2017.03.22
保守すべきものとしてのリベラル――シノドス国際社会動向研究所が目指すこと
シノドスの新しい挑戦である「シノドス国際社会動向研究所」(シノドス・ラボ)はいったい何を目指そうしているのか? 立ち上げメンバーの橋本努、吉田徹、高史明が語り合った。(構成/芹沢一也)
台頭するポピュリズム、動揺するリベラル・デモクラシー
橋本 昨年、2016年にイギリスがEUを離脱し、今年になってアメリカでトランプ大統領が誕生しました。そしていまヨーロッパ諸国では、難民受け入れ反対運動などが盛り上がり、ポピュリズム政治への期待が高まっています。こうした動きはすべて、リベラル・デモクラシーへの脅威ではないか、そのような警戒感も高まっていますね。
吉田 象徴的なことに、英エコノミスト誌の調査部門EIUが毎年作成しているデモクラシー指標で、アメリカは2016年に「完全な民主主義」から「欠陥のある民主主義」に引き下げられました。これはトランプ大統領の誕生を受けてのことではありません。その前から政治不信の高まりを受けての判断でした。こうしたエリートや既成政党、ひいては代議制民主主義への不信が昨年は大きな現象となって表れましたが、それはこれからも続いていくでしょう。
とはいえ、こうした政治不信は現在のリベラル・デモクラシーが動揺していることの結果であって、ポピュリズムがリベラル・デモクラシーを危機にさらしているわけではありません。因果関係を間違えないことが大事です。
現在のポピュリズムを理解するには、おおまかにいって、長期、中期、短期にまたがる3つのフェイズを確認する必要があります。
概略的にはなりますが、まず長期的なフェイズから説明します。議会制民主主義は戦後になって初めて安定をみます。それは資本主義と民主主義が、ソーシャルな国家(社民主義的な国家)によって媒介され、社会の安定をもたらしたからです。背景には、資本主義を抑制的なものにせざるを得ない冷戦構造がありました。
ただ、ここでの民主主義は工業社会の民主主義です。それゆえ、70年代のオイルショックを経てサービス経済化が進むと、議会制民主主義を結果として支持していた製造業を中心とする中間層がやせ細っていきます。議会制民主主義が支持されたのは、政治的な反省の結果というよりは、それが一定度の代表性を受容し、社会の安定をもたらしていたからにすぎません。
サービス産業化はアメリカやイギリスに顕著ですが、ここでは高技能・高学歴のハイエンドと単純労働・移民に担われるローエンドに二極化します。このことによって、戦後に大量に生みだされた中間層は、ポスト工業時代が本格化するにつれて行き場を失い、没落の恐怖に襲われます。こうした「没落する中間層」が新たな政治的代表を求めて、ポピュリズム政治家を押し上げることになります。
次に中期的なフェイズとして指摘できるのは、社会民主主義勢力の変容です。90年代に冷戦が終わると、サービス産業化とグローバル化のさらなる進展によって、ポスト工業社会の中間層が台頭してきます。北欧社民やイギリスのニューレーバー(労働党)に象徴的ですが、それとともに、社民勢力は経済政策では、かつての福祉国家リベラルを離れて市場経済と自由貿易を受け入れます。同時に、社会・文化的次元では労働者という階級政治ではなく、生活者たる個人を重視するリベラルへと変質していきます。
社民はもともと歴史的には、労働者や労働組合の支持基盤に依存するものであって、最近のように個人の自己決定権を是とすることに、政治的なアイデンティティを求めるものではありませんでした。欧米の左派政党で90年代に起きたのは「左派」から「リベラル」への転回でした。こうした変質によって、かつてであれば左派政党を支持したであろう労働者層が、政治的代表の回路を失うことになりました。
このような社民勢力の変容を受けて、それまで家族を中核とした共同体的価値や家父長的な権威主義的価値を奉じていた保守政党の側も、基本的には個人の自己決定権を認めていく方向へと舵を切ります。その背景には、マイノリティの権利擁護やフェミニズムのように、70年代に、社会が大きく個人主義を認める質的な変化を経験したからです。
こうして保革によって取り残されたニッチ市場、つまり敗者としての中間層と取り残された労働者層をつなぎあわせてパッケージ化したのが、現在のポピュリズム勢力です。
最後の短期的なフェイズは、ポスト・リーマンショックの余波です。アメリカ大統領選でミレニアル世代が引き起こした民主党のサンダース旋風は、教育の連邦予算が3割も減らされたことの余波でもありました。ヨーロッパでいえば、南欧諸国の若年層の失業率は4割近い。中間層の購買力も削減していっています。
ただ、ユーロ危機を経た各国政府はソブリン危機を回避するために、緊縮策をとらざるを得ない。数年で財政赤字を半減もさせるような英国のようなことをすれば、既成政党が支持を失うのは当たり前です。これはブレグジットで白日の下に晒されました。
こうした長期、中期、短期のフェイズが絡み合って、いまのポピュリズムの勢いにつながっているといえます。
橋本 ポピュリズムの政治を支持しているコアな人たちは、戦後の産業構造の転換の中でいわば敗者となった人たちである。また、リーマンショック以降になって、人々の生活が全般的にリスクにさらされるようになった。そうしたことが重層的な背景としてあるということですね。ポピュリズムの動きが、リベラル・デモクラシーを危機にさらすものではないとして、ではいま何が問題なのでしょう。
