2012.11.19
メディアから官邸へ ―― 決断の本当の理由と、今だから話せる官邸の第一印象
新人議員から応援した友人でもある議員が、総理大臣になった。自民党から民主党へのはじめての政権交代のあとで、描いていた理想の政治はなかなか実現しない。そのとき、ニュースアンカーとしてメディアでのキャリアを築いていた50歳の男は、総理の招きに呼応して官邸に入ることを決断。民から飛び込んだ公務員の世界はどう見えたのか。批判的に見ていた日本政府を中から見ると、どう見えたのか。10月に2年の任期を終えて、退職した下村健一さんにインタビューした。
省庁では、新卒採用のはえ抜き、終身雇用の公務員ばかりではなく、少なからぬ人材がテンポラリーに働いている。政権交代後、これまでとは違う縁で、民間・異分野から省庁に入って働いている人もいる。契約条件はまちまち、それぞれの転職のきっかけも動機もまちまちだろう。インタビューした下村健一さんは、応援していた旧知の議員が総理になったという特殊な事例ではあるが、そんな新しい人材交流のひとつのケースと読むこともできる。
任期中に、総理の交代、世界史上でも稀な規模の大地震、原発事故と、激動の2年間を過ごした下村さん。この「メディアから官邸へ【転身編】」では、人生50年目の決断のきっかけから、メディアから官邸へ入った直後の戸惑いについてお話いただいた。駆け抜けた2年間の広報審議官の仕事を伺った、【広報室審議官編】とあわせてお読みいただきたい。(聞き手・構成/難波美帆)
メディアから官邸へ
下村 2年前の10月22日、初めて首相官邸の官房長官室に通されて、まず仙谷内閣官房長官から「内閣審議官」着任辞令の紙をもらいました。
あらかじめ考えてたわけじゃないんだけど、その紙を受け取った第一声で、「税金泥棒にならないようにがんばります」と言いました。今ふりかえってみて、その約束は守れたかというと、まったく守りきれていません。この2年間にぼくが提供した労力、成果と、いただいた給料とを天秤にかけると、まだ“泥棒”になっている。これから、政府の外に出てから、その分を返していかなきゃ、と思っています。
難波 このロング・インタビューを受けていただいたのも、「泥棒が税金を返す」作業のひとつですか?(笑)
下村 そうです。まだ全然、期待された働きはできていませんから。最終日まで、課題は残っちゃった。本当に非力で申し訳ありませんでした、とまず、インタビューを読んで下さる方々にお詫びいたします。これからお話しすることは、すべてこのお詫びが前提です。
難波 「期待された」というのは、誰かからそう言われたというより、自分の中で、こう期待されているんだろうと考えていたことですか。
下村 両方です。入るときにいろんな人から、「お前が政府のわかりにくさをなんとかして来い」と言われました。まず、いきなり去ることになって迷惑をかけた、「みのもんたのサタデーずばッと」(TBS テレビ系の報道番組:下村氏が一コーナーを担当)のスタッフたちから、「送り出してよかったと言える働きをしてくれよ」と送別会で言われました。“働き”とは何かと言えば、もちろん「政府の都合のいいようにメディアをコントロールすること」ではなく、「本当に政治が何を目指してやっているのかをわれわれ国民に届けること」と、「われわれの声を政府の中に届けること」、このふたつです。そのあと、この転身話がオープンになってからは、いろいろな人たちに同じ趣旨のことを言われました。
難波 転身について誰かにご相談したりはしなかったんですか。迷いはありませんでしたか。
下村 家族とか、当時籍を置いていた友人の会社とか、ごく身の回りの人には言いました。“サタデーずばッと”に対する申し訳なさは、一番悩みました。でも、自分の人生の選択としての迷いはなかったです。あと、期待の声以上によく言われたのが、「今までずっと権力批判の立ち位置でやってきた者が、急に権力側の犬になるのか。がっかりだ」と言う失望の声でした。でも、これもぼくの中では、まったく迷いはありませんでした。むしろ「あちら側に行ってしまうのか」と嘆く人たちに対しては、「“あちら”側じゃないでしょう。政権交代というのは、権力をこちら側に持ってくる作業でしょ。そのこちら側に持ってきたはずの権力が、今どうなってるのかよくわからないから、政権交代を選んだ国民に対して、それを見やすくするために官邸に入るんだ」というのが、当時からのぼくの考えでした。今でもそう思っています。
実現しなかった報道官制度
難波 官邸に入ることになった《きっかけ》を聞かせて下さい。下村さんが公務員になられたのは、菅直人さんに誘われたから、ということでしたでしょうか。
