2017.03.09

冷戦後日本外交にリベラルの水脈を探る

宮城大蔵 国際政治史、日本外交

政治 #リベラル#冷戦#外交

「近い過去」にリベラルを探る

外交におけるリベラルとはいかなるものか。一般的には国際協調主義などが想定されるであろうが、日本では歴史認識問題なども重要な要素であろう。しかし定義を試みた結果が、現状を分析するに際して有用かといえば、そうとも限らない。日本の文脈ではリベラルとは見なされないであろう安倍晋三政権も「積極的平和主義」を掲げ、韓国政府と従軍慰安婦問題で解決に向けた合意に達している。

そこで本稿では、冷戦後における日本の主要政権の外交を特徴づけることで、リベラルと想定される要素が日本の文脈ではどのような形で可能であり、それが時にいかなる困難や課題に直面したのかを考察する。いわば近い過去の歴史的文脈の中にリベラルを見出す試みであり、そこから冷戦後の日本外交が本来持っていた議論の幅広さを想起することが可能になるであろう。

対象とする「近い過去」としては五五年体制が終わる一方で北朝鮮核危機が顕在化した細川護煕政権から始め、小泉純一郎政権成立までを取り上げることとする。小泉以降、粘り強い対話や合意形成よりも、「毅然とした外交」が一世を風靡するようになり、日本外交のスタイルが変質したように思われる。小泉以前と以後を対比させる形で、本稿末尾では近年における外交の変質について考えてみたい。

非自民連立政権と北朝鮮核危機

一九九三年八月、自民党と共産党を除く七党八会派による連立で成立した細川政権は、長きに及んだ自民党単独政権に終止符を打った清新さで発足当初、各種の世論調査で軒並み七〇%を越える高い支持率を得た。

外交面において細川首相は、就任当初から過去の戦争について「侵略行為」だと明言して「深いおわび」を表明した。それまでの自民党の首相は党内の異論もあってここまで踏みこむことを回避しており、非自民でこそ可能になったといえよう。

一〇月にはエリツィン露大統領が来日してシベリア抑留について謝罪した。エリツィンは「自民党政権なら自分は来なかったかもしれない」「細川首相の侵略発言があったから、自分も思いきったことが言えた」と述べた。対外強硬姿勢が相手国の強硬姿勢を呼び起こす「負の循環」が一般的な昨今だが、逆もあり得ることを示す冷戦後の一幕であった。

細川はまた、同じく一〇月の自衛隊観閲式で「急激に変わった国際環境の中で、世界のどの国にも率先して、わが国が平和を主導し、軍縮のイニシアチブをとっていかなければならない」と、軍縮を掲げる異例の訓辞を行った。現在は想像しづらいが、米ソ冷戦終結直後のこのとき、世界的に語られていたのは「平和の配当」であり、細川の訓辞も冷戦後の息吹を感じさせるものであった。

しかしその傍らで進行していたのが第一次北朝鮮核危機であった。それまで「友好価格」によるエネルギー供給などを受けていたソ連の消滅によって苦境に立たされた北朝鮮は核兵器の開発に体制の生き残りを賭けるようになる。一九九四年二月に細川が訪米した際、貿易摩擦をめぐる物別れが大きく報道されたが、実際には事態が軍事衝突にまで発展した場合、日本がいかなる対米協力ができるか、クリントン大統領から対応を求められていた。

帰国した細川は内々に検討を指示するが、当時の法制度ではほとんど何もできないことが明らかになる。結果としてこの時の危機はカーター元米大統領の訪朝によって回避されるが、朝鮮有事に際して日本が対米協力をできなれければ日米同盟は崩壊するという危機感が日米の当局者を駆り立て、ガイドライン関連法の整備へと繋がることになる。

「冷戦後」は日本にとって緊張緩和と平和の配当の時代なのか、それとも日本を取り巻く国際環境の不安定化を意味するのか。「冷戦後」の持つ二面性に翻弄された非自民連立政権であった。

