2011.10.11

変えるべきもの、変えられるもの 

大屋雄裕 法哲学

政治 #小選挙区#比例代表

前稿において、現在の統治不全の理由を個々の政治家ないし政党の能力不足のみに帰することはできないこと(もちろんそれを否定するものでもない)、現在の議会制度がより基礎的な問題になっていることを指摘した。では、われわれ国民が安心できるような水準の統治を実現するためにはどのような制度を構想する必要があるのだろうか。

両院権限の再配分

根本的な問題が強すぎる参議院の権限にあるとすれば、それを本格的に修正するためには衆参両院の権限の再配分が必要になるだろう。この際、重要なのは「再配分」であって必ずしも参議院の権限を弱めることではない。両院の多数派が異なることによるデッドロックを防ぎたいのだからどちらかの院の優越性が明確になっていれば十分である。

もちろん、イギリスのようにほぼあらゆる面において下院の優越が確立しており、上院には法案成立を遅らせる程度の権限しか認めないというモデルもあり得る。だがイギリスと異なりわが国では両院とも国民の直接選挙による選出という正統性を持っているので、両者に本質的な優劣関係はないと考えるべきだろう。したがってたとえば、現状の首相指名・予算・条約承認に加えて通常の法案についても衆院の優越をさらに明確にするかわり、逆に国会同意人事と決算については参院の優越を認めるというような選択肢を考えてもよい(もちろん前提として決算に実質的な意義を持たせるべきだ、とは言われるかもしれないが)。

だがこの案の最大の問題点は、憲法改正を必要とすることである。実現するとしても手間と時間がかなり必要になるし、憲法を改正するということ自体に(なぜか)抵抗感のある人びとがいることも考慮しなくてはならない。

選挙制度改革

憲法に手をつけないことを前提にした場合、必要な改革の中身は政治の目指すべき方向性としてどのようなものを考えるかによって異なってくる。

小泉政権のように、たとえ社会のある程度の部分が強く反対しているとしても統治者の強いリーダーシップにもとづく政策実現を一定期間は許容する方がよいと考えるなら、現在の二大政党制の方向を強化すべきだということになろう。具体的には、衆議院を完全小選挙区制に改め、政権に就く党が2/3を超える議席を得るのがむしろ常態であるようにする必要がある。もちろんその代償ないし暴走へのストッパーとして参議院を完全比例代表制にするなどの改革も考えられるが、「強すぎる参議院」の問題を残さないよう、両院協議会制度の改革などと一体に構想する必要がある。

一方、できるだけ社会の広汎な層が合意できるような政策を実現する方が(妥協を強いられる結果として多くの人が少しずつ不満を抱える結果にはなるとしても)望ましいと考えるなら、多様な有権者を代表できる議員を議会へと送り込み、その場での熟議を通じた合意形成を促進する必要がある(この場合、二院制を維持すべき理由がさらに弱まることについては注意しておくべきだが)。具体的には比例代表制を基礎にし、当選者選びの順位づけを政党に委ねきることに不満を覚えるなら小選挙区比例代表併用制などの採用を検討すべきだということになろう。

だが重要なのは、《代表者を集めて議論させれば必ず合意が得られるとはかぎらない》という点にある。比例代表制に立脚したコンセンサス型政治の典型と捉えられてきたベルギーにおいて、南北地域対立が深刻化した結果として総選挙後の組閣すらできない内閣不在状態が一年以上つづいていることに注意しなくてはならない(世界新記録を更新中とのこと)。合意へのインセンティブ、あるいは合意形成に協力しないことへのペナルティを制度化しておかないかぎりコンセンサス重視の政治にもデッドロックに陥る可能性はあるし、むしろその場合に状況を打破する方法を欠いていることは問題を深刻化させかねないのだ。

決定を促進するために

したがって、どちらを選択したにせよ議会における審議プロセス自体の改革が必要となってくるだろう。大山礼子・中島誠などによって指摘されている通り、自民党長期政権下で国対政治が必要とされた大きな理由は会期不継続の原則にある。

