2019.06.24
「富山は日本のスウェーデン」なのか――井手=小熊論争を読み解く
論壇で「論争」と呼ばれるものを目にしなくなってから久しい。1960年代から活発だった講和条約をめぐる論争、90年代に再燃した歴史認識論争といった硬派な議論はもちろんのこと、80年代の「アグネス論争」といった日常生活をめぐる議論も、女性の地位や男性目線についてなど、今日に通用する社会的な意義を有していた。総合雑誌の類の衰退とネット社会の進展も加わり、時代は「論争」という質的な議論よりも、「一方的な批判」という強度が支配する方向へ軸足を移しつつある。
こうした中、最近になってきわめて注目に値する論争があった。それが日本の市民社会のポテンシャルとその方向性について大きな価値を有する「井手=小熊論争」だ。本稿は、この論争がどのような内容だったのかを確認すると同時に、その背景に大きな社会科学的な意味合いがあること、さらには日本の未来像、もっといって社会設計にもかかわってくるものであることを指摘するものだ。
『富山は日本のスウェーデン』なのか――保守と社民主義
内容をフォローしていない読者もいるであろうことから、その概要を以下に簡単に説明しておこう。
発端は2018年8月に出版された井手英策著『富山は日本のスウェーデン』(集英社新書)にあった。意外なタイトルを冠したこの本で、財政学者の井手は、富山県の幸福度の高さや女性の労働参画の度合いの高さ、貧困率の低さ、さらに包括的な地域ケアなどの存在から、同県が日本でも突出して、物質的・非物質的な豊さを実現していることを、データや実例でもって証明した。
その上で、「保守王国」の富山県こそが、実際には著者のいう「社会民主主義」を実践しているのだ、というパラドクスが強調された。引用すれば、「保守的な土壌のうえに、社会民主主義者やリベラルが追及するような社会が成り立っている」(150頁)というわけだ。つまりは、地域の課題に対して比較的平等なかたちで取り組む資本と制度が存在しているところに「富山らしさ」が見出され、そのような富山の資本と制度と、スウェーデンに象徴される社民主義との共通性を指摘しているところに、この本の妙味があった。
もっとも、著者が何度も注意深く指摘しているように、この本は富山礼賛でもなければ、スウェーデンをまねるべきと主張するものではなかった。富山やそこを形成する地域のミクロな事象に注目し、その機能を徹底頭尾解明しようと努めることで、そこにおいて様々な問題解決能力が発揮されており、その能力を備えていることが地域住民の満足にもつながっているということを示すものだ。
ただ、本稿の関心から言えば、それ以上に興味深いのが、「保守が生んだ北欧型社会」という、井手自らが「ちょっぴりトリッキー」と呼ぶ問題設定である。既存の保守とリベラルの対立がすでに時代遅れになっているとの認識から、彼は社民主義の中に相互扶助的な理念があると指摘した上で、富山の持つ保守性を社民的な精神とつなぎ合わせようとした。ここに『富山は日本のスウェーデン』の本質があるといえるだろう。つづめて言えば、保守的な地域特性に社民主義の本質があること、そして社民主義にはこうした保守性が宿っていることを主張したのである。
問題設定への反論
こうした問題設定に対して、当事者たちによる異論を企画したのが、週刊誌『週刊金曜日』(2018年12月18日号)だった。同誌は富山大学の社会学者・斎藤正美、小杉町(現射水市)元町長・土井由三、さらに匿名の30代女性による鼎談を掲載し、この中で生活保護者の捕捉率の低いことや、待機児童の数が低いことのからくり、また男性優位の社会の中で、女性の社会進出は社民主義のベースにある公助ではなく、自助・共助の強要によるものであることなどが、反論として出された。
こうした異論には、井手が自著ですでに認めていた点もあるが、同誌は井手に対するインタビューも行い、再反論の機会を提供している。ここで井手は、共同体が持つ負の側面だけに注目するのではなく、保守的な共同性があるからこそ果たしうる機能にも光を当てることを問題提起したかったのであり、そうした姿勢なくしては、危機時にあって共同体原理はファシズムへとつながりかねないという懸念を表明した。
以上の論争を受けて、書かれたのが小熊英二による「リベラルは上滑りなのか」という論説だ(2019年1月31日付け朝刊)。朝日新聞の論壇委員を務める小熊は、上記の反論をまとめつつ、過渡的時代だからといって共同体志向が復活するという井手の主張には論拠がないとした。
そのうえで、井手による以下のような指摘、すなわち「リベラルの議論がどうしてもうわすべりな感じがしてしかたないのは、日本の社会の根底にある土台、風土や慣習のようなものと、その上に据えられる政策とがうまく噛み合っていない」からだという指摘も正しくないとした。そして、これまでの地域の風習を変えようとしてきた「リベラル」な活動の担い手に注視し、さらにそもそもなぜこれまで、富山の保守性そのものが変容しないままに持続しているかについての分析がなければならないと述べた。
「保守=社民主義」は正しいのか?
