2023.12.21
わたしたちが買うときにおこなっていること――なぜ消費は社会学的に研究されるべきなのか?
消費の拡大と拡散
消費を通して社会を考えるために消費を社会学的に分析する、それがわたしの研究の目標です。
ではなぜ消費を通して、社会を考えなければならないのでしょうか。それに対する答えは、まずは簡単にみえます。わたしたちは、日々消費をくりかえして生きています。食料や電気や娯楽など、何かを買わなければ生活できず、いくらそれが嫌だと思っても仕方がありません。自給自足でどこまで生活できるか考えてみればよいでしょう。その場合、暮らしはかなり小規模なものに押し込められます。たとえばわたしは歌をうまく歌えないし、おいしいパンも焼けない。しかし誰かにそれをやってもらい、その成果を商品として買うことで、豊かな生活を営むことができるのです。
良かれ悪しかれ、こうした消費をくりかえすことで、現代の生活はますます多様で、また複雑なものになっています。消費とはなにか。それをもっとも単純に定義すれば、お金を支払い、なにかしらのモノやコトを得ることといえるでしょう。ただし現代では、厄介なことに、少なくとも表面上はお金を支払わずにおこなわれる消費さえよくみられます。たとえばわたしたちは代償を支払わずに、テレビやYouTubeをみてInstagramを使うことができる。それが可能なのは、他の誰かが多くの場合、広告というかたちで支払っているからです。ではこの場合、誰が消費しているといえるのでしょうか。これはかなりの難問ですが、いずれにしろ現代の社会では、自分で支払う必要さえない「消費」まで日常化されており、それに依存して生活が送られているのです。
消費があきらかにすること
消費を研究することの重要性は、これでもう十分におわかりいただけたかと思います。現代では消費にまったく無関係におこなわれる活動を探すほうがむずかしい。たとえば教育は受験産業のなかに飲み込まれ、また介護や医療も消費と深く結びついています。恋愛だってなにかをともに消費するといった活動とかなりつよく関係しているのです。
だからこそ消費は研究に値するのですが、ただしそれだけでは、なぜ消費が社会学の研究の対象になるのかは、まだ充分にあきらかではありません。消費を何らかの意味で有用な財(お金やモノ、サービス)をやり取りすることだとすれば、それは当然、経済学の対象になります。さまざまな財の「交換」の機会として消費をモデル化し、精緻に分析すれば、どんな政策によって各人の消費をどれだけ増やせるかといった計算(当たるかどうかは別として)もできるようになるのです。
あるいは企業の立場に立ち、いかにモノを売るのか、いかなるモノが売れるのかを考えることもできます。現実は複雑で、それが分かれば苦労はないともいえますが、こうしたマーケティング的手法によって、一定の傾向性を読み取ることもたしかにできるかもしれません。
けれどもわたしが「消費の社会学」としておこないたいのは、こうしたことではありません。それらによって、経済のうまい運営の仕方や商売のやり方について発見できるかもしれませんが、それを超えて、社会について充分に考えることはむずかしい。ここでいう社会とは、集団として人びとが生きることで、さまざまな願望や欲望、愛や憎しみ、正義や不正が入り混じり、コンフリクトを起こしている、この現実の場のことを意味しているからです。
社会は、何かを一方的に正しいとみなして片付くものでもなければ、正確なモデルをつくることで未来を予測できるものでもありません。さまざまに矛盾があるそうした場にわたしたちは逃れがたく埋め込まれ生活しているのであって、だからこそ捉えがたくもあるこの社会について、それでもなんとか知ろうとすることが社会学の役割なのです。
消費を分析することは、そのために一定の貢献をはたせるというのが、わたしの発見です。それはなぜか。重要になるのは、お金を支払うことでさまざまな望みや願いをたとえ身勝手であっても、叶えられるということです。もちろん法律に反する危険なことや他者の権利を侵害しようとすれば、取り締まられます。しかしそれは消費に内在する限界ではありません。消費そのものに焦点を絞れば、人びとは昔から、時には異端視され、糾弾されながらも、自分の望みを叶えるために何かを買い続けてきました。
