2013.01.19

各地の立場を伝える全国紙 

市川明代(毎日新聞記者)×荻上チキ

社会 #震災復興#原発作業

毎日新聞記者・市川明代さんは、三陸支局に2011年6月から一年ほど勤務していた。新聞記者として、女性記者として、社会部記者として、被災地取材・報道を通して何を思ったのか。何を伝えるべきなのか。荻上チキによるインタビューにお答えいただいた。(構成/金子昂)

答えのないなかで取り組まなくてはいけない

荻上 今日は、毎日新聞の市川記者に、被災地取材の課題についてお話を伺いたく思います。

市川記者が震災以前どのような活動をされていて、震災後どういう活動をされているのか。また取材していくなかで感じたことや記事への反応、ソーシャルメディアの活用方法など、いろいろなお話をお聞かせいただければと思っています。はじめに、市川記者は震災前にどのようなお仕事をされていたか、お話ください。

市川 わたしは震災前、非正規雇用や日雇い派遣の問題などの労働問題を2年ほど担当していました。

これまで、労働担当の記者は、主に労働組合を取材し、「解雇は駄目、非正規雇用はけしからん」と主張するだけでよかったし、わたしもそう信じていました。でも若い人に取材すると、「雇用規制によって中高年のクビを切れないから、自分たちが正社員になれない」とさえ思っていたりする。業績の悪化している企業が人件費を抑えたいと考えるのはもっともですし、そういう単純な話ではなくなってしまっています。

労働問題ひとつとっても色々な言い分があり、どちらが正しくて、どちらが間違えているのかが言えない時代、何かを叩けばすむ時代ではないのだと思います。「誰が悪い」とは言い切れないなかで、どのように書くべきか悩みながら、取材活動をつづけてきました。

荻上 労働問題も単純化されやすい論点ですが、わかりやすい答えにはいつも落とし穴がある。そうした答えのないなかで問題に取組みつづけてこられたわけですね。

震災直後を振り返って

荻上 3月11日から社内の報道体制が変わり、予定されていた記事を組み直さざるを得なくなったと思います。当時の動向をふりかえっていただけますか。

市川 2011年のお正月から「働乱(どうらん)の時代」という労働問題に関する長期連載を始めていました。3月12日はまさにその第二部の掲載開始の予定日だったのですが、震災によってなくなってしまいました。

他の人も同様の状況で、それぞれが抱えていた仕事を中断して全員で震災報道に関わらざるを得なくなりました。記者は多かれ少なかれ、その業務の性質上、震災前後でぶっつりと日常内での断絶が生じたと思います。

荻上 震災直後、被災地取材や原発報道など、様々なテーマが発生しました。女性記者と男性記者で割り振られる仕事に違いはあるものなのでしょうか。

市川 部署によっても違います。わたしのいた東京社会部は、震災発生直後は基本的に男性が被災地に行き、女性は社内から電話で現地の情報を収集していました。やはり記者の習性なのか、男女ともに「現場に行かせてほしい」という雰囲気がありましたね。

荻上 報道機関として真実を伝えなくてはいけないけれど、会社としては労災の手当てや部下を失いたくないという気持ちが働くというジレンマがあると思います。社内に残った女性が官邸に取材に行くようなことはありましたか。

市川 官邸取材は政治部の担当なので、社会部はあまり関わっていません。でもいま思うと、政治部こそ現場に行くべきなのかもしれない。

永田町にいる政治家のほとんどは、現場を見ていません。政治家が考えていることが被災地とどれだけ温度差があるのかを知るためには、そして質問をぶつけて記事にするためには、現場に行かないとわからないと思います。わたしたちの組織はタテ割りなので、現場を踏んだ社会部の記者が官邸に出向くこともあまりない。それも問題なのかもしれません。

荻上 若手記者が政治家に張り付いて取材していたり、デスクが現場に出られなくなったりと、それが本当によいのかと思うような慣習もあるかと思いますが。

市川 そうですね。現場に行って現場のデスクとして音頭を取っていた人と、本社から離れられなかった人では感覚がまったく違います。皆が行くべきとは言いませんが、記者同士の交流はもっとあればいいと思いますね。

宮城県女川町のがれき集積場で、選別作業にあたる地元の若者たち。 仮設住宅に住む人々は毎日、こうしたがれきの山の前を通らなければならない。 (2012年6月、市川撮影)。

原発作業員への取材

荻上 市川さんはいつごろに現場に入られたのでしょうか。

市川 3月末に原発作業員の取材チームの一員としていわき市に行きました。被災地に行かせて欲しいと希望を出したら、たまたま空きがあって。

荻上 原発作業員に取材をするのは大変だったのではないでしょうか。

市川 そうですね。日中はもともと原発で作業していた人がたくさんいる避難所に、夜は旅館の前で待って取材をしていました。突撃取材の連続でした。

原発作業員のなかにも自分たちが収束をと考えている人もいれば、恐ろしいから福島第一には関わりたくないと思っている人もいました。全国の原発を転々としてきたベテランの作業員のなかには「昔は線量計を隠して原発に行くのが当たり前だったよ」なんて言っている人もいました。そういう労働環境が、ずっと放置されてきたんですね。

