2012.06.29
復興アリーナが復興しようしているものは「何か」?
―― 福島に関心を持った理由はなんですか
被災地に関心を持ったきっかけは、非常に単純に言うと、偶然です。この歴史的な事件の現場を一度見ないといけない。まず、単純に見てみようと思って、釜石に行きました。キャッシュ・フォー・ワークが、永松伸吾さんの主導で立ち上がり、その顔合わせでたまたま名刺交換した人が釜石の方だったからです。
まず、その人に会ってみよう。会って何をするか何も考えずに、ただ行ってみた。そうしたら、やはり、背筋がぞっとするというか、体とか脳の芯が冷たくなるような感じがしました。
岩手県に関しては、初訪問の三日であとから関わるようになる人には、ほとんど会っているんです。これはもう縁があったとしか言いようがない。そこから岩手のイベントを東京に持ってくるとか、または、東京の支援者と岩手の求めている支援というのを紹介するという活動を少し手伝っていました。
ぼくはマクロ経済学者ですから、経済学者として復興をどう考えるかという発言を求められることが多い。そのため、復興支援の活動をしていることと経済学を結びつけられがちなのですが、実は、この二つはつながっていません。ぼくは、復興支援の問題に関わっている時は経済学者とかエコノミストというよりは「単に、ぼくが個人的にやりたいと思うからやっている」わけです。
完全に個人的な興味関心でやりたいし、やらなければいけないとぼくが勝手に感じたことをしている。つまりは、ぼくが勝手にやっているわけです。復興支援についてあまり理屈をつけるのをやめたい。理屈ではなく、やりたいと思い、やらなければと思う人が集まって何かをすればよいと思う。
「アリーナ」の意味
―― アリーナにはどういう意味があるのですか
コミュニティでもアソシエーションでもなく「アリーナ」であるのは、それぞれの人の思いというのは、人によってばらばらだし、違うと思います。同じように、アリーナで示されるさまざまな情報のどれに賛同できるか、何か感じられるかも受け手によってそれぞれだと思いますし、それでいい。
統一的な価値観をもってまとまるコミュニティではなく、同じひとつの目的達成の為に何かをするアソシエーションでもなく、出入り自由のアリーナであるのは、震災の復興に対していろいろなことを感じ、いろいろなものを見、いろいろなものを経験した、そういうことを、ある意味ただ並べたいからです。ですから、いわゆる論者・飯田泰之が発言する場合に比べると、ぼくは、ここでは思い切り自分の主観を交えたことを書き、言うと思います。
賛同してくれる人は賛同してくれればいいし、賛同できない人はそれで良い。その意味では、普段、ぼくがしている説得であるとか、論理的な証拠立てというのは、今回、プロジェクト全体としては、しません。むしろ、思ったことを並べて共感できる人が共感するというような形にしていきたいと思っています。
復興アリーナが復興しようとしているものは何か?
―― 復興されるという時、何が復興されるのでしょう
復興アリーナが復興しようとしているものというのは何か? 「元通りの生活」「元通りの地域コミュニティ」だという人もいるでしょう。あるいは、これを奇禍として「新しい社会を築くのだ」という人もいるでしょう。それも否定しません。中には、「ちょっと困っている人」を「ちょっと助けてあげたい」という人もいるでしょう。ぼく自身の関心は三番目のものに近い。
すごく悲惨な状況で、非常に苦しんでいて、根本的な治癒が必要な人に対して大きなマクロな政策をあてはめる、それはそれで大切だと思います。ただ、それ以外に「ぼくができる範囲のことを、ぼくはやりたい」と思う。
例を上げると、宮城、岩手というのは震災の「被災フェーズ」から「復興フェーズ」になっている。「被災フェーズ」から「復興フェーズ」になると何が違うか? 被災地の皆さんの関心が、店舗を再開しました、お客をどうするのか、収益をどうするのかという、ものすごくシビアな問題になってくるわけです。
考えてみれば、被災の有無に関らず誰にとっても、ビジネスでどうキャッシュを生み出していくかという身も蓋もない、ある意味で単純な問題です。しかし、だからこそ難しい。その一方で福島のように未だに「被災フェーズ」のところがある。その中で経済学ができることは何でしょうか。
復興アリーナには荻上チキさん、藍原寛子さん、永松伸吾さん、大野更紗さん、いろいろな人が参加してくれています。タイプの違うさまざまな人と意見が並列されること重要です。それはぼくならぼくが被災と復興の両方に強いかというと、そうではないからです。
ぼくは被災フェーズより、復興フェーズに入って、次にビジネスとして何をやる、ビジネスはじまったけれど、どこに販路を求めるという復興フェーズでの問題解決の方がおそらく得意です。チキさんはチキさんで被災フェーズに寄り添い、問題を掘り起こし発見していくことが得意な人でしょう。それぞれ得手不得手がある。目的はもう決まっていて、それに対して合理的手段を求めている人たちに対して問題解決をするにはぼくがなんらかの比較優位を持っていると思います。
経済学にできることと、できないこと
―― このような大災害が起きた時、経済学には何ができるのですか