下村 そうです。なぜ菅さんかと言えば、30年近く前の学生時代から、彼を手伝っていたからです。当時、菅直人の政治団体は「あきらめずに参加民主主義をめざす市民の会」という名前で、ぼくは、この人は市民参加を政治の世界に実現する人だと思って手伝い始めたんです。奇跡の当選と言われた泡沫議員1期生の青年・菅直人が、われわれ学生と一緒に酒飲みながら、「天下を取ろう!」と熱く語ってた。そのときみんな、《天下を取る》こと自体が目的ではなくて、閉鎖的な政治屋どもから天下を奪って、《市民にオープンな政治にする》ことがモティベーションでした。当時は遥か彼方の夢だったけど、民主党への政権交代で、ついにそれが実現できるポジションまで来たんですよ。入口に立ったんです。
そこでまず、民主党政権ができたとき、すぐに菅さんに電話で、「報道官をぜひ置いた方がいいよ」と言いました。テレビで各国の政府関係のニュースを見ていると、報道官という職種の人が登場して、コメントしてますよね。情報を扱うプロだから、ちゃんと記者とコミュニケーションできています。過剰に防衛的ではない。
日本だと、大臣や官房長官が会見で何か言うと、言った中身より、言ったことの政局的思惑とか、言葉尻の失言とか、「あっちの大臣の言ってることと微妙に食い違うじゃないか」とか、そういう部分ばっかりが、情報の本質より大きな伝わり方をすることが、よくありませんか? そういう部分が大事じゃないとは言わないけれど、物事の軽重の順位付けとして、これはすごーくおかしいなと、メディアにいたころから思っていたんです。政治的な責任を伴った発言や政局について聞きたいときは、議員バッジをつけてる人に聞けばいいけど、政策についてはちゃんと報道官を置いて国民に説明してよと、それが政権交代直後の菅さんへの注文だったんです。
難波 民主党が政権を取ったときに菅さんにそういう注文をし、そして菅さんが首相になったときに、下村さん自身が首相官邸に入られたんですね。
下村 いや、すぐには、手伝いに入ろうとは思いませんでした。そもそも民主党が政権とった後も、なかなか報道官は設置されませんでした。と言うか、いまだにできてません。「いろいろ難しいんだよ」みたいなことを菅さんが言って、なんか「当分ムリだな、こりゃ」と感じたんで、ぼくも距離を置いて見ていました。
もともとぼくは、政権交代には期待してたけど、1回目で簡単にうまく行くとは思ってなかったんです。必ず次の2回目(注:2012年12月に行なわれることになった総選挙) は、民主党が大敗すると思ってました。50年近く続いた堅固な体制をひっくり返して数年で、こびりついたさびが易々と落とせるわけがない。
でも、国民はそんなこと待っちゃくれないから、期待の反動の幻滅が来て、そこでわっと批判票が流れて、また自民に戻るのか他のフレームに移るのかはわからないけど、とにかく民主党政権は1期で終わる。その次の3回目の総選挙が、ほんとの大事な選挙でね。2大勢力がどっちも《与党をやって下野する経験》を持った。さぁ、そこでどんな腰すえた政権を国民が作るのか。
だから2009年8月の選挙直前、政権交代の予感でメディアの皆が浮かれているときから、ぼくは「勝負の選挙は、今回じゃないよ。3回目だよ」と言ってました。当時それを聞いた某テレビ局の中堅どころは、納得しかねる顔してましたけど。ちなみに今でも、ぼくのこの見方は変わってません。
だから、1回目の政権交代で報道官ができないのを見て、その時点で一旦距離を置きました。
「ちょっと、乾杯ぐらいさせてくださいよ」―― 菅直人機関説
下村 ところが、まったく思いのほか、鳩山さんがもたないで、1年も経たないうちに急に菅さん自身が総理大臣になっちゃった。そうすると、やっぱり、もう一回あわく期待しちゃいますよね。「いろいろ難しいんだよ」と言ってたけど、自分がトップになったら、かなりのことはできるだろうと。
総理になったその晩、菅さんには会いました。前からの約束で菅伸子夫人には、総理になった当夜にインタビューさせてねとお願いしてあり、都内某ホテルに避難している伸子さんのところに、「サタデーずばッと」のクルーを連れて行ったんです。そこに菅さんから電話があって、思ったより早くホテルに戻れることになったと連絡が来たから、インタビュー終了後、クルーが帰ってからもぼくだけ残ったんですよ。友人として、一言ぐらいお祝いを言って帰ろうと思って。
そしたらね、ホントこの人らしいなと思ったけど、菅さんは戻るなり、「健ちゃんもいるから、ちょうどいい。これからどうしようか」と、3人で仕事の相談を始めようとしたんです。「ちょっと、乾杯ぐらいさせてくださいよ」とぼくは言ったの。ずーっと30年近く新人時代から応援してきた者としては、やっぱり嬉しいんだから、乾杯ぐらいさせてよと。あの人、ほんとにドライなんですよね。情よりも、理の人。ウェットなところがまったくなくて、情で人心を掌握した組織運営がうまくできない。
難波 でも、下村さん、菅さんのそういうところが嫌いじゃないんですよね?
