2012.09.21

歴史の証言者たち ―― 日本の『制度』をささえた人びと(3) 堀利和~憲政史上初の、盲人の国会議員~

大野更紗 医療社会学

福祉 #堀利和

 (*本稿では、現在「差別用語」とされている表現を、資料・記録の記述に即し、変更をせずに使用しています)

瞼を閉じて、右手をもらったばかりの名刺の上にかざす。

「堀利和(ほり としかず)」と印刷してある文字のうえに、点字の突起。

―― このポツポツ、堀さんの『堀』はどの部分が『堀』なんですか

全盲の翁に、目が見えるものが赤子のような質問をする。堀さんは、まるで「見えている」かのように、机の上に置いた名刺の、その紙の上のさらに小さな突起を指さしながら、解説して下さる。

「これだよ、この2つかたまっているのが。ここが『ホ』・『リ』」

―― ん? どこですか?

「『ズ』が難しいんです。単なる50音は1マスでいいんだけど、濁音は、2マスぶんを使います」

―― 2マスですか。すみません、どれのことですか。

人差し指の先端に全神経を集中して、その「ボツボツ」を撫でてみた。日本点字は「音」だから、構造的なイメージを頭にもてば、「見える」わたしでも少しくらいは読み取れるのではないのかと思っていた。ところが、触って突起の位置を認識することが、全くできない。

「はは、わからないでしょ」

―― これは、、、、。ぜんぜん、わからないです。

いくら点字の構造を懇切丁寧に説明されても、わたしは点字を「見ないとわからない」のだ。触ってみて、触覚のみで突起の位置を認識することは、想像していたよりはるかに難しい。

しようもなく、点字の上に、ボールペンでメモを書き込んだ。

―― いつか「触って読める」ように、なるんでしょうか?

「今、まだ20代でしょう? それだったら、3か月あれば読めるようになります」

―― 触れば触るほど、自信がなくなってきました。

「触覚が点字を覚えるうちは、大丈夫。40代くらいになるとやっぱり、最低半年くらいはかかるかなあ。「指の感覚で読む」わけだから、年齢とともに感覚が鈍ってくる傾向はありますよ。中途で失明して覚えるのは、なかなか大変かもしれないね」

目をつぶって、ふたたび堀さんの名刺を指でなぞってみた。公共の場所のエレベーターには最近は大抵ついている、「上」や「下」くらいは練習すれば読めるかもしれない。が、それ以上は神業であるようにしか思えない。1段32マスを人差し指でなぞって、突起を構造として頭の中で展開し、言語に変換する。

「こういうのはいやな言い方ですが、頭のいい人やとても熱心な人は、点字を「書く」のは覚えますよ。点字は構造ですから」

「でもね、「読む」のは指の腹の感覚だからね。頭がいいとか悪いとかは関係ないですね」

「わたしだってね、まったく光が見えなくなるまでは、弱視(ロービジョン)のうちは、点字は『目で読んでた』んだから」

点字は、「目で読む」ものだったとは。

目が見える者にとって「全盲」とは、神秘的なまでに重い障害のように思える。

「変わった盲人」

“ もともと点字っていうのは、フランスの軍人が、軍の中で暗号で使ったんです。夜の暗闇の中でも兵士間で情報伝達ができるように考えられた「夜間書法」と言う一種の暗号を、ルイ・ブライユというフランス人が「これは盲人にいいんじゃないか」と改良したんですね。”

“ このアルファベットの点字を、明治時代の明治23年に、今の筑波大学付属盲学校の教師をやっていた石川倉次という人が日本語につくりかえます。「日本点字」というものが初めてできる。「日本点字」は110年目ですね。

点字を知らない人からはよく、「これ、英語はあるんですか」と訊かれるんですが、逆です。もともとはアルファベットだった点字を、日本語でも使えるようにしたのです。”

堀さんは、1950年に静岡県清水市に生まれた。6歳の時に病気の合併症で目を患い、視力低下が始まる。小学4年生までは清水市立の普通小学校に通うが、視力を失うにつれ、静岡県立の盲学校に転学する。