吉田 ポピュリズムがリベラル・デモクラシーを、まったく危機にさらしていないというわけではありません。ポピュリズムはリベラル・デモクラシーのうち、権力分立や専門知識に依存する官僚制などに批判的な政治だといえます。
ただ、それは戦後の安定をもたらしていたリベラリズムのヘゲモニーが揺らいでいることの証左だと解すべきでしょう。そうした意味では、自由貿易と市場経済を全面的に許容した経済リベラリズムが自己反省して、より平等重視なデモクラティックな方向へと修正されなければ、ポピュリズムの勢いは今後も衰えないでしょう。
高 読者の誤解のないように補っておくと、「敗者」というのは必ずしも「経済的敗者」を意味しないことについては、注意が必要だと思います。たとえばトランプにしても、富裕層からの支持も相当に大きいわけです。CNNの出口調査リンクを見ても、低収入者ではクリントン支持が多く、高収入者ではトランプ支持がわずかにクリントン支持を上回ります。
もちろん収入の効果を、年齢や人種などといったほかの要因の効果から切り離すには、ここに記されていないより複雑な分析が必要です。しかし、貧しい“から”トランプを支持したと理解するよりも、なぜ彼が経済的弱者“にも”訴求できたのか、と考えることが必要ではないかと思われます。
吉田 トランプの支持基盤は従来の共和党支持者でもありますから、もちろん富裕層もそこに含まれます。ちなみに高所得者層の投票先をみると、民主党のクリントンにも半分近くが行っていることも示唆的です。
所得以外では、社会・文化的価値の次元で、リベラルか権威主義的かが支持を分ける指標になっています。トランプがクリントンに最終的に競り勝ったのは、社会階層でいえば「中の下」、つまり戦後期に形成された中間層が権威主義的になって、その支持をも加えて獲得したから、とも解釈できます。
高 そうですね。そういった意味で、吉田先生のおっしゃるように、受け皿を失ったという意味で「敗者」となった人々のニッチをつなぎ合わせたところにポピュリズムが現れると捉えた場合、なぜリベラルが受け皿にならなくなってしまったのかを考える必要があります。そのひとつの理由は、先ほどお話に出た緊縮的な財政政策にもあるかと思います。
橋本 経済的な敗者を救済するという問題は、リベラルな政治のもとでケインズ的な失業対策を行うという、いわゆる福祉国家リベラルでも対応可能です。しかし、そうしたリベラルな救済の理念が支持されない。なぜでしょうか?
吉田 そもそも既存の主流派、保革政党はともに緊縮寄りです。ベビーブーマーの高齢化に伴う財政逼迫と、グローバル市場の発達によるソブリン危機のリスクにあって、福祉国家リベラルという組み合わせは、ますます希少なものになっています。
それに対して、トランプ大統領の政策、さらに西欧の極右ポピュリスト政党は、財政政策についてはケインズ主義的、財政拡張派です。今のポピュリズムは、経済面ではかつての左派、社会・文化面ではかつての保守、という主流派に対する「逆張り」組み合わせを実現しているところに特徴があります。
橋本 高さん、日本の文脈ではいかがでしょうか?
高 日本の場合には、財政の健全化に対する世論の要求が強いといえます。したがって、財政出動しないこと自体に、リベラルが求心力を失った原因があるかは疑問です。むしろ、実現可能かどうかは別として、支出の削減のみによる緊縮財政を打ち出す勢力の方が、支持を勝ち得ているように思います。
もっとも、財政出動すべきかそうでないかをめぐって、リベラル勢力が説得力ある、実現可能なヴィジョンを提示できないことは、財政出動しないことそのもの以上に、求心力の喪失をもたらしているとは思います。
社会・文化的な保守主義がポピュリズムの背景にあることについては、石原慎太郎や橋下徹の支持に権威主義や愛国主義などが関わっていることが、松谷満先生の分析によって明らかにされています。(『外国人へのまなざしと政治意識―社会調査で読み解く日本のナショナリズム』田辺俊介編)。もっとも、権威主義や愛国主義は、自民党の支持にも関わっていましたが。
文化的な保守主義とポピュリズムの接点というと、欧米の例をとっても、やはり移民・難民問題があげられます。しかし、日本の場合にはそもそも移民の受け入れには非常に抑制的で、難民でさえほとんど受け入れていない。また、リーマンショック後の不況期にも帰国政策がとられたように、移民は労働力の調節弁として便利に使われているわけです。そうしたなかで移民・難民に対する脅威論だけは欧米と同じように膨らんでいます。
このような事態が生ずる理由のひとつには、日本人が外国人だけでなく、様々な異質な他者に対しても示す不寛容さがあると思われます(池田謙一編『日本人の考え方 世界の人の考え方』)。もうひとつには、国外の言説の輸入ですね。現在、移民・難民との摩擦が問題となっているような国々には、日本で移民・難民の受け入れ規模を数倍に増やしたとしてもまだ追いつかないのですが、移民に対して不安を覚えている人たちにとって、外国で問題が生じていることが自分の不安を正当化する論拠になります。
橋本 日本では移民・難民の受け入れが抑制的であるにも関わらず、リベラル・デモクラシーに対する懐疑は他の先進諸国と同様に生じているということですね。
