2026.02.25

なぜリベラルは負け続けるのか?

芹沢一也 SYNODOS / SYNODOS Future 編集長

政治

2009年9月、民主党政権が発足したとき、その支持率は70%を超えました(鳩山由紀夫内閣の最初の支持率)。
日本の政治史において、これほど高い期待を集めた政権交代はありませんでした。
ところが2017年4月、後継の民進党への支持率はわずか6.7%。8年足らずで、支持の大半が消えてしまいました。

これは単なる政権運営の失敗ではありません。
それ以降も、リベラルな野党は選挙のたびに苦杯をなめ続けています。
分裂し、合流し、また分裂する。
その繰り返しの中で、有権者の目にはリベラルな政治勢力の姿がますます見えにくくなっていきました。

このような傾向は、2026年2月の衆議院選挙によって、よりはっきりと現れました。
高市早苗率いる自民党が、戦後最多の316議席を獲得。
単独で憲法改正の発議に必要な3分の2を超えた一方、リベラル・中道を標榜した野党のほとんどは壊滅的な惨敗を喫しました。

さらに皮肉なことに、「史上初の女性首相」という、本来ならリベラルが体現すべきはずの象徴的な物語を、保守右派の政治家に先取りされてしまいました。
ジェンダー平等を訴えてきたリベラル勢力が、その旗印さえ奪われた格好です。

なぜリベラルはこれほど負け続けるのか。
よく聞く答えは「野党がバラバラだから」「リーダーが弱いから」というものです。
しかしそれは症状の話であって、原因の話ではありません。
問題の根はもっと深いところにあります。

中間層は消えていない、のに

ひとつ興味深いデータがあります。

1970年代後半、自分の生活程度を「中の中」と答えた日本人は約60%でした。
それが2015〜16年になっても56.5%と、ほとんど変わっていません。
「中の上」「中の中」「中の下」を合わせた広義の「中流」は、2010年代後半でも93%を占めています。

格差が広がり、非正規雇用が増え、将来不安が高まっているというのに、意識の上では日本人の大多数が、依然として自分を中間層だと感じているのです。

これはリベラルにとって、本来は追い風のはずです。
リベラルな政治とは歴史的に、中間層の要求を代弁し、その声を政治の場に届けることで成長してきたからです。
中間層の意識をもっている人たちが93%もいるなら、その支持を集めれば選挙には勝てるはずです。

ところが現実はその逆です。
中間層は存在しているのに、リベラルな政党はその支持を集められない。
ここに問題の核心があるのではないでしょうか。

「少数派の政治」へのシフト

1980年代以降、日本のリベラル派が中心的に取り組んできた課題を思い返してみると、ある傾向が浮かび上がります。
女性の権利、移民・難民の受け入れ、性的少数者の権利、生活保護受給者の支援、要介護者への対応——いずれも、社会的マイノリティや劣位者の権利を擁護するという方向に向かっていました。

こうした取り組みは、人権的な観点から見て正しいものです。
リベラリズムの本来の精神にも沿っています。
誰もがそのことは否定しないでしょう。

しかし政治として見たとき、重大な副作用をもたらしました。
多数派の中間層が、「リベラルの政治は自分たちのための政治ではない」と感じるようになったからです。

リベラル派の「代表」機能が、多数派から少数派へとじわじわとシフトしていきました。
その結果、かつてはリベラルな政党を支持していたはずの中間層の多くが、政治への関心そのものを失い始めました。
あるいは不満を抱えながらも、消去法として別の政党に票を投じるようになっていきました。
「中間層の政治からの疎外」とでも呼ぶべき現象です。

これを「中間層の保守化」と表現することもできます。
しかしそれは半分しか正しくありません。
中間層が自ら保守に向かったのではなく、リベラルの側が中間層を置き去りにしていったという側面を見落としてはならないからです。

「自称リベラル」という罠

問題をさらに複雑にしているのが、「リベラル」という言葉そのものです。
「あなたはリベラルですか」と聞かれて、迷わず「はい」と答える人はそれほど多くありません。人口の2%程度です。
多くの人は「よくわからない」「それほどでも」「自分はどちらかというと保守的だと思う」と答えるでしょう。

ところがシノドス国際社会動向研究所が繰り返し実施してきた意識調査では、自分を「リベラル」と自認しない人の中に、リベラルな価値観を持つ人が、相当数存在することが明らかになっています。

