ドイツなど先進民主主義諸国の憲法は、きわめて簡潔な全文であること、それに対して、中国の憲法前文は、近代史における共産党の業績をたたえる長文のものである。(同、268ページ)

また舛添は、現在の自民党憲法草案に対して、

右か左かというイデオロギーの問題以前に、憲法というものについて基本的なことを理解していない人々が書いたとしか思えなかった(舛添2014、3ページ)

と率直な懸念を示しています。

(2)憲法に国民の義務を盛り込むことについて

自民党草案第12条で、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚」すべきだ、ということが高らかにうたわれています。個別の条文を見ても、具体的な義務規定のほかに、国民に一定の態度を要求している部分が現行憲法よりも格段に増加しています。

また102条第1項では、「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」とあり、現行憲法では公務員のみが負っている憲法尊重義務を全国民が負うことにされています。つまり、憲法の宛名が国家ではなく、国民にされているわけです。

一方、中国憲法の条文、特に「第2章公民の基本的権利及び義務」は国家から国民に当てた義務規定のオンパレードとなっています。たとえば第53条には「中華人民共和国公民は、この憲法及び法律を遵守し、国家の機密を保守し、公有財産を大切にし、労働規律を遵守し、公共の秩序を守り、並びに社会の公徳を尊重しなければならない。」とすべての国民に遵守義務があることが明記されています。

このように、国民の権利と同時に必ず義務を併記して示すのも、旧ソ連憲法から受け継がれた社会主義憲法の伝統です。これは、社会主義憲法が天賦人権説を「ブルジョワ思想」として否定し、人々の基本的権利は社会主義国としての理念を受け入れてその構成員になることで初めて得られる、という立場をとるからです(鈴木2014)。

つまり、国民の権利と義務は必ずセットになっていなければならない、というのはもともと極めて社会主義的な思想だ、といえるでしょう。

(3)「家族の相互扶助義務」に関する条項について

自民党草案の前文には「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」、また第24条には「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」という文章があります。このような家族に関する「助け合わなければならない」という価値観が憲法に書き込まれることは、多様な価値観を認める立憲主義の考え方にそぐわないという批判はよく聞かれるところです。

一方、中国憲法第49条3項には、「父母は、未成年の子女を扶養・教育する義務を負い、成年の子女は、父母を扶養・援助する義務を負う。」と、「家族が互いに助け合う」ことを国民の義務とする条文が書き込まれています。

ちなみに、旧ソ連憲法(1977年憲法)にもほぼ同じ条文がありますが、ソ連の崩壊後、1993年に制定されたロシア国憲法ではこのような家族の相互扶助の義務を記した条文はないようです。

また、中国婚姻法には「夫婦は互いに誠実であり、尊重し合わなければならない。家族構成員間においては高齢者を敬い、幼い者を慈しみ、互いに助け合い、平等で、仲むつまじく、品格ある婚姻・家庭関係を維持・擁護しなければならない」と、それこそ「家族の助け合い」を国民の義務として明確に規定した条文があります。

このように憲法に「家族の助け合い」を義務として書き込むことについて、中国法を専門とする鈴木賢は国家が「社会保障や公的扶助、福祉といったものをサボろうとしているんじゃないか」と指摘しています(鈴木2016)。

(4)国民の義務と「公益」「公の秩序」の優先

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。(自民党草案第12条)

生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。(自民党憲法法案第13条)

自民党憲法草案ではこのように書かれ、国民の権利が、現行憲法のように、「公共の福祉」ではなく、「公益」「公の秩序」を優先すると明確に規定されています。これには、基本的人権の制約が、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにする意味があることが指摘されています(「自民党憲法草案の条文解説」参照)

では、中国憲法を見てみましょう。

中国公民は、その自由及び権利を行使するときには、国、社会及び集団の利益並びに他の公民の適法な自由及び権利を損なってはならない。(中国憲法第51条)

中華人民共和国公民は、この憲法及び法律を遵守し、国家の機密を保守し、公有財産を大切にし、労働規律を遵守し、公共の秩序を守り、並びに社会の公徳を尊重しなければならない。(中国憲法第53条)

自民党草案とほぼ同じ内容の条文が存在しています。このような、「私」的な権利に対する「公」の利益や秩序を優先させる秩序概念は、伝統中国から現在の共産党の統治に受け継がれているものと極めて似通っています。

(5)緊急事態条項

自民党憲法草案第98条では、「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。」と内閣総理大臣に緊急事態の宣言をする権限があることを定めた条文があります。

