2011.04.19

「御用学者」という言葉が世間を賑わしている。「御用学者」とは特定の利害関係に密接に関わる研究者を意味する。たとえば『週刊文春』(2011年4月14日号)は、研究者と経済界の密な関係を指摘した。東京電力が出資した寄付講座が東京大学に設けられていることを「理由」に、原発と大学教員が「癒着」していると報じたのだ。東日本大震災以後、ネット上の言説を含め、こうした物言いが顕著に増えている。

しかし、翻ってみれば、とくに2000年以後、日本社会は大学の経済的自立を求め、産官学連携や大学発ベンチャー企業創出を推進してきたのではなかったか。そうしたなか、「国や企業との経済的利害関係から、研究者は完全に独立した存在であるべきだ」という主張と、「研究者といえども、『役に立たなければならない』(≒経済利潤を生み出すべきだ)」という相反する要求が、同時に突きつけられている。

だが、そもそも大学行政には多額の税金がつぎ込まれている。したがって、前者は事実上実現不可能な要求であり、また後者を突き詰めることは、逆に研究者と社会の利益相反を生み出しかねない。本稿では産官学連携推進のなかで大学に設けられた内規などに触れつつ、経済的利害関係の有無だけでは「御用学者」を論じることはできないことを、簡潔に述べてみたい。

産学連携への道のり

「御用学者」という物言いは、学生運動や大学紛争の文脈のなかで、研究者と企業、研究者と国家が結託し、経済的利益を貪っている、汚職と腐敗が起きているという「疑惑」から生じたものである。大学関係者の汚職や脱税が日大闘争の引き金になったように、こうした腐敗が一部で存在したこともまた事実である。

以来、産官学連携という枠組み自体が癒着関係とみなされるようになり、長きにわたって糾弾されつづけることになった。その結果、産学連携史に関する研究では(たとえば、阿部俊明『産学官連携の効率的方策とその際の大学の役割』高知工科大学博士論文(2005)など)、連携に関するルールの策定が遅れたり、イノベーションが遅れたことなどが指摘されていたりもする。潔癖さを過剰に要求する批判によって、研究者のみならず社会全体が不利益を被った可能性がある。

他方で、科学研究の大規模化にともなって、多額の研究費を必要とするようになった。その資金を政府以外のステイクホルダーからも調達してくる必要も生じた。また、科学技術基本計画にもとづく政策の一環で、大学は従来の研究教育機関としての位置づけだけではなく、産官学連携による人材育成や知的財産権の商業化を含めた、イノベーション創出拠点としてより多くの役割を期待されるようにもなった。

そして、2000年代に入ってから、産官学連携支援や大学発ベンチャー企業創出が政策として推進された。その過程で、過去の産官学連携に対するアレルギー体質を克服するためにも、厳しくルールが定められた。利害関係者間で、利益が衝突する状況を利益相反というが、こうした状況は大学や研究者が関わるさまざまな場面で生じうる。そのため、大学にも利益相反を回避するための施策が講じられた。

現在、国公立大学を中心に、多くの大学において利益相反に関するガイドラインが定められている。「利益相反ポリシー」や「知的財産ポリシー」と呼ばれているものがそれだが、たとえば東京大学の利益相反ポリシーは2004年に策定された。冒頭には次のように記されている。

「東京大学は、産学連携による大学の研究成果の社会還元を積極的に推進する。また教職員のそのような活動を奨励する。しかしその過程で生じる利益相反による大学の使命・利益の侵害を防止しなければならない。そこで東京大学は、産学連携を公正かつ効率的に推進するために、教職員の利益相反行為を防止し、万一生じた利益相反行為を解決するためのルールを設けることとした。それが利益相反ポリシーである。」(「東京大学利益相反ポリシー」

