2010.08.09

福祉国家に対する冷静な視線 ―― 福祉レジーム論とジェンダー

筒井淳也 計量社会学

福祉 #小さな政府#ジェンダー#北欧型福祉#両立支援#大きな政府#福祉レジーム論#エスピン=アンデルセン#脱商品化

注目を集める「北欧型福祉」

長い不況が続き、貧困から抜け出せない人びとがメディアに映し出されるなか、日本でもかつてないほど福祉や政府の役割に人びとが注目するようになった。ネット上では経済学者らが金融政策・成長戦略について議論を戦わせているのが目立つ。また、普段ネット上の議論に目を向けない人びとについても、最近になってデフレ、したがって金融政策がひとつの争点であることが徐々に認知されてきた向きもある。

とはいえ、おそらく多くの人びとはそうした議論を知らないか、あるいはまったく理解していない。そういった人びとが政府に期待するのは、直接的な福祉、具体的には政府による社会支出の拡大にあるのではないだろうか。

他方、不況と並んで日本の将来に不確実性の影をおとしているのが、かつてどの国家も経験したことのない段階に達しつつある少子高齢化である。日本の出生率は独伊と並んで先進国最低レベルにまで落ち込んでいる。他方、先進国でも比較的高い出生率を維持している国もあり、北欧諸国はそのグループに入っている。

こういった背景もあって、改めてスウェーデンを代表とする北欧型福祉国家に注目が集まっている。北欧国家は、高い国民負担によって貧困問題を回避し、充実した両立支援と家族手当によって少子化を克服しつつあるからである。一部の人の目には、北欧諸国は「目指すべき理想的な国」として映っているようである。

本稿ではとくに福祉レジームとジェンダーについての社会学的研究成果を紹介することで、福祉レジームについてのよりバランスのとれた見方を提供しよう。

結論から言えば、高福祉国家は少なくともジェンダーの観点からすれば必ずしも「最優等生」というわけではない。たとえば高福祉国家は、職業のジェンダー分離の根本に存在する問題を解決していない。そのために、いくつかの指標ではアメリカなどの低福祉国家の方が「優っている」ことさえあるのだ。その問題とはなんだろうか?

福祉レジーム論の簡単な紹介

問いに切り込む前に、福祉レジーム論について簡潔に説明しておこう。

1960年代までの先進諸国の安定した経済成長がオイルショックでストップし、それ以降の福祉体制は国ごとの特徴をよりはっきりさせていくことになった。この特徴をとらえ、分類しようとしたのがデンマーク人社会学者G. エスピン=アンデルセンである。

彼は先進資本主義国家を三つのクラスターに分解した。ユニバーサルな福祉を制度化する社会民主主義国家(北欧)。企業と家族が主な福祉を提供し、政府はそれを補助する形の保守主義国家(中欧・南欧)。そして市場重視で政府による福祉は最低限に抑える自由主義国家(英語圏)である。

1980年代までの福祉国家研究では、H.ウィレンスキーを代表的論者とする「収斂理論」が有力であった。収斂理論とは、ごく単純化すれば政府の社会支出をGDPで説明するもので、国家が経済成長すれば福祉はそれにつれて充実していく、という考え方であった。

ところが実際には社会保障体制は収斂することがなかった。エスピン=アンデルセンが論じたように、先進国は社会保障のかたちを多様化させていったのである。(実際にはウィレンスキー自身も先進国の内部での多様性には気づいてそれに言及しているのだが、後に続く研究者の中では「経済水準が福祉を決定する」という収斂理論の提唱者として受け止められている。)

エスピン=アンデルセンの福祉レジーム論には、大きく分けてふたつの特徴がある。ひとつは、福祉国家の指標を政府の福祉支出ではなく「脱商品化(decommodification)」に置き換えたこと。もうひとつは、その規定要因として政治要因(左翼政党や労働組合がおりなす政治力学)を重視したことであった。

脱商品化とは、これも単純化していうと「働かなくても生活できる」度合いのことである。エスピン=アンデルセンが立脚しているデータは、主に失業・傷病・年金の三点における社会保障がどのくらい市場労働と関係なく政府から提供されているか、である。