その中で経済学ができること、経済学の知識を役立てることができるのは何か? もし、経済学ができることがあるとすれば、問題解決フェーズで、例えば、利益とはどこから生れるのか? 利益というのは差別化から生れます。岩手・新事業の復興支援プログラムでは、その中でしっかりと差別化ができている新事業を発見して公的資金からプロモーションにいたるサポートをつけていく。そのプロセスにも関与したい。
ぼくたちの活動は、彼らの情報発信の場を提供していくことになります。最終的には被災地の復興のためには、被災地にお金が入らないといけない。お金が入る手段として、もちろん最初は補助金、財政的なサポートが必要でしょう。でも、それは永続しません。最終的には作ったものが売れようになるか、人が観光に来るようにするしかないわけです。
集客というと、すぐ安い方向に向かってしまいがちですが、勘違いです。ファストフード業界が典型ですが、一時の安値合戦から差別化競争に移行しました。安値で利ざやをとるのはきわめて困難です。
差別化をしっかり設計できているところにお金を貼り付けていき、さらに、それを紹介していきたい。陸前高田というか、岩手南部といえば牡蠣のイメージです。しかし、実はホタテと毛ガニの大産地なんです。それなのに彼らがブランディングできていないのはもったいない。
一部の貝類のように、例えば、その地方でしかとれないけれど、地元の人が意識していないもの、あるいはおいしいのは分かっているけれど、数がたくさんとれないので東京で販路が見つけられていないものがある。
東京には、そういう珍しいものを欲しがっている店がある。少し高めの高級居酒屋で決まりきったメニューだけというのはさびしいですから、何かないかと思っている。そういう場合は「あ、あるんだ」というのが分かってくると全然違ってくる。そうしたものを結び付けていく役に立てると思います。
―― 飯田さんにとって経済学とはどういう学問ですか
経済学は、「~すると」満足だという主観的満足度を人々は最大化していると考えているし、人々の主観的満足度が向上することが経済学的な価値観における目標です。その主観的な満足がどこから得られるかについて経済学は語りえる材料を持っていません。
たまたま、これまでの従来の経済学が目的としていたものは金融とか生産とか、いわゆる「お金マター」の話です。そのため、お金マターのことをするのが経済学だと思っている人がいますが、それは経済学を少し狭くとらえすぎている。経済学というのは個人主義的な主観的な満足を最大化するというのが一番重要な、出発点であり、主観的満足度の最大化に関する話はすべて経済学のはずです。
だから、最初、経済学というのは、個人主義の哲学者が経済について語ったものでした。その意味では、経済学とは、個人主義+制約付最適化と、その妥当性検証のための統計手法をあわせたものにすぎません。
金銭的な価値・報酬を他より優先すること、大企業に都合のよいことを主張することが経済学だと思っている人が多い。そう思っている経済学者さえいることは情けない限りです。
例えば、原発問題について、原発を止めると、経済がこれだけ悪くなる、そういう判断材料を出すことは非常に大切です。けれども、そんなに経済的な不利益を被っても、原発が嫌だという意思決定は重要だし、それを否定するのは経済学の役割ではない。たとえ経済学者が反原発を否定していたとしても、その時点で、それは経済学的な発言ではない。これだけコストをかけても嫌だったら、嫌なのだから仕方がない。その価値観、価値判断について何か言うのは経済学の本義をはずしているとぼくは思います。
経済学の考え方は「他の条件を一定として所得は多い方が良い」、「個々人の選択は(その他の人がやるより)当人にとってはマシ」ということであって「経済のためには~は我慢すべき」というのは経済学とは縁もゆかりもない主張だということをみなさんに知っておいて欲しい。
もちろん、ぼくは原理主義的な原発反対が良いとは思っていません。例えば、関西広域での原発再稼動について、彼らはこう考えたと思う。今、原発を再稼動したとしても、再稼動しないことに比べてリスクが大して増えるわけではない。今、止めても、危険はそれほど変らない。そうであるならば、今年の電力料金、停電と引き換えに再稼動は容認した。けれども、やや高いけれど、再生可能エネルギーに向かうのかどうか、これからについては全く違った地平が出てきている。
経済学というのは人々の要望を全面的に受け入れて、その達成のための方法を考える学問です。その要望そのもの、人々の求めているものの中身について、立ち入らない。ぼくがアリーナで様々な価値観をただ並列的に並べたいと思っているのは、その取捨選択は皆さんのやるべきことだと思っているからです。
再分配とは想像力の問題である
―― 貧困者や被災者といった少数者に対する人々の対応についてどう考えますか
少なくとも2011年の間は震災の問題で日本中が一致団結できたと思います。一方でだんだんその紐帯が崩れてきている。日本における自己責任論が面白いのは、誰もが分かる偶然の力によって貧しくなった場合は同情されるのに、生まれ育ち、努力によって貧しくなった場合は自己責任として同情されないことです。