かつて西部邁は日本の順応的な中間大衆を批判して、これに保守主義を対置しましたが、その大衆が現在では分衆化して、しかし政治的にはその分衆が、こんどは保守的なポピュリズムの支持基盤になるというような、そんな道筋がありますね。政治の対立軸が「リベラル・デモクラシー」対「保守的・権威主義的ポピュリズム」になってきた。
吉田 西欧諸国の有権者を分析すれば、長期不況を受けて、既存のリベラル・社民政党を支持するポスト工業社会の中間層と、ポピュリズム勢力の支持に転換した没落する中間層はいずれも、方法はともあれ、再分配志向では共通しているとされます。ただ、そこでもっとも食い違っているのが、リベラルか権威主義的かの社会・文化的価値です。
リベラルが再分配の問題に改めて取り組まざるを得ない状況を迎えています。問題はいかなる資源をどのように分配するか。
具体的にいうと、ポスト工業社会の中間層はベーシックインカムに象徴されるような個人の生活空間を支持できるような再分配を好むでしょうし、戦後に形成された中間層は失業保険や最低賃金引き上げのような従来の所得代替型の再分配を好むでしょう。両者を架橋するのは簡単なことではないかもしれませんが、折り合いを付けて政策的解を見つけ出すのは政治の役割でもあります。
「ポスト・トゥルース」の時代をどう捉えるか
橋本 いま軸としては、「リベラル」対「権威主義的ポピュリズム」がある。そうしたなかで興味深い社会現象は、「ポスト・トゥルース」と呼ばれる時代が来た、といわれていることです。
2000年代前半にも、近代化の終焉から、「再魔術化」と呼ばれる現象が関心をひきました。占いを信じるなど、近代合理主義の基準からすれば非合理な慣習が復活している、と。現在、ポスト・トゥルースという言葉には、政治家・専門家・メディアに対する総不信という意味も含まれており、いわばエリート主義批判が全面化しているようにも見えます。
こうした現象とポピュリズムの関係を、どのようにみればよいのか。
吉田 鳩山由紀夫首相がかつて「政治を科学する」といって政治を変えようとしたことを思い出します。私自身は、今も昔も政治が「トゥルース」に基づいて展開されたことなどほとんどなかったし、これからもないだろうと思います。そうした意味で「ポスト・トゥルース」という言葉自体は何も意味しないと思っています。
ただ、それがここまで人口に膾炙するようになったのは、ご指摘のように、リベラルなメディアや識者のいうもっともらしいことが、一部の人々にはその発話する主体の属性ゆえに、説得的に響かないという構図があるからでしょう。
ポピュリズムは政治・経済・文化的エリートを標的にします。それゆえ、エリートがポピュリズムを批判すればするほど、ポピュリストのいうことが本当らしく聞こえるという、皮肉な結果をもたらすことになる。
このことと再魔術化やポスト世俗化の議論は、人は啓蒙されれば合理的に振舞うはずだ、という近代主義的な議論を破綻させているという意味で通低しています。つまり、「事実」さえ示せば、理知的で合理的な政治が可能になるはずだというのは、知的・文化産業に携わり、そのためのトレーニングを受けてきた者たちの思い込みにすぎません。
高 アドルノの権威主義的パーソナリティの話をします。アドルノの理論が現在の実証的心理学でそのまま受け入れられているかというと、そうではないのですが、この問題に関して示唆に富んでいるからです。
アドルノらの権威主義パーソナリティは、反民主主義的な個人特性として理論化されたものです。アドルノらは9つの下位次元――「因習主義」や「権威主義的従属」といった――を設けていますが、そうした下位次元のひとつに、「破壊性とシニシズム」、人間的なものへの一般化された敵対と悪意、というものがあります。人間の善意とか良心とかを信じない傾向ですね。
項目としては、「ヨーロッパにおける残虐行為についての報告は、意識的な宣伝のねらいによって、ひどく誇張されてしまっている」「ずばり一言にしていうならば、ひとが自分の利益を考えることなしには何事もしないというのは、人間の本性なのだ」などがあります(アドルノ他著 = 田中他訳『権威主義的パーソナリティ』) 。
つまり権威主義の構成要素、あるいは深く関連のあるものとして、人間に対する一般化された敵意や猜疑心というものが、古くから注目されてきたわけですね。
もう少し個別の問題についての話をすると、私の専門は在日コリアンに対する偏見ですが、そうしたものを強める要因にも、マスメディアに対する不信感を挙げることができます。これは、排外主義団体の構成員への取材にもとづく安田浩一氏の『ネットと愛国』も指摘しているし、私の行った複数の計量研究でも支持されています。
マスメディアへの猜疑心は、他者一般が信頼する価値や規範や信念への敵意や猜疑という「シニシズム」の一つの表れであり、またそうした既存の価値や規範や信念が否定してきた差別や偏見を正当化することに繋がるわけです。「ポスト・トゥルース」と「権威主義的ポピュリズム」の関係を理解しようとするとき、こうした一般的な「シニシズム」とその表れ方を理解するのが欠かせないように思われます。
橋本 文化エリートを標的にするポピュリズムがなぜ生じるのか。高さんは、その背景にアドルノらのいう「権威主義的パーソナリティ」があって、それは人間的なものへの敵意や悪意だというわけですね。
アドルノらの分析は、近代合理主義、あるいは啓蒙主義の続行を求めるものです。そこでは、人間的なものへの憎悪は、理性化教育によって克服可能だとみなされました。しかし現在、そのような啓蒙主義が機能不全に陥っているのではないか。そうだとすると、この人間の憎悪を克服する道はどこにあるのか、が問題になりますね。