第一に、継続審議の議決なしに会期末を迎えた議案が自動的に廃案になるというこの原則によって少数派が時間切れを狙う戦術が可能になり、多数派に譲歩を強いる結果を招いてきた。だが少数派が(かつての社会党のように)譲歩の獲得で満足する保証は本来なく、二大政党制下でのデッドロックを招いた大きな原因になっている。

第二に、この原則はもともとヨーロッパの議会制度の伝統として広く普及していたが、他の先進諸国ではその弊害が意識され、実質的にはすでにほぼ撤廃されている。典型的には総選挙から次の選挙までを「一会期」と定義することにより、議員団の同一性があるかぎり議案と議論の継続性を保つ方が一般的になっている。

したがってわが国でも、通年ないし「前の選挙から次の選挙まで」と会期を定めることによって同原則を実質的に弱めるか、あるいは何らかの理由で現状のような短い会期制を維持しなくてはならない場合には明示的に廃止する必要があるだろう。

このような議論に対しては、それが少数派から抵抗の機会を奪うことになるという批判が想定される。だがそもそも民主政とは《本質的に多数決による決定を行なうためのシステム》であり、少数派、とくに妥協する気のない少数派がそのなかで拒否権を持っているのは異常な事態だとしか言いようがない。

多数派の暴走による人権抑圧を危惧することは理解できるが、本来それは民主政から切り離された司法府が担当すべき事柄である。立法府の機能不全を裁判所が解釈によって埋め合わせようとすることも、すべてを議会内の民主政プロセスによって解決しようとすることも、健全な発想ではない。

重要ではないこと

いずれにせよ注意すべきなのは、ここまで論じてきたような問題は国民の政治参加という入力を・政府による政策実現へと変換するシステムのレベルにあるということだ。

「ねじれ国会」を生み出した衆院選・参院選においてこのシステムに入力されたのはいずれも正しく民意であり、どちらかが正しくてどちらかが間違っているというわけではない。もちろん棄権や白票を問題と考える立場からは、投票率の高まった「より正しい民意」があると主張されるかもしれないが、投票率を100%にすれば「ねじれ国会」が絶対に発生しなくなるというわけではない。それぞれの民意は別の時点に示され、そして人びとの意見は移ろいやすいものだからである(逆に言えば、「正しい民意」はねじれないと主張している人は、人びとの意見や嗜好の変化を否定して「歴史を通じて正しい意見」があると主張していることになる)。

したがって別の言い方をすれば、《国民の政治意識を高めるとか政治参加を促進するといったことはこの問題の解決に何の関係もない》。いやむしろ、システムが目詰まりしている状況で無闇に入力を増やせば、全体的な崩壊をもたらす危険すらあるかもしれない。たとえば、民主政が一向に問題を解決できないことに苛立つ「目覚めた人びと」が、理想的な政治の実現を求めて体制転覆を企てるというのはどうだろうか。なにやら2・26事件などに似た構図であると言うべきだろうか。だがわれわれは、日本のファシズムが大正デモクラシーのあとに訪れたことを忘れるべきではないとも思われる。

選挙権獲得年齢が16か18かなどという議論をする前に考えるべきことがあるというのが、本稿全体の趣旨であった。政治自体が、憲法・議会法を中心とするルールに統御された法的プロセスで(も)あるという認識が、正しい制度設計のためには必要なのである。

推薦図書

そもそも政治制度改革が行われる前の日本の政治がじつはどのような制度だったのかについて、われわれはどれだけ正確な知識を持っているだろうか。「国対政治」がどのような背景と内実を持つ制度だったかを理解することなく、イメージで悪いことと決めつけて語っていなかっただろうか。現在の政治を評価する前に、過去について正しく理解しておくことが必要だろう。印象ではなく数字を基礎に語るための一冊。

プロフィール

大屋雄裕法哲学

1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。法哲学。著書に『法解釈の言語哲学』(勁草書房)、『自由とは何か』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か』(筑摩選書)、『裁判の原点』(河出ブックス)、共著に『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣)など。

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