2012.09.06
リスクと無駄とコスト
8月が終わった。この夏心配された電力不足問題については、少なくともこれまでのところ、懸念されたような深刻なトラブルは発生していない。今もまだ残暑は厳しいので安心はできないが、突発的な大停電や、それを避けるための計画停電のような事態に陥るおそれは次第に低くなってきているといってもいいだろう。4月にこのシノドスジャーナルで、「この夏猛暑にならないように祈ろう」といったようなことを書いたが、祈りが通じたかどうかは別として、起きてほしくないと願った事態が発生しなかったことはたいへん喜ばしい。「この夏を乗り切るために私たちがすべき10のこと」
もちろんこれは、企業や家庭など各所における節電努力があってのことだ。特に、余力が厳しいとされていた関西電力管内では、「家庭用が約11%、オフィスビル、商業施設などの業務用が約11%、工場などの産業用が約12%と、いずれも目標の10%を上回った」という。これまでなかなか難しいとされていた家庭における節電が、業務用とほぼ同等の水準にまで達したことは、人々の意識が高まったという意味で特筆に値しよう。
「関電、計画停電回避へ 夏の節電10%減を達成」(日本経済新聞2012年8月23日)
http://www.nikkei.com/article/DGXDASDF23009_T20C12A8MM0000/
関西電力は23日、今夏(7月2日~8月17日)の昼間ピークの電力需要が、猛暑だった2010年夏に比べて約11%(約310万キロワット)減少したと発表した。家庭を中心に節電が浸透、関電管内の今夏の節電目標である「10%以上」を達成しており、需給逼迫を想定して実施準備を進めてきた計画停電は回避できる見通しだ。
とはいえ同時に、企業セクターにおける節電努力が昨年に引き続き行われ、同時に電力会社による安定供給に向けた努力が功を奏したという部分があることも忘れてはならない。もちろんその中には、関西電力における大飯原子力発電所3、4号機の再稼働が、電力需給の安定化に貢献した部分も含まれる。
一部には、電力は足りたではないか、不足するといっていたのはウソだったのだ、といった主張もあるようだが、これは結果論にすぎない。確かに、電力需要のピーク時とされる8月を通じて、各電力会社の電力供給力は少なくとも数%、典型的には10%以上の余力を残していた。しかしこれは、気温の推移にせよ、火力その他の発電所の稼働状況にせよ、事態が悪くない方向に推移したというだけの話であって、そうでない状況に陥るおそれはあった。
「今夏の節電目標、ほぼ達成 中・西日本の6電力管内」(朝日新聞2012年9月5日)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012071890094758.html
関西電力など中・西日本の6電力管内で、この夏の節電目標がほぼ達成されたことが4日、わかった。節電が進んだため、関電大飯原発(福井県おおい町)を再稼働しなくても中・西日本全体では電力に余裕があり、今夏の再稼働が必要だったかが改めて問われる。
大飯原発の再稼働に際しては、そうしないと電力不足に陥るおそれがあるという理由が挙げられた。だから、「実は電力は足りていた」との主張が出るのは、そう言えば原発再稼働の正当性を失わせることができると考えてのことだろう。しかし、そもそも私たちの社会は、電力の安定供給が続くことを前提としてできあがっており、本当に足りなくなった場合の影響はきわめて大きい。電力供給にある程度の余力を持たせようとするのは当然だ。たとえば、「防潮堤の高さは過去に起きた津波の高さ程度で充分だ」と言われたら、海辺に住む誰もが「それで大丈夫なのか」と不安に駆られるだろう。それと同じ理屈だ。結果として電力は足りたから、再稼働は必要なかったという理屈は、居酒屋談義ならともかく、まっとうな場に持ち出す主張としては合理性を欠く。
こうした議論をみるにつけ、個人的には暗澹たる思いを新たにせざるを得ない。「結果的に電力は足りたではないか」という主張は、そのロジックにおいて、「これまで大きな事故が起こったことはないからさしたる危険はないのだ」という主張とまったく同じだからだ。原子力発電所のリスクを大きく見積もる人はえてして電力不足がもたらすリスクを軽くみる。もちろん、その逆もしかりで、原発再稼働に対して前向きな意見の人の中には、原発が今も抱えるリスク、特に「次」の大地震への備えがまだ充分とはいえないというリスクを軽くみる傾向があるように思われる。