アドルノの後継者の一人ハーバマスは、合意としての真理(トゥルース)が政治的に調達可能であると考えました。そして、私たちの「コミュニケーション的理性」によって、真理に基づく政治の実現を展望しました。しかし経済が成熟して、文化的な価値が争われるようになると、合意の調達可能性が減っていく。その結果、私たちの社会全体の政治・経済的な目的を客観的に見定めるという発想(ミュルダール的な客観性)が通用しなくなる。
そういう時代状況のなかで、エリート批判が進んでいます。問題は、啓蒙されたリベラルなエリートによっては、おそらく価値の争いを調停できないかもしれない、ということです。エリート自身がひとつの階層として、「神々の争い」の一翼を担うようにみえてしまうからです。
吉田 人間は放っておけば権威主義的になるというのは、ある面においては真実なのかもしれません。ただ、実際には人間は権威主義的でも合理主義的でもなく、文化的空白が埋められないと実存的な不安を覚えるだけではないかという気もします。それゆえ重視しなければならないのは、政治空間がいかに編成されるかです。
今の「文化政治」、これは日本語だと誤解を招く言葉ですが、簡単にいうとモラル・イシューや個人の振る舞い方や価値観、それこそハーバマスのいう「様々な生活の文脈」が政治的な争点となると、これは政策的な解を出すことはできず、価値をめぐる対立になります。アメリカにおける死刑や中絶などの争点に典型的です。アメリカではこのモラル・イシューが全面化した結果、共和党と民主党支持者のあいだの党派的対立はかつないほど強度を増していくことになりました。
その起源を遡れば1970年代、まさにリベラルな価値が先進国で定着していく局面でした。そして1990年代以降、欧米の政党の政策において、文化や価値をめぐるものが前面化します。日本風にいえば、工業社会における労働の価値を中心とした「左派」はもはや見向きもされず、ポスト工業社会における「リベラル」へと転換していく局面ですね。
リベラルが社会的・経済的な平等性を後景に追いやったことで文化的空白地が生まれます。そこにリベラルを批判する権威主義的価値が伝搬していく素地が作り上げられていくことになります。これはグラムシのヘゲモニー論のエッセンス通りでもあります。
その文脈で気になるのは、若年層の権威主義的傾向の増加です。たとえば、因果関係は必ずしも明確ではないのですが、数土直紀(『社会意識からみた日本』)は、かつてであればリベラル層の供給源だった都市部の高学歴の若年層が、権威主義的傾向を持つようになっていると、SSM調査から結論づけています。これは、最近ではヤシャ・モンクが世界価値観調査を使って検証したように、各国の若年層で民主主義的価値がむしろ後退しているという指摘とも響きあいます。
そうした意味では、これから世代が入れ替わっていくなかで、リベラルな価値観が大きく揺らいでくる可能性があります。そう考えると、これからのリベラルな価値はどう維持されうるのかを考えるのは喫緊の課題ともいえます。
高 先ほどの話について少し捕捉をしておくと、権威主義的パーソナリティ=病的なパーソナリティに原因を求めるのには、慎重になった方がいいように思われます。ただ、パーソナリティによるものであれ、状況によって誘発されたものであれ、権威主義的な態度と人間への一般化された不信とは、親和性が高いということですね。
そういった意味で吉田さんのおっしゃるように、政治空間の編成のされ方に注目するのは大事かと思います。また、人間一般に対して、あるいはマスメディアに対して、不信感を高めるようなメディア環境の変化に注目することも必要かと思われます。
若者が権威主義的かというと、一般的には若者の方が非権威主義的ですね。ただ、世界価値観調査を分析した稲増一憲先生によると、「権威や権力がより尊重される」ことが好ましいという回答が、2000年から2010年にかけて30歳未満の層で増加したことが示されており、今後の変化として注意が必要かもしれません(池田謙一編『日本人の考え方 世界の人の考え方』)。
これまで権威主義に対する緩衝材となっていた若年層がそうでなくなる可能性、また日本では少子高齢化により一層その傾向が強まる可能性、に注意する必要があるかと思います。
橋本 人間的なものに対する憎悪は、たとえばギデンズが「第三の道」で問題視したように、エリート層の子供たちが幸せな幼少期を過ごす一方で、親と同じステイタスを得られないという不満(自己愛憤怒)から生じるのか、それとも階層間移動の停滞(保守化)によって、低所得層の優秀な人材が十分な教育環境に恵まれず、メリトクラシーが機能していないことから生じているのか。
いずれにせよ、私たちはポピュリズムや若者たちの権威主義化を警戒する際に、啓蒙のプロジェクトを続行したいと考えているのか、それとも従来のリベラル・デモクラシーとは異なる政治を求めているのか。別の言い方をすれば、今日、リベラリズムの理念がもし有効であるとすれば、それはどんな政治運動になりうるのか、ということが問題になると思うのです。
しばしば「市民派リベラル」という言葉を私たちは使いますが、じつはこの「市民」とか「リベラル」というのが曖昧で、時代とともに変わっていく。すると今日、どのような政治理念が必要なのか。
リベラルの今日的な意味とは?