こういった定義でいえば、市場労働に参加することが給付の前提となる社会保険を発達させてきたドイツや日本などの国は、脱商品化指標で北欧諸国よりも低い得点を与えられることになる。

福祉レジーム論に関する社会学の「無反応」

エスピン=アンデルセンは社会学者とされることが多いが、皮肉なことに主流派の社会学の世界では彼の福祉レジーム論はそれほど人気がないのが現状である。人気がないというよりも、「よく知らない」という人が多い。その理由は簡単で、福祉レジーム論が社会学の主要分野に「ひっかからなかった」からである。

社会学でもっとも盛んに研究されているのは、少なくとも経験的研究としては、「階層(経済階層・ジェンダー・エスニシティ)」「都市化」そして「家族」の三つである。

階層論の主要な関心は、「出身家庭の経済階層、性別、そして民族出自によって階層(とくに職業的地位)にどれほどの差が生まれるのか」である。都市社会学の関心は「都市化によってコミュニティや人間関係はどのように変化するのか」であり、家族社会学の主な関心は「近代化で家族のかたちはどう変わるのか」である。

こういった研究関心において、市場と政府は不思議なほど顔を出さない。おのずと政府の役割を理論化した福祉レジーム論にも関心が払われなかった。いや、福祉レジーム論に関心が集まらなかったというより、多くの社会学者は政府と市場の関係に無関心であった。もちろんそうではない社会学者もいたが、少数派だった。こういえば、他の分野の人からすれば「では多くの社会学者はいったいどういう問題意識で研究しているのか」と不思議に思われるかもしれない。

答えは「いろいろ」である。もう少し具体的にいうと、まず階層論研究者の基本関心は公平性にある。親の出身階層や性別で本人階層が決定されるのは「フェアじゃない」という問題意識である。

都市社会学者の主要関心は「コミュニティや人間関係が希薄化することへの危惧」である。

この関心は一部の家族社会学者も共有しているが、家事分担研究やワーク・ライフ・バランス研究ではむしろジェンダー研究者と近い問題意識がもたれている。すなわち、男女平等である。

「もっと働こう」としているのに「働かなくてもいい」ことを指標にされても……

さて、このような全体的に冷めた状況のなかで、例外的に素早くエスピン=アンデルセンの福祉レジーム論に反応したのはジェンダー研究者であった。これは両者の議論の鍵となる概念が、いわば真っ向から対立していたからである。

なにしろ、ジェンダー研究者が「女性が家庭外で働くことの条件」(とくに仕事と家庭の両立)を模索してきたところに、エスピン=アンデルセンが「働かなくても生活できること」を福祉供給の指標の中心に据えたものだから、ジェンダー研究者の当惑は容易に想像できるだろう。

とはいえ、ジェンダー研究者からのこの指摘は「福祉資本主義の三つの世界」の分類を大きく変更することにはつながらなかった。もちろん個々の家族政策、男女機会均等政策をみれば同じレジームのなかでの多様性がみえることが多い。

たとえばノルウェーでは育児の社会化がスウェーデンほど進んでいないし、フランスは保守主義だが手厚い家族手当で政府が子育てを促進している。とはいえ、エスピン=アンデルセンが脱商品化において優等生であるとした北欧諸国は、少なくとも女性労働力参加率と出生率からみても上位に位置している。

エスピン=アンデルセンはフェミニストからの指摘を受けて、自らの福祉レジーム論に女性労働力率や家族といった要素を統合させていったのだが、このプロセスで分類自体が大きく変化することはなかった。

では、北欧諸国は「脱商品化」の面でも「女性の労働参加」の面でも、その他のふたつのレジームより優れている、と結論づけていいのだろうか。じつは、話はそう簡単ではない。

社会民主主義国家における女性の社会的地位

この問いに答えるために、2000年前後からみられるようになった、福祉レジームについての大規模マイクロデータにもとづいた社会学的研究が、社会民主主義国家における「女性の地位の高さ」について明らかにしてきたことの一部をみてみよう。

たしかに北欧諸国は高い女性労働力参加率を誇っている。しかしその理由が専ら「両立支援政策」にあるとはかぎらない。

一般に「大きな政府」という場合、しばしば大規模な再分配によって国民の格差を縮小するという側面が強調されるが、もう一つの側面、すなわち公的部門の労働需要が大きい、ということも忘れるべきではない。