“当時は、「視覚障害」という言葉は市井にはなかったです。小さいときなんと呼ばれていたかなあ。いわゆる「めくら」ですね、方言では「めっかち」って言うんです。”

“ 小学校のときから、漢字を勉強できなかったから。ロービジョンでしたから、まだぼんやりと影のように見える「字」も読みたかった。本が読みたかったんです。僕は「変わった盲人」だった。”

“ 20倍のルーペだと、まだ「文字の影」が見えたんです。当時の、鑑定用のルーペですね。点字も読んでいたけれど、同時に録音図書、音声をテープレコーダーに記録したものを聞きながら、墨字の活字文をルーペで追っかけた。そうやって独学で漢字を覚えたんです。だから漢字の知識がまばらなんですね、哲学書や専門書に出てくるような難しい漢字を知ってるけど、普通の目が見える中学生が知っている漢字を知らなかったりする。”

“ わたしの時代は、地方の盲学校は、中学が終わると高校1年生から全員「鍼、きゅう、あんまマッサージ」の専攻課程をとったんです。いわゆる「医療科」ですね。盲学校で鍼、きゅう、あんまマッサージを習い、免許を取得する、日本の盲人にはそれしか生きる術はなかったんです。

ただ、当時日本に唯一、筑波大付属盲学校(当時の東京教育大学付属盲学校)の高等部に「普通教育課程」というのがあった。だからそこに入った。僕は、医療科の免許は持ってません。そんな盲人、当時はほとんどいなかった。「不良盲人」ですよ。”

「すいませーん、今日はセンターは17時までなんです!」

インタビューの途中で、職員の女性が閉館を告げに来て、すこし慌てる。

この日、待ち合わせをしてお話を伺っていた場所は、東京都の障害者福祉会館の談話室。都の障害者関連施設は軒並み老朽化が激しいが、ここも古い建物だ。わたしは初めて足を踏み入れた場所で、利用方法も使い勝手もわからず、堀さんに予約までしていただいたのだった。談話室の入り口には階段状の段差があり、電動車いすは入れない。入り口までタクシーに乗って、杖で館内に入ってきた。

場所を変えなくてはならないが、障害や疾患のある方のお話を伺う時は、どういう場所がいいのか頭を使う。お疲れではないか、汗をかいてはいないか、姿勢がつらそうではないかどうか。

隣のビルの一階に、喫茶店があった気がした。「隣で、お茶でもいかがですか」とお伺いをたてた。

堀さんが立ち上がり、折りたたみ式の棒を懐から出す。<白杖(はくじょう)>だ、とはっとした。

身体障害者福祉法では補装具、すなわち車いすや杖と同じように、体の機能を補完する器具とされる。ただの白い杖ではなく、目に代わって周囲の情報を収集し、あるいは周囲に注意を喚起する、視覚障害のある人にとっては身体の一部そのものだ。

杖を一緒につきつつ、隣のビルの喫茶店に入った。メニューをどう頼むのがよいのか、一瞬迷う。

―― 堀さん、何を飲まれますか、、、どうしましょう、全部読み上げるのがいいんでしょうか、「どういうものがいいですか」と訊くのはおかしいですね。

「どういうものがいいですか、か。焼きもんですか、揚げもんですか、禅問答みたいだね(笑)」

――メニューも「見たい」ですよね

「そりゃあね。メニューも見れたら、ちゃんと「こういうものが頼みたい」と思いますよ、もちろん。点字のメニューなんて、まだほとんどないからね」

「読んでもらえますか」

メニューを、わたしが読み上げる。ホットコーヒー、紅茶、カフェラテ、キャラメルラテ、ピンクレモネード、グレープフルーツジュース、、、。

結局は「ホットコーヒーにしましょう」ということでまとまった。周囲の物事を声に出すこと、どんな細かいことでも逐一話すようにすること、音声化することが大事なのかもしれないと、何となく思い始めた。

