2013.11.19

2020東京オリンピック・パラリンピックは何を目指すのか

石坂友司 スポーツ社会学/歴史社会学

社会 #東京オリンピック#長野オリンピック#2020年の東京

2020年大会の招致プランとLegacy

2013年9月8日、1964年以来2度目となる2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会(以下、2020年大会)の開催が決まった。周知のように、東京都は2005年に2016年大会の招致を表明し、リオデジャネイロに敗れたものの、東日本大震災直後の2011年7月16日に「復興五輪」を掲げて再び招致を表明し、今回の決定にこぎ着けた。

前回の1964年東京オリンピック競技大会(以下、1964年大会)もローマに敗れた後の2度目の立候補であり、意図的ではなかろうがその記憶が重なる。東京都にとってはある意味当然とも言える2020年に向けた招致活動の継続は、震災を経たことで大きな転機を迎えていた。このことは最後に述べたいが、東北地方をはじめとする地域の震災復興と東京の開発・再開発という異なるベクトルを共存させたという意味で重たい十字架を背負い込んだように思われる。

本稿は1964年大会が東京に何を残したのか=Legacyを確認しながら、2020年大会が何を目指して開催されるのか、それはどのような社会的意味をもつのかについて社会学的観点から考えていきたい。

まずLegacyについて説明しておきたい。この言葉は、受け継がれ、遺されていくもの=遺産という意味をもつが、商業主義に開かれた大会として有名な1984年のロサンゼルスオリンピック以降、オリンピック招致・開催の文脈で頻出するようになった。IOC(国際オリンピック委員会)がオリンピックに託した、スポーツ、都市再生、環境などの広範なパッケージを表現する言葉となった(Gold & Gold 2011)。開催立候補都市の増加によって、またIOCによる選考基準への積極的な位置づけによって、Legacyは肯定的評価に埋め尽くされていくのである。後述するように、使われなくなった競技場や無駄/過剰なインフラ整備は、負の遺産として都市や地域に存在し続けるが、そのこと自身を問うことのできないスキームが作られていると言える(石坂・松林編 近刊)。

そもそもなぜオリンピックの開催がこれほどまで注目されるようになったのだろうか。これまでのオリンピックは、経済成長をとげた新興国の都市が国威発揚を目的として開催してきたが、ロンドンをはじめとしてグローバル・シティによる開催が新たな動向を生んでいる。いわゆるスポーツ・メガイベントが「乏しい想像力」において都市の開発を正当化し、多くの問題を思考停止に陥らせる手段として利用されてきたと言える(町村 2007)。

ロンドンオリンピック(以下、ロンドン大会)を手本に掲げる2020年大会も上記の文脈に乗っている。この大会はどのような動機と目的で開催され、どのようなLegacyを作り出そうとしているのか、2013年1月にIOCに提出された立候補ファイル(*1)から眺めていこう。

(*1)この立候補ファイルは東京オリンピック・パラリンピック招致委員会HPで見ることができる。(http://tokyo2020.jp/jp/plan/candidature/index.html

このファイルは大会開催動機とビジョンの提示から始まる。なぜ東京オリンピックを開催しようとするのか、その一番重要とも言える動機を立候補ファイルから明確に読みとることは案外難しい。

例えば、冒頭に登場する「世界で最も先進的で安全な都市の一つである東京の中心で、ダイナミックなスポーツの祭典とオリンピックの価値を提供する」ことや、東京大会の基礎となる「高い質と最高の恩恵が保証される大会開催」、「ダイナミックさと温かい歓迎で世界中の若い世代に感動を与える祭典」、「日本が誇る創造力とテクノロジーを駆使し、スポーツとオリンピックに寄与する革新性」という文言はビジョンであり、動機ではない。

これがIOCに向けられた文書であることを勘案すれば、そのような先進性や革新性を備えた大会をオリンピックのために開催し、発展に寄与することが動機であると読めるかもしれない。では東京のためにこの大会はどのように位置づけられているのであろうか。

このことは2016年招致の際に作成された申請ファイル(IOCに提出される開催計画概要。これにより立候補都市がしぼられる)から探ることができる。申請ファイルでは以下のように明確な開催動機が語られていた。