吉田 日本は戦後に先進国の仲間入りをして、まがりなりにも成熟した社会をつくり上げることができました。世界で1人当りGDPが3万ドルを超えるのは、30カ国もありませんが、日本はその一角を40年以上にわたって占めてきたわけです。それは疑いようがない、そして誇ってもよい戦後日本の功績です。
他方で、あるいはそれゆえに、他の先進国とも似て、自分たちの子供の世代は自分たちより豊かな生活は送れないだろうと親世代は考えるようになり、また若年者の側は(これは他国と比べて群を抜いて)将来に対して悲観的であることが、各種の意識調査から明らかになっています。
自由と精神的・物質的な豊かさと選択肢の拡大が、強固な共犯関係として成り立っていたのが戦後の時代です。そうした意味で、もしリベラルな価値が戦後の工業型高度成長によってもたらされたものだったのだとするならば、ポスト工業型社会における低成長時代にあって、リベラルな価値もまた衰退していくのかもしれない。
こうしたなかで、経済的な再分配に留まらないリベラルな社会、すなわち個人に立脚した社会構造をいかに保守していくのかは、大きな課題となりえます。いわば「保守すべきものとしてのリベラル」です。
保守化や権威主義化、右傾化などがいわれていますが、他方では誰もネット上の表現の自由が規制されたり、男性らしさや女性らしさが復権することなどは望んでいない。一部の政治的スローガンとしてはあっても、広く社会では望まれていない。このことは、過去数十年にわたって日本人の意識調査を行ってきた『日本人の意識』(NHK放送文化研究所)でも明らかです。
たとえば、結婚すること、子供を持つことが当然だとする日本人は、90年代からもはや少数派になっています。また、同性愛は否定的なものではないとする日本人も、この15年で1割ほど増えて約3割にのぼっています。その理由はともあれ、個人の自己決定権は認めるべきであるという意識は着実に増えていっている。最近では、婚外子への差別的待遇廃止や性犯罪被害者の予防や救済についても、理解が深まっています。こうした事実こそを大事にすべきでしょう。
このように「いまそこにあるリベラル」を具体的に示しつつ、現実に享受している有形無形の豊かさや安定はリベラルな価値ゆえである、という文脈や事例を丁寧に集めていくことで、「保守すべきものとしてのリベラル」の姿は浮かび上がってくるのではないでしょうか。
そもそも、終戦の日に靖国神社でコスプレをしたり、これまでヘイトスピーチが許容されてきたのも(あるいは幼稚園で教育勅語を唱えさせるのも!)、リベラルな価値の大骨のひとつである表現や思想の自由が社会で受容されているからです。
「戦う民主主義」、つまり「非民主的な価値を許さない民主主義」を掲げるドイツであれば、こうした行為は刑事罰の対象となります。その程度に異論を許容できているのは、日本でもそれだけリベラルな構成要素によって社会が作り上げられてきたからです。人権を謳うフランス革命がなければ保守主義が生まれ得なかったのと同じように、権威主義の生存が許されるのは、リベラルな価値が許容されているからです。
他方で、保守が多義的であると同様に、リベラルの意味合いも、戦後の「オールドリベラル」からその後の「新左翼」、現代のいわゆる「リベラル」まで、かなりの触れ幅で変化してきました。保守がいまや権威主義化しているなかで、リベラルの定義もまた変化しても構わないでしょう。リベラルの持つ意味合いを換骨奪胎することが大切です。
橋本 そのリベラルの意味あるいは理念をどう練り上げるのか、これが思想的にも問われている。
高 表現の自由の規制や、男性らしさや女性らしさの復権を、誰も心の底からは望んでいないとは、私は思いません。権威主義的なイデオロギーを持っている人びとにとって、そうした問題は重要なことだからです。そのこと自体は理解する必要があります。
ただ、そういうイデオロギーの持ち主が沢山いるからといって、だからそれにしたがって個人の自由を手放そう、というわけにはいかないですよね。そうしたときに、本来、権威主義的でない人々までポピュリズムの側に追いやって、自ら自分の首を絞めにいかせては大勢が不幸になる。
あるいは、トランプであれば、自国中心主義的な政策が支持の獲得に貢献しました。でも、環境規制の撤廃のような政策は、一時的には自国の経済を浮揚させるかもしれないので多数の支持を勝ち取るのに役立つけれども、結局は共貧状態の社会的ジレンマに陥ることになる。
ですから、できるだけ大勢の人々の意見をすくい上げつつ、かといってそれにおもねるわけではない、個人の自由という基本的価値を中心にすえた政治的潮流というのが求められていると思います。「人々が自立し、しかし孤立しない社会」、つまり家族や国家といった伝統的な存在や守旧的な価値観に自由を奪われることがなく、しかし不本意に他者から切り離されて孤立することがないような社会を構想する必要があります。
いま「市民派リベラル」はどこにいるのか?