以上が井手=小熊論争の経緯と内容だが、ここでは3つの点に注目したい。ひとつは、著者の井手が意図的に展開しているこの本の戦略的な性格である。
日本のいわゆる「リベラル」にあっては、90年代に入って北欧の社民政治が改めて注目され、意識的・無意識的かを問わず、理想化される傾向があった。たしかに、スウェーデンやデンマークでは、国民の幸福度・満足度が高く、男女平等の程度と個人の自立も進んでおり、さらに政治の透明性や産業競争力も高い。もっとも、こうした議論や立場は、歴史的文脈や制度自体の違いもあって、日本では違う国の違う制度だとして、(井手の言葉を借りれば)「上滑り」する傾向があったことは否めない。
こうした認識を前提とした場合、「リベラル」な環境の土台が、北欧にあって実際には土着的・家族主義的な側面によって支えられている(井手は社会民主労働党首だったハンソンの『国民の家』演説を引いている)ことを明らかにしつつ、そして、このことは日本でも同じであるということを示すことで、「リベラル」は空論ではなく、日本にも実態があるとしようとした点に、井手の主張の戦略をみてとることができる。
もっとも、次に注目すべきは、小熊も指摘するように、井手のいう「リベラル」が実際には何を示しているのか、セットとして語られる社民主義が「富山らしさ」に解消できるものなのか、という点だ。
井手はリベラルや保守という言葉の定義には頓着しないと冒頭に断った上で、その定義そのものが時代に応じて変わるという事実に敏感であるべきだとしている。しかし「上滑り」しているものが何であるのかを示さないのであれば、その主張は説得力を持ち得ない。さらに言えば、社会民主主義といっても、スウェーデンだけではなく、イギリスや欧州大陸などには、様々な社民のヴァリエーションがある(例えば西欧マルクス主義とフェビアン協会は同じ社民主義と位置づけられるが、同じ理念とは言えないだろう)。
井手はあくまでもスウェーデンを念頭に、「自由、公正、連帯」が社民主義の本旨だとしているが、そこには強権的な政権とそれを支える労使のコーポラティズムが存在していること、あるいは日本と同じように、じつに70年代に至るまで優生学にもとづいた強制不妊手術が精神薄弱者や民族マイノリティに行われていたことには触れていない(これはハンソンの首相時代に導入されたことは強調しておこう)。リベラルも社民も、政治的な理念ではあるが、その理念を支える諸制度を踏まえなければ、どのように整合性が取れるのか、十分に説明できたことにはならない。
最後に、上記2つと関連するが、結果として、井手は「リベラル」という「上滑り」の議論に内実を与えようとして、スウェーデンという「約束の地」(29⾴)を設定することで、ややきつい言い方をすれば、逆に「上滑り」の議論に終始してしまうという自家撞着に陥っている。
つまり、日本の「リベラル」に内実を与えるものとして、スウェーデン社民主義の核に共同体主義を見出しているのだが、そのスウェーデンでの実態を明かそうとするほど、日本とはかけ離れているものであることが伝わってしまう、という矛盾を内包している。それゆえに、定義が難しかったのだろう。これが先の鼎談で、住民女性が「スウェーデンと比べる意味があるのかなと」という発言、さらに小熊が「もっと賢い者が適切な政策パッケージを提示すれば社会を『作り替える』ことができると主張しているように読め」るという指摘にもつながる。これは、井手の言う「トリッキー」な問題設定であることの弱点である。
「社会資本」へのまなざし
もっとも、以上の議論はじつは政治学ではすでに馴染みのある議論であり、類似の問題設定も存在している。言い換えれば「井手=小熊」論争は、それだけ普遍的な内容を含んでいるものである。
政治学では「社会資本(ないし社会関係資本、ソーシャル・キャピタル)」という言葉が90年代以降、定着するようになった。この概念はアメリカの政治学者ロバート・パットナムの著作(『哲学する民主主義』1993年、『孤独なボーリング』2000年〔タイトルは邦題、出版年は原著〕)で有名になったが、それ以前からフランスの社会学者ブルデューや、アメリカの社会学者コールマンなどによっても定義されていた(類似の指摘は古くはトクヴィルやデュルケームの著作にもみられる)。
パットナムは社会資本を、共同体の構成員が共通の目標をより簡単に達成することのできるネットワーク、規範、信頼といった社会的生活の特徴と定義している。コールマンの例をとれば、ニューヨークのダイヤモンドの商人が何の保証もなしに、高価な原石の鑑定を専門家に委ねるのは、密なネットワークからなるコミュニティで規範が共有され、信頼が成り立っているためだ。
社会資本についての詳しい学説史はここでは馴染まないが、この概念が注目されたのにはいくつかの理由がある。それは、社会は強制や法律、市場価格などによって秩序立てられているが、社会の構成員によって目に見えない資本がシェアされていれば、取引・監視コストを少なくし、政策の実効性やコミュニティ内の満足度を高める作用を持つことになるからだ。フランシス・フクヤマが著作『信なくば立たず』(1996年)で、日本やドイツなどの産業競争力の源泉にアクター間の信頼を見出したのも、同じ理由からだ。
『富山は日本のスウェーデン』が実際に明らかにしているのは、この社会資本が富山ではきわめて充実しているということだった。井手は「生活空間のつながり」(69頁)と表現しているが、同地での相互扶助の手厚さや教育水準の高さは、社会資本が存在し、機能していることの証左だろう。
どのような「社会資本」なのか?