私たちは今、歴史的転換点に立っている。日本は、現在、戦後経験した経済復興、社会復興に匹敵する大きな課題に直面し、その解決に取り組んでいる。だからこそ、2016年の大会を開催することに、1964年を超える意義がある。高度な都市化、高齢化、成熟社会といった課題を、世界で最初に、大規模に経験しつつある都市東京、日本。われわれの新しい挑戦は、こうした問題を解決し、新しい未来に向けて生まれ変わることである。

東京都が2006年12月に策定した都市戦略『10年後の東京』で語られた問題意識(*2)がこれに通底している。すなわち、大気汚染やごみの急増、道路の渋滞や鉄道の混雑、震災、テロといったいわゆる「20世紀の負の遺産」とも言える大都市問題の解決が新たなオリンピック開催に託されていたのである。これら負の遺産は1964年大会に向けた急ピッチの開発が生み出した問題としてとらえられている。

(*2)『10年後の東京』では「水と緑の回廊で包まれた、美しいまち東京を復活させる」、三環状道路(首都圏中央連絡自動車道、東京外かく環状道路、首都高速中央環状線)の整備と渋滞の解消、スポーツを通じて次代を担う子どもたちに夢を与えることなど、8つの目標が掲げられていた。

これに比べると2020年大会の立候補ファイルでは都市開発/戦略の視点が後景に退いたように見える。しかしながら、このことは「大会のビジョンは、2011年に東京都によって策定された、新たな長期都市戦略である『2020年の東京』と完全に一致している」という控えめな一文に集約されている。この『2020年の東京』とは2011年5月に東京都が策定した長期都市戦略であり、『10年後の東京』を充実・強化したものである。このようにオリンピックの開催動機は、東京都の都市開発/再開発のねらいに即して組み立てられてきたのである。

立候補ファイルから全体像を模索する作業はこれくらいにして、来るべきオリンピックがどのようなものになるのか、1964年大会との比較から明らかにしていこう。

 

1964年大会は何を残したのか

戦後日本がオリンピックに復帰したのは1952年ヘルシンキ大会であった。この年東京都は1960年大会(ローマ大会となる)の招致に向けて立候補を表明した。当時は高度成長の気配も感じられず、首都機能の回復すらままならない状態で、ましてやスポーツの基盤整備などに力が向けられる状態ではなかった。後に東京都知事になる東龍太郎(日本体育協会会長、IOC委員などを歴任)は「”青写真”と”もくろみ書”だけではオリンピックの招致はできない」ときっぱりと言い切ったとされる。

このように物理的に無理とするスポーツ界の反対を振り切って、大会の招致は東京都が独断で決めたものだが、都がいかなる目的で招致を目指したのかを明確に物語る文書がある。

オリンピック・ムーブメントの精神的、教育的価値を強調するだけでは、1964年という年に、東京でオリンピック大会を開催する理由とはならない。われわれの最大の主張は、今日、首都東京が次第に失いつつある都市的機能の欠陥を、この大会を一つの目標として、回復させ充実させることの重要性を指摘するものである(東京都議会オリンピック東京大会準備協議会 1961)。

これほど明快にオリンピック開催の動機を語れる時代だったことは興味深いが、それが解消できなかった問題として2016年、2020年の招致に引き継がれていることはすでに示してきたとおりである。この時からオリンピックは一貫して都市開発の手段として位置付いてきたのである。

1964年大会を象徴する高度成長というキーワードはその当時の人びとに実感的に経験されていた言葉ではない(武田 2008)。それが後に敗戦の困難からの決別を意味するようになり、驚異的な経済的発展とそのような社会を象徴する言葉となった。同時に高度成長の神話は1964年大会の成功に収斂してもいる(石坂 2009b)。高度成長の起点となる1955年から東京大会の1964年まで、実質国民総生産の伸びは年平均10%台を記録し、勤労所得は約3倍、一人あたりの実質所得も約2.5倍の増加を見せた。

1964年大会がもたらしたインフラ整備は多岐にわたる。1959年の開催決定を受けて、東海道新幹線や首都高速道路の建設、オリンピック競技場を結ぶオリンピック道路、地下鉄の建設などが急ピッチで進められていった(*3)。