橋本 そもそも「リベラル」という言葉は「自由主義者」、あるいは「自由を求める革新主義者」を意味していますけれども、そうした「自由な人にふさわしい価値」というのが本義ですね。では自由な人にふさわしい価値とはなにかといえば、いまの日本の文脈では、たとえば平和憲法の擁護、基地反対、脱原発、福祉国家の擁護、などの理念となって現れている。
他方で、リベラルな価値を規定する「自由主義(リベラリズム)」の思想伝統に立ち返ってみると、価値の中身には広がりがあります。私の理解では、自由主義には三つの伝統があります。「寛容」と「啓蒙」と「解放」の伝統です。これら3つの伝統が、自由主義(リベラリズム)の思想の幅をつくってきた。それぞれの伝統にも多様な要素があるので、自由主義をどう理解するのかという問題は、つねに開かれているわけです。
他方で「市民」概念ですが、この言葉も多義的で、反伝統支配、反権威、自律、下からの自治、政治参加、などの価値と結びついてきた。ここでは詳しく述べることができませんが、ひとつ指摘したいのは1980以降、「市民(派)」の思想はあまり発展せず、他方で自由主義(リベラリズム)の思想は多様に展開されてきたという経緯です。そういうわけで現在、「市民派リベラル」がどのような思想理念なのか、それを描くことは大変チャレンジングな思想的課題だといえるでしょう。
私たちはこうした問題に応じる一方で、「新しいリベラル」というものを現実の様々な問題に直面している人々のなかに見いだしていきたい、と考えます。理論と調査の両面から新しい政治の担い手像を探っていきたい。
吉田 石油危機以降に日本では、「日本型経営」を礼賛するような親市場的な保守と、市民社会的な理念に閉じこもって個人の自律を唱える革新の対立が不均衡に展開していきました。ただ、私見では、その対立は90年代以降の「市場リベラル」「個人リベラル」を統合したネオ・リベラリズムに吸収されていくことになった。少なくとも、ミレニアル以降のリベラリズムはこうした背景を踏まえたものでなければならないでしょう。
具体的にはといえば、差し当っては、現在の社会と再分配の構造は持続可能でも公平でもないというリテラシーを持ちつつ、現実に享受している有形無形の豊かさや安定は手放したくないと考え、その矛盾を解決することのできる政策を、能動的な政治参加を通じた行動によって実現していく人びと、と定義してみたいと思います。
これは高さんの指摘を待ちますが、日本の高齢化に伴って、リベラル層は年代的にやはり上に固まっていっている。それに加えて潜在的にはリベラルな供給源になる中間層がいまでは質的には弱体化して、量的には衰退の局面にあります。
そうした諸々の条件を勘案したとき、リベラルな価値の供給源は、かつてのように社会階層にではなく、生活スタイルや政治リテラシーの方向性を準拠としたクラスタをつなぎあわせることによってでしか再興できないのではないか、というのが今のところの見立てです。
橋本 90年代後半からいわゆるネオ・リベラリズムが社会的領域において浸透していく際に、公共サービスの民間委託をめぐって、市民派はふたつに割れたように思います。ひとつは、ネオ・リベラルな体制の下で市民組織の活性化を歓迎するタイプ、もうひとつは公共領域における貨幣原理の浸透を懐疑する否定派でした。
この時点でリベラルは割れています。すると今日、リベラルをどう再規定するか、またその担い手を見つけるかは難しい課題で、ご指摘のようにクラスタをつなぐという発想が必要になってきますね。問題はクラスタのつなぎ方でしょうか。
高 総体として日本人がリベラルな思想を失っているわけではないと思います。一部では極端な――「ネット右翼」など――の動きはありますし、在日韓国・朝鮮人に対する差別が以前より公然となされるようになったという変化もありますが、他方では以前よりリベラルな考え方が受け入れられるようになった側面もあります。
安倍政権の高い支持率は、彼の保守反動的な思想が受け入れられるように日本人が変化したことによるものではなく、経済政策など、様々な政策のパッケージを提示するガバナンスの効いた競合政党がないことによるものだと思います。
そういった意味では先にお話しが出たように、「リベラルの受け皿がない」ことこそが問題だと思っています。
政治学者の竹中佳彦先生も、調査データにもとづき、日本の有権者に起こっていることは右傾化ではなく脱イデオロギー化であり、自民党に代わる政党を見出せない人々が棄権していることが自民党の相対的得票率を高め、2016年の参院選の勝利に結びついたと分析しています(塚田穂高(編)『徹底検証 日本の右傾化』)
橋本 日本人がリベラルではなくなったのかというと、確かにそうでもないと思います。私は拙著『経済倫理=あなたは、なに主義?』で、4つの質問から、イデオロギーの16類型を析出しているのですが、学生たちに質問すると、もっとも支持されるのはやはり「リベラリズム」なんですね。
しかしその次に支持されるのは、じつは名前がないイデオロギーなのです。私は「近代卓越主義」と命名しましたが、一言でいえば「プライド高すぎ主義」となるでしょうか。親に愛情深く育てられ、承認願望が強く、失敗を恐れて挑戦しないタイプです。この他にも新自由主義や新保守主義は支持者が多いです。「市民的コミュニタリアン」は全体の2%くらい。市民派と呼ばれるようなタイプは、学生の中にはあまりいません。
すると新しい市民派リベラルというのは、これら16類型の中で、おそらくいくつかの意識の組み合わせになる と思うのですね。リベラリズム、耽美的破壊主義、市民的コミュニタリアニズム、等々。そして近代卓越主義もまたそのひとつのタイプでしょう。これは21世紀の新しいイデオロギーではないかと。いずれにせよ、新しいリベラルをどのように析出するのか。少し視点を変えていえば、新しい中間層をどのように可視化するのかが問題となります。
新しい中間層を可視化する
橋本 新しい中間層を可視化するという場合に、ひとつ参考になるのは、韓国の社会学者ハン・サンジンの「中民理論」です。
1980年代に、日本では村上泰亮が『新中間大衆の時代』を書いて、マス・カルチャーを全面的に享受するような消費者の台頭を描きました。ところが同時代に韓国ではハン・サンジンが、近代の自己反省とともに台頭してきた新しい市民層を社会学的に解明し、韓国における二大政党制の意識分割のあり方を模索しているのですね。
彼はその後、金大中大統領のブレインとなり、最近では第三の政党「国民の党」の設立準備委員長を務めたりしている。ハン・サンジンの理論はそのままのかたちでは日本に応用できませんが、日本でも社会理論と社会調査を組み合わせて、類似の視角で新たな分析が可能ではないかと思っています。社会調査研究が政治に与える影響について、高さんどうお考えでしょうか?