良質な情報公開・発信を妨げる可能性

このポリシーにもとづき、研究者が利益相反を回避しながら研究を推進できる範囲を定めたルールも設けられた。「東京大学の利益相反に関するセーフ・ハーバー・ルール」だ。また、会計を含め大学が適切に運用されているかをチェックするために、監査法人による監査も入っている(ただし、たとえば東京大学の監査結果は学内と文部科学省に提出されているだけで外部公開されておらず、情報公開という意味では十分とはいえない)。

くわえて、産官学連携や寄付講座に関わる数字や金額は一般向けに公開されている。たとえば「東京大学寄付講座・寄付研究部門設置調査」によると、金融、製薬会社、建設、ものづくりに関る企業等も高額の寄付講座を設置している。ただ、その事実だけで「御用学者」と呼ばれるような「癒着」構造の有無を判別することはできない。産官学連携で大学と企業等が共同研究を行ったとしても、日本では研究者個人の給与や所得に直結しないからである。一般に共同研究は、大学が適切な間接経費(30%前後)を差し引いたうえで研究費として管理する。寄付講座も同様である。

いいかえれば、特定企業から研究費ではなく、研究者個人の収入に直結するかたちで資金が流れていたとすると、「御用学者」云々以前にコンプライアンスに問題があることになる。こうした制度的な背景を踏まえたうえで、研究者が個人の私腹を肥やしていたり、あるいはそうでなくとも、企業が明示的/暗黙的に圧力をかけ、研究者が企業の意向にそって情報公開を行ったという裏づけをとることができれば、決定的なスクープとなるであろう。

少なくとも、現在の週刊誌の報道やネットメディアの刺激的な言論は、以上のような事情を理解してなされているとは思えない。こうした状況は不健全だ。専門家の発言意欲を奪いかねないだけでなく、いざというときに内部告発者の告発意欲も削いでしまう。良質な情報公開・発信は、きちんとした受け手がいることが想定できないかぎり、自発的に進むことは期待できないからだ。

利益至上主義的な要求の弊害

現実がかくも複雑化した現代社会にあっては、営利であるか非営利であるかによって物事の善悪をはかるような単純な図式は通用しない。週刊誌にせよネットメディアにせよ、大学の研究と社会、あるいは経済的利害との関係について伝えようとするなら、高度な専門知識と的確な状況把握が必要となる。

他方、こうした信用不全が生じていることを学界は真摯に受け止め、研究者の本分である研究教育に関する価値創造に邁進するだけではなく、自分たちの活動について、いっそうの説明責任を果たすことの意味を、いま一度問い直さなければならないのだろう。

研究者は金銭的な利害関係に左右されることなく、社会にメッセージを発する倫理性をもつことが期待されている。そのような期待こそが、社会的な存在としての研究者像を支えている。それゆえ、この期待が社会から失われたとき、あるいは研究者自身が倫理性を失ったときには、その足元は脆くも崩れ去ってしまう。

その意味では、近年ときおり見受けられる、大学や研究機関に対する利益至上主義的な要求は問題がある。研究環境をひとつの価値観で覆い尽くし、研究者の倫理を危うくするものであり、その結果、社会的存在としての研究者像への信頼が不必要に揺らぐならば、かえって社会に不利益をもたらしかねない。多様な価値観と視点を許す寛容な環境のなかで、研究者が自己抑制の効いた適切なかたちで産官学連携を推進していくことが、長期的には社会にとって、また大学という組織にとっても有益なのだ。

推薦図書

アメリカの産官学連携の現状を、定量的、歴史的二つの視点から描き出す。そのなかで、アメリカの大学において、産官学連携が直接収益を生み出すものではない基礎研究含め、広く大学や研究の活性化に役だったことを示す。日本がモデルにしてきたアメリカの産官学連携の意味を考えるうえで重要な一冊。

プロフィール

西田亮介東京工業大学・大学マネジメントセンター准教授

1983年京都生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同大学院政策・メディア研究科後期博士課程単位取得退学。専門は、地域社会論、非営利組織論、中小企業論、及び支援の実践。『中央公論』『週刊エコノミスト』『思想地図vol.2』等で積極的な言論活動も行う。

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