2023.01.04

イーロン・マスクさん、フォーラムをつくりませんか?

田中辰雄 計量経済学

社会

注:本稿の簡易英語版はこちらですhttps://onl.tw/thhk1G2

イーロン・マスク氏の買収によりツイッターは大きく変わる可能性が出てきた。良くなるのか悪くなるのかはわからないが、とにかく変わることは間違いがなさそうである。そこで一つの提案がある。ネットでの言論空間をよりよくするためにツイッターにフォーラムをつくってはどうだろうか。フォーラムとは、読むのはだれでもできるが、書き込めるのはメンバーに限る場所のことで、誹謗と中傷を防いで、生産的な議論の場をつくりだすことができる。以下、簡単に説明しよう

(1)ネットで議論が荒れる理由:強すぎる情報発信力

ネットでの議論は荒れるのが常である。ネット上で少し目立った発言をすれば誹謗と中傷にさらされることは避けがたく、最近の若年層はネットというものはそういうものであり、そもそもネットで生産的な議論はできないと思っている節がある。

しかし、ネットが元来そういう場所だったわけではない。ネットの草創期にはそれなりに生産的な議論が一定の規模で行われていた。1980年代から90年代のネット草創期を知る人たちに尋ねれば、パソコン通信や、メーリングリストやニュースグループといった場所で、いまより生産的な議論が行われていたことを知ることができるだろう。ネット草創期の人がネットの将来に楽観的だったのは、当時の生産的な議論を見ていれば自然なことなのである。

しかし、ネットの社会全体への拡大とともに、このような生産的な議論の場は消えていった。周知のようにいまでは誹謗と中傷がネットの代名詞である。

こうなってしまった理由は何だろうか。いろいろな議論のあるところであろうが、筆者の見るところ、その理由はネットでの個人の情報発信力が異例に強いからである。すなわちネットでは誰に対しても議論を始めることができ、受ける側にそれを拒否する自由がない。ツイッターで言えばリプライあるいはDMで誰にでも人に議論をふっかけることができ、吹っかけられる側にこれを防ぐ方法がない。お引き取り願おうとして応答すればフォロワー全員にその人のことが知られ、むしろ議論に拍車がかかってしまう。無視あるいはブロックするにしても一度は読まなくてはならないし、ブロックしてもIDを変えればいくらでも話しかけられる。一切のリプとDMを読まないとすれば関わりを断てるが、そうすると双方向性が失われ、SNSではなくなってしまう。SNSで活動をつづけるかぎり、事実上、どんな相手からの書き込みでも強制的に一度は見なければならない。これはコミュニケーションのあり方としては極めて異例である。発信する側の人の情報発信力が異常に強いからである

情報発信力が異常に強いことは、リアルで同じことが起きたらどうなるかを考えればわかる。たとえば講演会をしていて、会場から人が立ち上がり、偏った政治信条に基づいて自論を展開したとしよう。講演者がそれにひと通り答えて次の話題に移ろうとしたところ、その人が納得せずにいつまでもしゃべり続けたらどうなるだろうか。講演会の主催者は彼を退場させようとするが、彼の周りに魔法のように鉄格子の囲いが現れて彼を連れだせないとしたらどうなるだろう。いつまでも続く彼の発言に周りの聴衆は辟易とし、講演会を中止せざるをえないだろう。

あるいは、テレビで識者をあつめて討論会をしているときに、ヴァーチャルリアリティのように第三者がスタジオに現れて発言をはじめたらどうなるだろう。そのような人が次々に現れ、発言を止めさせることも退出もさせられなければどうなるか。番組は混乱し収拾がつかず、最終的には番組自体を中断せざるを得ない。

論争的な本を書いたら、読者から手紙・電話が殺到し、これを必ず読まなければならないとしたらどうなるだろう。通常は本の著者の住所・電話番号は非公開であるため、手紙も電話も出版社でブロックされて、著者のもとには届かない。しかし、それらが公開されて著者のもとに直接届き、手紙は開封して読まねば家を出られず、かかってきた電話には必ず出なければならないとしたらどうなるだろう。著者は正常な日常生活は営めなくなり、これを避けたいなら、そもそも論争的な本を書くことを止めるしかない