一方、中国憲法第80条では国家レベルでの緊急事態に入ることを宣布する権限は国家主席に、同第89条では省、自治区、直轄市の範囲内の一部地区が緊急事態に入ることを宣布する権限は国務院(内閣)にあることがそれぞれ定められています。

ちなみに、これはもともと「戒厳を決定すること」すなわち戒厳令を宣布することを定めた条文だったのですが―これに基づいて北京市に戒厳令が布告されたのが1989年の第二次天安門事件です―、2004年の改正で「緊急事態に組み入れること」に修正されたという経緯があります。

日中に共通する立憲主義の困難性

・「近代」と「現代」のあいだ

これまで見てきたように、自民党が中国憲法と似ている、あるいは前者が後者の方に「歩み寄っている」のはなぜなのか、その答えを探ってみましょう。

ひとつの答えは、中国共産党と自民党の国家統治に関する発想が似ている、というものです。確かに、これはいかにもありそうなことです。繰り返しになりますが、社会主義国家である中国の憲法で定められた人々の基本権は、中国の構成員(「公民」)となることで初めてそれを享受することができる、とされており、「天賦人権説」の明確な否定のうえに立っています。

さらに、「法を統治階級の意思の表れとし、統治階級の利益を保護する用具と認識する法に関する階級意思論、統治の用具論を法理論の根底に据える」(高見澤=鈴木2009、82ページ)、つまり統治のための手段として法を考える、という発想の下に作られているのが中国憲法を含めた社会主義憲法です。

一方の自民党草案のパンフレット「日本国憲法改正案Q&A」の中では、「人権は神から人間に与えられるという西欧の天賦人権思想に基づいたと考えられる表現を改めた」ことが明確にうたわれています。また、国民の義務を権利として盛り込むなど、「統治のための手段として法を考える」という発想は自民党草案にも色濃く見られます。

ですが、もう少し複雑な側面もあると思います。というのも、多くの論者も指摘するように、国民主権が成立した現代における「立憲主義」は、君主制への対抗として生まれた近代のそれのように単純に「憲法によって権力を縛」ればよい、というものではなくなっているからです。

現代的な立憲主義の眼目をより厳密に言い直すなら、人権思想と違憲審査権を通じて、市民の活動のうち、「国家からは介入できない領域」を確保することにある、となるでしょう。

ここに、国民の意志を反映する形で成立している政権―これには中国共産党政権も含まれます―を制約する要因として働く「人権」とは、果たして国民の意志とはどのような関係にあるのか、という難しい問題が生じます。

ひとつの考え方は、人権を民主的な手続きを経て成立した政権であっても犯すことができない、民主主義の外在的な制約としてとらえるものです。この立場は立憲主義を、価値の多様性を認めるリベラルな社会を実現するために不可欠なものとしてとらえ、それを担保するためのいわば「切り札」として、人権概念に頼るものだといえるでしょう。安保法制に反対の論陣を張ったことで有名な長谷部恭男氏の議論がこの立場の代表的なものだ、と言えそうです(稲葉2008)。

長谷部は、立憲主義の基本的な考え方を、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域とに区分し、後者では自分が大切だと思う価値観を括弧にくくり、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見する方途を冷静に話し合うことだ、と説明しています。長谷部は、このような立憲主義は「不自然」で、人間の本性に逆らうものだと言いきります。それでも、「各自が大切だと思う価値観・世界間の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組」として必要なものだ、というわけです(長谷部2006、9-10ページ)。

しかし、このような外在的制約として人権を理解する立場にもいくつかの問題点があります。ひとつは、そのような、民主主義に対して外在的な制約を設けることに、果たして人々を納得させうる根拠はあるのか?という点です。これについては、稲葉振一郎がαシノドスの「立憲主義と民主主義」と題された特集号の中で以下のように述べています(稲葉2016)。

それでは「人権」は何のためにあるのだろうか?

それはなぜ大切なのだろうか?

それを「人権は大切だ」という発想を我々はなぜ、どうやって獲得したのだろうか?