「大飯・志賀原発、断層再調査へ 活断層なら停止・廃炉」(朝日新聞2012年7月18日)
http://www.asahi.com/politics/update/0717/TKY201207170765.html
関西電力大飯原発(福井県)の敷地内を走る断層が活断層である可能性が指摘されている問題について、経済産業省原子力安全・保安院は17日、専門家会合を開き、断層の再調査を関電に指示する方針を固めた。定期検査で停止中の北陸電力志賀(しか)原発1号機(石川県)も、原子炉建屋直下の断層が活断層である可能性が高く、北陸電に再調査を指示する方針。
「原発、断層ずれても運転可能に 保安院が新基準導入へ」(共同通信2012年8月28日)
http://www.47news.jp/CN/201208/CN2012082801002324.html
原発直下に地盤をずらす「断層」があっても原発の運転を一律に禁止せず、継続の可能性を残す新たな安全評価基準の導入を、経済産業省原子力安全・保安院が検討していることが28日、分かった。
「伊方・志賀原発:活断層連動時も「耐震問題ない」」(毎日新聞2012年8月29日)
http://mainichi.jp/select/news/20120829k0000m040121000c.html
原発周辺にある複数の活断層が連動して動いた場合に揺れが従来想定を超える四国電力伊方(愛媛県)、北陸電力志賀(石川)の2原発について、両電力は28日、原子炉など重要施設の耐震安全性に問題はないと経済産業省原子力安全・保安院の専門家会合に報告した。会合で異論は出ず、保安院は近く了承する方針。
どちらの立場も、自分の意見にとって都合のよい主張をつまみ食いして、異なる意見の人をやりこめようとしているだけのようにみえる。本来、どちらか一方がすべて正しいという類の問題ではないにもかかわらずだ。このような状況のままでは、私たちが国全体として、大事な意思決定をするための準備ができているとはとてもいえない。
今こそじっくり考える時
「大事な意思決定」とは、いうまでもなく、今後のエネルギー政策に関する方針の決定だ。福島第一原発の重大な事故を受け、日本のエネルギー政策は今、抜本的な見直しを迫られている。国民の世論ははっきりと変化した。このことは、先日結果が公表された、エネルギー政策に関して政府が募集したパブリックコメントに空前の9万件近い意見が寄せられ、しかもその大半が、これまでのような原発への依存に対する不安や不満を示すものだったことからもわかる。
「パブコメ全集計、原発不安が過半数 「原発ゼロ」87%」(朝日新聞2012年8月27日)
http://www.asahi.com/politics/update/0827/TKY201208270101.html
政府が新たなエネルギー政策を決めるために国民から集めた約8万9千件のパブリックコメントのうち、過半数の約4万8千件が原発の安全性に対する不安の声だったことがわかった。2030年の電力に占める原発割合への意見は全体の9割弱が「0%」を求めており、22日にまとめた途中集計時と同じ傾向だった。
「脱原発 負担は覚悟 意見公募 集計結果」(東京新聞2012年8月28日)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012082890070203.html
二〇三〇年時点の原発依存度などをめぐる政府のパブリックコメント(意見公募)の集計結果が二十七日、公表された。有効意見は八万八千二百八十件で、政府が示した原発比率の三つの選択肢(0%、15%、20~25%)のうち、原発ゼロ案の支持が約七万六千八百件(87%)を占めた。さらに、原発の代替手段となる再生可能エネルギー・省エネ対策については、電気料金の上昇につながるにもかかわらず「コストがかかっても拡大」が39%に上り、脱原発に向けた国民の覚悟が示された。