もちろんこのようなばかげたことは現実には起こらない。しかし、そのばかげたことが当たり前のように起きているのがネットの世界、あるいはツイッターの世界である。ネットでの個人の情報発信力がいかに強いかがわかるだろう。ネットでは聞きたくない人の耳元にいくらでも囁き続けることができる。これは個人の情報発信力としては異常に強い。

これだけ情報発信力が強いと、生産的な議論をしたい人は議論の場から撤退し始める。講演会が中止になり、テレビ局が放送を中断し、著者が本を書くのをあきらめるようにである。その場に残るのは、疲れることなく一方的に自分の意見を述べつづける極端な人になってしまう(ごく一部の例外者を除く)。民主主義の基盤である生産的な議論の場は失われていく。

(2)スピーカーズ・コーナー、そして学術ネット

スピーカーズ・コーナーの比喩

強すぎる情報発信力は生産的な議論を阻害する。この点をより明快にするために、スピーカーズ・コーナーの事例を考えてみよう。

スピーカーズ・コーナーとはロンドンのハイドパークにあり、誰でもが演説ができる場所のことである。石鹸箱(Soapbox)と呼ばれる木箱を置き、そのうえに立って誰でもが演説できる。図1はBBCの記事からとったもので、聴衆は自分の気に入った演説者の前に行って話を聞く。優れた内容の議論であれば多くの人々が集まってきて盛り上がり、内容がつまらなければ誰も集まらずに閑散として終わる。図2(i)で言えば、論者Aのところには多くの人が集まっており、支持が広がっているのに対し、論者Bのところに集まる人は少なく支持が広がっていない。このように自由な議論の場を通じて世論形成がされていくというのがスピーカーズ・コーナーの趣旨である。現実のイギリス政治でスピーカーズ・コーナーが使われた例はそれほど多くはないが、それでもスピーカーズ・コーナーは民主主義の原型としてよく言及される。

図1 スピーカーズ・コーナー

写真出所:BBC News, 2015/5/15,”Speakers’ Corner: The home of free speech”
https://www.bbc.com/news/in-pictures-32703071

    

図2 スピーカーズ・コーナーとネット世論

出所:田中辰雄『ネット分断への処方箋』勁草書房 p.91

しかし、スピーカーズ・コーナーが機能するためには隠れた前提がある。それは論者たちが離れて演説をし、互いに邪魔をしないことである。もし、図2(ii)のようにAが演説をしている隣にRが木箱を置いてAに議論をふっかけたらどうなるか。Rの意見がたまたまAとかみ合えば議論できることもあるかもしれないが、そんな偶然は稀であろう。単に自説を言いたいだけ、目立ちたいだけの理由で絡んでくる人も多い。Rがいつまでも中身のないことをしゃべり続ければ、やがて聴衆が文句を言いだし、我々が聴きたいのはあなたの意見ではないと言ってRをその場からつまみだすだろう。リアルの場合は、このようにしてRの情報発信力を制限することで決着はつき、言論空間は守られる。

では、もしそれができなかったらどうなるだろうか。Rの発言を止めることができず、さらにRのような人が次々と現れたらどうなるか。もはや議論は成立しない。そんな状態が30分も続けばAは木箱からおり、聴衆はその場から去るだろう。議論の場は失われてしまう。ネットで起こっているのはまさにこれである。個人の情報発信力が強すぎて言論空間が維持できないのである。

これは言論の自由の問題ではないことに注意しよう。言論の自由とは言いたいことが言えることであり、ここで言えば、だれでもスピーカーズ・コーナーのどこかに木箱を置いて演説を始められることである。その自由は守られているし、守られなければならない。ただし、言論の自由は、聞きたくない人に自分の意見を強制的に聞かせる自由ではない。話を聞くか聞かないかは人の自由であり、強制的に人に自分の話を聞かせる権利は誰にも無い。Aのそばに1000人の聴衆が集まっていれば、その人たちはAの話を聞きたいのであり、Rの話を聞きたいわけではない。Rがその場に割り込んで発言し続けることは、聞きたくない1000人に強制的に話を聞かせることを意味しており、これは言論の自由の範囲には含まれない。単なる迷惑行為である。