と。一つの考え方としては「人権が大切であることに(それ以外の)根拠なんかない!」と開き直ることであろう。「神様がそうお命じになったから」でもべつにかまわないのではないか。

(中略)

「神様がそうお命じになったから」よりも「専門家集団がそう判断したから」の方がよりも確固とした「人権」の根拠づけと考えられるかどうかは、なかなかに難しい問題である。

憲法の外在的制約論に関するもう一の問題点は、そのような国家権力に対する制約を「誰」が望んでいるのか? というものです。つまり、「国家権力は縛られなければならない」という主張は、結局特定の政治勢力が時の権力を批判する際の「方便」として用いられるに過ぎないのではないか。たとえば、αシノドスの同じ号の中で、法哲学者の大屋雄裕は次のように述べています(大屋2016)。

つまりここでの問題は、「我ら人民」の意思が常に振り返って見出されるようなものにすぎないという点にある。平時の政治が政治家たちの手に委ねられているとき、当然ながら彼らは(少なくともその信頼すべき割合は)「我ら人民」の意思を想定し・それに応えるように政治を行なおうとしていると考えることができるだろう。

(中略)

たとえば安倍政権が平和安全法制を提唱したとき、彼らはそれが「我ら人民」の意思をとらえると考えていただろう。もちろんそれに反対する側の人々もそうである。そのどちらが正しかったかは、結局のところ歴史において示されるよりない。

・立憲主義は象牙の塔から出られるか

近代的立憲主義に関してもうひとつ問題点があります。そこから導かれる社会像がどうも嘘くさい、庶民の感覚に合わない、というものです。この点を突いているのが、評論家の浅羽通明です。浅羽は近著『「反核・反戦リベラル」はなぜ敗北するか』の補論としてPDFファイルで配布された論考「本当は怖い立憲主義」の中で、次のように述べています(浅羽2016)。

「日本国憲法体制」というもの自体が、小中と高等学校、さらに大学のほとんどと法曹界、また革新政党、リベラルなマスコミなど「世間知らず」たちにのみ真に受けられてきた建前、「顕教」なのではなかったか。

企業の門から中へは日本国憲法は一歩も入れないと、よくいわれてきた(むしろ学校の門から一歩も出られないが実情かもしれない)。企業ばかりではないだろう。町内会はじめ、実務家と生活者がしがらみを結ぶほとんどの領域へ、「個の尊厳」や「人権」を絶対とする憲法は一歩も入れない。

これは、人権思想やそれを「外在的制約」としてとらえる立憲主義が、ほとんどの庶民にとって「よそよそしいもの」であり、したがってそれを前面に掲げても選挙に勝てるはずがないじゃないか、という批判です。これは確かに長谷部らの立憲主義による政府批判の弱点を突いているところがあると思います。

確かにに、民意も誤ることはありますので、民主的な意思決定が常に正しいというわけではありません。しかし、それならば「民意の暴走」を批判しがちな「専門家集団」あるいは「リベラルな知識人たち」の意見は常に正しいのでしょうか。控えめに言ってもそれは大屋の言うように「そのどちらが正しかったかは、結局のところ歴史において示されるよりない」という問題ではないでしょうか。

このように述べると、私も立憲主義に懐疑的な立場ととられるかもしれませんが、そう早とちりしないでください。私はむしろ、ここで述べたような現代の「立憲主義」が抱える難問は、実は中国において「憲政(=立憲主義)」と人権の擁護を掲げて権力=中国共産党と対峙しようとするリベラリズムの思想が抱えている問題とそのまま重なりあうのではないか、という問題提起を行いたいのです。前節でみたような自民党草案と中国憲法の奇妙な一致の背景についても、そのような観点から理解される必要があるように思います。

私が言いたいことをかなり乱暴にまとめてしまえば、次のようになります。人権を外在的制約としてとらえる、近代的でリベラルな立憲主義は「嘘っぽく」「庶民感覚に合わない」のはよく分った。

しかし、そのアンチテーゼとして「人民の意志」や「庶民感覚」を重視する方向性をどんどん追及してしまうと、国家と社会、そして憲法との関係は、どんどん現在の中国社会のようなあり方に近付いてしまうのではないか? そこに何らかの「歯止め」が働くという保証はあるだろうか?

・中国における「民主」と「憲政」の相克

上に述べたことが単なる思い付きではないことを示すために、中国における「憲政」をめぐる議論の現状についても触れておきましょう。

たとえば、中国の憲法論議に詳しい法学者の石塚迅によれば、中国社会における自由と人権の実現を目指すリベラルな法学者の中には、いわゆる「民主」化よりも権力の抑制に重点を置く「憲政」を最優先の課題として掲げるものが少なくありません。しかし、その主張は共産党政府に対し強い信頼を寄せる大衆にはなじみが薄く、学者の議論と現実の間とはかなりの乖離が生じているのが実情です(石塚2012)。

また、リベラルな憲法学者として知られる張千帆も、次のように指摘します(張2015、274ページ)。

より根本な問題は、中国の公衆の一般的な観念は常に現代憲政の原則を受け入れているわけではないということである。(中略)つまり、役人の腐敗と黒社会に対する民衆の強い憎しみは必ずしも政治の民主化の原動力になれるとは限らない。逆に感情的な司法を生み出し、法治に対する根気と寛容を失わせる可能性がある。