(*3)当時の状況はプロジェクトXが描いた『東京五輪への空中作戦』(DVD)や『東京風景3 オリンピックへ! 東京大改造1962-1964』(DVD)などで垣間見ることができる。

組織委員会経費や競技場建設などの直接経費約265億円に対して、街路整備、上下水道整備、東海道新幹線建設などの間接経費約9,600億円を入れれば、オリンピック関連事業費は約1兆円近くになる。当時の一般会計歳入額が約3兆4,000億円であるから、その額の大きさがわかるだろう。東京都はこれを1964年大会が残した最も「大きな遺産」と評しているが、東京全土を整備するわけには到底いかず、オリンピック周辺地域の限定的な開発にとどまった。一方、日本全土に目を向ければ東京一極集中の開発であったと言える。

これらオリンピック関連事業がもたらした急速な開発は景観設計という配慮を欠き、以後の都市計画を停止させ、整備の及ばない地域を数多く出現させたと批判される(越沢 1991)。五街道の始発点としてにぎわった日本橋上空を通過する首都高速道路(*4)が美観を損ねる負の遺産として良く引き合いに出されるが、当時この道路は「橋と一体の調和」を保つ未来の都市の象徴だった(石渡 2004)。かつては「水の都」と称された街並みを消失させたオリンピックが、再びそれを取り戻す手段として位置づけられる様は何とも皮肉である。

(*4)現在の石造りの日本橋は2011年に架橋100周年を迎えた。近年国土交通省の「首都高速の再生に関する有識者会議」が地下化による全面更新の必要性を訴え、「高架橋を撤去し、地下化を含めた再生を目指すべき」との提言(2012年9月)をまとめている。小泉政権下の私的諮問機関でも同様の見解が出された経緯がある。数千億円規模の事業費から見送られたが、今後再燃することも考えられる。

1964年大会の開催は東京のインフラ整備を成し遂げたのみならず、日本にとっても戦後復興を世界に示すナショナル・プライドを喚起する大会として位置付いていった。それが高度成長の神話と併存するとき、日本人にとってのオリンピック開催は「国家の祭典」に位置付いていったのである(石坂 2009b)。

長野大会からの補助線

ここで一つの補助線を引いてみたい。オリンピックを開催することが国・都市・地域にどのような影響をもたらすのかについて、1964年大会の検証では時間的距離がありすぎる。そこで筆者は東京大会の開催を想定して、2008年からスポーツ/都市を専門とする社会学者の共同研究として、開催から10年を経過した長野オリンピック(以後、長野大会)を題材に調査研究を実施してきた。成果は11月に刊行を予定しているので、詳細についてはそちらを参照いただきたい(石坂・松林編 近刊)。

夏と冬の大会の違いこそあるが、長野大会は日本で開催された直近のオリンピックであり、15年を経過したいま、十分な効果と影響が検証できる位置にある。本稿との関係で言えば、まず大会競技施設の後利用が大きな課題であることを指摘できる。

長野市では競技施設の維持費が財政に重くのしかかっており、積み重なった市債の返済は依然として目途が立っていない。長野大会前の市債残高が1988年で約500億円であったのに対して、1998年には約1,900億円にまで増大し、現在も1,000億円を割り込むことはない。そのことを住民はあまり理解しておらず、報道でも目にすることは少なくなった。これはスポーツ・メガイベント招致の根本的な問題で、招致/準備/開催に注目が集まる一方で、開催後にはほとんど目が向くことはない。イベントの開催、競技場建設やインフラ整備が事前の期待に対してどのような効果と課題をもたらすのかという、都市や地域にとっては一番重要であるはずの問題が放置されてきたと言える。

ここで詳細を論ずることはできないが、上信越自動車道路や北陸新幹線の建設は東京への時間的・心理的距離を縮めたし、ボランティア団体の組織化、一校一国運動からの継続的実践といった無形のLegacyをも生んだ。我々の共同研究の結論はメガイベントの効果・影響すべてを経済的価値に還元するのではなく、地域の独自性・特殊性、個別の実践から読みとるべきというものだが、地域がオリンピックにこめた開発・成長の期待は大きく裏切られたことは間違いない(石坂・松林編 近刊)。それが検証されないままに新たなイベントがやってくるのである。