ただ、現場を取材して驚いたのは、震災前から現場で働いている作業員のなかに若い人がたくさんいたことです。それまで若者の労働問題を取材してきたのですが、同じような構図がここにもあるんだ、と思いました。

荻上 就労先が他になくて、そこに流れてくる若者が多かったということですか。

市川 それもあると思いますが、危険な場所だと思わずに働いている人が多かったと思います。昔は線量が高いとよく言われていましたが、最近は設備の改善もあって線量が抑えられている。それに安全PRも効果があったのだと思います。一般の人が働く場所になりつつあったのかもしれません。

何も変わっていないことこそがニュース

荻上 被災地に取材をするなかで、報道に欠けていると感じた部分はありますか。

市川 震災直後、福島の人たちは、停電によってテレビが使えず、いま何が起きているのかわかっていない人が多かったと思います。よくわからないまま避難していたり、震災の被害状況も、水素爆発が起きたことも知らなかったり。だから翌日には家に帰れると思っている人がたくさんいました。

そのため避難生活が長引くにつれて、つらさが日増しに積み重なっているようでした。そういったリアリティ、「つらさ」の変化を丁寧に報道できていなかったかもしれません。

原発や政治の動きを報道することも大切ですが、長期的かつ継続的に当事者の心情の変化を取材してくことも大事だと思います。ただ、原稿を出してもなかなか載せてもらえない事情もあります。

荻上 どんな原稿が載りづらいのでしょうか。

市川 動きがあれば、その経緯について書くことができます。でも、数ヵ月経っても変わらない風景が広がっていることは、新聞では伝えづらい。

たとえば復旧がめまぐるしかった東京と、いまだ復興の進まない岩手では、時間の流れ方が違いますよね。わたしたちが感じている1年と、被災者の1年はまったく違うんです。変わらなさ、歯がゆさを、どうやって記事にすればいいのかが悩ましい。

節目を過ぎた途端に、記事を載せる機会は一気に失われてしまいます。メディアが報道をしなくなったと言われますが、なかではいろいろな議論があり、記者が書きたがっても紙面がとれないこともあります。どうすれば継続的に記事にできるのか、なにを書けば掲載されるのか。周りの記者とはよく話をします。

荻上 紙面の制約があるなかで、掲載する記事についてデスクと喧嘩になることはありますか。

市川 原稿を書いて出してしまえば、やりとりをするなかでなんとか記事にできるんです。

ただ企画を立てても却下されることが多い。岩手や宮城の状況が見えづらいと思うので、なんでもない日常を定期的に60行程度で載せることは出来ないかと同僚たちと一緒に提案しているのですが、日々新たな事件が起きるなかでは、なかなか実現しないですね。

荻上 毎日新聞の「希望新聞」や読売新聞の「減災生活」といった連載など、それぞれの視点でスペースをつくっています。あとは、たとえば南相馬市のひばりFMでは、なんでもない市民の会話を淡々とラジオで流しています。ちょっとした日常のなかにも考えさせられることがたくさんありました。読者も、そういうものを求めていないことはないと思います。

市川 社会面では、事件だったりものすごくドラマチックな話だったりしないと載りにくいという傾向にあります。そうではなくて、より日常的な、ごく普通のおじいちゃんのいまの思いを載せる必要もあると思います。

荻上 そうですよね。極端なケースや社会問題を投影したものを取り上げて、社会を動かしていこうというアイデンティティを持ちがちかもしれませんね。

市川 でも、実は何も変わっていないことこそニュースだったりするんです。「お店がオープンした」「事業が再開した」といったニュースばかりになっていて困ると現場からの声もあります。動きのあることばかりが報道されてしまうんですよね。

高台から見下ろした岩手県陸前高田市の中心市街地。 市庁舎など、写っている被災建物はすでに撤去作業に入っている。 (2012年1月、市川撮影)

それぞれのメディアの役割

荻上 紙面に掲載されなかった記事をウェブに載せたり、あるいはツイッターに流すことなど、メディアの媒体を変えることでフラストレーションを減らすこともできるかもしれません。市川さんはウェブメディアについてどのようにお考えでしょうか。

市川 わたしは記者として名前を明かして取材をしているので、ツイッターに情報を流すことはしていません。それにツイッターに書いたことを、時間が経ってから後悔するかもしれないと考えると容易に呟く気にはなれません。現場に足を運ぶほど答えは見えにくくなり、悩みは深まるので簡単に呟けないんです。でも、これはわたしの向き・不向きで、使いこなせる人が出てくるのはいいと思います。