そしてスウェーデンでは、データの取り方にもよるがフルタイムで働く女性のうち公的部門で雇用されている割合が他国よりかなり大きい。対して男性の公的雇用の割合は、他の国と大きな違いはない。つまり政府が女性の最大の雇用主になっているのである。

たしかに女性の公的雇用は女性の労働参加率を上昇させるので、このことが即問題である、というわけではない。しかし、学歴や職種などの個人属性をそろえた上でみると、スウェーデンのフルタイムでの公務員の賃金は民間より安い。(平均すれば民間部門より高いが、これは高学歴者が公務員に偏っているからである。)したがって、公的部門に女性が多数雇用されていることで、実質的に男女の賃金格差が大きくなっている。

ではなぜ女性が公的部門から民間部門に移動しないのだろうか(つまり、なぜ公的部門と民間部門で男女雇用割合が均等化していかないのだろうか)? このことに直接答えた研究はないが、手がかりはかなりある。

一般に、解雇規制が強い国(北欧諸国はここに入る)では、そうではない国に比べて民間部門で働く女性の割合、および民間部門における管理職の女性割合が小さくなる(公的部門のサイズを統御してもこの影響は残る)。

また、出産・育児休業が法的に充実している国では、性別の職域分離(職業が、男性が多い職・女性が多い職に分かれている状態)が強い傾向がある。

政府による女性雇用はこの傾向に拍車をかける。というのも、パートタイムでの福祉関連職には主に女性が就業することになるからである。一部論者は、「高福祉国家は家庭内分業を社会分業にそのまま移し変えただけで、そこでは性別分業は保持されたままだ」とさえ指摘している。

ここから数字としては、北欧諸国では規制の少ない自由主義国よりも、(1)女性の管理職比率、(2)性別職域分離、(3)女性のフルタイム比率の面で「不利」な値をとっている。

これらの理由として考えられているのは、女性の就業促進を目標に整備された出産・育児休業制度の充実が及ぼす「意図せざる結果」である。

利潤獲得という制約がある民間企業の経営者からすれば、子どもが生まれるたびに休業に入る可能性の高い女性を雇用すること、ましてや管理職に割り当てることは高いコスト負担を意味する。つまり休業補償という「両立支援」は、経営者に女性の雇用・登用において消極的になる理由になる。

これに対して自由主義国家では、長い休業を取る代わりに育児サービスを利用して早めにフルタイムの職場復帰をする女性が多く(休業中の所得が保障されていないために働くことを強いられるという理由もある)、企業側の女性雇用コストが比較的小さいため、北欧諸国よりも民間部門での女性の管理職比率が高く、また性別職域分離も小さい。

要するに、少なくとも現在においては、充実した休業制度は営利企業にとって基本的に損失であり、女性の雇用に対するディスインセンティブになっている可能性が高い。

こういった問題は直感的にも理解しやすいし、研究者の間でも比較的長い間認識されてきたが、社会民主主義国家と自由主義国家における女性就業を比較したデータ分析を通じて、再浮上したかたちになっている。

このような事態を考えてみれば、「脱商品化」と「女性の自立」とが、やはり深いレベルでは対立したままであるということがわかる。

この問題はかなり根深いものであり、EUでは「フレキシキュリティ」の名のもとで、そしてアメリカの一部の企業では大学と企業との連携によって実験的に解決が模索されているものの、基本的にはどの国でも克服されていない。雇用差別の問題とは別に、何らかの形でのイノベーションが期待されるアジェンダである。

いずれにしろ、「どこかの国に行けば完璧な両立支援体制があって、そこでは就業中断に伴う経営的な問題はすでに克服されている」と考えることはできない。一部の国では育児休業を父親に割り当てる制度もあるが、これで両立支援と生産性のトレードオフの問題を回避できるわけではない。

福祉レジーム選択は単なるアジェンダにすぎない

研究者にとって致命的なのは、本来出発点であるものがいつのまにか到達点になってしまうことによって、冷静な議論がイデオロギーにすり替わってしまうことだ。

福祉レジーム論は、数ある分析道具のひとつにすぎないし、ましてやランチメニューのように「どの社会にしようかな」と決めるための選択肢ではない。下手な比喩を使わせてもらうと、大事なのはできあいの料理なのではなく、材料と作り方である。