同様の視点からロンドン大会の検証を踏まえつつ2020年大会の動向を見据える作業が今後必要になる(*5)。

(*5)例えば、筆者がかかわったシンポジウム「ロンドン・オリンピックをめぐるポリティクスを考える」(第22回日本スポーツ社会学会大会、2013年3月)では現代的オリンピック開催の力学、国家とスポーツ政策、都市開発の様相について議論をした。以下の『日本スポーツ社会学会会報』57: 28-32、概要を参照。(http://www.jsss.jp/_src/sc301/kaihou_2013.pdf

2020年大会が都市にもたらす変化

長野大会の検証を踏まえて、2020年大会が東京にもたらす変化について考えてみたい。創造されうる希望に満ちた世界は大手メディアを中心にあふれているので、バランスをとってここでは取り扱わないことにする。

まず、スポーツ界のことを考えれば、スポーツ行政の一元化と推進、そのことによるスポーツ環境の変化があげられる。立候補ファイルにも新設/改修された競技施設と地域の統合(身近でスポーツを楽しむ機会の提供)、イベント及びスポーツ技術・科学機関の創設、アスリートの医療的・科学的支援、地域レベルのスポーツクラブの活動推進、スポーツ振興コミュニティ・プログラムなど美辞麗句が並ぶ。

スポーツ庁の創設がかなえば、多様な省庁に分散されているスポーツ支援の効率化が実現するだろう。ただし、現在注目を浴びているのは大会でいくつのメダルが獲得できるのか、そこに向けた強化の行方のみである。近年のオリンピック開催国並みならば、1年間に100億円を超える強化費の投入が予想されるが、そこで得られたメダル数の意味については根底から議論されるべきだろう。総合型地域スポーツクラブの育成など、地域スポーツ振興にその何分の一かでも向けられれば劇的にスポーツ環境が整備されうる可能性をもつからである。

東京が期待を寄せる都市開発の様相は『2020年の東京』と立候補ファイルからある程度予想がつく。しかしながら、都市開発がどれほどの規模で実施されるのか、経済的な負担については未知数である。新国立競技場の改築が当初計画案の1,300億円から3,000億円に上積みされるなど、計画の上方修正がすでに始まっている(*6)。

(*6)建築家・槇文彦らの問題提起により神宮外苑の景観や歴史的文脈を踏まえた再考が迫られており、建設費負担に関しても国と都のさやあてが始まっている。長野大会の場合、直接経費は国内選考時の約400億円に対して、IOCへの立候補時に約760億円、最終的に約2,500億円まで膨らんだ。上信越自動車道や北陸新幹線の建設を含む間接経費を合わせると約1兆5,000億円が費やされた(石坂・松林編 近刊; 相川 1998)。ロンドン大会では当初予算の3倍にあたる約90億ポンドが計上されている。ちなみに、2020年大会は関連事業費を含まずに約7,000億円の見通しを立てている。

長野大会の検証で述べたように、オリンピック最大の問題が開催後の展望をもちえていないことである。競技場の後利用・維持費の問題に始まり、都市空間がどのように変貌していくのかについてはこれまで十分な議論が展開されてこなかった。都民がどのような街並みを望むのか、専門家を含めたオープンな議論こそ求められていると言えよう。このことは税金の使い道に対して都民、ひいては国民が民主主義的手続きの中に含み込まれることを意味するからである(*7)。

(*7)新国立競技場の建設に対して行われたシンポジウム「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」などを参照。(http://www.ustream.tv/recorded/39735449

2020年大会が掲げる「水と緑の回廊」で包まれた、「美しいまち東京」の復活という発想には魅力を感じるが、その代償として支払う大規模開発・再開発のパッケージがもたらすネガティブな影響には最大限の警戒が必要だ。その最たるものとして注目を集めているのが築地市場の移転問題と移転跡地の開発シナリオである。移転予定地ではベンゼンをはじめ環境基準の数万倍にも及ぶ汚染物質の存在が確認されており、食の安全・安心の問題が開発の前に脅かされている。オリンピック招致にからめて以前から焦点化されてきた問題の一つであり、開催決定による推進力の増大が懸念される(*8)。

(*8)この問題の経緯についてはIWJの問題点要旨(東京中央市場労働組合作成)が詳しく、関連動画もアップされている。(http://iwj.co.jp/feature/tsukiji/archives/60#more-60