「原発比率「どう収拾」「議論不足」…政府に批判」(読売新聞2012年8月22日)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20120822-OYT1T01043.htm
府は22日、2030年時点の原子力発電比率などについて寄せられた国民の意見などを分析するため、専門家らによる有識者会議「国民的議論に関する検証会合」の初会合を開いた。専門家からは「思いつくままに色々な調査をしたが、どう収拾するのか」「政策決定までの議論が足りない」などと政府の姿勢を批判する意見も出た。
「エネルギーと原発 世論で基本政策決めるな」(産経新聞2012年8月31日)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120831/plc12083103320004-n1.htm
政府の調査では、新聞社などによる世論調査より「原発ゼロ」の回答率が高い。政府の調査そのものが脱原発ムードを醸し出した可能性が疑われる現象だ。こうした不確かな調査をよりどころに、エネルギー計画の策定を急ぐのは短慮に過ぎよう。皮相的な原発の好悪論にとどまらず、原発をなくした場合の経済や文化への影響までを視野に入れた議論の深化が必要だ。
論調は新聞によって異なるが、今後、原発と原発への依存を減らしていく方向への支持が寄せられた意見の多数を占めた事実自体を否定することはできない。現在の状況では、原発に対するポジティブな意見はきわめて出しづらい空気があり、こうした論調になるだろうことはあらかじめ予想されてはいたのだろうが、それでも、実際にそれが可視化されたことの政治的な意味は大きい。衆参両院の選挙が遠からず予定されているから、そこで「世論」は「民意」となる。今検討されているであろう政府の方針に対しても、一定の影響を与えることになるのだろう。「電力需給への不安」を根拠とした再稼働の合理性は、夏の電力需要ピークを超えれば当面一段落する。今こそ、政府だけでなく私たち自身が、こうした中長期的課題について、じっくり考えるべき時だ。
考えるために知っておくべきこと
そこで気になるのは、こうした「世論」が、「わかった」上でのものなのかということだ。上に挙げた東京新聞の記事は、国民が、原発依存を減らし、その代わりに、再生可能エネルギーの利用やいっそうの省エネを推進することによるコスト増をも容認した、と主張している。ここで再生可能エネルギーや省エネに触れているのに火力発電に触れないということが一種の印象操作であることは指摘しておくべきだが、おそらく実際に、多くの人たちが、原発事故の不安にさらされて生きるぐらいなら、多少電気代が上がってもいいじゃないか、とは思っていることだろう。
しかし、脱原発依存の影響は、単に電気料金の負担にとどまらず、さらに広範に、経済の全体に及ぶ。上記のパブリックコメント募集の際に示された資料「エネルギー・環境に関する選択肢」では、国立環境研究所、大阪大学・伴教授、慶應義塾大学・野村准教授、地球環境産業技術研究機構(RITE)の4者による、2030年時点での原発への依存度に関する3つの異なるシナリオ(依存度ゼロ、15%、20~25%)に基づく、経済への影響予測が提示されていた(下表参照)。影響の程度は予測により異なるが、いずれの場合も、脱原発依存を進めていくと、2010年との比較では実質GDPは成長するが、脱原発依存路線をとらない「自然体ケース」に比べれば押し下げられるという結果は共通している。
表:脱原発依存シナリオに基づく実質GDPへの影響
モデル |
2010年 GDP |
2030年 |
ゼロ シナリオ |
15 シナリオ |
20~25 シナリオ |
国環研 |
511兆円 |
636兆円 |
628兆円 |
634兆円 |
634兆円 |
伴教授 |
624兆円 |
608兆円 |
611兆円 |
614兆円 |
|
野村准教授 |
625兆円 |
609兆円 |
616兆円 |
617兆円 |
|
RITE |
609兆円 |
564兆円 |
579兆円 |
581兆円 |
「エネルギー・環境に関する選択肢」(概要版)
http://www.enecho.meti.go.jp/info/committee/kihonmondai/28th/28-1-1.pdf
各モデルの予測にはそれぞれ特徴がある。資料にはこのように説明されている。