高 調査研究は政治を考える上で、非常に重要だと考えられます。そうした研究は、人びとが何となく思っていることが事実なのかどうかを検証したり、あるいは人びとが自分でも気づいていないことを明らかにしたりできるからです。
私の専門 である在日コリアンに対する偏見・差別をめぐっては、「差別的なのは貧しい連中だ」といった言説がしばしば飛び交います。
しかし先行研究からすると、貧しい人ほど差別的かというと必ずしもそうではありません。むしろ、豊かな人は豊かな人ゆえの、差別を正当化するようなイデオロギーを持っていることがあります。私が昨年行った調査でも――まだ論文としては未発表ですが――、家庭収入が多い方が、在日コリアンへの偏見が強いという結果が得られています。
こうした、通俗的な言説や直感に反する知見というのは、実際にデータを得て分析してみなければ分からないわけです。ですから、データの裏づけなしに社会に対して働きかけようとすると、まったく意味のないことや逆効果のことをしてしまったり、本来働きかけるべき相手とは違う人々に働きかけて徒労に終わるといったことになりかねない。
また、社会心理学では「実験」という方法も用いられますが、こうした手法は、「調査」よりも効果的に、出来事の因果関係を明らかにすることができます。これらの手法を用いて、誰が何を求めているのか、あるいはどう訴えれば彼らに届くのか、といった点を明らかにすることは、リベラルの受け皿を作るためには欠かせません。
吉田 おそらく社会構成の原理としてのリベラリズムは、変調の予兆があるとはいえ、これを変えるための摩擦係数は高いでしょう。そうだとすれば、このプラットフォームとしてのリベラルと、そのもとで個人や集団が実質的にどうリベラルであるのかを明らかにして、それを刷り合わせていくような作業が必要になってきます。それこそが広い意味での「政治」ということになります。
中民理論にもそうした実践のかたちはあるのでしょうか?
橋本 もともと中民というのは、1980年に韓国で起きた「光州事件」の担い手だとか、80年代の政治の季節に大学のキャンパスで生じた草の根的なさまざまな政治・文化運動だとか、そういったものが実態としてあるわけです。
他方で、意識調査から浮かび上がる一定の社会層というものが、こうした現実の運動と結びつけられたところに「中民」概念が位置づけられるのですね。最近では昨年末から生じたパク・クネ大統領退陣要求デモ(キャンドルライト運動)の担い手と、市民派リベラルの関係について、ハン・サンジンらの研究所では検討しているようです。
ハン・サンジン氏の面白いところは、かれはハーバマス主義者で、理論家であり社会哲学者なのですね。その理論的な成果を生かして、社会調査に結びつけている。日本ではこのような研究があまりないですね。ここに私たちが共同でやるべき理由があると思うわけです。
高 私は社会心理学者で、社会心理学者というのはデータを取って読み解くのは得意なのですが、しばしば狭い領域にこもってしまって、政治や社会についての理論に疎いものなんですね。私もその一人です。もちろんそれには、データに根差した理論こそが理論だという言い分はあるのですが、最近では政治学者や社会学者――計量も理論もやる人びと――とのつき合いが増えて、自分の不勉強をあちこちで思い知らされています。
既存の理論を利用した実証研究ができるのであれば、積極的に行っていきたいです。ある理論が検証され妥当だと示されれば、その理論を用いて論じられてきた様々なことについて、さらなる実証研究が可能になり、豊かな実りがあると考えられるからです。実りというのは、アカデミックな関心の面からも、よりよい政治的潮流を引き出すという関心の面からも、です。
また、政治や社会の理論というのは、多くの知識人が政治や社会を語る枠組みになっているわけですから、理論の妥当性を検証することは、それらの語られ方を再編することに繋がるという面でも有意義だと思います。
吉田 苅谷剛彦が日本の教育やアカデミズムでの「正解主義」を指摘しています。これは「現実」や「正解」はどこかにあるはずだとの知的態度のことを指します。ただ、「政治」が集合的に運命を切り開いていくことを意味するのだとしたら、実際にはこの「正解主義」ほど、反知性的で非政治的な態度もありません。
そうした意味でも、何のための実証研究か、それが政治に関わるものである限り、オープンな意味で「よりよい政治的潮流を引き出す」実践でなければならないということに賛成します。政治で誰を、何を応援するかというよりも、新しい価値や意見を示すことこそが、民主主義における科学者のファンクションのひとつだとも思います。
日本政治の課題とシノドス国際社会動向研究所
橋本 最後に、日本政治の課題とシノドス国際社会動向研究所の意義について話したいと思います。吉田さんはいまの日本政治が抱えている課題について、どのようにみていますか?