私は、ここで提起されている問題点というのは、上にみた浅羽あるいは大屋が提起している問題と基本的に同型のものだと思うのです。

むしろ、中国社会では「民意」が、――民衆暴動や権力による大衆動員を通じて――実際の政治に影響を与える力として日本以上にリアリティを持ってきたからこそ、それに対し「憲政」によるタガをどのようにはめるか、という議論がより切実性を持って語られている、という側面があるように思います。

こういった状況を踏まえるなら、日本においても、「権力を縛るもの」という憲法観を、外来の、かつ時代遅れの思想としてそう簡単に捨て去ってもよいのだろうか、という疑問が改めて沸いてくるのではないでしょうか。

おわりに

冒頭で述べたように、安倍政権は今回の参議院選挙では改憲を争点にしないという姿勢を明確にしています。しかし、自民党の選挙公約では「普遍的価値を共有する国々との連携を強化する」ことがうたわれています。この「普遍的価値を共有する国々」の中に当然ながら中国は含まれていません。

その自民党がむしろそのような「普遍的価値」に否定的な中国憲法にその発想が似通った憲法草案を掲げ続けていることは明らかに矛盾した行為であり、きちんと説明責任を果たす必要があるように思います。

一方、安倍政権を批判するリベラル勢力の方もこういった点を明確につく議論を展開できていないように思います。中国の人権問題について、日常的に批判の声が聞こえてくるのも――幸福実現党のマニフェストを引くまでもなく――むしろ保守勢力の方からであり、リベラルな政治勢力からこの問題について積極的な発言が行われる様子はあまりありません。

このように、保守もリベラルも、中国の台頭という現実について一種の「思考停止」に陥っていることが、すでに述べたように対中政策が各党の間で「似たり寄ったり」の状況になっていることの背景にはあるのではないでしょうか。

本稿でこれまで述べてきたようなことは、どちらかというと抽象的なことで、直接に選挙の争点になるようなことではないかもしれません。しかし、台頭する中国と関係をどう再構築していくのか、ということはいずれ日本の国内政治にも影響を与える大問題です。

立憲主義と民主的意思決定の間にある潜在的な緊張関係、あるいはその根底にある人権概念の嘘くささ、といった問題群は、程度の差はあれ、日本や中国のような非欧米社会において必ずついて回る問題だと言えるでしょう。

そのことを踏まえたうえで、これらの立憲主義に伴う難問をどう乗り越えるのか。これからの日中関係を再構築していくうえでも、ひとつのカギになっていくのではないかと私は考えています。

参考文献:

・浅羽通明(2016)「本当は怖ろしい立憲主義の話全五講」(『「反核・反戦リベラル」はなぜ敗北するか』ちくま新書、著者直送付録コラム)

・石塚迅(2012)「岐路に立つ憲政主張」『現代中国研究』第31号

・伊藤真(2014)『赤ペンチェック自民党憲法改正草案』大月書店

・稲葉振一郎(2016)「プロセス的憲法理論から共和主義へ?」『αシノドス』Vol.186+187

・大屋雄裕(2016)「立憲主義という謎めいた思考」『αシノドス』Vol.186+187

・鈴木賢(2014)「中華人民共和国:7解説」(初宿正典=辻村みよ子編(2014)『新解説世界憲法集第3版』三省堂)

・鈴木賢(2016)「自民党草案の反立憲主義的性格について—中国憲法との比較の視点から」ACADEMIA JURIS BOOKLET 2015, No.35

・高見澤磨=鈴木賢(2009)『叢書・中国的問題群3中国にとって法とは何か―統治の道具から市民の権利へ』岩波書店

・張千帆(2015)「中国における憲政への経路とその限界」(石井知章編『現代中国のリベラリズム思潮』藤原書店)

・長谷部恭男(2006)『憲法とは何か』岩波新書

・舛添要一(2014)『憲法改正のオモテとウラ』講談社現代新書

プロフィール

梶谷懐現代中国経済論

神戸大学大学院経済学研究科教授。博士(経済学)。専門は現代中国の財政・金融。2001年、神戸大学大学院経済学研究科博士課程修了。神戸学院大学経済学部准教授などを経て、2014年より現職。主な著書に『現代中国の財政金融システム:グローバル化と中央-地方関係の経済学』(名古屋大学出版会、 2011年)、『「壁と卵」の現代中国論』(人文書院、2011年)、『日本と中国、「脱近代」の誘惑』(太田出版、2015年)などがある。

この執筆者の記事