自社さ連立政権の模索

小沢一郎との対立もあって非自民連立を離脱した社会党は、政権奪還を期す自民党との連立に応じ、新党さきがけも加えて社会党委員長の村山富市が首相に就いた。第一次北朝鮮核危機が収束したことで有事対応がひとまず棚上げされ、自社さ連立を可能にした側面も見逃せない。

突如首相に担ぎ上げられた形の村山は政権発足早々、自衛隊や日米安保の容認に潔く舵を切った。村山にしてみれば「社会党委員長よりも日本国首相の地位の方が重い」という苦悩の末の決断であったが、憲法9条や自衛隊といった社会党の根幹に関わる突然の方向転換だっただけに社会党は一種のアイデンティティ・クライシスに陥り、同党の急激な衰退に拍車をかけることになった。一方で村山は、それまでの社会党の安保政策全般が間違いであったと勢いづく保守系議員の国会での攻勢に対し、「社会党の運動の役割、成果というものは正当に評価されもいいのではないか」との見解を示した。確かに社会党の反対がなければ、ベトナム戦争など冷戦下におけるアメリカの軍事行動に対して、日本がどれほど距離をおくことが可能であったか、疑問であろう。

結果的に見れば、これに先立つ海部俊樹政権時の湾岸戦争(イラクのサダム・フセインが突如クウェートに侵攻したことに始まる)や、このときの村山首班など突発的な事態への対応を迫られる局面がつづいたことによって、「戦後平和主義」が冷戦後の新たな国際環境にあって、いかなる形で発展的変革を遂げることが可能なのか、その問いを十分に議論し、練り上げる時間的余裕が奪われる形となった。

一方で村山政権の外交面における最大の事跡は、戦後五〇年の八月一五日に発表した村山談話であろう。この内容に否定的であった自民党の閣僚も、自社さ連立の維持を優先して異議を唱えることを控えた。戦後五〇年の節目と、社会党委員長が首相の座にあることが交差する偶然によって可能になった談話であった。同談話に否定的な安倍晋三首相も、二〇一五年の戦後七〇年談話において事実上、村山談話を継承するなど、村山談話は歴史認識問題について日本政府の姿勢を示す基準軸を形成することになったといえる。

自社さ連立を受け継いだ次の橋本龍太郎首相は、外交安保では沖縄の米軍普天間基地の返還合意(一九九六年四月)で記憶に残るであろう。一九九五年九月に沖縄で発生した三人の米軍人による少女暴行事件によって、沖縄では本土復帰以前から蓄積してきた過重な米軍基地の負担に対する憤りが噴出していた。

九六年四月には来日するクリントン大統領との間で冷戦後の日米同盟の意義を高々と掲げる日米安保再定義が予定されていただけに、橋本としては、日米安保を足元で支える沖縄情勢の沈静化が喫緊の課題であった。そこで打ち出されたのが新聞へのリークを含め、劇的に演出された「普天間返還合意」であった。

この返還合意では県内の「代替施設」は、「ヘリポート」であったのだが、それが現行案では辺野古沿岸に滑走路二本、港湾設備まで備える新基地へと膨張・変貌した。冷戦後日本外交における最大の謎の一つといってよかろう。それに伴って「返還」は「新基地建設」に変質したと言わざるを得ない。長年蓄積された沖縄の憤りを鎮めるという当初の目的も、第二次安倍政権では歯止めなき強硬策による沖縄県側との全面対立という倒錯した事態に至っている。在日米軍専用施設の7割以上を占める沖縄の米軍基地は、その大半が日本本土復帰前に米軍によって強制的に接収されたものだが、仮に辺野古新基地がこのまま建設されれば、日本政府が強権的に建設する米軍基地ということになる。そのことは中長期的にみて沖縄の米軍基地を取り巻く環境、そして日米安保体制そのものを不安定化させかねない。

同問題については別項に譲るが(宮城大蔵・渡辺豪『普天間・辺野古 歪められた二〇年』(集英社))、橋本首相は普天間返還と並行して日米軍事協力の実効性を高めるガイドライン関連法案に取り組んでいた。橋本は周囲に「順番を間違えるな」と指示している。普天間返還が先で、次にガイドラインという「順番」だが、そこには耳目を引く普天間返還合意によって、ガイドライン関連法案に対する世論の警戒や批判をかわす狙いが濃厚であった。

