2025.12.10
憎悪の時代の処方箋――ジョン・ロールズに学ぶ「謙虚」で「強靭」なリベラリズムの未来
世界中で「リベラル」という言葉が、かつてないほどの逆風にさらされています。
「リベラル」といえば、少し前までは「自由」や「寛容」を重んじる良識ある態度のことでした。
しかし今や、SNSでは「傲慢」「エリートの道楽」といった罵声が飛び交い、憎悪の対象にすらなっています。
なぜ、これほどまでに嫌われてしまったのでしょうか。
そして、私たちはこの瓦礫の中から、未来を照らす理念としてリベラリズムを救い出すことができるのでしょうか。
今回紹介するのは、オーストラリアの哲学者アレクサンドル・ルフェーブル(Alexandre Lefebvre)がオンライン誌『Aeon』に寄せたエッセイ、「ロールズという〈贖う者〉(Rawls the redeemer)」です。
https://aeon.co/essays/john-rawls-liberalism-and-what-it-means-to-live-a-good-life
この記事は、20世紀最大の政治哲学者ジョン・ロールズの人生と変節をたどりながら、私たちが陥っている「リベラリズムの危機」を乗り越えるための、重要なヒントを与えてくれます。
リベラルは「宗教」なのか?
記事の冒頭で紹介されるのは、晩年のロールズが個人的なメモとして残した、ある意外な問いかけです。
「人生は贖われる必要があるか? もしそうなら、何によって?」 (Does life need to be redeemed? And if so, why; and what can redeem it?)
若き日のロールズは敬虔なキリスト教徒でしたが、第二次世界大戦の悲惨な体験を経て信仰を失います。
しかし、「平凡な日常は何かしらの超越的な価値によって『恩寵』を与えられなければならない」という感覚はもちつづけました。
神なき後、彼にとってその「救い」となったもの。
それこそが「リベラリズム」だったと著者のルフェーブルは指摘します。
ここに、現代のリベラルが抱える葛藤の根源があります。
教会に行かない多くの現代人(著者は「unchurched」と呼びます)にとって、リベラリズムはたんなる政治制度ではなく、事実上の「宗教」や「生き方」そのものになっています。
リベラリズムは、私たちの政治的意見だけでなく、家族から職場、友情から敵対、ユーモアから怒りに至るまで、人生のあらゆる局面において私たちの根底にある「社会や文明規模の何か」なのです。 (Liberalism … is that society-or-civilisation-sized thing that may well underlie who we are, not just in our political opinions but in all walks of life…)
私たちは、自由、公平、寛容といった価値観を、あたかも空気のように吸い込んでいます。
それは私たち自身のアイデンティティそのものです。
しかし、ここからが問題です。
私たちが「これが人間として最高の生き方だ」と信じ込むあまり、そうではない生き方(伝統的な宗教観や保守的な家族観など)をもつ人々に対して、「遅れた人々」「啓蒙されるべき人々」という視線を無意識に向けてはいないでしょうか?
この「無自覚な上から目線」こそが、反発と憎悪を招いている正体なのでしょう。
ロールズの「ためらい」が教えること
ロールズという哲学者の偉大さは、自身の理論が「独善」に陥る危険性を、誰よりも深く恐れた点にあります。
彼の主著『正義論』(1971年)は、世界中で絶賛されました。
しかし、彼は後にその理論を大きく修正します(『政治的リベラリズム』への転換)。
なぜか。
彼は気づいたのです。
「リベラルな生き方こそが善である」という価値観を全員に共有させようとすることは、異なる価値観をもつ人々への抑圧になりかねない、と。
ルフェーブルはこの転換を解説しながら、私たちに「二つのリベラリズム」の使い分けを提案しています。
ひとつは、「生き方としてのリベラリズム(Liberalism as a Way of Life)」。
これは、私たち個人の内面における羅針盤です。
公平さを愛し、他者に寛容であり、アイロニー(自分を絶対視しない余裕)をもつこと。
これは私たちにとっての「霊的」な実践であり、人生を豊かにする源泉です。
記事の中で、ロールズの思考実験「無知のヴェール」(自分がどんな立場で生まれるか分からないと仮定して社会を設計する)が、たんなる論理クイズではなく、他者への想像力を養う「精神的な修行(spiritual practice)」であると述べられているのは、とても示唆的です。
もうひとつは、「政治的リベラリズム(Political Liberalism)」。
これは社会のOS(オペレーティングシステム)としてのリベラリズムです。
ここでは、私たちは「リベラルな生き方」を他人に押し付けません。
保守的な宗教者であれ、伝統主義者であれ、互いに殺し合わずに共存するための「最低限の交通整理」に徹するのです。
未来のヴィジョンとして
私たちが目指すべき未来のリベラル社会のヴィジョンは、このふたつを混同しないような「成熟」にあります。
現在、世界中で起きている分断は、リベラル側が「私の生き方の正しさ(生き方としてのリベラリズム)」を、そのまま「国のルール(政治的リベラリズム)」にしようとして、保守層の猛反発を受けている側面があります。
「私の価値観は正しい。だからお前もこう生きるべきだ」という態度は、リベラルがもっとも嫌うはずの「狂信」と変わりません。
ルフェーブルの記事を通じて見えてくるのは、「公的な謙虚さ」と「私的な情熱」を両立させる道です。
政治の場では、自分と相容れない価値観(伝統や宗教など)をもつ人々の居場所も守るために、リベラリズムを「薄く、広い」合意形成のツールとして使うこと。
これが「謙虚さ」です。
一方で、私的な領域や市民社会の中では、リベラルな価値観を「人生を賭けるに値する素晴らしい生き方」として、堂々と、しかし楽しげに追求すること。
これが「情熱」です。
リベラリズムには、語るべき形而上学がありません。
魂? あの世? 人生の目的?
こうした言葉を、リベラルは鼻で笑うでしょう。
しかし、私たちは宗教の核心、つまり「自分を超えた何かを通じて人生の意味を求めること」を決して諦めてはいないのです。 (Liberalism, it is true, has no metaphysics to speak of. … Yet we’ve never given up on the core of religion: to seek meaning in life through something beyond us.)
リベラリズムは「憎悪の対象」から脱却できるはずです。
それは、他者を論破してひざまずかせることによってではなく、私たち自身がリベラリズムという「生き方」を通じて、いかに人生が豊かで、公正で、喜びに満ちたものになり得るかを、その背中で示していくことによってのみ達成されるでしょう。
ロールズがかつて信仰の喪失の果てに「地上の公正さ」に希望を見出したように、私たちもまた、この分断された世界で、他者と共に生きる技法としてのリベラリズムを、いま一度鍛え上げていく必要があるのです。
プロフィール
芹沢一也
1968年東京生。
慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。
・株式会社シノドス代表取締役。
・シノドス国際社会動向研究所理事
http://synodoslab.jp/
・SYNODOS 編集長
https://synodos.jp/
・SYNODOS Future編集長。
https://future.synodos.jp/
・シノドス英会話コーチ。
https://synodos.jp/english/lp/
著書に『〈法〉から解放される権力』(新曜社)など。

