2026.02.27

リベラルとラディカル左派は、何が違うのか?

芹沢一也 SYNODOS / SYNODOS Future 編集長

政治

「リベラル」と「左派」は、同じものでしょうか。

日常の政治的な会話では、この二つはほとんど区別されずに使われています。
「あの人はリベラルだから」と言うとき、それはしばしば「左寄りだから」という意味で使われます。
野党の政治家を指して「リベラル勢力」と呼ぶとき、そこには福祉国家の拡充や弱者支援を訴える社会民主主義者も、原発に反対する市民活動家も、憲法九条の護持を訴える人も、一括りに含まれています。

しかしこの曖昧さこそが、現代のリベラルが自分たちの立ち位置を見失っている原因のひとつかもしれません。
「リベラル」と「ラディカル左派」は、本当に同じものなのか。
この問いを解きほぐすことが、新しいリベラルを考えるための出発点になります。

三つの共通点から始まった混同

そもそもリベラルとラディカル左派が混同されてきたのには、理由があります。
この二つは長い間、三つの重要な価値観を共有してきたからです。

第一は「権威批判」です。
国家権力や組織の上位者が、正当な根拠なく人々を支配することへの抵抗。
第二は「伝統批判」です。
たんに慣習や因習に従うのではなく、理性的に納得できる生活スタイルを求める姿勢。
そして、第三は「画一主義批判」、つまり多様性の称揚。
社会的な同調圧力に抗い、異なるものを受け入れる寛容さです。

この三つは、啓蒙主義と寛容の精神に根ざしたリベラリズムの核心でもあり、同時にラディカル左派の根幹でもありました。
共通の敵——権威主義、伝統主義、画一主義——を前にしたとき、リベラルとラディカル左派は自然と共闘関係を結んできたのです。

「程度の問題」ではすまない違い

では、二つの違いはどこにあるのでしょうか。

簡単に言えば、ラディカル左派はこの三つの否定をより徹底させた立場です。
あらゆる権威を否定し、あらゆる伝統を否定し、あらゆる画一性を否定する。
その徹底ぶりが「ラディカル(根源的)」という名の由来です。

しかし、これは単なる「程度の問題」ではありません。
徹底の度合いが変わると、政治の性格そのものが変わってしまうのです。

ラディカル左派は、代議制民主主義の手続きよりも、直接的な政治表現——デモや街頭運動——を重視する傾向があります。

代議制民主主義は、代表者たちによって、権威的に牛耳られている。
民衆の声は、国会に届いていない。
だから既存の議会政治や選挙制度を、変革すべきだ。
こう考えるわけです。

そして、ラディカル左派は、社会を動かす「前衛」としての少数派の役割を重視し、多数決による意思決定を疑います。

これに対してリベラルは、代議制民主主義の手続きを尊重します。
選挙で選ばれた代表者による議会政治を、変革の手段として積極的に活用しようとします。
地域社会や自治においても、議会の役割を重視します。
市民たちが日常の中で、議会に働きかけることを大切にします。

この違いは、見かけ上は小さくても、実践においては決定的な意味を持ちます。

「健全な権威」という発想の転換

さらに重要な違いがあります。
現代のリベラルは、権威そのものを否定しないという点です。

ラディカル左派にとって、権威への批判は原則的なものです。
国家権力、資本主義的支配、既存の制度的権威——これらはすべて、否定されるべき対象として映ります。
たとえば日米安保は、アメリカという権威への従属であり、原則的に否定されます。

しかし現代のリベラルは、必ずしもそう考えません。
重要なのは、権威の有無ではなく、その権威が「健全」かどうかです。

悪しき権威とは、差別や抑圧を正当化し、民主主義に反するかたちで人々を支配するものです。
それに対して健全な権威とは、民主的な手続きと普遍的な人権の枠内で正統性を持つものです。

この区別は、具体的な問題に対する態度の違いとして現れます。
たとえば、天皇制について、ラディカル左派はこれを、伝統的支配の象徴として否定するかもしれません。

しかし現代のリベラルは、天皇制という枠組みを前提としながら、そこに普遍性や平等性、寛容性や多様性を持ち込もうとします。
女性天皇や女系天皇制を認めることは、その典型的な例です。
天皇制を丸ごと否定するのではなく、内側から「健全化」しようとする発想です。

共闘の時代が終わったとき

長い間、リベラルとラディカル左派は「保守」や「ナショナリズム」という共通の敵を前にして、その違いを曖昧にしてきました。
権威主義に抗い、伝統主義に抗い、画一主義に抗う——その共闘の中では、二つの立場の区別は後景に退いていたのです。

しかし今日、その共闘関係は綻びを見せています。
社会の変容の中で、リベラルは「健全な権威とは何か」について、考えざるを得なくなってきました。
NPOや市民活動は、いまや国家と協力関係を結び、地域の自治は、国の行政と折り合いをつけながら動いています。
完全に権威の外側に立つことは、もはや現実的ではないのです。

こうした状況の中で、ラディカル左派との共闘にとどまり続けることは、現代のリベラルにとって足かせになりかねません。
「あらゆる権威を否定する」という立場と手を結ぶことで、多数派である中間層からの信頼を失い、「現実から遊離した政治」というレッテルを貼られてきた側面があるからです。

区別することの意味

リベラルとラディカル左派を区別することは、左派への裏切りでも、保守への接近でもありません。
それは、現代の社会の中で多数派の中間層に届く政治を構想するための、現実的な作業です。

「健全な権威を認める」「代議制民主主義の手続きを尊重する」「地域の自治と市民活動の担い手となる」——これらはラディカル左派とリベラルを分かつ境界線であると同時に、リベラルが多数派の中間層と接点を持つための条件でもあります。

ではそのリベラルは、具体的にどのような顔をしているのでしょうか。

「健全な権威を認める」と言うのは簡単ですが、その健全性の基準はどこにあるのか。
じつはこの問いに、現代のリベラルの多くは確固たる答えを持てていません。
つねに揺れ動き、その都度判断しています。

リベラルな正義をめぐる哲学は、正当な権威がいかにして存立しうるかについて、現在も論争を続けています。
健全な権威といっても、そこには幅があります。
その「幅」と「あいまいさ」こそが、現代のリベラルの正直な姿かもしれません。
しかしだからこそ、その輪郭を少しずつ描き出していくことに意味があるのです。

プロフィール

芹沢一也SYNODOS / SYNODOS Future 編集長

言論プラットフォーム SYNODOS の運営・編集を担い、現代社会における言葉の扱われ方を実践の場で扱っている。1968年東京都生まれ。アカデミズムとジャーナリズムのあいだに位置する場としてシノドスを立ち上げ、専門知を社会にひらくことを目的とした活動を続けてきた。

株式会社シノドス代表取締役。政治・社会・科学技術など複雑な問題を、どのような言葉で提示すれば議論が成立するのか、その条件を整えることを編集の役割として位置づけている。特定の思想や立場を前提とせず、論点が共有可能なかたちで提示されることを重視している。

この編集的な視点は、言語教育の分野にも接続されている。シノドス英会話 を主宰し、大人のための英語学習に取り組む。表現の暗記や会話テクニックではなく、日本語と英語における思考プロセスの違いに着目し、「分かっているのに話せない」という状態がどこで生じているのかを整理することを出発点としている。

言論という社会的な実践と、英会話という個人の実践を往復しながら、言葉が社会と個人をどのようにつないでいるのかを、具体的な場面で扱っている。

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