逆のことも起きています。自分を「リベラル」と自認する人が、実際にはリベラルな政策を必ずしも支持しているわけではない、という逆説です。
つまり「自称リベラル」と「リベラルな意識を持つ人」の分布は、大きくずれています。

既存のリベラル政党は、旗印に集まってくる「自称リベラル」だけを相手にし、より広い層に潜在するリベラルな意識を掘り起こすことができていません。
これでは支持基盤が狭くなる一方です。

「新しい物語」の不在

もうひとつ、構造的な問題があります。
リベラルが自分たちの旗印として語るべき「新しい物語」を失っているということです。

歴史を振り返れば、リベラルはつねに「新しく台頭する社会層」や「新しい世代」とともにありました。
産業革命期にはブルジョアジーと、20世紀前半には労働者階級と、戦後は第三次産業の従事者や女性の社会進出とともにありました。

リベラルの思想は、時代ごとに新たに勃興した層の要求を吸収しながら、社会変革の担い手として機能してきたのです。

ところが1990年代半ば以降の日本社会は、全般的な低成長、低社会変動の時代に入りました。
新しく台頭する社会層が見えにくくなりました。
IT産業に携わる中間層や新しい世代の人々は育ちつつありますが、かれらは「リベラルの新しい担い手」として可視化されていません。

冷戦の終結とともに、「資本主義対社会主義」というイデオロギー対立の軸も消えました。
その後は「新自由主義対第三の道」という構図になりましたが、両者は互いに重複する理念を多く含み、対立軸は曖昧になっていきました。
リベラルが「私たちはこういう社会を目指す」と力強く語れる言葉を失ったのは、この時期と重なります。

「リベラル」という概念は時代とともに変容してきました。
だとすれば、現代において必要なのは、リベラルの概念そのものを問い直すことです。

問い直しの起点として

以上を整理すると、日本でリベラルが負け続ける理由は三つの層からなっています。

第一に、リベラルが多数派の中間層を政治的に代表する機能を失い、少数派の権利擁護へとシフトしたこと。
第二に、「自称リベラル」と「リベラルな意識を持つ人」の分布がずれており、潜在的なリベラル支持層を掘り起こせていないこと。
第三に、新しい社会層が台頭しにくい低成長時代において、リベラルが語るべき新しい物語を見失っていること。

そしてこれらの問題は、政党の戦略論として解決できるものではありません。
より根本的な問いとして向き合わなければならないのです。
すなわち、「現代においてリベラルとは何か」という問いです。

権威批判・伝統批判・多様性の称揚という、これまでリベラルを特徴づけてきた三点セットは、現代の中間層にはもはや十分には響きません。
ならば現代のリベラルは、どのような価値によって自らを定義すべきなのか。
どのような顔をした人々が、その担い手となりうるのか。

これは政党や政治家だけに向けられた問いではありません。
「自分はリベラルではない」と思っている人も含めて、フェアな社会を望み、次の世代に何かを手渡したいと考えるすべての人に関わる問いです。
その答えを探すことなしに、リベラルの敗北はかたちを変えながら繰り返されるでしょう。

プロフィール

芹沢一也SYNODOS / SYNODOS Future 編集長

言論プラットフォーム SYNODOS の運営・編集を担い、現代社会における言葉の扱われ方を実践の場で扱っている。1968年東京都生まれ。アカデミズムとジャーナリズムのあいだに位置する場としてシノドスを立ち上げ、専門知を社会にひらくことを目的とした活動を続けてきた。

株式会社シノドス代表取締役。政治・社会・科学技術など複雑な問題を、どのような言葉で提示すれば議論が成立するのか、その条件を整えることを編集の役割として位置づけている。特定の思想や立場を前提とせず、論点が共有可能なかたちで提示されることを重視している。

この編集的な視点は、言語教育の分野にも接続されている。シノドス英会話 を主宰し、大人のための英語学習に取り組む。表現の暗記や会話テクニックではなく、日本語と英語における思考プロセスの違いに着目し、「分かっているのに話せない」という状態がどこで生じているのかを整理することを出発点としている。

言論という社会的な実践と、英会話という個人の実践を往復しながら、言葉が社会と個人をどのようにつないでいるのかを、具体的な場面で扱っている。

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