下村 いや、ぼくはそこが好きなんですよ。ぼくは学生時代から、イラ菅に反発して離れていこうとする仲間には、「菅直人機関説」というのを唱えてて(笑)。あの「人」を応援するんじゃなくて、菅直人という「機関」を応援するんだと。この趣旨は菅さん自身も初当選時から言ってたことで、「俺を《応援》するんじゃなくて、《活用》してくれ。仲間が国会議員という機能を持ったんだから、国政調査権とか議員立法とか、どんどん世の中良くするために使ってくれよ」と。多分あの頃から離れずにいる、いわゆる“菅グループ”の人たちは、ほとんどそういう思いだったんじゃないかなあ。親分・子分の関係じゃなくてね。
ただ、そういうドライな繋がりで来たぼくでさえ呆れるほどの、ドライな総理初夜でした(笑)。ほんと今にして思えば、あそこで乾杯すらしようとしなかったことが、なんか最後に味方がどんどん減って、ボコボコに叩かれて去っていったことに繋がる象徴的な出来事だったって気がします。なんだかんだ言って、政治は人の情で動くところがあるから、周りの側近たちや有力な対抗勢力に対する人間的な気配りをある程度はやらないと、離れていっちゃいますよね。それは惜しいなと思いました。
それから、とりあえず3人で乾杯だけはして、5秒後には、「それでさあ、これからさあ」って話になっていきましたけど(笑)。
でも、その時点でもぼくは、応援しに官邸に入るつもりはなかった。一報道人として菅政権を見ていく。そういうスタンスでした。菅さんの方からも、手伝ってという話はありませんでした。というのも、その前およそ四半世紀にわたって、社民連時代からずっと、ぼくが出馬要請を断っていたんで。ぼくは、学生時代は政治家になることに関心を持っていたけど、メディアの世界に入ってからは、一介のメディア人として、メディアを真っ当にしていくことの方が大事だと思ってきました。それで、ある時期から、菅さんもぼくを誘い込むことを諦めてくれていました。
難波 では、手伝うことになったきっかけは?
下村 手伝ってと言われた最初の機会は、伸子さんの本『あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの』が出たときです。そのときに、出版のお祝いのごく少人数の夕食会に呼ばれたんです。本のゲラの段階で、若干の相談にのったから。で、まったく予定外だったんですけど、お開きの頃に、菅さんがSPとともに、ポンと来たんです。
菅政権が始まって2ヶ月余り経ってて、こりゃあいい機会だと思ったから、ぼくは噛みつきました。「何やってんですか。あんなにずっとやりたいと言ってた総理大臣になったのに、なってからまるで精彩を欠いてる。何やりたいのか、気心知れてるはずのぼくにも見えないんだから、まして国民に見えるわけがない」と。鳩山さんが、ああいうかたちで唐突に辞めたから、何の準備もなく総理大臣になっちゃったというドタバタした事情はわかるけど、「だれか周りに一人ぐらい、他のこと何も担当しないで情報発信だけに専念する人は置けないのか」と詰め寄りました。そしたら菅さんから、「そんなこと言うんだったら、あんたやってよ」と切り返された。これが最初です。
ぼくは虚を突かれて、菅さんも言いながら半分苦笑してたから、その場はそれで終わりました。というのも、そのあと代表選を9月に控えて、小沢さんとの一騎打ちだったから、ほんとにそこでどうなるかわかんなかった。参院選での大敗の責任を問われて、ものすごい短期の総理で終わる可能性も十分にあったので。
でも、9月半ば、代表選でふたたび勝って、これでまあ、しばらくは続くわなと。しかも参院選でガタ落ちになった内閣支持率も、小沢さんに勝った瞬間、ぽんと跳ね上がって、菅政権発足当時と同じかもっと上ぐらいまで高くなった。その状況で、官邸筋から「下村さん、ほんとに来れますか」と一気に話がリアルになったんです。うーむと思いましたが、これで長く菅政権が続くなら、誰かが情報をちゃんと出さなきゃダメだよなと思いましたし、あれだけ菅さんに噛みついて、「ぼくは安全地帯から批判だけしてますから」とは言えないなと。
難波 それで、打診に応えて入ろうと思ったんですね。
下村 ちょっと考えたけど、これはやるしかないなと腹をくくったわけです。
「明日の新聞の見出し」を作ろうと思って入ったが…
難波 官邸に入るときには、当初はどういう抱負を持っていかれたんですか?