ネットの議論が荒れるのは、言論の自由には含まれないこの“異常に強い情報発信力”をすべての個人が持っているためである。すべての人の耳元にいくらでも自分の言葉をささやき続ける(あるいは怒鳴り続ける)ことができるのは、情報発信力としてはあまりに強い。

なぜ情報発信力が最強に設定されているのか

振り返ってみて、そもそもなぜネットでこのような異例に強い情報発信力が設定されているのだろうか。電子的なネットワークでの情報発信力がいつもこのように強くなるわけではない。たとえば、今日のネットが広がる前にあったパソコン通信では、モデレータがいてローカルルールがあり、個人の情報発信力には緩い制約がかかっていた。ネットでも情報発信力を穏やかにすることは(のちに述べるフォーラムのように)工夫すれば可能である。ではなぜ今日のネットでは情報発信力がここまで強く設定されているのか。

それは、今日のネットの母体となったインターネットが学術ネットワークだったからだと考えられる。インターネットはもともとは1970年代にアメリカの大学間のコンピュータをつなぐことで始まり、当初の参加者は理系の大学院生や学者などで、いわば学術ネットワークであった。学術ネットワークならば個人の情報発信力は最強に設定されるべきである。なぜなら、一介の大学院生がハーバード大学の高名な先生に対しても研究会で「そこは違うと思います」といえるのが学問の自由というものだからである。かくして草創期のインターネットでは個人の情報発信力が最強に設定され、誰もそれに異議をとなえなかった。

個人が最強の情報発信力を持つと、濫用された場合は今日見るように議論が荒れてしまう。しかし当時、この問題はそれほど大きくならずに済んだ。これは参加者が研究者だけだったからである。研究者は仮説、演繹、検証といった科学的議論のトレーニングを受けており、議論に一定の論理性と論拠が保たれる。また、所属する研究室や専門分野から個人の名前が特定できるので匿名性がなく、あまり迷惑なことを行うと研究室の仲間あるいはボスからお叱りを受ける。かくしてすべての個人が最強の情報発信力を与えられても、濫用はほどほどに抑制され、なんとか議論の生産性は維持されていた。

しかし、インターネットが社会全体に拡大し、数多くの人間が参加するようになると状況は一変する。科学的議論の手続きを踏まなくてもよく、匿名なので相手の迷惑を気にする必要はないし、お叱りをたれるボスも同僚もいない。新規参加者の大半は穏やかで中庸な普通の人であるだろう。が、少数ではあっても特異な人が現れるのは避けがたい。たとえば、自分の思いこみを繰り返すだけの人、特定の政治信条を述べ続ける人、論破したいだけの人、陰謀論を唱える人、単に目立ちたい人、ストレスを解消したい人、さらに心に闇を抱え相手の嫌がる様子を見たい人までも現れるだろう。世界は奥深く、無限の異質さと多様性に満ちている。その多様性の海のなかからは学術ネットワークの時代には予想もしなかった人々が現れる。彼らには生産的な議論をする用意がそもそもない。そのような人たちは数としては少ないだろうが、それでも個人として最強の情報発信力を持っており、いくらでも相手の耳元で自分の主張を述べつつづけることができる。

その結果、何が起こるか。ネットに残るのは、相手の言うことを一切聞かずに一方的に自分の主張を、疲れを知らずに言い続ける人々である。相手と対話し生産的な議論を行いたい多くの人はネットから消えていく。ネットでの議論がほとんどの場合、相手を非難し、責めることだけになってしまうのはこのためである。要約すれば、学術的な、あまりに学術的なネットワークが、広大な異質さをはらむ世界全体への適用に堪え得なかったこと、ここに失敗の本当の原因がある。

