2014.09.03
医療観察法という社会防衛体制
忘れられた病棟がある。
この病棟には、たとえばこんな人々が強制的に送られてくる。精神の疾患が悪化して行動のコントロールが難しいまま傷害致死などの事件におよび、不起訴や無罪になった人たち。そう、忘れられた病棟とは、刑事責任能力が問われない触法精神障害者が送られる特別病棟のことだ。国内30カ所の公立病院のなかに整備され、病床数は800床ほどだ。34万床といわれる特異な日本の精神病院事情にあって、その数だけを見れば小さい。
専用病棟の存在は、「心神喪失等の状態で重大な他害行為を起こした者の医療と観察に関する法律」、略して「医療観察法」と呼ばれる法が土台となっている。入院期限に上限はない。患者の平均在院日数は長期化し、2年半になろうとしている。退院後も、法務省の保護観察所の監督下で、原則3年、最長5年間の通院義務が科せられる。従来の措置入院制度に加え、治療の継続と収容が強化された。
この社会を犯罪から防衛しようとする国の体制のもとで自由を制限され、障害者としての権利さえろくに保障されていない人々がいる。この度、筆者はこうした問題に関する2年間の取材をまとめた『ルポ刑期なき収容~医療観察法という社会防衛体制』(現代書館)を上梓した。施行から丸9年を迎えた今、しばし立ち止って医療観察法について考えてみたい。
おおいなる誤解
医療観察法成立の引き金になったのは2001年、児童8人が犠牲になった大阪教育大附属池田小学校の無差別殺人事件である。たいていの人はこう思うだろう。「処刑された宅間守死刑囚のような通り魔を入れる病棟ですか?」と。しかし、それは誤解である。医療観察法は、その名の通り「医療」の提供をひとつの大義名分にしている。つまりこの法律は、宅間のように、薬物療法に容易には反応しない反社会性人格障害などと診断された人は、原則、対象にしていない。
実際に法の網にかかってしまうのは、多くが初犯の統合失調症患者であり、こうした人たちの再犯率はもともと低いという研究データもある。猟奇的な事件を起こした人が入る病棟ではなく、被害者は同居する親族であるケースが相当な割合を占める。国のデータによると、こうした不幸な事件に至るまで、地域の福祉とはあまり縁のなかった当事者は決して少なくない。
先日、「医療観察法について、いちど話を聞いてみたい」という要望を受け、精神科ソーシャルワーカーの団体と語り合う機会を得た。小さな県になると、法に基づく強制入院は年間2、3件あるかないかの程度だ。それこそ忘れたころに、退院してくる人をどのようにグループホームなどでケアするか、話が持ち上がる。「医療観察法って何だったっけ」というふうに。医療観察法は福祉の現場ですらもなじみの薄い制度なのである。
あいまいな収容
取材を続けるうちに、いろいろな疑問が浮かんできた。
国が好んで使うスローガンに「司法と医療の連携」という言葉がある。字面だけを見ると何となく聞こえのよい言葉に感じるかもしれない。
実際には、治療を選択する自由が認められない。また、地域に福祉資源が乏しいばかりに重装備の病棟に収容され、長期にわたってそこで寝起きしている人々がいる。刑事事件のように再審を請求することもできない。その上、患者を強制的に入院させる根拠になっている精神鑑定の結果が、まちがっていたと後に判明しても、すぐには釈放されない。病状の診断や責任能力に疑いがあっても、審判が一からやり直されることはない。
制度の入り口に当たる鑑定入院中に、きちんとした治療を受けられず、病状が悪化したと訴える人もいる。事件(容疑)直後の捜査段階において、福祉のプロによる支援があればまだしも、そういう仕組みにはなっていない。
矛盾点をあげればきりがない。先に述べたように、治療に容易には反応しない人格障害の人はもとより、発達障害、知的障害などの人は原則、医療観察法の強制治療の対象にはならない。ところが実際には、こうした障害が主診断の人たちが各地の病棟で起居しているのだ。あいまいな根拠で人を収容している事例はいくつもある。ある専用病棟の会議録によると、統合失調症と発達障害などの双方の症状があらわれるような「併存診断」が認められる患者は半数に上る。
源流
附属池田小事件が医療観察法成立の引き金となったと先に述べたが、医療観察法の源流は、1970年代に練られた刑法の改正草案であるとみる人もいる。もっとさかのぼり、大正時代において、保安処分的な病棟を画策する動きがあったと言及する研究者もいる。刑事責任が問われない触法精神障害者を特別に隔離する志向は、ずっと以前からあったのだ。なぜ、いま医療観察法なのか。国民の体感治安が極度に悪化したと言われる附属池田小事件を奇貨として、主流に躍り出ようとした一群があるのだろうか。