自社さ連立は、社民党(社会党から改称)とさきがけが連立を解消することによって、終焉を迎える。特に社民にとっては、事実上、沖縄県知事から抵抗の手段を取り上げることを目的とした米軍用地特措法の改正など、沖縄の基地問題をめぐる自民党との溝が大きな要因であった。社民はその後、鳩山由紀夫政権でも「(普天間基地の)最低でも県外」の撤回に抗議して連立を離脱している。

自自公連立とアジア地域主義

一九九八年七月には小渕恵三政権が自民単独で発足したが、参議院では過半数を割り込んでおり、行き詰まることは必至であった。そこで官房長官の野中広務が中心となって小沢が新進党を解体して結成した自由党、そして公明党を引き込んで自自公連立を作り上げる。その過程で成立したのがガイドライン関連法である(一九九九年五月成立)。

小渕はその際、「特に安全保障について考え方を一致させ、新しい安全保障体制を作り上げた実績は非常に大きい」と成果を誇り、これを「自自公体制」の出現と見なす新聞もあった。同法案は橋本政権時には社民党が難色を示し、事実上棚上げとなっていた。確かに「普通の国」論者の小沢と社会党が同居する非自民連立や自社さに比べ、自自公、そして自公(自由党が二〇〇〇年に連立離脱)が、冷戦後に推進された安全保障体制の整備において、安定した担い手となったことは確かであろう。

その安定ぶりは「平和の党」を自称し、憲法・安保問題では決して自民党と近いとはいえないはずの公明党が、それにもかかわらず連立維持を最優先していることが大きな要因である。二〇一五年の安保法制成立に至る局面で、公明党の山口那津男代表が、「政策的な違いだけで(連立)離脱など到底考えられない」と、早々に「離脱カード」を封じたことは、まだ記憶に新しい。

そのような公明党の姿勢は、社民党が前述のように沖縄の基地問題をめぐり、二度にわたって連立を離脱しているのとは対照的である。社民にとっては安保問題が党の存在意義であるのに対し、公明党にとっては組織維持が最優先という違いであろう。近年では、自民党がおおさか維新の会などとの提携を仄めかして公明党を牽制する図式も垣間見える。

一方、自自公体制に乗って安全保障体制の整備を進めた小渕政権が、それ一辺倒だった訳ではないことは記憶されるべきであろう。アジア通貨危機に際して、それまで存在しなかったASEAN+3(日中韓)の枠組み創設で指導力を発揮し、一九九八年には来日した金大中大統領と日韓共同宣言で歴史的和解を演出した。安全保障体制の整備・拡充は、潜在的脅威と見なす相手に対する安心供与を並行して行わなければ、単なる軍拡競争に陥ることになりかねない。現在のアジアにおいては、経済的利益の最大化を共通の目標とする地域主義の推進が、安心供与の役割を担い得るだろう。その意味でも小渕時代の安保拡充と地域主義推進の「二本立て」には今日的な意義がある。

小渕はまた、その後来日した江沢民・中国国家主席が歴史問題を再三強調したことに対して正面からの論駁を控え、やがて沖縄サミットへの中国招請を構想する。このような小渕外交に、「言った、言わない」の首脳間のメンツよりも地域秩序形成でのリーダーシップを優先する、本来の意味での「大国外交」を見て取ることも可能であろう。

「毅然とした外交」の時代

ここまで辿ったような「近い過去」と比べ、昨今では与野党を問わず「毅然とした外交」が流行り、強硬論のみがイコール戦略だといった風潮すらうかがわれる。しかし、軍事力で白黒の決着をつける戦争とは異なり、他国との利害調整の技術こそが外交であるとすれば、「毅然とした外交」とはそもそも奇妙な言葉である。相手に対して自らの「毅然とした外交」を訴えて、果たして交渉が有利に運ぶのであろうか。「毅然とした外交」とはつまり、専ら国内向けのフレーズなのである。

