2014.07.03

日本の首相は本当に弱いのか?

高安健将 比較政治学・政治過程論

政治 #首相#政党政治

「暴走」可能な日本の首相

安倍首相の「暴走」が止まらない。

昨年末の特定秘密保護法、そして今年に入ってからの集団的自衛権に関する憲法解釈変更の方向性は、いずれも日本の国としてのあり方を変えうる重大な問題である。前者は国内における自由への脅威となり、後者はそれとともに戦争のリスクを著しく高めることになる。何より、いずれも政府の活動に対する制約を決定的に外す内容である。だが、安倍政権は、緊急性を強調するわりには、なぜ、いまこれらの政策が必要なのかを説明することはしない。

さらに安倍政権は、原発の再稼働やその輸出を成長戦略の一貫として位置づけるが、2011年の福島第一原発の危機的事故を経て詳らかとなった原発事業の困難を本質的に再考し、あるいは反省したうえで政策運営を行っているようには見受けられない。

現政権は、労働のあり方についても、派遣の一層の規制緩和と労働時間規制の緩和(いわゆる残業代0法案)を成長戦略の一貫として推進する姿勢を示している。しかしここでも、雇用の不安定化が国内社会を疲弊させている現実を置き去りにして、特定の人びとに刹那的に望まれる政策を執拗に推進しようとしている。

安倍首相と彼の率いる政権は、問題の本質についての充分な説明と説得そして社会にある不安への配慮なしに、自らのアジェンダに邁進している。確かに安倍政権の支持率は時事通信の5月の世論調査でも51.1パーセントと相対的に高い数字を維持しているが、首相の説明には政権運営に民意を伴おうとする姿勢は感じられない。こうしてみると、日本政治は、民意を置き去りにし自らのアジェンダに人びとを引きずり込んでゆく圧倒的に「強い首相」をもつに至ったようにみえる。

1980年代末から始まった日本の政治改革運動は、有権者が政策に基づいて選挙で政権を担当する政党を選び、政治指導者は次回選挙に対する緊張感から有権者を意識した政権運営を行うことを期待した。だが、今日、眼前に広がる日本政治の現実は、人びとに自らが選挙で選んだ政権に対する黙従と諦め、さらにはそのような政治指導者を選んだ自己責任の認識を求めているかのようである。

マニフェスト選挙は、民主党政権時代を経て、強い批判に晒されたが、近年の選挙は、政治改革運動が期待した責任政治の理想とは裏腹に、その目的が指導者選出に限定されるという、ジョゼフ・シュンペーターの議論をカリカチュアライズしたかのような、指導者デモクラシーを具現する手続きとなる危険にさらされている。

日本の「弱い首相」?

ところで、日本の首相はかつては弱く、受け身であるとみられてきたのではなかったか。

たとえば日本の内閣制度の専門家である明治大学の笠京子は「日本型議院内閣制の最大の特徴は、内閣(執政部)の弱さにある」[*1]と論じていたのであり、日本の首相職に関する代表的な研究書である『日本の首相と公共政策(The Japanese Prime Minister and Public Policy)』の著者K.ハヤオも、

「したがって首相は政策過程のなかで特に積極的な役割をはたすわけではない。首相は一時に少数の問題に関与するのみで、政策変化を促したり、その内容を決定するうえで主要なアクターではない。日本の首相は、他の国の政府の長と比較すると、相対的に脆弱で受動的であるようにみえる」

との評価を示していた[*2]。

[*1] 笠京子(2006年)「日本官僚制-日本型からウェストミンスター型へ」村松岐夫・久米郁男編『日本政治変動の30年-政治家・閣僚・団体調査に見る構造変容』東洋経済新報社。

[*2] Hayao, Kenji (1993), The Japanese Prime Minister and Public Policy (Pittsburgh: University of Pittsburgh Press), p. 201.