現代社会にはこうした自由な消費がますます拡大しています。たとえばそれをファッションの歴史から確認できるでしょう。自分で好きに着たいものを着られるようになったのは一体いつの頃からなのでしょうか。性別や年齢、階層によって大きく異なりますが、いまファッションの動向を左右している若い女性についてみれば、それはそう遠い昔のこととはいえません。
既製服も充分に多様に売られておらず、また若い女性が自分で稼ぐための仕事先やアルバイト先を容易に見つけられない時分は、好きな服を買って着ることはほとんど不可能でした。1930年頃から戦後にかけて拡がる洋裁ブームはたしかにそれを補います。少しでも好きな服を着ようと多くの人が洋裁を習ったのですが、自分の好みの服をつくるにはそれなりの技量と修練が必要になりました。本当の意味で、10代後半から20代初めの女性たちが好きな服を手軽に着られるようになったのは、多様な既製服が安く売られ始め、さらに学生のアルバイトもさかんになる1970〜1980年代のことなのです。
好きな服を好きに着ようとし、多くの場合は挫折してきた人びとのそれなりに長い積み重ねを土台として、ファッションはいまではようやく自己選択できる消費の領域として若い女性たちに開かれています。ただし一方で人びとはただ好き勝手に消費しているわけではありません。大切になのは、消費が現実社会の制約のために不可能だった欲望を叶える手段として利用されていることです。
たとえば若い女性たちは、いまなお経済的な、またはジェンダー的に不利な境遇にしばしば置かれています。それを超える身近な手段としてあることで、ファッションへの関心も高いのではないでしょうか。自分で好きな服を選び着ているあいだ、少なくともその人は外面を自分のものとしてコントロールできます。社会がその人にこうあるべきと押し付ける要請に時には逆らい、場合によってはあえてそれを引き受けつつ、たとえば強かったり、かわいらしかったり、豊かだったり、理知的な存在であるように「装う」ことができるのです。
消費のこうした代替的な役割は、他の場面でも観察できます。たとえばわたしは『サブカルチャーを消費する』(2021、玉川大学出版局)という本で、子どもたちが20世紀なかば以降、マンガやアニメに引き寄せられたのは、それが年長者を乗り越えるという幻想をみせてくれたためと論じています。男の子たちは、弱い大人たちを尻目に自分たちは戦争に勝つことを夢みて、女の子たちはバレリーナになり、家庭に入った母親とは異なり職業的に成功することに憧れて、マンガを読む。
子どもたちがそうした夢を追いかけたのは、ひとつには膨らみ続ける消費社会のなかで、マイナーな立場に置かれていたからです。子どもたちに自由に使えるお金は少なく、消費社会がいまここでそそのかす夢の多くは実現できない。だからこそ彼・彼女たちは、サブカルチャーという安価な対象を消費することで、大人によって制約されず、自由に振る舞うことを夢みたのです。
消費が代替的な手段となるのは、多くの大人にとっても同じです。そもそもわたしたちは何の代償もなく、好き勝手にモノを買っているわけではありません。何かを買うためにお金が必要で、それを得るためにほとんどの人は渋々であれ働き、あるいは人の言うことや思惑に従っています。しかしだからこそ、現実社会のせちがらさを償う機会としての消費が重要になります。自分の時間を譲り渡し、人に従って生きていくなかで手放した夢や願望を、今度は獲得した金を支払うことで、少なくとも一定程度叶えることができるからです。
こうしてわたしたちは消費を通して社会に縛られると同時に、そこからの解放を夢みています。だからこそ消費を研究することで、この社会にいかなる制約があり、そして人びとがどうそれを越えようとしているのかを知ることができるはずです。たとえばこの社会では、金を持っているかそうでないか、またはジェンダーや人種や学歴や年齢といったちがいによって、多くの制約が課されています。消費をなぜ、どのように積み重ねてきたかをみることで、こうした制約が具体的にはいかなるもので、人びとがそれをどう越えようとしているのかを探ることできるのです。
消費が経済学やマーケティングにとどまらず、なぜ社会学の対象になるのか、いまではおわかりいただけたかと思います。現代社会におこなわれている消費は、それが多様な分だけ、この社会にさまざまな不自由と制約があることを照らしだします。先に述べたように社会は複雑でその姿を直観的に捉えることはむずかしいのですが、日々人びとによってくりかえされている消費を分析することで、集団として生きられている場としての社会の複雑かつ多様な姿に近づくことができるのです。