1)価格弾力性
エネルギー価格を上げた際の省エネが進む程度(価格弾力性)がモデルによって大きく異なる(電力の価格弾力性は大阪大学・国環研・RITE ・慶応大学の順に高く、CO2の限界削減費用(CO2対策のコスト)はRITE ・慶応大学・国環研・大阪大学の順に高い。)。弾力性が高いほど、小さな価格上昇でも対策が進み(対策費用が安い)、シナリオにおける価格上昇が少なく、経済への影響は小さくなる傾向。
2)RITEは、他のモデルよりも価格弾力性が低くCO2対策のコストも高いと推計していることに加え、日本のエネルギー価格上昇による他国での生産量の増加(リーケージ)も明示的に取り扱う国際モデルであるため影響が大きくなっている。国環研は、低いコストで省エネ・C O2削減が進むと想定し、省エネ投資の効果も高く評価している(先の省エネ効果まで見込む)ため影響が小さくなっている。
(「エネルギー・環境に関する選択肢」p.14注)
パブリックコメントを出した人たちの多くも、この資料は読んでいるだろうが、はたしてその意味をどのくらい理解していただろうか。実際のところ、実質GDPというのは高度に抽象的な概念で、日々の生活で実感することは正直そう簡単ではない。たとえば私たちは、バブル崩壊後の日本経済の低迷をよく「失われた20年」などと表現し、ずっと景気が悪かったという印象を抱きがちだが、1991年度から2010年度までの実質GDP成長率の平均は約0.9%とプラスだった。また、この指標の振れ幅は、通常そう大きくはない。この期間で最も落ち込みが厳しかったのは、いわゆるリーマンショックがあった2008年度で、-3.7%、一方最も高かったのは、2010年度の3.3%だ。現在政府が打ち出す「新成長戦略」でめざしている成長率は「実質2%を上回る水準」となっている。
こうした中で、幅はあるものの、脱原発依存によって受けると予測される経済への影響は、決して小さいものではない。中でも、最も影響度を深刻に見積もっている(唯一リーケージを計算に入れている)RITEの予測では、2030年時点で原発依存度をゼロにすれば、現状と比べて実質GDPは45兆円落ち込む。現在のGDPの約1割に近い水準であり、決してばかにできない。
また、去る9月4日に開催された内閣府のエネルギー・環境会議でも、原発をゼロにした場合の影響に関する資料が提示されたが、電気料金を大幅に引き上げなければならないなど、国民生活に大きな影響が及ぶことが予測されている。
「原発ゼロ「50年代前半」 民主、結論は15年に先送り」(朝日新聞2012年9月4日)
http://www.asahi.com/politics/update/0904/TKY201209040239.html
「原発ゼロの課題」は、野田佳彦首相が8月上旬に検討を指示したもの。枝野幸男経済産業相が4日に開かれた内閣のエネルギー・環境会議(議長・古川元久国家戦略相)で提示。この日の民主党調査会でも示された。
原発ゼロになると「電力供給量の3割が失われ、需給が逼迫(ひっぱく)する」と分析。代わりに使う火力発電による燃料費の増加が年3.1兆円に達し、中東情勢の緊迫が「さらなる料金値上げ要因となる」として、電気料金が上がって国民負担が増えると指摘した。原子力を支える技術や人材が失われる点や、外交・安全保障への影響にも触れ、原発ゼロで青森県にある再処理施設が不要になれば、使用済み燃料を施設外に運び出す必要があることも示唆した。
代替エネルギーに位置づける再生可能エネルギーについては、発電施設をつくる土地の確保や送電線の整備コストを課題に挙げた。30年時点に原発ゼロにするには省エネに100兆円の投資が必要とし、10年時点で月9900円だった世帯の電気代が最大月2万712円になると試算した。
端的にいえば、経済の低迷や落ち込みは仕事を奪い、生活や文化を破壊し、人々を不便や危険、ときには死に追いやる。考えてみれば、非正規雇用の増加も駅前のシャッター通りもある意味低迷する経済への影響だし、失業と自殺者数の間に強い正の相関があることもよく知られている。今回だけそうした影響が出ないと考えるのはご都合主義だ。
澤田康幸・崔允禎・菅野早紀「不況・失業と自殺の関係についての一考察」(日本労働研究雑誌No. 598/May 2010. p.58-66)