現在、ネットで生産的な議論を続けているのは、強靭な精神力と知性を備えた例外的な人だけである。彼らは尊敬に値する偉人であり、まことに頭が下がる。が、それはあくまで例外であり、大多数の人にとってネットはもはや議論する場所ではない。

(3)フォーラムの提案

フォーラムのアイデア

ではどうすればよいか。ここまでの考察にしたがえば、対策は異例に強い情報発信力を正常化してやることである。そのための方法としてフォーラムという仕組みを考えよう。フォーラムとは情報の受信と発信が非対称なツイッター内の部屋のようなもので、メンバーが集まって議論を行う。具体的にはツイッター内の付加機能として実現する。骨子を列挙する

1(メンバーシップ制)主宰者がフォーラムを設立する。フォーラムのメンバーになるのは主宰者が招待した友人、あるいはその友人が招待した友人に限られる

2(受信と発信の非対称性)フォーラム内に書き込めるのはメンバーのみである。ただし読むのは誰でもできる

3(退会と消滅)紹介者は紹介した人を退会させることができる。また、一定期間、書き込みがないとフォーラムは自動消滅する。

主宰者がなにかテーマを決めてフォーラムをつくる。テーマは、環境問題、格差問題などの社会問題から、山登り、アイドル、料理など趣味の話題でも主宰者が好きに決めればよい。そのうえで図3(i)のように主宰者はメンバーを招待する。主宰者に直接招待されたメンバーAは他のメンバーのB、Cの招待ができる(もう一段重ねてもB,Cも招待できるようにしてもよいが、デフォルトでは一段だけとしてく)。

このフォーラムに書き込めるのはメンバーだけである。図のγはフォーラムのメンバーではないので書き込めない。書き込みをメンバーに限ることで見知らぬ第三者のフォーラム内への情報発信は制限され、ここで情報発信力が抑制される。フォーラムに書きこめるのはメンバーだけにしたことで、フォーラムは議論の質を保つことができる。

一方、読むのはだれでもできる。このフォーラムをフォローしておけばフォーラム内の議論はすべて自動的に配信されてくるし、また、フォーラム内の書き込みをリツイートしたり、リンクをはってウエブや他のSNSなどに貼って拡散することも自由である。図3(ii)のαは、フォーラムをフォローするとともに、そこでの書き込みを外部にリツイートして拡散している。以上がフォーラムの骨子である。

図3 フォーラムとは

出所:田中辰雄『ネット分断への処方箋』勁草書房 p.105

フォーラムの趣旨をもう少し説明する。誹謗中傷を防ぐ工夫としてメンバーシップ制をとった例としては、オンラインサロン、メールマガジン、LINE、フェイスブックなどがあり、いずれも書き込める人を制限して誹謗中傷の抑制に成功している。ただ、読める人も制限されているため、世論形成力がほとんどない。フェイスブックは多くのユーザがおり、内部ではそれなりの生産的な議論が行われているが、ネット世論への影響がほとんどないのはおどろくべきことである。ネット上で世論を形成しているのはツイッターとニュース掲示板であり、これからわかるように世論をつくるためには誰でも読めるメディアである必要がある。このフォーラムは、書き込みはメンバーに限るが読むのは誰でもできるようにすることで、誹謗中傷をおさえながら世論形成力を維持している。

フォーラムで取り上げるテーマは政治的な議論だけではなく、幅広い話題が考えられる。たとえばさまざまの趣味のフォーラム、NGO活動のフォーラム、学術的議論のフォーラム、地域フォーラムなどである。趣味のフォーラムはそれこそ、旅行、ドライブ、手芸、俳句、クラシック音楽などありとあらゆるジャンルのフォーラムが立ち上がるだろう。芸能人やインフルエンサーのたちあげたフォーラムも現れ、人気を博するだろう。

このようなフォーラムなるものに需要があるか疑問の方がおられるかもしれない。そのような方には、すでに先例があることをお伝えしたい。インターネットに置き換わる前のパソコン通信の時代には、実に数百のフォーラム(に類するもの)が立ち上がり、活発な議論と交流を続けていた。これが先例である。あのときに賑わいを知る人なら、人々の間にこのようなフォーラムのような交流の場への潜在需要があることはよくわかるはずである。