消費社会の難問
ただし消費の社会学は、現在の社会のあり方をただあきらかにするものにとどまることも許されていません。消費は、現代の社会にとってそれを許してくれないほどに大きな問題になっているからです。消費がいかなるもので、今後それがどうあるべきか考えること。価値判断が求められるという意味で、それは、社会学の一歩外にはみ出す危険な探究になる恐れもあります。社会学は、良いとか悪いとかいった価値判断を宙吊りにすることをスタート地点にするからですが、それでもなおそうしたルールを踏み越え、あえてよりよい社会について考えることが、現在の消費の社会学には求められているのです。
消費にかかわる大きな問題としては、まず貧富の差があります。消費活動に参加できるのは、お金を持つ者だけで、だからこそ貧富の差がこの社会では大きな問題となります。誰かがより多く、または少なくお金を持っていても仕方がないとみる人もいるかもしれませんが、稼ぎ支払う能力のない人――たとえば子どもや学生、病者、また一部の女性や高齢者、移民など――が、この社会では尊重される権利さえ少なからず奪われていることはやはり問題でしょう。「お客様は神様」といわれることがありますが、そこまでいかなくとも、お金を支払う者はこの社会では消費者として良かれ悪しかれ尊重されます。つまり消費が他に代えがたい役割を担っている社会では、貧富の差はたんに豊かさや貧しさにとどまらず、人が自由にまた尊厳を持って生きていけるかを否が応でも決めてしまうのです。
それとは別に、近年ますます大きくなっているのが、地球環境問題です。消費の拡大は資源の濫費を招くのみならず、近年ではとくに二酸化炭素の排出を増大させてしまうことで地球環境にダメージを与えるとされています。それはおそらく正しいのでしょう。先進国を超えてグローバルな規模で消費が拡大していけば、人類社会が大きな変革を求められるほどに地球環境に負荷がかかることを多くの人がいまでは科学的事実として認めています。
自由と多様性をいかに守るのか?
ではどうすればよいのでしょうか。現在のままではうまくいかず、何らかの対応が必要になることは認めなければなりません。ただしその場合に往々にして、消費が標的となり、制限されてしまうことが問題になります。消費を悪だと考える多くの人は、節約をして消費をできるだけ減らせば難問は解決されると主張します。代表となるのが、環境や他の人にできるだけ配慮したエシカルな消費をなすべしという主張です。無駄なものを衝動的に買うのではなく、環境の優しい消費だけ選んで買えば、たしかに貧富の差や地球環境問題を一定程度改善できるかもしれません。
他方、逆説的にも、サービスやモノを豊富に人びとに与えることで、問題は解決できると主張する人もいます。多くのサービスやモノが無償で与えられる夢のような世界が実現すれば、消費する必要がそもそもなくなるでしょう。これがひとつには福祉国家の拡大の先にみられている夢です。
こうした戦略がどこまで有効かは、ここでは置いておきましょう。それらは往々にして口だけの綺麗事で、実現はむずかしいという見方もあります。しかしここではそれを超えて、たとえそれらが成功して消費が減少したとして、別の、そしておそらくより大きな難問が生まれてしまうことが問題になります。
消費が、わたしたちの尊厳を守っていることは先にも触れました。そうであるのは、消費がまがりなりにもわたしたちが自分で決断する主体であることを保障してくれるためです。お金を支払うことによって、わたしたちは他人の思惑や暗黙のルールにあえて違反し、自分の好きなことを好きなように決定できます。だからこそ消費は、わたしたちがわたしたちであることを許し、結果として多様性を拡大する力になります。つまり他の人がどうであれ、自分の好みに従って物事を選択する権利を消費は保障してくれるのです。
残念ながらというべきか、この消費以上に個々の人びとに自由と多様性、そして尊厳をもたらすシステムは、現時点では発見されていません。宗教やさまざまな国家機構がそれを実現すると吹聴してきましたが、それは支配や暴力的な強制を招くばかりに終わったのです。他方、消費は、何が正しく正義かを決める共同体や国家といったとくに暴力的な力を及ぼす機構なしで、個々の人びとがそれぞれに自分の望むように生きることを支える最初の、そしてしばしば最後の保障になります。一朝一夕にそうなったわけではありません。長い時間をかけた人びとのさまざまな消費の試みやその挫折の積み重ねのはてに、現代社会では消費を媒介としたこれほど多様で自由な選択がまがりなりにも受け入れられているのです。
