メディアから官邸へ ―― 決断の本当の理由と、今だから話せる官邸の第一印象

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KAN-FULL BLOGをスタート

 

で、その取材拒否の1ヶ月の間に、内閣広報室のスタッフたちと一緒に黙々と菅さんのブログKAN-FULL BLOG(カンフル・ブログ)っていうのを準備して、スタートさせました。しかし、それをどういうかたちでやるかをめぐっても菅さんとなかなか考え方が合いませんでした。ぼくは、「せっかくメディアの世界から来たんだから、メディア的なアプローチで、ぼくがビデオカメラ片手に菅さんに批判的な質問をしますから、それに対して一生懸命答えてください。そういう動画インタビューを、政府広報として小マメに出していきましょう」と提案しました。

 

「メディアは、意識的にネガティブな部分だけ編集して使うから、今までは、そういう側面しか国民に伝わらなかった。今回は、同じ突っ込みインタビューでも『なるほどね』と思える部分を編集で捨てずに伝えていけるから、これまでのメディア・インタビューとは全然違う政府広報になりますよ。やりましょう」と繰り返し提案したんですけど、菅さんや周囲からは、「なんで税金使って政府の広報するのに、政府に対する批判的な声を入れるんだ。まったく理解できない」「政府側の言いたいことだけを言う発信をやってくれ」という趣旨のことを言われ続けました。

 

これにはぼくね、相当深刻に悩んだ。この1か月に、もう辞めようと思った。それだったらぼくがやる意味がないと思った。あの学生時代に「みんなで天下を取ろうぜ」と言ってた、あの思い出がなかったら、ほんと辞めてたと思います。

 

だけど、このときやっぱりぼくはまだ、菅直人というマシーン(機関)が総理になったことには、すごい期待があったんですよ。厚生大臣のときの薬害エイズ問題での大活躍は、まぐれじゃない。「伝わる」ようにさえなれば、この最初のツラい期間が終わって軌道にさえ乗れば、きっとすごい総理大臣になると思ってました。その前の鳩山さんだって元々は自民党でやってた大金持ち。菅さんは、ほんとに一介の市民運動出身者。初めて、新しいタイプの総理が誕生した。今回こそが初めての政権交代だ、と感じてました。新種の総理大臣の第1号をそう簡単に見限りたくなかったから、ここは歯を食いしばって辞めずに残ることにして、自分の方の考え方を整理したの。

 

メディアはたしかに批判ばっかりやってる感がある。じゃあ、しょうがない、ぼくは菅さんたちが望むように、政府側の伝えたいことばっかりを、わかりやすく伝える役に徹しよう。ただそれは、戦時中の大本営発表とは決定的に違う。大本営の時代は、「われわれの情報だけを信じろ」というスタンスで、批判的メディアの存在は封じていました。今度ぼくがやるのは、「メディアの皆さんは、そのまま批判をやってください。ぼくの方は、政府側から見るとこうですというのを報じます。国民のみなさんは、どうぞぼくたちの伝えることだけを鵜呑みにしないで、メディアの批判と併せ見て、皆さんの頭の中で判断を作ってください。なかなかメディアだけでは伝わらない考える材料を、ぼくが官邸の中から提供します」―― という風に、自分の役目と気持ちを整理しました。

 

 

立ちはだかる「チェッカーズ」の「涙のリクエスト」

 

下村 KAN-FULL ブログでは、総理の動きをぼくが撮影する動画発信だけでなく、菅さんのブログや、「一歩一歩」っていうコーナーを作って、文字でも政策の中身を解説しました。なるべく国民と遠いブラックボックスじゃなくしていくためにこぼれ話から始めていこうと、「官邸雑記帳」コーナーを作ったりと、いろんなアプローチを試みました。その1回1回に、総理の発信の宿命として、側近などから厳しい文面チェックが入るわけです。その度に、より、丸くされていく。「まだここ尖ってる」「まだここに“明日の見出し”になりかねない要素がある」というのを、二重三重のチェックで取り除いていくんです。たしかにそれで安全性は高まるけれど、反比例して訴求力は落ちて行く。ぼくはその人たちのことを、切ない連帯感を込めて 「チェッカーズ」と呼んでたんですけど……。

 

難波 若い人にはわからないかもしれません。わたしぐらいの世代にはドンピシャですけど(笑)

 

下村 シノドスの読者には、通じないか。彼らから内容修正の注文が来るたびにぼくは心の中でひとり泣いていたから、そういう注文のことは「涙のリクエスト」と呼んでました。

 

でも、そういう「チェッカーズ」の方々だって、本当は積極的にメッセージを打ち出していきたい、でもできないという忸怩たる思いがあるわけだから、彼らの胸中も「涙」だったと思います。だって、やっぱり菅さんの、正確に伝わらなかったという意味で「不用意」な消費税発言で、一昨年夏の参議院選挙で惨敗して、その結果生まれたねじれ国会という状況に、一日たりとも忘れることができない現実として、苦しめられてるわけですから。そのトラウマがあったら、総理発言の準備には慎重にならざるを得ないですよね。その気持ちは痛いほどわかったから、「こいつらの慎重姿勢が菅直人の敵なんだ」とはまったく思いませんでした。

 

ぼくがやりたいのは、攻めの広報。彼らの方針は、守りの広報。でも、この人たちも必死で菅さんを守ろうとしてる。だからそこで決裂しようとは思わなかったし、なんとか、その守りの広報の中に、少しずつでも攻めの要素を入れていけないかというのが、ぼくの日々の課題になったんですね。今、辞めて自由な立場になったからといって、その人たちのことを悪口言おうとは思いません。惜しむらくは、攻めの広報を主張する人が、ほぼひとりぼっちだったということですね。福山さん(官房副長官)や寺田さん(総理補佐官)が、ときどき一緒に攻め側に立ってくれるときは、心強かったですけど。もう少し人数的なバランスがとれてたら、もうちょいさじ加減できただろうなと思います。

 

難波 大丈夫ですか?疲れないですか?

 

下村 大丈夫。しゃべるの商売でしたから(笑)。市民メディアでは、長い番組けっこうありますよ。

 

難波 1時間近くお話しいただいて、内閣広報室に入った経緯、そこがどんなところだったかということがわかりました。では、その中での2年間、下村さんが果たした役割をお話しいただけますか?

 

下村 ぼくの任期は、振り返ると、5つの時期に分かれてます。まず着任から3・11までは、ひたすら菅さん密着の《守りの広報》。2期目、震災発生からしばらくは、《震災広報》一色。3期目、菅さんの「メドがついたら退陣」示唆(2011年6月2日)から実際の退陣(同9月2日)までは、世間に延命策と勘違いされた《攻めの広報》。4期目、野田総理誕生から今年3月末までは、官邸を離れて《平時の霞ヶ関の広報改革》の土台作り。5期目、今年度初めから退任までは、枝野・古川・細野の各大臣をお手伝いして《原発・エネルギー関連広報》に全力投入、という日々でした。

 

(つづく)

 

テレビメディアから、政府へ。半年も立たないうちに、未曾有の大震災。国家の危機に前職の経験を精一杯生かして試行錯誤で政府の中から情報発信した下村さんの2年間は【広報室審議官編】」へ

 

 

 

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