オリンピックの開催準備は建設資材・人材の集中により物資・人件費、地価の高騰などを引き起こす。1964年大会では全国の職人が集められ、不眠不休の突貫工事が繰り広げられた。このことは「復興五輪」を掲げていた2020年大会にあって、逆説的に被災地の復興を押しとどめる要因になりうる。すでに競技場の落札価格高騰などが始まっており、震災復興との両立不可能性が現実味を帯びてきていると言える。このことは最後に触れる。

オリンピックをはじめとするメガイベントにつきものなのが、都市の景観を整え、イメージアップをはかるという名目で行われる住民・野宿者の排除である。スポーツイベントが「都市のイマジニアリング」(都市の現実の隠蔽と非日常の演出)を作動させながら排除の契機となること(原口 2008)、あるいはスポーツ施設の設置そのものがその手段として用いられることはすでに明らかにされている(山崎 2013)。長野大会で外国人を一斉に排除した「ホワイトスノー作戦」は有名であるし、北京大会では住民の露骨な排除にまで及んでいる。都市地理学の視点からは「ジェントリフィケーション」(経済的に豊かな階層の流入、住民の排除による地域特性の変質など)の及ぼす影響・問題などが問われなければならない(森 2006)。

オリンピック開催の経済波及効果を中心とした経済一辺倒のバラ色の未来に対して、以上のリストは現時点で想像される最も見えやすいネガティブな側面の一部である。これらをいかに最小限に抑えられるかがオリンピックと開発をめぐる攻防点となるだろう。

「震災五輪」は果たして可能なのか

最後に、2020年大会開催の是非を問う上で、欠くことのできない最大のピースを指摘して論を閉じたい。それは2011年に発生した東日本大震災である。2020年大会の招致が表明されたのはすでに記したとおり震災から4か月余りの2011年7月16日であった。この日は日本体育協会・日本オリンピック協会の100周年を祝う式典が開催され、ジャック・ロゲIOC会長(当時)が来日していた。日本の2回目のチャレンジを表明する場としてはこれ以上にない舞台であったことは間違いない。

筆者はオリンピック開催に対して必ずしも批判的なわけではない。しかしながら、この判断が妥当であったかを問われれば、否と言わざるをえない。それは同じく物理的に無理と言われながらも戦後復興を標榜した1964年大会とは事情が大きく異なるからだ。2013年の現在においても震災復興は道遠く、依然として日常生活さえままならない多くの住民が存在する。また、福島原発の事故収束は望むべくもない。連日報道される原発の汚染水問題とこの先何十年続くかわからない潜在的な放射能リスクを鑑みたとき、オリンピックに浮かれている余裕はあるだろうか。そのことを忘れ去るかのように強調される祭りの華やかさは筆者の想像力を超えている。

2020年大会の招致表明に際して掲げられたのは紛れもなく「震災五輪」の旗印だった。招致委員会が作成した申請ファイル(2012年2月)は以下のようにつづられていた。それが立候補ファイルでは被災地への言及ははるか後景に引いている。

私たちはスポーツの力を信じている。夢、希望、目標、前向きな変化を生み出せる力を信じている。……スポーツ界の強い熱意と被災地の支持を得て、東京は2020年オリンピック・パラリンピック競技大会の招致を決意した。大会を開催することは、復興を目指す私たちにとって、明確な目標と団結をもたらし、支援を寄せてくれた全世界の人々への感謝を示す機会となる。大会の開催は、スポーツの持つ大きな力が、いかに困難に直面した人々を励まし、勇気づけるかということを世界の人々に示すことになるだろう。

なでしこの活躍に始まり震災以降繰り返される「スポーツの力」の称揚。これ自体を否定するものではないが、スポーツの力は日常の生活があってこそのものであり、復興への推進力となってこその力である。復興というならば、「まずは人間の復興、生活の復興」が先であろう(栗原彬他 2012)。それは招致が現実味を帯びたときに、足を引っ張るかのような原発の汚染水問題に対して「東京は福島から250kmも離れている」と言い放つ感覚とはほど遠い。