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2010/05/pdf/058-066.pdf
何より、増え続ける社会福祉や、防災活動その他のさまざまな政府支出を支えるのが国内の経済活動だ。震災のとき、多くの人々を救うため獅子奮迅の活躍をした自衛隊などの活動も、今、復興のためがんばっている現場の方々の活動も、全国から集まる義捐金やボランティアも、私たちが日々行っている経済活動の成果のいわば「上澄み」の部分で成立している。ベースとなる経済活動が萎縮すれば、制約を受けざるを得なくなる。できたはずのことができなくなる。
特に気になっているのは、私たちが今、直面している、大規模災害リスクへの備えがおろそかになってしまわないか、という点だ。たとえば最近では、東海沖から日向灘にかけての「南海トラフ」を震源とする巨大地震が発生した場合の被害想定が発表され、その規模の大きさが各所に衝撃を与えた。
「M9死者最大32万人 南海トラフ想定 7割津波犠牲」(東京新聞2012年8月30日)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012083090071112.html
南海トラフでマグニチュード(M)9級の超巨大地震が発生した場合、三十都府県で最大三十二万三千人の死者が出る被害想定を内閣府中央防災会議の有識者会議が二十九日、公表した。七割は津波による犠牲者。最大死者数は二〇〇三年に内閣府が公表した二万四千七百人の十三倍となった。
今回公表された被害想定は、第1次報告との位置付けだ。揺れや津波による人的被害と建物被害をまとめたもので、津波が原因で発生する火災の影響や、交通機関を利用中の人的被害などは含んでいないという。経済被害の規模などは、今年秋をめどにまとめられる第2次報告に盛り込まれるようだが、空恐ろしい額になることはまちがいなかろう。
当然、こうした被害想定は、対策をとれば防げる部分が少なからずある。国も各自治体も、競って防災対策の強化を打ち出すだろう。中でも、住宅や公共インフラの耐震化、地域ぐるみの高台移転など、ハード面での対策はその大きな部分を占める。金額については考え方にもよるだろうが、東日本大震災関連では既に、政府の防災対策推進検討会議において、「地域づくり」等のインフラ投資、ソフト事業として8兆円程度の対策費を想定した資料が示されている。また、さらに大きな規模の対策費が必要と主張する動きもある。
「全国防災対策費についての考え方(概要)」(内閣府、2011年12月7日)
http://www.bousai.go.jp/chubou/29/29_siryo_5-2.pdf
「災害対策投資、10年間で200兆円…自民策定」(読売新聞2012年5月23日)
自民党の「国土強靱(きょうじん)化総合調査会」(会長・二階俊博元経済産業相)は23日、東日本大震災からの復興や災害対策として、10年間で総額200兆円の投資計画を策定することなどを明記した「国土強靱化基本法案」をまとめた。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120523-OYT1T00889.htm
今回、南海トラフ地震の被害想定が示されたことで、防災対策の充実を求める声はいっそう高まるだろう。当然、そのための費用もさらにかさむ。一方これを、近年どんどん削減されてきた公共事業復活のチャンスとみる向きもあるはずで、それに対する批判もセットで、今後大きな論点となるにちがいない。
そもそも、仮にこの問題がなかったとしても、日本の財政赤字は世界でも有数の水準だ。国会ですったもんだを繰り広げた消費税増税も、社会福祉をはじめとする政府支出の増大に税収が追いつかないことから必要という話が出てきたものであり、そこに追い打ちをかけたのが、震災と原発事故からの復旧、復興のための資金需要というわけだ。日銀がどんどん紙幣を刷ればいいという考え方もあるだろうが、少なくとも、私たちの社会は、野放図な無駄遣いを許容できる状況ではない。何に対してであれ、いくらでもお金をかけていいという話はありえない。