「お砂糖とミルクは使いますか」、「お水は頼みますか」、「ノートを広げます、これからボールペンを持ってメモを取ります」、「お店の中は空いています。ほかにお客さんはいますが、わたしからすると右手側に、60代くらいに見える男性のお客さん3名が1つの席に座っておられます」と、何でも声にするように心がける。

この人は。視覚障害者であると同時に、日本の憲政史上初めて、視覚障害をもちながらにして国会議員になった人だ。

日本憲政史上初の、視覚障害をもつ国会議員

何か大きな組織に由縁があるわけでも、政治家の家系と関係があるわけでもない。何の知名度も資金源もなく、1986年の第14回参議院通常選挙に「自分で発言」「民主主義の原点」といういたって地味な理念を掲げて立候補した。その際には、落選する。一政治家としての堀さんは、頑固なまでの理想主義者であるという印象が強い。

“私は、代弁者としてのすぐれた政策通の議員も確かに必要だが、それにもまして、障害を持つ議員が自らの体験、発言、行動によって議会に参画し、かかわり、直接存在することによって政策決定に大きな影響を与えることも極めて貴重な現実、決して理想ではなくて現実であると確信する。- [1995年 堀]”

リクルート事件で竹下内閣が退陣した直後の、1989年7月、第15回参議院通常選挙で社会党比例代表で当選をした。同年11月はベルリンの壁が崩壊し、冷戦構造下の政治体制に大きな変化が起きた年でもあり、「そのような時代の雰囲気の中にあった」と堀さん自身も振り返る。

“<赤じゅうたんも白杖には不便>

7月の参院選で社会党比例区から当選した視覚障害者の堀利和議員(39)が16日、同院社会労働委員会で初めての質問に立ち、障害者の社会参加について思いを訴えた。秘書の介添えつきでの議会へのデビューだが、目の不自由な議員を想定していない国会の建物構造自体が堀議員には大敵。さらに肝心の国会資料は点訳されているわけではなく、政治活動に支障が大きい。

…(中略)…国会には設備はなく白杖も議場持ち込みは許可がいる。赤じゅうたんも音を吸い込み、白杖がつっかえるので、視覚障害者には不便という。

…(中略)…堀議員は当選後すぐに、参議院に 1)基本文書の点訳と録音 2)点訳、墨字(普通の文章)訳、朗読ができる介助者をつける、などを要求した。参院は直ちに憲法、国会法や「議員のしおり」「議員食堂メニュー」などを点訳。議員会館内に点字ブロックを設置し、エレベーターのアナウンス設備も発注した。だが堀議員は「一番必要なのは審議のための資料や情報」と不満。「国会の資料は全部墨字。会議で資料を出されて「●ページの●行目」と言われてもわからない。キチンと活動するには配られた資料をその場で読んで聞かせたり、点訳する介助者が必要という。 – [1989年11月17日 毎日新聞]」”

1989年当時の国会議事堂や議員会館には、点字ブロックはなく、エレベーターの音声アナウンスもついておらず、白杖は凶器とみなされるので持ち込むことはできなかった。

堀さんに限らぬことであるが、戦後の障害者当事者運動の担い手たちは、ひとつひとつの制度をこうして要求して――もはや、古臭い表現なのであろうか――獲得してきたのだと、色が変色した当時の新聞記事のスクラップを集めながら思う。

就労の支援者として

大学を卒業した堀さんは、1974年に、認可保育園の産休代替の非常勤で「保父」として働いた。

―― 「保父」ですか

「当時は、保父なんていなかったよ。ほとんど保母さんでした。その保育園の園長先生が進歩的というか、理解のある人だったんですね。盲人だから、日誌もかけないし絵も描けない、絵本も読んであげられないんですよ。でも3歳・4歳児の子どもたちの遊び相手をしていました、子どもたちには人気がありましたけど」

「三か月間の約束だったんですが、二か月目で肺炎を起こしてしまって。そこで入院してしまって、辞めてしまったんだけれども」

―― 以降、障害者の就労についての運動に尽力されておられます。

「翌75年になって、東京都などの自治体の人事院と、特別区の職員採用試験を障害者が受けられるようにと、行政と交渉を始めました。もちろん、最初は断られましたよ。「目の見える人しか採用しません」ってね」