荻上 メディアのサイズによって、役割も違ってくると思います。全国紙の役割について、どう思われましたか。

市川 被災地で岩手日報という地方紙を読んで、地方紙の重要性を感じました。被災地の人たちにとっては日本全体がどうなるかよりも、目の前の生活がどうなるのかということのほうがより切実な問題です。ですから全国紙より地方紙のほうが読まれるんです。

岩手日報よりもさらにローカルな東海新報という新聞紙は、被災者を温泉に招待するツアーやミニコンサートの情報が載っていて部数が伸びていました。必要とされていたメディアなんですね。被災地の県版ページにいくら被災地の情報を載せても、それ以上の役割を東海新報などの地方紙がはたしている。ですからわたしたちは、全国の人に読んでもらうことをつねに考えなければいけないと思います。

わたしがすごいと思ったのは、NHKの「あの日あの時」というコーナーです。3月11日にどこにいて、なにをしていたのかを流しているだけなのですが、震災以降ずっと継続していて、被災地のことをちょっとでも考える時間を提供している。わたしたちも同じようなポリシーを持ってやらなくてはいけないと思います。

荻上 全国紙の強みは、数百万から数千万単位の読者に情報を発信して社会問題化する機能でしょう。それを意識しながら生活報道を忍び込ませることも必要だと思います。

震災直後の誰もが情報を手に入れようとしているときと、次第に話題から離れているときで、見せ方も変わってくるのではないでしょうか。

市川 読んでもらえなくなっているのは間違いありません。東京の人たちは自分の生活に直結している原発問題に比較的関心を持っています。一方で、関西の読者のなかには、読むとつらくなるから震災の話は載せないで欲しいという声もある。

これは、本土の人が、沖縄の話にどれだけシンパシーを持てるのかという話と同じなのかもしれません。阪神淡路大震災のときも、神戸の人は東京がオウム一色になってつらい思いをしていたと聞きます。

それでも、お願いだからこの瞬間だけでも見てくださいと、上手に引きずり込むのがわたしたちの仕事だと思う。忘れられてしまうのが一番つらい。

荻上 テレビを見ていると「忘れない忘れない」とばかり言っていて、「言われなくても忘れねーよ」って気持ちがある一方で、あれはメディアの側の焦りのようなものかなと思ったりもします。

市川 たしかに。1年近く駐在員として被災地に勤務し、その間、震災のことだけを考えてきたはずのわたしでも、東京に戻ってしまうと、三週間被災地に行かないだけで遠く感じてしまうことがあります。人は忘れる生き物で、それはある意味でしかたないのかもしれません。それをどうやって報道して、少しでも思いだしてもらえるようにするか。

荻上 数日前の毎日新聞に掲載されていた「福島の桃が売れている」という記事を読んで、日常のなかに被災地を忍ばせていくやり方があると思いました。

市川 そうですね。

ただ瓦礫の問題がありますよね。「福島のことは忘れないけれど、瓦礫受け入れは反対」と話す人たちがいる。論点ごとに複雑ですから。

荻上 瓦礫が危ないといいながら、「被災地の雇用を生み出すために、瓦礫処理は被災地でやろう」と言っている政治家もいますからね。

避難所になっていた福島県郡山市のビックパレットふくしま。 震災発生からおよそ1ヶ月が過ぎ、被災した人々の顔に疲労が見え始めていた。 (2011年4月、市川撮影)

これから新聞記者はいかに筆を取るべきか

荻上 冒頭でお話いただいた労働問題と同様に、原発問題についても、「こうすればよい」といった正解はないと思います。手探りで報道していかなくてはいけない。今後の震災でも、割り切れない様々な問題が生まれてくるはずです。そのときどう筆を取るべきだとお考えか、最後にお聞かせください。

市川 社会部に身を置いている以上、より困難なところに身を置いている人の側に立たなければいけないと考えています。

瓦礫受入れ反対のニュースが流れると、複雑な気持ちになります。かなり北にある宮古の瓦礫すら反対されてしまっている。瓦礫に囲まれて暮らしている人たちはどうすればいいんでしょうか。

でも、それぞれにそれぞれの生活があるわけで、対立軸ができてしまうのは仕方ないのかもしれません。西の方にいる記者は、その土地に住む人にシンパシーを感じますから、瓦礫反対の声に寄り添って書く。それはそれでいいのかもしれません。各地に取材拠点を置いて、いろんな立場にたって書いていけばいく。うちの新聞は比較的、何でも自由に書けますし(笑)。それを全国紙として載せることで考えるきっかけになるかもしれません。

(2012年9月13日 パレスサイドビルにて)

プロフィール

市川明代毎日新聞記者

2000年新聞社入社。06年2月に毎日新聞に移り、川崎支局、とうきょう支局を経て07年5月に社会部へ。東日本大震災の取材拠点として岩手県釜石市に開設された三陸支局に2011年6月1日付で着任し、主に陸前高田市、大船渡市を担当。12年4月より社会部に戻り、遊軍(労働担当兼務)。

この執筆者の記事

荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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