冷戦後の日本外交において、「毅然とした外交」が顕在化したのは小泉政権であろう。その象徴は小泉首相による年に一度の靖国神社参拝である。しかしそもそも小泉の靖国参拝は、森喜朗政権の後を争う二〇〇一年の自民党総裁選挙で、再三の挑戦で今回敗れれば政治生命は終わりと目された小泉が、相手候補である橋本龍太郎の支持基盤を切り崩そうと公約に掲げたものであった。首相となった小泉は、実際には中韓との関係との折り合いに苦慮しつつ、それでも参拝を国内政治向けに「ぶれない」姿勢の象徴として転用した観があった。

その後、「毅然とした外交」の度合いを大幅に高めることになったのは、民主党政権、特に菅直人、野田佳彦政権である。二〇一〇年九月に尖閣諸島で起きた中国漁船衝突事件に際して、菅政権では「(対中関係で)領土問題はないから毅然とやる」(前原誠司国交相)、「日本が法治国家であることを毅然と示すべきだ」(岡田克也外相)といった「筋論」で中国人船長の逮捕、勾留延長へと進めた末に、レアアースの輸出停止など中国側の強硬な対抗措置に直面し、結局那覇地検の判断として処分保留で釈放とする。

野田政権下では石原慎太郎都知事による尖閣購入計画を阻止するための国有化が、最終的には「毅然とした姿勢」を示す目的と入り交じった観がある。予想以上の中国側の反発を憂慮していたキャンベル米国務次官補は、「よく注意してほしい。あなた方は今後、長期にわたって起こることについて、引き金を引くことになるかもしれない」と日本側に強く注意を促し、最終局面における野田政権の対応について、「ある種のキャンペーンのように感じられた」という。

すなわち、「我々はナショナリストであり、これらの島の管理を確かなものにすることによって、日本の国益に資するようにしている」という日本国内向けのキャンペーンである(春原剛『暗闘 尖閣国有化』)。

その背後には、「(前任者の菅首相などとは)おそらく国家観とか歴史観というのは違うと思います」と明言する野田自身の志向性に加えて、領土や歴史問題で強硬論を唱える安倍晋三総裁率いる自民党との対抗という要素もあったであろう。

領土や歴史問題で妥協しない「毅然とした外交」を好む風潮は、間違いなく安倍晋三再登板に際して強い追い風となった。安倍首相の再登場によってその種の空気が醸成されたのではなく、理想主義を志向する鳩山から保守を自認する野田政権へという民主党政権の変質が、その前提を用意したのである。

リベラルの水脈

このように「近い過去」を辿ったとき、冷戦後の日本政治外交にリベラルと呼びうるような水脈を見出すことは可能であろうか。本稿冒頭で述べたように、現実の日本の政治外交に沿う文脈でリベラルを明快に定義することは難しいかもしれない。

しかし歴史認識や安全保障問題といった、対内的にも対外的にも論争的になりうる問題について、毅然とした姿勢に「政治の強さ」を見出すのではなく、粘り強く合意を重んじる政治に価値を見出す態度をリベラルと見なすことは、そう的外れではないように思われる。

たとえば橋本首相や小渕首相が、日米安保再定義やガイドライン関連法案など、安全保障態勢の整備を推進しつつも、それを国論が割れるような突出した課題としないように十分に意を用いたことは間違いなかろう。

二〇一五年夏の安保法制成立に至る局面では、小泉元首相ですら「安倍さんは全部強引」「学者が「違憲」と言った時点で一拍(一国会)置くよ。自民党が衆議院に呼んだ参考人が言っちゃったんだから、あれは無理よ」「安全保障は野党第一党を味方につけなければいけない、争点にしちゃいけないんだ」というような状態が発生した(常井健一『小泉純一郎独白』)。

かくして法案は成立したものの、冷戦後に注意深く積み上げられてきた安全保障に関わる法整備について、その正当性に疑問を生じさせた代償は、第二次安倍政権の任期を越えて、将来的に禍根を残す恐れがないとはいえまい。行き過ぎた「毅然とした姿勢」は、国民的合意に傷を付け、長期的に見て事態の不安定化を招来するのである。沖縄に対する問答無用の対応などは、国民統合という国家の根幹に禍根を残しかねない。