2011年に関して言えば、貧困者への対応と被災者への対応はまるで違った。現実問題としていわゆるワーキングプアの側はかなり押しのけられたという印象でしょう。しかし、これから状況は似てくると思う。なぜなら、被災地の中でも次第に明暗が分かれてきている。十分なストックがあってコネクションがあって、行政にアクセスにしやすい人とそうでない人、その差が出た時に、「きちんと、立ち直っている人もいるじゃないか」と言う側には絶対に与しないようにしたい。
―― わたしたちはどのように被災地に関わることができるでしょう
三陸地方の震災被害の当事者は大損害とはいえ日本全体からすれば少数派です。だから、当時の情報を記憶し、アーカイブスすることで、実は自分がもしかしたら被災したかもれないという想像力を養いたい。
再分配とは想像力の問題です。自分がそうだったかもしれない。自分が同じような状況になった時に、そうあってほしい、という想像力が働くかどうか。十分に必要な生活保護が受給されていないことこそが問題であるのに、本当に例外的なケースについて必要以上に大げさに騒いで自分の人気取りに利用するのは全く想像力が働いていないからです。
だんだんと日本人が他の境遇を想像するのが難しくなってきている。これは結構致命的な問題です。階層固定が起きると、他の階層について想像ができない。ハイクラスな人はハイクラスな人としか付き合わないし、ハイクラスな両親から生れてハイクラスな社会階層にいる。その意味では、アリーナは、いろいろな階層の人が対等にいる場です。
他者の境遇を思いやる、慮る、「もしも、自分がそうだったらどうしよう」と考える。今回の震災は大変不幸な出来事でしたが、それを単なる不幸に終わらせないために、自分がそうだったらどうしようと思って欲しい。比較的、震災の場合は、そういう想像力を働かせやすいはずです。それすら働かなくなったら日本はおしまいだと思う。そこから、もしも、自分が、そうだったらどうかという思考に進んで欲しい。
当事者ではないが、当事者から離れすぎず
ぼく自身も復興アリーナのシンポジウムや座談会には登壇しますが、あまり先生役はしないようにしたい。先生とか、識者というのは違う人なんです。先生でございと現地に行って帰ってくるだけだと、それは先生向けの話をしてくれるだけでおしまいです。例えば、テレビが行くといかにもテレビ向きな答えを返してくれる。それと同じことです。
復興食堂の人たちは、ぼくが大学の先生だというのを代官山(2011年7月の復興食堂東京開催)で知ったそうです。それまでは何となく来ているボランティアの人の一人という感じだった。ぼくが被災したわけではないので、決して当事者ではないのですが、当事者とあまりにも乖離しすぎてしまうと、分かるはずのことが分からなくなってしまう。ですから、ぼくが、これが良いと思ったことに関してはぼくは「中の人」のつもりで営業活動をしたい。客観性はなくても、何とか売ろうとすると思う。それで良いのではないでしょうか。むしろ、主観的に関わっていきたい。
不連続からの挑戦
―― どうしたら、事実の積み重ねと共感の間を埋めることができますか
よく淡々とした事実の積み重ねから分かってくることがあると言いますが、通常、データや事実の積み重ねというのは、ある方向性、思想性をもって積み重ねが行われます。学問的な研究であれば自分の研究内容、証明しようとしている事実に対して整合的で効率的なデータを集めることになりがち。その一方、アリーナではぼくの目的に合致した効率的な情報収集ではなく、集まってくるものを全部集める。並列的にアーカイブ的にデータを集積していく。データーベース化です。
被災地の問題というのは一回システムが切れているということです。ビジネスというのは慣性を持っていて、これまで走れていたから走れる、長期低落傾向ではあるけれど、別に明日どうにかなるという状況ではない。ところが、それが、一回、切られたというのはすごくきついことです。
―― これから、われわれにはどういう道がありますか
全部の東北地区の方々、そして被災によって観光客を失ってどうしようと言っている内陸部の人たちというのは、慣性で何とかなっている状況が一回切断されているわけです。その不連続性、一度断ち切られたところから立ち上がることによって、東北は日本の先駆的な地域になれる可能性があります。
実は日本中が自転車操業で走っているから勢いで何とかなっている、東北ではそれが切断された。切断された時に、どうすれば良いのか、そのモデルを提供する地域になれるかもしれない。
リーマンショックのような純粋に経済的なショックかもしれないし、天変地異かもしれないし、イノベーションによるものかもしれない。理由は分かりませんが、これから日本は不連続性によって、これまでの自転車操業から切断される瞬間にどこかで直面するかもしれない。その時に、一から新しく何かをやろうという経験はきわめて大きい。東北は地域全域でそれが行われる。これは、そのほかの多くの日本にとってものすごく貴重なモデルだと、ぼくは思います。
プロフィール
飯田泰之
1975年東京生まれ。エコノミスト、明治大学准教授。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。