つまり、端的にいえばこういうことだ。もし私たちが国全体として、「原発を維持し続けることのリスクを減らすためなら、今よりよけいに電気料金を払ってもいい」と思っているとすれば、国民経済レベルでは、その余力の少なくとも一部を税金として集めるなどして、防災対策に使った方が、国全体としてのリスクは減らせる、という考え方もありうるのではないか、と。
実際、2012年4~6月期の決算で、各電力会社は燃料費増加などにより軒並み赤字を計上し、これが電力料金値上げの根拠となっている。燃料費の多くは海外に流出するから、国内で有効に使うことはできない。一方、原発再稼働自体に反対するのが現在の世論であるとすれば、それは事実上、原発依存度を今すぐゼロにせよ、と主張することと同じだが、運転を休止したからといって、それだけでは原発のリスクはさして減るわけではない。ならば、そうまでして早いペースで脱原発依存を進めることの意味は問われるべきではなかろうか、地震防災のための対策とどちらを優先するかを考えるべきではなかろうか、と。
「7電力、原発停止が収益直撃 燃料費増加で4~6月期は最終赤字」
http://www.sankeibiz.jp/business/news/120801/bsc1208010502011-n1.htm
東京電力を除く電力9社の2012年4~6月期連結決算が31日、出そろった。北陸、沖縄を除く7社が最終損失を計上し、7社の赤字額は計約2700億円となった。業績悪化は原発の停止に伴う火力発電の燃料費の増加が主な要因で、9社の燃料費の合計は前年同期と比べ7割増の1兆300億円にのぼり、収益を大きく圧迫した。
このような、ある選択をすることで失われる、他の選択をしていたら得られたではずの利益のことを、経済学で「期待費用」と呼ぶ。将来、燃料価格が下がったとしても節電が進んだとしても、機会費用自体はなくならない。どれだけ燃料価格が下がろうがゼロになることはないし、どれだけ節電が進んでも電力需要がゼロになることはない。額が少なくても、他により有効な資金の使い道があったのであれば、その分は有効に使われなかったことになる。
「知らされなかった」はもう通用しない
こういうことを書くとすぐ、原発再稼働のための脅しだとかお前は原発推進派なんだろうとかいった批判が出てくるのだが、そういう話ではない。主権者としての重要な選択は、関連する情報を知った上で、ある種の「覚悟」とともになされるべきと主張したいだけだ。
もう一度、はっきりさせておきたい。リスクに対して充分な備えをするということは、それが結果的に、高い確率で「無駄」に終わることを許容するということだ。ここでいう「無駄」とは、「電力は足りていたから原発再稼働は必要なかった」という意味での「無駄」であり、「これまで津波の高さが5メートルを超えたことはないから堤防の高さは5メートル以上必要ない」という意味での「無駄」でもある。地震にせよ原発事故にせよ、避けたい事態は、発生するかもしれないし、しないかもしれない。だから、備えのためにコストをかければ、それが充分であればあるほど、結果として「無駄」に終わる確率が高い。その意味で、充分な備えをすることと、膨大な「無駄」を許容することは、少なくとも事前には区別がつきにくい。
しかし、それがリスクへの有効な備えであろうが無駄であろうが、その資源を他に振り向けていたら実現できていたかもしれない多くの可能性を捨てていることにはかわりはない。脱原発依存のために日本から多額の資金が燃料費として海外に流出すれば、おおざっぱにいってその分だけ、国内の防災対策費に使えたはずの資金が減少する(資金使途は他にもあるからこの2つだけで考えるのは不適切との批判を受けるだろうが、ここではその考え方はとらない。この2つはリスクに備えるという意味で同種に属すると考えるからだ)。それは、その限りにおいて、地震や津波のリスクより原発事故リスクを減らしたいという選択を私たちがしたということだ。
もちろん、原発を減らせば、地震に起因する原発事故を減らすことにもなるだろう。その意味で、これらには関連している部分もある。しかし、コストも時間も限られているなかで、最優先で取り組むのが、燃料費をよけいに外国に払ってでもすぐに原発への依存を減らすことなのか、はやはり問われるべきだろう。地震災害も原発事故も、どちらも私たちにとって減らしたいリスクだが、今優先するのはどちらなのか。