下村 とにかく、パイプになりたい。民主党が政権とってから、完全に国民との間のパイプが詰まっている。ぼくは、水道管の詰まりを取りにいくつもりでした。
具体的に言うと、「国民はこう思っているよ」ということを、菅さんとダイレクトに繋がっていることを活かして、総理大臣の耳に伝えていこうと思いました。普通だったら、その前の組織ピラミッドの各段階でさんざん取捨選択されて、なかなか総理大臣の耳にまでは鮮度のいい情報が届かないだろうから、そういうのを一切飛び越えて、たとえば喫茶店で隣のおばちゃんが話していた話をいきなり総理大臣の耳に届けるということを、ぼくの立ち位置ならできる。
そうやって《インプット》をすることと、あとは、ついこの間までジャーナリズム界にいたその目線で、批判的な目も持ったままで官邸の中で“取材”をして、世間の疑問をちゃんと織り込んで応える官邸からの《発信》をしていこう。そのふたつをやろうと思ってました。結局、果たせぬ夢でしたけど。
難波 実際、入ってみてどうでした?
下村 まずぶつかった壁が、…あ、いきなり、着任するまでが壁だったんだ。9月末で「サタデーずばッと」を降板して、10月1日から着任のつもりでぼくも菅さんもいたんですが、いつまでも連絡が来ませんでした。10月の中旬ぐらいになって、菅さんが総理執務室からぼくの携帯に電話して来て、「どうなってんのよ」って言うんです。冗談じゃない、「どうなってんのよ」はこっちの台詞ですと。もう番組辞めちゃったんだから、「ゴメン、この話はなし」とか今さら言わないでよ、と思うぐらい、見通し不明でした。
あれも象徴的だったと思います。いちばん情報の頂点にいるべき人が、自分の側近に加える者の手続き状況すら知ることが出来ない構造で、本人に直接訊いてくるって。これは、菅直人という《人間》の問題というより、日本の総理大臣を取り巻く《構造》の問題が基本にあると思います。今にして思えば、ほんとに、あの「どうなってんの」というセリフを、原発事故後にどれだけ聞くことになったか…。
難波 構造の問題と言いますが、そこは、なぜ詰まってたんですか?
下村 なんか手続きに時間がかかってます、とか言われて、ズルズル10月22日になったんです。赴任したときにはもう滝のように急降下する支持率、その流れが止まらなくなっていて、入ってみたら、すでに官邸の空気は新任総理のイケイケどんどんではなくて、完全に防衛モードになってました。あれ言ったら批判される、これ言ったら攻められる、なるべく無難に無難に行こうという中に、異分子が入っていくというアンラッキーなタイミングになってしまいました。それを跳ね返せなかったのはぼくの力量不足のせいですけど。
端的に言えば、ぼくは総理の広報の仕事に入ったら、いわば「明日の新聞の見出し」を作りにいくつもりでした。しかし入ってみたら、いかに「明日の見出しにならないか」っていう方向で側近の皆さんが頭を悩ませてたわけです。正反対だったんですよね。
ビックリしたのは、菅さん自身も、防衛モードだったんです。当時ぼくの所には、テレビ界からの転身についての取材申し込みが何件も来てたんですが、それに対して、菅さんが「1ヶ月は黙ってろ」と。それが最初のぼくへの業務命令でした。メディア人時代の感覚でものを言っちゃって、それがストレートに総理の見解と思われたら、いろいろと問題が起きる可能性があるから、慣れるまで1ヶ月は一切取材は受けないでくれと。
難波 それで、1ヶ月は黙ってたんですか?