有力官僚OBにも、首相の権限がそもそも限定的なのだと主張する人びとがいた。たとえば、後藤田正晴である。後藤田は、警察庁長官から事務方トップの内閣官房副長官に就任して官僚としての頂きにたったのち政界に転じ、自治相や内閣官房長官、副総理兼法相を歴任した政官界のスーパースターである。その後藤田は著書『政と官』のなかで次のように述べる。

「[ところが、]内閣の最高責任者である総理大臣は、各省庁を指揮することはできない。その権限が及ぶのは、各省大臣どまりである。大臣を飛び越えて局長を呼びつける権限は持たない。/各省大臣に対しても、閣議で決定した事項に関してのみ指揮監督できるのであって、それ以外の、たとえば人事について指揮監督する権限は持たない。」[*3]

[*3] 後藤田正晴(1994年)『政と官』講談社。

あるいはその後藤田の4代あとの事務方の内閣官房副長官を務めた翁久次郎も「従って仮に各省庁の大臣が総理大臣の指示命令に従わない場合にはその大臣に辞任を求めるか、自らの指示命令を撤回するしかないであろう」と主張していた[*4]。

[*4] 翁久次郎(1987年)「内閣官房の総合調整機能について」日本行政学会編『内閣制度の研究』ぎょうせい。

彼らの見解に従えば、日本の首相の指導力は、政府内の各省庁[*5]には及ばないのであり、閣僚に対しても指揮監督に従わない場合には辞任を求めない限り、どうにもならないのであり、権限上きわめて脆弱な存在であるということになる[*6]。

[*5] 省庁というこの場合の庁は、各省の外局としての庁である。国務大臣が長を務める庁を大臣庁と称したが、環境庁や防衛庁、経済企画庁、国土庁、北海道開発庁、沖縄開発庁、総務庁といった大臣庁は総理府内に設置されていた。内閣法に言う「主任の大臣」は総理府の場合には首相であったことから、首相は大臣庁を掌握する権限をもっていた。

[*6] 次節も含め、首相の職務権限に関する議論については、高安健将(2009年)『首相の権力―日英比較からみる政権党とのダイナミズム』創文社。Takayasu, Kensuke (2005), ‘Prime Ministerial Power in Japan: A Re-examination’, Japan Forum, Vol.17, No.2.

「強い首相」を想定する日本国憲法

だが、上記のハヤオやアメリカにおける日本政治研究の大家であるB.リチャードソンも指摘するように、日本の首相は、他の国の首相と比較しても、実際には多くの公的な権力資源をそもそもは有している。

重要なところを紹介すると、日本の首相は行政権を担う内閣の構成員である閣僚を任意に任命しかつ罷免できる(憲法65条、68条)。さらに憲法72条により、「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する」こととされている。憲法74条には、「法律及び政令には、……内閣総理大臣が連署することを必要とする」とあり、主任の国務大臣あるいは各省が法律や政令を成立させるうえで首相の同意は不可欠であると明記されている。戦後の日本国憲法は明らかに「強い首相」を想定している。

ただし、これを受けて、内閣法では、

第5条   内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告する。

第6条   内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する。

第7条   主任の大臣の間における権限についての疑義は、内閣総理大臣が、閣議にかけて、これを裁定する。

第8条  内閣総理大臣は、行政各部の処分又は命令を中止せしめ、内閣の処置を待つことができる。

と定められている。問題となったのは、首相の法的権限が内閣を通じて行使されると内閣法が前提しているということであった。これは憲法72条にある「内閣を代表して」という文言や、同73条に示される内閣の「事務」内容[*7]から導き出された前提と言える。

[*7] その内容として挙げられているのは以下の7項目である。

1  法律を誠実に執行し、国務を総理すること。

2  外交関係を処理すること。

3  条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。

4  法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。

5  予算を作成して国会に提出すること。

6  この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。

7  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。

はたして、この内閣による首相への「しばり」は、どの程度の拘束力をもつと捉えられるのであろうか。もし首相が、閣議決定によって決められた内閣の方針を少しもはみ出すことができず、これを解釈する余地ももたないとすれば、首相は内閣の使い走りであり、独自の判断で行動することはできない。この場合、憲法と内閣法は、「弱い首相」予定していたと言わざるを得ない。