だとすれば消費を簡単に見捨ててしまっては取り返しのつかないことになるのではないでしょうか。消費を悪だと信じる人がいるかもしれませんが、消費の自由がまったく許されない社会を考えてみると役に立ちます。そうした社会に住みたいでしょうか。わたしはそうは思いません。たとえ「正義」がまかり通っていても、あるいはそうであるからこそ、自分でこうしたいと思うことも実現できず、どう考え、どう振る舞うのかが他人に監視され、場合によっては暴力的に強制される社会が、暮らしやすいものとは到底思われないからです。
ではどうすればよいのでしょうか。消費はたしかに弊害を生み、それには対処しなければなりませんが、消費を制約し、減らすことによってそれに対応することは避けなければなりません。むしろ消費を増やす、あるいはより正確には、万人にその権利を保障することによって問題には対応されなければならないのです。
そのためのひとつの手段として、わたしは『消費社会を問いなおす』(2023、筑摩書房)という本では、ベーシックインカムについて考察しています。ベーシックインカムとは、社会の成員すべてに一定の金を与え、消費の自由を保護するようなシステムです。それが可能になれば、少なくとも最低限の消費=選択の自由が保障されるばかりか、たとえば無理に働かなくともよくなることで、環境保護やあるいはエシカルな消費にさえ人びとが取り組む余裕が生まれる可能性さえあります。
ではベーシックインカムをいくらに定め、その財源はどうすればよいのでしょうか。あるいはそもそも日本のように経済停滞に陥った社会でベーシックインカムは実現できるのでしょうか。問題は山積みですが、ただし何より大切になるのは、そうした細かな議論をなすより先に、まずは消費が実現しているさまざまな自由を守る仕組みを何であれ考えていくことの必要性を認めることです。少なくとも現時点では、消費以上に同様の自由や多様性を個々人に保障するような手段やシステムは想像できません。だとすれば、こうした消費の自由や多様性をどうにか守り拡大していく道を探すことでしか、生きやすい社会をつくりだすことはできないのです。
消費を問うという航海
以上のようにして消費の社会学には、現代社会の根本的な問いに立ち向かうことが求められています。それも大文字の国際問題や経済を考えることからではなく、ファッションやサブカルチャーなど身近で日常的な消費を通して考えていくことが重要になります。わたしたちにとって一体何が本当に貴重で価値あるものなのかを、くりかえし、具体的な選択に立ち戻り考えてみなければ、日常生活における自由や楽しみは往々に些細なものとして軽く扱われ、等閑視されてしまいかねないのです。
多くの人にとって、この社会の未来は、かならずしもあかるいものに映ってはいません。日本、あるいはグローバルな社会は、むしろ人びとの尊厳と多様性を押しつぶす方向性に向かっているようにさえみえます。そうした未来を避けるためには、消費を万人に保障しながら、しかし格差社会や地球環境問題に対処する道をみつけなければなりません。そのために、消費を社会学的に考えることは役立ちます。消費が何であるのか、それによってわたしたちは何を模索し、いかなる限界を越えようとしているのかを考えることを通して、この社会の現在と未来を考えるという航海に、みなさんにも乗り出していってほしいと思います。
プロフィール
貞包英之
1973年生まれ。立教大学教授。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程単位取得満期退学。専攻は社会学・消費社会論・歴史社会学。著書に『地方都市を考える「消費社会」の先端から』(花伝社、2015年)、『消費は誘惑する 遊廓・白米・変化朝顔~一八、一九世紀日本の消費の歴史社会学~』(青土社、2016年)、『サブカルチャーを消費する 20世紀日本における漫画・アニメの歴史社会学』(玉川大学出版部、2021年)、『消費社会を問いなおす』(筑摩書房、2023年)など。