下村 言うこと聞いて、全部取材拒否ですよ。当然、昔から菅さんを応援してた学生時代の仲間とかは、やいのやいの言ってきました。
当時ボランティアで必死になって選挙を手伝った仲間は、菅さんが総理になって以来、何やってんの?と思っていました。しかし、それぞれに仕事があって手伝えない。そのとき、下村が渦中に入って行った。がんばれよと期待したところが、下村が、また何やってんだかわからなくなっちゃった。ミイラ盗りがミイラになった、とね。
とくに、学生ボランティアで同期だった久和ひとみ(早大生当時、菅さんが初当選した直後からボランティア入り。その後、民放ニュースキャスターとして活躍し、40才で急逝)には、自分の非力が申し訳なくて顔向けできない思いでした。存命なら、彼女が担っていただろう役割でしたから。
KAN-FULL BLOGをスタート
で、その取材拒否の1ヶ月の間に、内閣広報室のスタッフたちと一緒に黙々と菅さんのブログKAN-FULL BLOG(カンフル・ブログ)っていうのを準備して、スタートさせました。しかし、それをどういうかたちでやるかをめぐっても菅さんとなかなか考え方が合いませんでした。ぼくは、「せっかくメディアの世界から来たんだから、メディア的なアプローチで、ぼくがビデオカメラ片手に菅さんに批判的な質問をしますから、それに対して一生懸命答えてください。そういう動画インタビューを、政府広報として小マメに出していきましょう」と提案しました。
「メディアは、意識的にネガティブな部分だけ編集して使うから、今までは、そういう側面しか国民に伝わらなかった。今回は、同じ突っ込みインタビューでも『なるほどね』と思える部分を編集で捨てずに伝えていけるから、これまでのメディア・インタビューとは全然違う政府広報になりますよ。やりましょう」と繰り返し提案したんですけど、菅さんや周囲からは、「なんで税金使って政府の広報するのに、政府に対する批判的な声を入れるんだ。まったく理解できない」「政府側の言いたいことだけを言う発信をやってくれ」という趣旨のことを言われ続けました。
これにはぼくね、相当深刻に悩んだ。この1か月に、もう辞めようと思った。それだったらぼくがやる意味がないと思った。あの学生時代に「みんなで天下を取ろうぜ」と言ってた、あの思い出がなかったら、ほんと辞めてたと思います。
だけど、このときやっぱりぼくはまだ、菅直人というマシーン(機関)が総理になったことには、すごい期待があったんですよ。厚生大臣のときの薬害エイズ問題での大活躍は、まぐれじゃない。「伝わる」ようにさえなれば、この最初のツラい期間が終わって軌道にさえ乗れば、きっとすごい総理大臣になると思ってました。その前の鳩山さんだって元々は自民党でやってた大金持ち。菅さんは、ほんとに一介の市民運動出身者。初めて、新しいタイプの総理が誕生した。今回こそが初めての政権交代だ、と感じてました。新種の総理大臣の第1号をそう簡単に見限りたくなかったから、ここは歯を食いしばって辞めずに残ることにして、自分の方の考え方を整理したの。
メディアはたしかに批判ばっかりやってる感がある。じゃあ、しょうがない、ぼくは菅さんたちが望むように、政府側の伝えたいことばっかりを、わかりやすく伝える役に徹しよう。ただそれは、戦時中の大本営発表とは決定的に違う。大本営の時代は、「われわれの情報だけを信じろ」というスタンスで、批判的メディアの存在は封じていました。今度ぼくがやるのは、「メディアの皆さんは、そのまま批判をやってください。ぼくの方は、政府側から見るとこうですというのを報じます。国民のみなさんは、どうぞぼくたちの伝えることだけを鵜呑みにしないで、メディアの批判と併せ見て、皆さんの頭の中で判断を作ってください。なかなかメディアだけでは伝わらない考える材料を、ぼくが官邸の中から提供します」―― という風に、自分の役目と気持ちを整理しました。
立ちはだかる「チェッカーズ」の「涙のリクエスト」