しかし、執政権力の最高位に位置し内閣の首長である首相が閣議決定に対して、独自の判断で行動する権限をもたないと考えることはいかにも不自然である。閣議決定にはある程度の抽象度があり、首相が大臣のみならず行政各部すなわち各省を指揮監督することができると捉えるほうが自然であろう。

閣僚に対する人事権についても、憲法・行政法の専門家として名高い佐藤功はこれを「抜けない刀」ではなく、「内閣における内閣総理大臣の強力な統制権を担保するためのもの」と位置づけている。首相は内閣に拘束もされるが、同時にその内閣を「指導・統制する強力な地位と権限」を与えられているというのである[*8]。

[*8] 佐藤功(1979年)『行政組織法[新版]』有斐閣。

1980年代以降の「弱い首相」論には、田中角栄元首相の逮捕に至るロッキード事件があったように思われる。田中に近い政治家や論者は、首相の権限を狭く捉えようとしたのであり、結果的に田中を免責する議論を展開することになった。これに対し、最高裁は、ロッキード事件(丸紅ルート)の判決のなかで、次にように明確に述べている。

「……閣議にかけて決定した方針が存在しない場合においても、内閣総理大臣の右のような地位及び権限に照らすと、流動的で多様な行政需要に遅滞なく対応するため、内閣総理大臣は、少なくとも、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部に対し、随時、その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有するものと解するのが相当である。」(最高裁判所大法廷判決平成7・2・22刑集49巻2号1頁)

最高裁は、首相の職務権限が閣議決定の文言に厳格に制約されるわけではなく、行政各部に対しては随時その所掌事務について指導、助言などの指示を与える権限をもっていることを確認していたのである。

日本国憲法はだてに66条1項で首相を内閣の「首長」と明記しているわけではない。1998年の橋本政権下の行政改革は、内閣法の改正、内閣府と特に経済財政諮問会議の新設、内閣官房の強化、首相補佐官制度の整備・拡充を行い、首相官邸の強化を図った。だが、本節の議論からも、政府内における日本の首相が、橋本行革以前からすでに制度的には強力な存在であったことが理解できよう。

「強い首相」はなぜ弱くなったか?

それではなぜ憲法上「強い首相」は「弱い」という評価を得ることになったのか。先の議論にしたがえば、首相は、政府内政策決定では大臣や官僚たちを指揮監督する権限をもっている。むしろ、首相の指導力を制約したのは、首相を議会の側から支える政権党すなわち自民党であった。

自民党は、1955年の結党以来今日に至るまで、1993年から1994年までの8ヶ月と2009年から2012年までの3年4ヶ月を除く期間、連立を含め政権を担当してきた政党である。日本政治とはすなわち自民党政治とさえ言われるほどである。その自民党は党内では、派閥のほかにも、事前審査制を担ってきた政調会と総務会さらには族議員といった政策決定に関与する機関とアクターを特徴的に抱えていた。

結党当初の自民党の派閥は、誰が構成員なのかについてさえはっきりとしないような緩い構成であった。当然、組織としてまとまって行動することも困難であった。派閥は総裁選をひとつの柱として結成されてはいたが、その総裁選に際しても、自民党議員たちは複数の総裁候補者から資金を得ていたとも言われる。2人の候補者から資金を受け取るニッカ、3人から受け取るサントリー、全ての候補者から受け取るオールドパーといった言葉も生まれたほどである。