社会資本の概念は世界銀行やOECDなどの国際機関でも注目されるようになったこともあり、社会実験を含め、研究が飛躍的に発展した。間口が広いこともあって、日本でも社会資本についての研究は社会科学分野での蓄積が進んでいる。本稿に関連する範囲で言えば、こうした研究がその後に明らかにしたことは二点ある。
ひとつは、社会資本にはレベルが存在しているということだ。社会資本と呼べるものは、国家レベル・国家間レベル(愛国主義、人権規範など)、メゾ(中間)レベル(コミュニティの習慣、社会階層間の連帯など)、個人レベル(家庭、ケアなど)に分類できる。
科学はいつも分類から始まり、比較可能なものを比較しなければならない。少なくとも、スウェーデン社民主義と富山を比較するとき、国家レベルで理念とされていることと、地域レベルで実践されていることは腑分けして議論する必要があるだろう。もちろん、社会資本の上下のレベルは実際には連関している。しかし、そのことと、これらのレベルを一緒にして議論することは自ずと異なった意味を持つことになる。そうでなければ、週刊金曜日の鼎談で示されたように、足元の実態(富山県)と国家的な制度的規範(スウェーデン)との間で読者は混乱するしかない。
もうひとつは、社会資本の有する機能にも種類があるということだ。パットナムは「社会資本のダークサイド」と呼んでいるが、実際には社会資本はきわめて個人の自由や行動に対して制約的に働くことがある。彼は、民族自助集団、教会の女性組織、カントリークラブなどを例にあげて、こうした内的志向的で、集団間のアイデンティティを強化する社会資本も世の中に存在していることを指摘し、これを「ボンディング(拘束)型社会資本」と命名している。
もともと社会資本の厚かったイタリア北部でファシスト勢力や近年のポピュリズム政党が強く、さらにこの種の社会資本が優位とされる日本の町内会をベースに、戦前の日本ナショナリズムが支えられたことを想起してもよいだろう。別の論者であるスコッチポルも、アメリカの在郷軍人会などが強い社会資本を有していることを証明している(『失われた民主主義』2003年)。
これに対置されるのは市民運動や若者支援団体といった「ブリッジ(架橋)型社会資本」であり、これは弱い紐帯からなり、既存の社会集団間をつなぐことのできるような社会資本である。これは、「同質」な人間や組織しか信頼しない「拘束型」に対して、「異質」な人間や組織をも信頼できるような資本と言い換えることができる。ちなみにパットナムの実証によれば、拘束型と架橋型は相矛盾するものではなく、互いに相関関係にあるともされる。
その上で、例えば、この「拘束」と「架橋」を掛け合わせて4象限をつくるならば、「架橋高/拘束低」は個人をアノミーへと誘い、「架橋低/拘束低」は個人を孤立させ、「拘束高/架橋低」は個人の共同体への埋没へ、「拘束高/架橋高」は自律的な個人を生み出すことになる。
以上のような社会資本の質的差異に基づいた図式でいえば、富山は「拘束高/架橋低」、対するスウェーデンは「拘束高/架橋高」に分類することができる。実際にどうであるかは、客観的指標を用いての両者の比較が必要になるが、少なくとも鼎談の参加者の感想や井手の観察からは、富山は自由度の高い地域、つまり「弱い紐帯」の地域であるとは少なくとも言えそうにはない。
このように社会資本の種類に注意を払うならば、富山とスウェーデンを比較して、何が違っていて、何が同じなのかをより精緻なかたちで比較することもできるだろう。もしリベラルが「上滑り」のように聞こえるのであれば、理念先行で、それに先立つ分析や説明が不足しているからである。これに対して明晰な分析は、説得力を有するだけでなく、何が活用可能で、何がそうでないかという具体的な構想につながる。
冒頭で述べたように「井手=小熊論争」は、具体的な事象を対象に、きわめて理念的な、かつ学術的な価値を有する論争である。また、困難をますます抱えている地域社会や個人がどのような関係性を構築していくべきなのか、そこでの協働の在り方はどのようにあるべきなのかについて、各国で模索されている政策課題と通じ合うポテンシャルを有している。
「架橋型」か「拘束型」かという、社会資本についての基礎的な議論も、「個人」を優先する「リベラル」、「共同体」を優先する「保守」という、それ自体として両立不可能であるゆえに不毛な基礎的認識を、井手が示した以外の方法で克服する可能性を持っている。
本稿は、井手=小熊論争が有した射程の広さを指摘するとともに、政治学がどのようにその課題設定を引き取り、分析できるかということについての応用を示したに過ぎない。価値ある論争は、限られたコミュニティ内ではなく、多くの社会科学者によって正負を含めて分析、そして議論されなければならないことはたしかである。論争を展開する2人の研究者を尊敬する者としては、この論考がその手始めになればと願っている。
プロフィール
吉田徹
東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。