吉田 冒頭で指摘したように、戦後になって初めて全面化したリベラルな価値は、その担い手となった中間層が衰退していることで、変調を来たしているというのが現状認識です。その大きな潮流の中に日本も置かれています。
もっとも、リベラルな社会の構成要素は胡散霧消したわけではなく、70年間の風雪に耐えて、制度的原理と実践の規範として残っています。問題はその構成要素が、徐々に原理としての訴求力を失っていっている現状にあります。
そこで求められるのは、一方ではリベラルと呼ばれるものがなぜ、どのようにヘゲモニーを喪失していっているのかの原因の分析と、その結果として生まれている空白を何が埋めていっているのか、そこにリベラルな価値が復権する余地はあるのかどうか、あるとしたらそれはどのような意匠のもとにあり得るかの考察です。
この2つの領域を架橋するためには、理論的作業と実践的調査が欠かせません。そのためのツールを生み出していく場がシノドス国際社会動向研究所(通称『シノドス・ラボ』)となります。実際、政治家や政党関係者、社会活動家はアイディアとデータに飢えています。もちろん、現場の政治や社会に携わっているのだから、おおよその方向性や理念というのは彼ら/彼女らの誰しもが持ってはいます。
ただし、そこをバージョンアップさせていかないと、「生活が第一」やら「居場所と出番」やら、大体誰もが反対しないけれど、実際には選挙に負けないための何も言っていないメッセージへと矮小化されていってしまう。
そうではなく、あなた方が代表することのできる「人びと」は現実にはここにいるのだよ、と具体的に指し示してあげて、安心感を与えてあげることが大事です。つまりは、具体的で強固な因果関係とデータを抽出した上で、キャッチオールなスローガンを構想していくことが、結果として政治のイノヴェーションを生む、つまりは私たちの政治への希望にもつながっていくのではないでしょうか。
橋本 リベラルな社会の新たな構成要素を、社会意識や社会変動の観点から着実にさぐるということですね。
高 私も繰り返しになりますが、日本人が総体として右傾化しているかというと、そうではないと思います。ある面ではリベラルな方向への変化もあり、他の面では保守反動的な変化もあると思っています。ただ、では具体的にどの面でどう変化しているのかという実態は、調査、あるいは先行研究の精査を通じて、明らかにしておく必要があります。
また、総体としては極端な右傾化は生じていないにも関わらず、リベラルな受け皿を用意できないことで政権の右翼的傾斜を許すことになってしまっているのが、現在の日本政治の問題だと思います。
このままでは、気がついたら自分たちの重要な権利を放棄していた、ということになりかねない。そして人間というのは一度変化が起こるとそれに慣れてしまう傾向があるので、たとえ最初はそんなことを望んでいなかったとしても、保守反動的な政治・社会を所与のものとして受け入れてしまうかもしれない――そしてその中では、受け入れられない人が苦しむことになるわけです。
ではどういう受け皿を用意できるのか。ただ多数派を形成して多数決で自分たちの意思を通すためではなく、個人の尊厳といった基本的価値が擁護される社会にしていくためにはどうすればいいのか、というヴィジョンを、データにもとづき提示していければと思います。
橋本 リベラルが決して意識の上で衰退しているわけではないのに、政治的な回路を見失っているのでは、ということですね。
ではどのようにしてその回路を見出すのか。最近、私が興味深いと思うのは、トランプ大統領はエリート主義の権化たるヒラリーを破って大統領になったのに、現在、アメリカの民衆たちは、トランプ大統領を批判しはじめたということです。
もちろん、はじめからトランプ氏を支持していない人も多いわけですが、街頭デモやメディア発信でもって批判する人たちは、現在、エリートよりももっと優位な観点から政治を語っているようにみえます。そうした民衆による政治批判のなかに、私は保守でもエリート主義でもない、「新しい中間層」が可視化されていく可能性があると思います。
いずれにせよ、シノドス国際社会動向研究所(シノドス・ラボ)では、まず新しい中間層=リベラルの担い手を構成的に描き出す研究をはじめます。
吉田 具体的な社会・意識・心理調査を行って、それがどのような政治的(党派的ではない)実践につながるかを理論化することが中核になるだろうと想定しています。それを経済学、政治学、哲学、社会学といった分野を横断して、かつシノドスというネット、ジャーナリズム、アカデミズムを架橋するメディアネットワークでもってバックアップと発信していくというのは、形式としても試みとしても、かなり革新的な試みではないかと思っています。
まずは調査研究をデザインし、その結果をまとめ、それを発信し、関心を持ってくれる人からのフィードバックをもらうことから始めることになるでしょう。先ほどもいいましたが、リベラルであることの「正解」はありません。あるのは「作りあげていく作業」です。そのプロセスこそ、リベラル的価値を内在させているといってもいい。
橋本 「リベラル」という言葉を聞いて、いまいちピンとこない人も多いかもしれません。でも新たな意識調査でもって、「えっ、私もリベラルだったの!?」みたいな、驚きをもって受け止められるような仕方で、リベラルの再規定と自己反省化をすることができるとよいですね。ぜひみなさん、ご期待ください!
プロフィール
高史明
1980年生まれ。東京大学文学部卒、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(心理学)。現在、東京大学大学院情報学環特任講師、神奈川大学非常勤講師。専門は社会心理学。著作に『レイシズムを解剖する 在日コリアンへの偏見とインターネット』(勁草書房)、『在日コリアンへのレイシズムとインターネット』(塚田穂高編『徹底検証日本の右傾化』、筑摩書房)など。
橋本努
1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。
吉田徹
東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。