しかし、その後、派閥は内部のまとまりを強め、たとえば田中角栄を中心に結成された田中派は「軍団」と称されるほどに強固な組織へとなってゆく。

他方、自民党による政府の法案などに関する事前審査制は、1960年代末から1970年代前半に本格化し、1970年代の終わり頃には多くの政策領域に行き渡って行われるようになっていた。これに合わせて、特定の政策に関する知識と利益をもつ族議員も台頭することになる。族議員たちは事前審査制を通して関係部門の官僚たちと連携し、政策運営を主導した。日本政治にみられた官僚の強さの背景には、族議員など自民党との連携があったとみるべきであろう。

重要であったのは、派閥と事前審査制が連動して自民党内の権力構造を作っていたことである。特に1980年代以降、派閥は総裁選を重視するのと同様に、議員の利権を擁護することを重視する組織へと変質する。派閥にとって事前審査制を通して構成員の利益が守られることは死活的であった。事前審査制は、派閥内部と派閥間の調整能力を抜きにしては成立しえなかった。

派閥は総裁選で自派の候補者が敗北したとしても、もはや反主流派になることは望まず、政権運営において首相に協力する姿勢を示すようになっていた。派閥は、首相の政権運営に協力する一方で、公共事業や農業、医療、中小企業対策などの個々の政策領域に関しては族議員と関係省庁が主導することを望み、首相や大臣らに介入されることを嫌った。首相や大臣たちも自らの地位を維持するためには、派閥の協力を必要としたのであり、それゆえに、族議員や自民党内のアクターの意向を尊重しなければならなかった。

首相は、党への配慮から、強い指導力を発揮しないことを選択するようになり、中曾根康弘や竹下登の両首相のように、政策運営をリードしようとする場合には党内対策に関する周到な用意を必要とした。また、過度なまでに強い政権党となった自民党は、鈴木善幸や海部俊樹の両首相のように、指導力を発揮できない指導者を首相に就かせてもきたのである。

政党政治の変化がもたらした首相職の強化

であるとすれば、長い自民党政権下で弱く受動的な指導者となった首相はいかにしても今日の強過ぎる首相となったのであろうか。

端的に言えば、これまで首相を抑制してきたメカニズムが崩れたところにその原因はある。先に検討したように、日本国憲法は首相を強い存在として想定していた。抑制のメカニズムがなければ、政策決定における首相はきわめて強力となることが予想できる。問題は、首相を抑制してきたメカニズムが何であったかということである。

このメカニズムには2種類ある。ひとつが政党間関係であり、もうひとつが先にも論じた政権党内関係である。1955年から1993年までの間、自民党は他の政党を圧倒する政党として政権を事実上単独で担当してきた。ただ、この時代にも、たとえば衆議院の選挙制度に対する小選挙制の導入の試み、安全保障政策、教育政策などに関連して、自民党が論争的な政策を提起した場合には、社会党や共産党は強く反対を表明してきたのであり、中道ないし中道左派の公明党と民社党も世論の追い風があれば、政権党である自民党に対して強い疑義を呈してきた。社会保障政策や環境政策ではむしろ革新自治体が自民党政権の政策運営を先導した。

自民党は国会でいかに過半数を有しようとも、野党から強い反対が出たり、有権者に支持される政策を地方自治体が主導した場合には、自民党執行部はこれに配慮せざるをえなかった。

ではなぜ自民党は野党に配慮しなければならなかったのであろうか。自民党は、過半数をもっていれば、野党の抵抗にあおうとも、政策を押し通すこともできたはずである。議論の正当性や説得力も当然にあろう。だが、自民党が野党に配慮しなければならなかったのは、根本的には、党内で野党に同調し、あるいはこれを機に首相や執行部への批判を展開しようとする勢力が自民党内に存在したからである。これが首相を抑制してきた第二のメカニズムである政権党内関係である。