唯一このオリンピックに期待を託すとすれば、開催地が決まるIOC総会を前に国が原発対策の前面に現れたことである(*9)。招致に向けたアリバイ工作にとどまるのではなく、オリンピック開催のための準備・都市計画の推進と同程度かそれ以上に、被災地の復興に向けた推進力と原発問題に対する指導力の発揮を期待したい。オリンピックを開催するまでにすべてのひとびとの日常を取り戻すこと、それが「震災五輪」の最大の価値となるであろうから。

(*9)言うまでもないが、オリンピックに対する国の支援とともに、税金導入の実態が覆い隠されている。また、原発政策の立ち位置すら定まっていない。

日本が開催権を得た夏季オリンピックは実のところ今回が3度目である。戦争への突入によって返上された1940年のいわゆる「幻の東京オリンピック」が1度目に位置付く(石坂 2009a)。その歴史を忘れることなく、1964年大会からの連続性を踏まえて2020年大会をとらえなおす視角といま現在の社会学的分析が必要である。ここまで示してきたように、2020年大会が開催されることの社会的意味は依然として揺らいでいる。オリンピックとは日本人にとってどのようなイベントであるのか、いま一度考えるきっかけとしたい。

引用・参考文献

相川俊英、1998、『長野オリンピック騒動記』草思社。

Gold, John R. & Margaret M. Gold, 2011, “Introduction,” John R. Gold and Margaret M. Gold eds., Olympic Cities: City Agendas, Planning, and the World’s Games, 1896-2016, 2nd ed., Oxon: Routledge, 1-13.

原口剛、2008、「都市のイマジニアリングと野宿生活者の排除──1980年代以降の大阪を事例として」『龍谷大学経済学論集』47(5): 29-46。

石坂友司、2004、「国家戦略としての二つの東京オリンピック──国家のまなざしとスポーツの組織」清水諭編『オリンピック・スタディーズ』せりか書房、108-22。

石坂友司、2009a、「東京オリンピックのインパクト──スポーツ空間と都市空間の変容」坂上康博・高岡裕之編『幻の東京オリンピックとその時代』青弓社、96-124。

石坂友司、2009b、「東京オリンピックと高度成長の時代」「年報日本現代史」編集委員会編『年報・日本現代史』14:143-85、現代史料出版。

石坂友司・松林秀樹編、近刊、『〈オリンピックの遺産〉の社会学──長野オリンピックとその後の10年』青弓社。

石渡雄介、2004、「未来の都市/未来の都市的生活様式──オリンピックの60年代東京」清水諭編『オリンピック・スタディーズ』せりか書房、154-72。

片木篤、2010、『オリンピック・シティ東京──1940・1964』河出書房新社。

越沢明、1991、『東京の都市計画』岩波書店。

栗原彬他、2012、『3・11に問われて──ひとびとの経験をめぐる考察』岩波書店。

町村敬志、2007、「メガ・イベントと都市空間──第二ラウンドの『東京オリンピック』の歴史的意味を考える」『スポーツ社会学研究』15: 3-16。

森正人、2006、「消費と都市空間──都市再開発と排除・監視の景観」加藤政洋・大城直樹編『都市空間の地理学』ミネルヴァ書房、133-49。

老川慶喜編、2009、『東京オリンピックの社会経済史』日本経済評論社。

武田晴人、2008、『高度成長』岩波書店。

東京都議会オリンピック東京大会準備協議会、1961、「オリンピック東京大会準備促進に関する意見書」。

山崎貴史、2013、「公園のスポーツ空間化と野宿者の排除──名古屋市若宮大通公園を事例に」『スポーツ社会学研究』21(1): 85-100。

サムネイル「CONGRATS TOKYO!」François Péladeau

http://www.flickr.com/photos/blazinred/9693786377/

プロフィール

石坂友司スポーツ社会学/歴史社会学

1976年北海道生まれ。奈良女子大学研究院人文科学系准教授。筑波大学大学院博士課程体育科学研究科単位取得退学。博士(体育科学)。共編著に『〈オリンピックの遺産〉の社会学──長野オリンピックとその後の10年』(青弓社)、共著に『21世紀のスポーツ社会学』(創文企画)、『幻の東京オリンピックとその時代』(青弓社)、論文に「東京オリンピックと高度成長の時代」(「年報・日本現代史」第14号)など。

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