下村 KAN-FULL ブログでは、総理の動きをぼくが撮影する動画発信だけでなく、菅さんのブログや、「一歩一歩」っていうコーナーを作って、文字でも政策の中身を解説しました。なるべく国民と遠いブラックボックスじゃなくしていくためにこぼれ話から始めていこうと、「官邸雑記帳」コーナーを作ったりと、いろんなアプローチを試みました。その1回1回に、総理の発信の宿命として、側近などから厳しい文面チェックが入るわけです。その度に、より、丸くされていく。「まだここ尖ってる」「まだここに“明日の見出し”になりかねない要素がある」というのを、二重三重のチェックで取り除いていくんです。たしかにそれで安全性は高まるけれど、反比例して訴求力は落ちて行く。ぼくはその人たちのことを、切ない連帯感を込めて 「チェッカーズ」と呼んでたんですけど……。
難波 若い人にはわからないかもしれません。わたしぐらいの世代にはドンピシャですけど(笑)
下村 シノドスの読者には、通じないか。彼らから内容修正の注文が来るたびにぼくは心の中でひとり泣いていたから、そういう注文のことは「涙のリクエスト」と呼んでました。
でも、そういう「チェッカーズ」の方々だって、本当は積極的にメッセージを打ち出していきたい、でもできないという忸怩たる思いがあるわけだから、彼らの胸中も「涙」だったと思います。だって、やっぱり菅さんの、正確に伝わらなかったという意味で「不用意」な消費税発言で、一昨年夏の参議院選挙で惨敗して、その結果生まれたねじれ国会という状況に、一日たりとも忘れることができない現実として、苦しめられてるわけですから。そのトラウマがあったら、総理発言の準備には慎重にならざるを得ないですよね。その気持ちは痛いほどわかったから、「こいつらの慎重姿勢が菅直人の敵なんだ」とはまったく思いませんでした。
ぼくがやりたいのは、攻めの広報。彼らの方針は、守りの広報。でも、この人たちも必死で菅さんを守ろうとしてる。だからそこで決裂しようとは思わなかったし、なんとか、その守りの広報の中に、少しずつでも攻めの要素を入れていけないかというのが、ぼくの日々の課題になったんですね。今、辞めて自由な立場になったからといって、その人たちのことを悪口言おうとは思いません。惜しむらくは、攻めの広報を主張する人が、ほぼひとりぼっちだったということですね。福山さん(官房副長官)や寺田さん(総理補佐官)が、ときどき一緒に攻め側に立ってくれるときは、心強かったですけど。もう少し人数的なバランスがとれてたら、もうちょいさじ加減できただろうなと思います。
難波 大丈夫ですか?疲れないですか?
下村 大丈夫。しゃべるの商売でしたから(笑)。市民メディアでは、長い番組けっこうありますよ。
難波 1時間近くお話しいただいて、内閣広報室に入った経緯、そこがどんなところだったかということがわかりました。では、その中での2年間、下村さんが果たした役割をお話しいただけますか?
下村 ぼくの任期は、振り返ると、5つの時期に分かれてます。まず着任から3・11までは、ひたすら菅さん密着の《守りの広報》。2期目、震災発生からしばらくは、《震災広報》一色。3期目、菅さんの「メドがついたら退陣」示唆(2011年6月2日)から実際の退陣(同9月2日)までは、世間に延命策と勘違いされた《攻めの広報》。4期目、野田総理誕生から今年3月末までは、官邸を離れて《平時の霞ヶ関の広報改革》の土台作り。5期目、今年度初めから退任までは、枝野・古川・細野の各大臣をお手伝いして《原発・エネルギー関連広報》に全力投入、という日々でした。
(つづく)
テレビメディアから、政府へ。半年も立たないうちに、未曾有の大震災。国家の危機に前職の経験を精一杯生かして試行錯誤で政府の中から情報発信した下村さんの2年間は【広報室審議官編】」へ
プロフィール
下村健一
1960年東京都生まれ。東京大学法学部卒。学生時代から“市民派”議員を支援する政策シンクタンクなど政治活動に関わる。1985年TBS入社。アナウンサー・ニュースキャスターとして活躍。1999年にTBS退職後も“みのもんたのサタデーずばッと”などテレビ報道に携わりながら、市民メディアの育成に努める。2010年10月、新人議員の頃から応援する菅直人首相の要請を受け、内閣広報室審議官に就任。2012年10月、2年の任期を満了。
難波美帆
1971年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科准教授。徳島、呉、横浜、今治、神戸、米子と、海の街で育つ。農学部卒業後、編集者・記者を経て、アドボカシーのための活動に関心を持ち、北海道大学で科学技術コミュニケーター養成に携わる。2010年より現職。