政府の医療観察法案は当初、科学的に不可能とされる再犯を予測し、人間を拘束することが可能になる条文があった。精神科医の学会や野党などから猛反発を受けて、いったんは引き下げた。修正案は、それまで濃厚であった保安処分的な色あいを薄め、表看板として「医療と社会復帰」を掲げている。それでもその根底には、やはり再犯の予測を志向するものがあった。そして2003年の国会で医療観察法が成立した。自民、公明、保守が賛成し、民主、共産、社民が反対した。強硬採決だったといわれる。
精神障害者の容疑について考える
法案が審議されていた当時、その中身について日弁連は強く抗議していたし、らい予防法を引き合いに出して猛烈に反発した識者もいたほどだった。しかしいまとなっては、囚われの対象者の人権を擁護する弁護士(国選の付添人など)にとっても、医療観察法はなじみの薄い世界になってきたようだ。「付添人の弁護士はもっと医療観察法の研修をするように」――。ある裁判官が苦言を呈したそうだ。
それを思うと、法が施行されたことの重み、そして時の流れを感じさせる。精神の症状が重い人を弁護することは、通常の刑事事件とは異なり、特別なスキルが求められると言われる。殺人といっても、殺意を否認する人、放火の容疑といっても、「自殺をしようとしたので他害行為のつもりはなかった」と話す人。暴力事件ではなく、正当防衛だった疑いが残るケースもある。法律名には「重大な他害行為」とあるが、殺人や強盗、放火などの5罪は未遂でも対象になる。そうなると、かけられている容疑が本当かどうかよくわからない。
私が面談した対象者のなかには、放火の容疑をかけられて医療観察法の手続きに乗ったものの、失火か放火か、なかなか判然としなかった。また傷害の容疑で専用病棟にしょっぴかれていった発達障害の青年の母親は「健常者なら、示談で済む程度のけが。早く病棟から出してください」と嘆いていた。
こんな一幕もある。他害行為の容疑で医療観察法の手続きに乗せられたある精神障害者は、「入院したくない」と主張していた。ところが親の方は、問題を起こしたわが子を入院させることを希望していた。すると付添人の弁護士は、親の味方になって、強制入院の処遇になるよう動いていたという。処遇決定の審判を担当した医師が事態を問題視し、厚労省が行った同法のヒアリングの場で言及していた。
国内初の司法精神医療
うちの子どもを入院させたい――。親たちが望んだ医療観察法の専用病棟とはどんなところか(注、少年の適用はまだない)。驚くなかれ。入院患者一人当たりに年間2200万円の公費を投じた公立の病棟である。病床数の割に公費は巨額だ。厚労省は「手厚い医療」と自負してはばからない。患者が起居する全室は個室のつくり。新薬クロザピンや電気けいれん療法などを駆使して、徹底的な治療が試みられている。患者の金銭的な負担はない。
33床のとある病棟を例にとると、医師4人、看護師43人、精神科ソーシャルワーカー3人、心理の技術者と作業療法士がそれぞれ2人づつ、それに事務方が3人といった陣容だ。一般の精神科病棟の3倍の人員といわれる。国家の威信をかけ、国内史上初の〈司法精神医療〉が繰り広げられている。
関係者は、医療観察法の専門病棟は医師と看護師らが対等に仕事ができる「水平医療」だ、と胸を張る。……それほど素晴らしい世界でありながら、医療観察法の処遇中になぜ37人もの自殺者が出たのだろうか。
この数字を国は公表していない。情報公開請求をする過程でつかむことができた。とくに通院処遇中の自殺が29人と多い。ある医師による分析では、「手厚い入院環境から一転、通院に移行した際のギャップが背景にあるのでは」と見ている。
内省プログラム
取材中、印象に残ったのは、入院処遇中に自殺した元自衛官の人生である。元自衛官は、佐賀県内にある医療観察法の病棟に入院していた。自衛隊で繰り返しいじめを受けていたことが精神疾患を悪化させたといわれる。彼は妄想に支配されて通行人を果物ナイフで刺してしまい、ここに送られてきたわけだ。元自衛官は、病院で行われている外出訓練中に逃走し、はるばる神奈川県に向かい、勤務していた海上自衛隊基地の近くで命を絶っている。
ことに外出訓練中の事態だったことに注目したいと思う。付き添った職員に落ち度があったという意味ではない。制度の本質的なことに絡む話だ。元自衛官のように外出が許される患者というのは、精神疾患がある程度、改善に向かっていると診断されたと思われる。しかし本当に改善に向かっているのなら、なぜ悲劇的な結末に至るのか、釈然としない。
医療観察法病棟の入院患者は、急性期の治療がおわると、「回復期」と呼ばれるユニットに移行する。ここではじめて、看護師2人が付き添う外出が許される。元自衛官もそうだった。ただし一定の収容日数を経れば自動的にそのユニットに上がれるのではなく、患者が自分の病識をもつようにならなければいけない。病識をもてず、急性期の病棟にいつまでも滞留してしまう人が多い。このことは、医療観察法病棟の入院が長期化する一因になっている。