リベラルのもう一つの要素は、ある種の理想主義であろう。日本の利害や国益の最大化は前提としつつも、現代日本外交における理想主義とはいかなるものでありうるのか。世界を語ることも重要だが、肝心の日本の足元では、近隣国との緊張緩和や信頼醸成といった言葉が、これほど政治外交の世界に見いだせなくなった時代も近年では珍しい。各国各々の「毅然とした外交」のぶつかり合いが、その一つの要素であろう。

領土や歴史問題の顕在化、そして民主党政権の自滅などが相まって、日本外交をめぐる議論の幅はひどく狭くなった。それを、戦後長らく日本を二分した外交安保に関わる国論の収斂と見なすことも可能であろう。しかし、一政権が「この道しかない」と呼号するのはまだよしとしても、国全体としては長期的な危うさを予感させる。

官僚トップの官房副長官として五人の首相を支えた古川貞二郎は「耳に心地よい言葉はポピュリズムをさらに助長し、長い目で見れば国を破滅させることにつながりかねないという感じがします」と警鐘を鳴らすが(日本再建イニシアチブ編『「戦後保守」は終わったのか』)、とりわけ外交の分野について注意すべき点であろう。

この四半世紀の日本外交を振り返ってみれば、賛否はあるだろうが安全保障体制の整備は相当程度、進んだ。その過程では歴代政権の多くが、国内合意を形成する上で、今から見れば実に慎重に、注意深く事を運んだことが見て取れる。他方で残された課題のうち、最大のものは中国を筆頭とする近隣諸国との関係安定化である。ここ数年の日本外交においては、近隣諸国との領土・歴史認識問題が肥大化した。「毅然とした外交」と相性のよい問題群である。しかし、領土、歴史認識問題はどちらも当事国にとっては重大事だが、第三国にとっては基本的に「関係ない」「巻き込まれたくない」問題であることに注意する必要がある。アメリカにとっての尖閣、靖国は日本にとってのそれと同じではない。

前述のように安全保障体制の整備・拡充は、その潜在的対象となる相手に対する安心供与と併せて行わなければ、単なる軍拡競争になりかねない。今日の東アジアにおいては歴史認識問題と地域主義、とりわけ相互の経済的利益拡大に結びつく後者が安心供与の材料になり得るだろう。昨今の日本では経済的枠組み作りについても中国との主導権争いに特化して認識される傾向が顕著だが、TPP(環太平洋経済連携協定)にしても日米で基準作りを先導するのが目的であって、経済規模で日本の三倍に及ぶ中国を排除しては元も子もない。安心供与は言うまでもなく「リベラル」と相性のよい問題群である。

トランプ政権下のアメリカは、これまでになく自国の短期的利害で動くことも予想される。果たして「日米同盟は普遍の原則」といった発想で乗り切れるのか(原則とは、民主主義や人権など、もう一段高いレベルの「価値」について用いるべき言葉であろう)。リベラルを一つの切り口として、日本外交をめぐる議論の幅を広げることが、きわめて重要になっている。

【参考文献】

春原剛『暗闘 尖閣国有化』(新潮社、2013年)

常井健一『小泉純一郎独白』(文藝春秋、2016年)

宮城大蔵「「中道保守」と外交安全保障」 日本再建イニシアチブ編『「戦後保守」は終わったのか』(角川新書、2015年)

宮城大蔵・渡辺豪『普天間・辺野古 歪められた二〇年』(集英社新書、2016年)

宮城大蔵『現代日本外交史』(中公新書、2016年)

本記事はα-Synodos vol.202+203からの転載です

プロフィール

宮城大蔵国際政治史、日本外交

1968年生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科教授。専門は国際政治史、日本外交。著書に『戦後アジア秩序の模索と日本』(創文社、2004年。第27回サントリー学芸賞)、『「海洋国家」日本の戦後史』(ちくま新書、2008年)、『戦後日本のアジア外交』(編著、ミネルヴァ書房、2015年。第20回国際開発研究 大来賞)など。

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