国民がその総意として、地震防災より脱原発依存を優先すべき課題として選択するのであれば、それはひとつの判断であり、その是非につき意見はあっても、尊重すべきだ。私たちの社会は、多数者の利益のために少数者の利益を犠牲にすることも、逆に少数者の利益のために多数者の利益を犠牲にすることもある。客観的には合理的とはいえないことを、承知の上で行うこともある。それらはいずれも政府の機能である資源の再配分の一種であり、それを皆が納得できるように決めていくのが民主主義だ。
しかし、その前提として、そのような重要な選択は、できる限りの情報を得たうえでなされるべきだろう。それはこの選択が、私たちの生活に大きな影響を与える、言い換えれば、この選択がもたらす帰結は他の誰でもない、私たち自身が引き受けなければならないからだ。
今回の震災や原発事故に関して、「政府や東電は私たちに正しい情報を知らせなかった。だから私たちは選択を誤った」という言説がみられる。もちろんそうした面はあっただろうが、一方で私たちも、防災対策について、あるいは原発について、総じて無関心だった。警鐘を鳴らす専門家がいなかったわけではない。耳を傾けなかったのだ。政府も、私たちも。いってみれば、これは同じ問題の裏表なのであり、彼らだけに責任を押し付けていればいいわけではない。
しかし今や、私たちは、この問題に対して、大きな関心をもって選択をしようとしている。政府や電力会社からの情報提供も、以前とは比べものにならないくらい多くなった。まだ足りないと思えば、さらに要求もできよう。上に挙げた、脱原発依存の影響に関する予測についても、他の機関や専門家が異なる見解を示している。そうであれば、もはや「私たちは知らされなかった」という言い訳は通用しない。今後発生しうるその影響は、今の私たちが行った選択の帰結だ。
もちろん、現時点で得られる将来予測は、まちがっているかもしれない。しかし、そうした不確実性はどんな予測にも、いつの時点でも何かしらあるもので、解消することはない。私たちは、「絶対に正しい」という判断ができるほど充分な情報なしに選択しなければならないのだ。事後的に「専門家が予測を誤った。私たちのせいではない」と弁明したところで、問題は何も解決しない。誤った道を示した専門家を罰しても賠償をさせても(実際、イタリアでは予知に失敗した地震学者が訴えられた)、被害者は救われない。「あの専門家はだめだったから別の専門家に頼ろう」といっても、次にその専門家が正しいという保証もない。そうした意味で、私たちの選択もその帰結も、私たち自身のものだ。「私たちは知らされなかった」という主張は、自らを「無謬の弱者」という、安心して批判だけしていられる立場におこうとする言い訳であり、選択する主権者としての「覚悟」からの逃げでしかない。
「原子力発電は人が完全にはコントロールしきれず、人命を脅かしかねない危険な技術だからやめるべきだ」というロジックを是とするなら、経済を支えるあらゆる技術は同じ意味において「危険」だから同様にやめるべきだという理屈も成り立つ。「原発のリスクは他のリスクとはちがう」というなら、何がどのくらいちがうかを考えなければならない。どのリスクがどのくらい危険なのか、その危険を低減するためにどのくらいのコストが必要なのか、結論としてどのリスクをどのくらいとるのか。さまざまな専門家の多様な考えを比較し、それぞれが自ら考え、議論し、それを集めて、社会として選択していかなければならない。いずれかのリスクを過大に見積もれば他のリスクは過小評価される。それがうまくいけば結果として私たちがこうむる損害は少なくてすみ、うまくいかなければより大きくなる。対策が充分なら安心度は増すだろうが、コストもかかる。いずれにせよ、私たちの選択のツケは私たち自身が払う。
そうした「覚悟」なしに選択を行えば、必ずや将来、どこかでもう一度、「私たちはだまされていた」という状況に陥る。パスカルの有名なことばをもじれば、人間は「考える葦」であるだけでなく、「選択する葦」でもある。この2つはセットだ。ある選択において失敗したとして、その失敗から学ばなければ、私たちはまた何度でも、同じ失敗を繰り返すことになるだろう。
プロフィール
山口浩
1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。