ここで「もし」社会民主主義、あるいはその政策を積極的に取り入れつつあるEUを参考にするのなら、大きく分けて三つの課題があるように思える。

まずエスピン=アンデルセンが明らかにしたように、一国が特定のレジームに到達する上では複雑な政治力学(特に政党と労組の有り様)が働いたということ。社会民主主義やネオ・コーポラティズムの土壌が何もないところにいきなり制度だけまるごと持ってきても、まず根付かない。

「福祉国家と国の人口サイズの関係」というよく聞かれる仮説も、まだ体系的に検証されていない。もちろんこのことは、「あれは日本には合わないからダメ」といった他方での短絡的な判断を帰結しないことは理解できるだろう。

次は本稿で説明してきたジェンダー平等における福祉国家の位置である。すでに述べたように、北欧諸国の女性の労働参加度合いや社会的地位は、かなりの部分両立政策ではなく公的部門における女性の雇用によって説明できてしまう。

これは、特に日本で両立支援政策を支持する人たちがなかなか気づかない点である。現在日本では公務員を削減する動きがあるが、フェミニストから反対の声が上がったという話は(少なくとも筆者は)聞いていない。少なくとも社会民主主義国家における公的部門の縮小は、女性の雇用に大きな影響を与えることが懸念されている。

さらに、個々の両立支援策の効果を冷静に見極めることなしに闇雲に導入してしまうと、逆効果を生むことも考えられる。職務給が広く根づいている欧米でさえ、「私企業に勤める女性が出産・育児で一定期間離脱すること」の損失は、両立支援体制によってはいまだに十分にカバーできていない。

もちろん多くのジェンダー研究者にとってみれば、日本の現状は社会民主主義国家が直面しているジレンマ「以前」の問題になるのだろうが、それでも安易に他国を理想化することではみえてこない問題はある。

三つ目は少々一般的な話になるが、社会政策と経済政策との関連についでである。一般に社会民主主義国家では、社会政策が経済政策の「後処理」にあたるというより、社会政策と経済政策が長い間密接にかかわりあってきた。

例えばEUの「積極的労働政策」は、北欧型福祉国家に憧れる日本人が思い浮かべるような「弱者に優しい」社会政策であるとはかぎらない。

いわゆる社会民主主義国家ではないが「ワークシェアリング」のモデルとされるオランダが「オランダ病」から立ち直る際のきっかけのひとつは、労使協調下での賃下げ合意であった。スウェーデンの「同一労働同一賃金」原理による賃金決定においても、インフレ抑制とセイフティネットを整備した上での雇用流動化が(その効果はともかく)想定されてきた。

ジェンダー平等化政策はこれらの一部をなすものであり、経済政策と切り離して論じられるものではない。つまり、福祉国家の社会政策面のみを見て「目指すべき社会」とみなすことは、経済面での副作用を引き起こす可能性があり、危険である。

もちろん職業研究者でこのような素朴な過ちを犯す人は少ないであろうが、まったくいないわけではない。この点については、日本でも宮本太郎氏などがバランスの良い福祉国家の解説を書かれているので、そちらに譲ることにしよう。

最後にひとつだけ。

産業構造と経済動向は刻々と変わっている。したがって本稿で参照した研究も、最新の状況については当てはまらないことも十分考えられる。最近は信頼できる大規模な国別マイクロデータが容易に入手可能になっており、分析する計量モデルも洗練されてきている。もし何か大きな動きがある場合は(本稿で参照した論文を含めて)おいおい拙ブログ(社会学者の研究メモ)にて紹介する予定である。

プロフィール

筒井淳也計量社会学

立命館大学産業社会学部教授。専門は家族社会学、計量社会学、女性労働研究。1970年福岡県生まれ。一橋大学社会学部、同大学院社会学研究科博士課程後期課程満期退学、博士(社会学)。著書に『仕事と家族』(中公新書、2015年)、『結婚と家族のこれから』(光文社新書、2016年)、『社会学入門』(共著、有斐閣、2017年)、Work and Family in Japanese Society(Springer、2019年)、『社会を知るためには』(ちくまプリマー新書、2020年)、『数字のセンスをみがく』(光文社新書、2023年)など。

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