ヘイトスピーチ対策としてのフォーラム

なお、このフォーラムには、議論を生産的にする以外の効果もある。その一つは炎上対策である。フォーラムのメンバーが目にするのはフォーラム内の書き込みだけなので、炎上してもフォーラム参加者は炎上攻撃者の書き込み見なくて済む。フォーラムはいわば炎上からの防護シェルターの働きをすることになる。芸能人など攻撃されやすい人の場合、フォーラムをつくってその中で知り合いと話をしていれば安心であろう。炎上事件で自殺にいたった木村花さんも、フォーラムの中にいれば死を免れたと考えられる。

それ以外にもフォーラムにはさまざまな効果(そして副作用も)がありうるが、ここでは割愛する。【注1】ただ、最後に重要な論点として、フォーラムはヘイトスピーチ対策にもなることを指摘しておきたい。イーロン・マスク氏は言論の自由を最重要視する言論の自由主義者と自称している。言論の自由を最重視した時に問題になるのはヘイトスピーチで、今回の買収劇で複数の記事が憂慮を表明した。フォーラムはヘイトスピーチ問題を解決するとまではいかないが、一定の改善効果が期待できる。最後にそれがなぜかを述べよう。

まず、ヘイトスピーチをする人の数は少ないということを確認しておこう。日本でのヘイトスピーチは在日韓国人、あるいは外国人全般に向けられているが、外国人排斥を唱える人の数は多くなく、せいぜい2~3%のオーダーである。【注2】それだけ少ないにも関わらずヘイトスピーチが目に付くのは、すでに何度ものべたように個人の情報発信力が異常に高いためである。

ツイッターでヘイトスピーチをリプライあるいはDMで送れば一度はその人の目に触れる。相手が十万人のフォロワーを抱えるなら、リプライをたどる多くのフォロワーの目にはいる。ヘイトスピーチに反論でもしようものなら十万人のフォロワー全員がヘイトを読むことになってしまう。ヘイトスピーチを読みたい人など誰もいないにもかかわらず、多くの人がそれを強制的に目にしなければならない。これが強すぎる情報発信力がもたらす帰結である。

フォーラムが十分に普及するとこれが抑制される。まずフォーラム内で議論する限りは、メンバーの書き込みしか見ないので、メンバーは第三者のヘイトスピーチを見ることはない。フォーラムをフォローする人も、フォーラム内の書き込みにヘイトはないのでヘイトスピーチを見ることはない。したがって、ヘイトスピーチを書く人は読んでくれる人を見つけにくくなる。たくさんのフォーラムが立ち上がり、人々が主としてフォーラムをフォローするようになるとヘイトスピーチが入り込む余地がなくなってくる。すなわちヘイトピーチをする人の情報発信力は低下する。

ヘイトスピーチする人にはそもそも聞き手がいない。ヘイトの書き手のフォロワー数を見るとほとんどが2ケタ程度であり、自分自身の聴衆がほとんどいない。他者の言論空間に割り込むことでしか自分の意見を聴かせることができないのがヘイトスピーカーである。したがって割り込むことができないようにすれば、すなわち情報発信力を正常化してやれば聴衆を失う。聴衆を失えばやる気を失い、失速する。

そんなことで十分かという疑問があるかもしれないが、この対策には先例がある。それはリアルの世界でのヘイトスピーチ対策である。かつて韓国人街や朝鮮人学校のそばでの嫌韓デモがヘイトスピーチとして問題になったが、これは現在はかなり鎮静化している。NHKのニュースには2013年には年間100件を超えたヘイトデモが2020年には9件に減ったという記述がある。【注3】