議院内閣制とは、議会が首相と内閣を選任し罷免できるシステムである。その議会のなかで首相と内閣を支持するのが政権党である。首相と内閣は政権党の支持があるかぎり、議会のなかでの地位は安泰である。だが、首相と内閣がひとたび政権党の一部であっても支持を失い、野党勢力と合わせて過半数に達することがあれば、その地位は一瞬にして失われることになる。政権党内で首相に批判的な勢力がまとまることができれば、首相にとっては重大な脅威となる。自民党内で派閥などにより議員たちのまとまりがあった時代には政権党内関係から首相は制約を受けてきたのである。

問題は1994年の政治改革以降の政党政治の展開であった。自民党内の派閥政治は、その不透明性や政治腐敗との関連、権力の公式の担い手と非公式の担い手との間の乖離といった観点から、強い批判にさらされてきた。その結果、自民党内での疑似政権交代ではなく、実際に異なる政党間での政権交代が志向されるようになる。自民党内にあって派閥は、規範的な観点からも、権力的な観点からも、政治改革以降、徐々に力を失っていった。

ところが、派閥の代わりとなるはずであった政党間競争による首相へのコントロールは、充分に発達することはなかった。2000年代には、第2党としての民主党が着実に成長して、2007年参院選では参議院で自民党を凌駕し、2009年にはついに政権交代を実現した。かりに民主党中心の政権と自民党中心の政権が、連立政権であれ単独政権であれ、交代で出現する可能性が持続していたならば、2014年の日本政治は全く異なった様相を呈していたに違いない。

だが、現実には、民主党は政権の瓦解と自らの分裂によりその勢力を著しく縮小させ、掲げていた理念については、迷宮に迷い込んだごとく、はっきりとした方向性を示すことができなくなってしまった。民主党に代わって台頭してきた諸政党は、みんなの党であれ、日本維新の会であれ、結いの党であれ、自民党との差異化が現状では難しく、その補完勢力とさえなりうる状況にある。実際、これらの政党のなかには自民党の補完勢力になることを望む政党もあるようである。

公明党は社会のなかの支持基盤の固さから新しい諸政党と比較して依然として優位にあることは間違いないが、自民党は連立パートナーを選択できる立場にあり、公明党としては唯一無二の自民党のパートナーという立場を失っている。

有力な野党による政権交代の危険がいまのところは現実的ではなく、政権の政策に対しても決定的な批判が他党から出てこない。安倍首相からすれば、政党間競争からも自民党からも制約の少ない、きわめて自由度の高い状況となっている。

「強い首相」は有害か?

1990年代以降の日本政治は強い指導力を求め、これを首相に期待した。強い首相は時代の変化に対応し、日本をよりよい姿に近づける道標となり、これを動かす動力源となるはずであった。政治改革運動は、政党間競争の緊張のなかで、政党とその指導者たちがまとまりをもって人びとの願いを集約し政策として展開することを期待した。

しかし、政党間と政権党内の競争が作り出す緊張が失われるなかで、首相は人びととの接続よりも、ルサンチマンと思い込みの個人的世界に日本政治を迷い込ませようとしている。適切な制約に由来する緊張感にさらされない「強い首相」は人びととのつながりも失い、益よりも害をもたらす危機を招来しかねない。

サムネイル「President George W. Bush: lunch with the Prime Minister Shinzo Abe of Japan. They address the media after the lunch at the Sheraton Hanoi in Vietnam」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Shinzo_Abe_2006-Nov-18.jpg

プロフィール

高安健将比較政治学・政治過程論

成蹊大学法学部教授。1994年、早稲田大学政治経済学部卒業、1996年、同大学院政治学研究科修士課程修了。1997年よりロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)政治学部博士課程で学び、2003年、ロンドン大学博士号(PhD in Government)取得。北海道大学大学院法学研究科講師、成蹊大学法学部助教授などを経て、2010年から現職。著書に『日本政治を比較する』(早稲田大学出版部/2005年/共著)、『首相の権力―日英比較からみる政権党とのダイナミズム』(創文社/2009年)、『EU/西欧』(ミネルヴァ書房/2012年/共著)など。

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