「当時、「障害者の労働権」を主張する運動なんて、他にはありませんでした。」

堀さんは現在、「共同連」という、障害者の就労の場をつくることを目的としたNPO法人の代表をつとめている。

「共同連の歴史は、80年代からです。1984年に設立されます。当時、制度らしきものは何もなかったのだけれど。ヨーロッパで「ワーカーズコレクティブ」という方式で障害を持っている人が、自分たちで働く場を共同運営しているらしいということを聞いたんです。それを参考にしました」

―― 確かに、「ワーカーズコレクティブ」は日本語に訳すと「共同運営共同経営」と表現できますね。

「10年ほど前に、イタリアに「社会的協同組合法」というものがあると聞いたんです。それで実際に行ってみたり、実態を勉強したりしました。今は障害のある人だけじゃなくて、社会的に排除されている人たちの場についても考えています。「ソーシャルインクルージョン」、社会的包摂というものを目指してきました」

震災と視覚障害の「壁」

白杖の翁の表情は、どんな話題を喋るときもあまり変わらない。けれどこの日のインタビューの終わりにすこし憂鬱な表情をして、このようにも語った。

「15年前に厚生省(当時)が、視覚障害者30万人を対象に、初めて点字の実態調査をしたとき、点字を読める人は1割にも満たなかったんです。9割は読めない、書けない。でも視覚障害対策というと、いまだに「点字」の固定的なイメージが強いですね」

「震災の時は、本当に悔しい思いでした。東日本大震災の沿岸部数百キロには、1800か所以上の避難所が点在していましたが、そこを日本盲人福祉委員会の職員が訪ね歩いたんです。避難所の担当者もほとんど視覚障害者の存在を認識しておらず、最初は見つけることができなかった」

「当初は、避難所で視覚障害者であることを隠している人がかなりいたようです。視覚障害者は、これは全国の統計ですが、もう6割以上が65歳以上で、さらにはその多数派が、中高年以降に失明した中途視覚障害者です」

―― 東北の土地柄もあるのかもしれません。周囲に知られないように、迷惑だと思われないようにと、避難所で障害や疾病について話すことすらできないという話は、頻繁に伺います。

「関東や関西の視覚障害者の当事者団体が中心になって、岩手、宮城、福島の三県の当事者団体の名簿と点字図書館の名簿のリストを探しあてて、自宅を訪ねたり近隣の避難所を探し回ったんです」

「震災発生から宮城では3か月、岩手と福島では1年以上が経過してから、徐々に支援の要望が届くようになりました。でもね、「白杖がほしい」とか、本当に初動のレベルのことで、1年経過してからそういう支援が始まったところなんです」

「話を聞いていると、限界状況で耐えていたんだけれども結局、避難所での生活を続けられずに、半壊状態の家屋に戻っていたりね。あるいは避難所の情報はほとんど「張り紙」でやりとりされるから、視覚障害者は食料の情報もわからないような状態でした」

最後に、ご自宅で使われている点字を「打つ」、点字板の話になった。わたしも、合併症として薬の副作用で既に白内障が始まっており、緑内障やその他の目の疾病のリスクが非常に高い身だ。目が見えなくなったらどうしようか、と時々ふと考えることがある。

―― 堀さんご自身は、やっぱり点字が使いやすいんですか。

「その部分は、アナログと言われるかもしれないけどね。音声読み上げのソフトウェアなんかはスピードは早いかもしれないけど、丁寧に読み書きするには向いてないでしょう。論文調の文章にはあまり向かないというか、推敲は難しいですね」

「わたしにとっては、古典的な点字というのは、考えながら書けるんです」

*「歴史の証言者たち」は不定期連載として継続していきます。

プロフィール

大野更紗医療社会学

専攻は医療社会学。難病の医療政策、難治性疾患のジェネティック・シティズンシップ(遺伝学的市民権)、患者の社会経済的負担に関する研究等が専門。日本学術振興会特別研究員DC1。Website: https://sites.google.com/site/saori1984watanabe/

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