「回復期」においては、内省プログラムと呼ばれる心理療法がはじまる。元自衛官は、職場でいじめを受け続け、それがもとで精神の症状が悪化し、事件におよんだ可能性がある。どんな反省の言葉を口にしたのだろうか。内省を深める態度を示し、「回復期」の処遇を終えた患者たちは、次に「社会復帰期」と呼ばれるユニットへ移行する。そこでは外泊も許可される。いよいよ退院まぎわという人々が手に入れる切符で、釈前房といったところか。元自衛官とて、早く退院したかったであろう。「いい患者を懸命に演じていたはずだ」と同法にくわしい精神科医はみている。
社会を映すもの
医療観察法の施行後、およそ3000人が検察官の申し立てを受け、約2000人に対し、入院命令が言い渡されている。国にしてみれば「実績」となるが、一人ひとりには容疑に至るまでの長い道のりがあって、そう簡単に割り切れるものではない。
不適正に大量に投与された精神病薬が暴力の引き金であると疑われるケース、親が口うるさく入院をすすめ、抵抗して殴ってしまったケース、幼年時代の劣悪な生育環境との深い因果関係など、容疑の背景にあるものを丁寧に検証すれば、社会を映す鏡となる。入院させてしまえば済むという話ではないのだ。
疑いだけで人間を拘束する保安処分というものは、「社会の矛盾を個人にしわ寄せする考え方である」と、精神医療史を研究する岡田靖雄医師は40年前に著書で警告していた。小泉首相の強力なリーダーシップによりつくられたこの制度は、厄介な者たちを一手に集めて効率よく収容することを狙い、新保守主義のにおいがしてくる。法案の段階では、きびしい反対意見も出ていたが、もはや野党の政治家にもすっかり忘れられている。
ところ変われば
東京、大阪など各地で取材した。西日本では、ある患者会と出会い、患者同士の連帯に圧倒された。彼らの仲間の一人が放火の容疑で医療観察法の申し立てを受けてしまう。遠い病棟に連れていかれること案じた面々は、裁判官に手紙を書く。その人の一生を自分たちが支えていくことを誓い、主治医のもとで治療を継続させてほしいと懇願する。
まちの暮らしに国家権力の影がしのび寄って来たとき、市民が発する肉声とはこういうものかと思い知らされた。こむずかしい理屈で勝負するのではなく、全身からわき起こる健全な市民感覚が拠り所になっている。処遇を決める審判の結末はどうなるのか(図書館か書店の立ち読みなどで)拙著の第16話をご笑覧頂きたい。
原稿がどうにかこうにか形を成してきた昨秋に、精神保健指定医が4年に1度受ける研修会が大阪で開かれた。そのひとこまに医療観察法の講義があり、同法の専用病棟がある国立病院の院長が教壇に立った。「新しい協働制度である」と解説したそうだ。「司法と医療のコラボレーション」というわけだ。これには閉口する。
協働というのは、まちづくりの理念として使われているものだ。「公開と参加」の実践なくしてありえない。そしてこれこそが、医療観察法に一番欠けているものだ。取材中、病棟間における「知る権利」の格差が甚大であるということに気がついた。とくに国立の病棟は必要以上に黒塗りの箇所が多く、上に立つ国立病院機構の本部が情報公開制度の運用をずさんに行っていたこともあった。
厚労省によると、どの入院病棟にも外部評価会議があり、透明性を確保していると言う。ほぼ全病棟の会議録を開示請求してみたが、どこもゆるい評価だった。病棟によっては、医療観察法の応援団的な茶話会ではないのかと感じたことさえある。識者に外部評価の任に当たらせようというのなら、事務方ともども事前に争点を整理し、自由な論議を国民に広く示し、国会議員が法改正や法廃止などを検討する際の参考になるよう努めてほしいと思う。
忘れられた病棟の話をした。日本では新しい制度だが、こうした司法精神医療そのものの廃止に動くイタリアのような国もある。フランコ・バザーリアが提唱した「自由こそ治療」の合言葉のもと、法令に基づき、精神病院を全廃した国である。
昨年12月、バザーリアの弟子筋に当たる精神科医、ジョゼッペ・デッラックア氏が来日し、私も講演会場に足を運んだ。「犯罪と精神病は根拠のない連想である。一カ所にあつめ危険視してはならない」と氏は言った。おひざもとのトリエステなどでは、法に触れる行為をした精神障害者はみな裁判を受け、実刑となった人は刑務所で温かくケアされ、または保護観察のように自宅で治療を受けつつ、罰の過程を終えることもできるそうだ。「心神喪失=無罪」の日本の刑法39条は啓蒙主義の所産ともいわれるが、現実には、誰も知らない重装備の病棟で刑期なき収容が行われている。苦々しく聴き入った。
サムネイル「Low fog on Mission Peak」Aaron Zhong
プロフィール
浅野詠子
1959年神奈川県生まれ。青山学院大学経営学部卒。奈良新聞記者を経て2008年からフリー。著書に『奈良の平日 誰も知らない深いまち』(講談社)、『土地開発公社が自治体を侵食する』(自治体研究社)など。戦争をさせない奈良1000人委員会・呼びかけ人。