これはヘイトスピーチが禁止されたからではない。ヘイトの解消法はできたが、特定の表現や言葉を禁じることはできても表現を変えればヘイトは可能なので、いまでもヘイトデモは可能である。鎮静化したのは解消法のせいもあるが、それよりデモの許可方針が変わり情報発信力を抑制したことが大きいと考えられる。かつては韓国人街や朝鮮人学校のそばでデモが行われ、聞きたくない人の耳元に強引に語り続けることができた。しかし、現在はデモの許可が出るのは遠く離れた路上や公園である。そうなると誰も聞き手がいない。周りにいるのはヘイトに反対するカウンターデモの人だけであり、デモはほとんど虚空に向かって叫ぶだけである。このことのむなしさは明らかで、ヘイトデモはやがて人が集まらなくなり、鎮静化していった。

この場合、言論の自由を守りながらヘイトスピーチが抑制されたことに注意しよう。【注4】 いまでもヘイトデモをすることはできる。しかし、誰も集まらないし、誰の耳にも届かない。これと同じことをネットでも実現すればよい。ネットでヘイトスピーチをしてもよいが、それが誰の耳にも届かなければ、無いのと同じである。

これは思想の自由市場(market of ideas)による解決である。言論の自由を支える考え方として、思想の自由市場論というのがある。どんな思想・言論も自由にさせておけば、競争と淘汰によって良い思想が生き残るだろうという考えである。現在のネットではこれが実現されていないように見えるが、それは個人の情報発信力が異常に強く、市場が機能していないからである。スピーカーズ・コーナーの例でいえば、聴衆が1000人あつまった論者のそばにいって、いくらでもヘイトスピーチをはじめられるとすれば、ヘイトは淘汰されない。ヘイトを言いたい人は毎日スピーカーズ・コーナーに出かけて人が集まっているところに寄っていき、そこでヘイトを叫べば聴衆を獲得できるからである。経済学風にいえば巨大な負の外部効果が発生していることに等しく、外部効果がある時、市場は失敗する。

市場の失敗を防ぐには、この異例に高い情報発信力を抑制すればよい。ヘイトを言いたい人は、スピーカーズ・コーナーで自分で演台を置いて、自分で聴衆を集めて話さなければならないようにするのである。ヘイトを聞きたい人などいないのであるから、彼のもとには誰も集まらずに1日が終わる。それを繰り返せればやがて彼はむなしくなり公園に来なくなる。思想の自由市場によりヘイトスピーチは淘汰され消えたことになる。現在、思想の自由市場が働いていないのは、個人の情報発信力が異常に強いせいであり、これを抑制すれば思想の自由市場による淘汰は復活する。

ツイッター社は言論の自由に最大の価値をおく方針のようである。そうであるなら、思想の自由市場が働くような環境を整える必要がある。フォーラムはそのために役立つ。というわけで、イーロン・マスクさん、フォーラムをつくってはどうでしょう?

【注1】フォーラムの詳細は、拙著『ネット分断への処方箋』勁草書房2022、第4章をご参照願いたい

【注2】たとえば辻大介,齋藤僚介による次の調査では2.1%としている。「ネットは日本社会に排外主義を広げるか ── 計量調査による実証分析」https://www.taf.or.jp/files/items/1078/File/辻大介.pdf

【注3】NHK News おはよう日本、2021/6/25 「ヘイトスピーチ解消法5年、残された課題と対策」 

【注4】日本では言論の自由を守りながらヘイトスピーチの抑制に成功したという議論については次の本が詳しい。Shinji Higaki and Yuji Nasu (editor), 2021, Hate Speech in Japan: The Possibility of a Non-Regulatory Approach, Cambridge University Press。この本は日本のヘイトスピーチ対策を海外に紹介する目的で書かれており、タイトルが示すように、日本では欧米のような強い規制を使わずにヘイトを抑え込んだというのがその趣旨である。

プロフィール

田中辰雄計量経済学

東京大学経済学部大学院卒、コロンビア大学客員研究員を経て、現在横浜商科大学教授兼国際大学GLOCOM主幹研究員。著書に『ネット炎上の研究』(共著)勁草書房、『ネットは社会を分断しない』(共著)角川新書、がある。

 

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