2015.09.02

震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家・メディア・民衆

山田昭次 日本史

社会 #関東大震災#朝鮮人虐殺

はじめに――問題の提示

この報告は関東大震災の朝鮮人虐殺事件に関わる諸問題中、下記の3点に焦点を置く。(9月5日、東京大学駒場キャンパス学際交流ホールで開催された、「ジエノサイド研究の展開」公開シンポジウム「関東大震災から81年――朝鮮人・中国人虐殺を再考する」での基調報告)

(1)二重の国家責任

日本国家は一九二三年九月一日に起こった関東大震災に際して朝鮮人が暴動を起こしたという誤認情報を流して朝鮮人虐殺事件を引き起こした。これが第一の国家責任である。その責任を認めたことはないのみならず、その責任の隠蔽をあらゆる手段を使って行なった。これが第二の国家責任である。つまり日本国民は罪を犯した上にその犯罪を隠すという二重の罪を犯した。

一九二三年一二月一五日、衆議院本会議で永井龍太郎は内務省警保局長の電文や埼玉県内務部長の指令など、官憲が朝鮮人暴動のデマを流した証拠を突きつけて政府に謝罪を迫ったが、首相山本権兵衛は「政府は起こりました事柄に就いて目下取調進行中でござります」と誤魔化し答弁をして、永井の質問をはぐらかした。

実際は、朝鮮人虐殺の国家責任を隠蔽する政策をほぼ実行し終わっていた。以来、日本政府は山本内閣の政策を踏襲してきた。在日朝鮮人から人権救済申し立てを受けた日本弁護士連合会は、二〇〇三年八月二五日、小泉首相に対してこの事件に関する謝罪の勧告書を提出したが、首相から回答はない。やはり山本内閣の政策を踏襲するのであろう。

(2)民衆責任

戦前、日本人が作った朝鮮人被虐殺者の墓碑は8つあるが、いずれも「鮮人之碑」(埼玉県本庄)とか、「法界無縁塔」(千葉県の船橋仏経連合会建立)とか、あるいは「鮮覚悟道信士」と戒名を書くだけで(埼玉県児玉郡児玉町浄眼寺)、日本人が殺したことを記した碑文は全くない。

戦後日本人が建立した朝鮮人被虐殺者の墓碑は6つ、日本人が朝鮮人から健碑の提案を受けて共同で追悼碑を建立したが、碑文を日本人が書いた碑は3つある。戦後の碑にこうしたことは繰り返してはならないという反省が書かれるようになるが、しかし日本人が殺したことを記した碑文は未だに1つもない(史料1、2。詳しくは拙著「関東大震災時の朝鮮人虐殺――その国家責任と民衆責任――」創史社、二〇〇三年、二一九―二四九頁参照)。

■史料1 埼玉県児玉郡上里町神保原安盛寺境内の「関東震災朝鮮人犠牲者慰霊碑」碑文、一九五二年建立。

大正12年関東大震災に際し、朝鮮人が動乱を起こしたとの流言により東京方面から送られて来た数十名の人々がこの地に於て悲惨な最後を遂げた。……我々は痛恨の中にもこの碑の建立によって過去の過ちを再びくりかえすことなく、今后互にアジアの同胞として相親しみ、深き反省と自重とをもって相たずさえて永遠に平和な東洋の建設に邁進したい。……(柳田謙十郎撰文)。

■史料2 埼玉県本庄市東台五丁目長峰墓地内「関東震災朝鮮人犠牲者慰霊碑」の碑文、一九五九年建立。

一九二三年関東震災に際し朝鮮人が動乱を起こそうとしたとの流言により東京方面から送られてきた八十六名の朝鮮人がこの地において悲惨な最期を遂げた。我々は暗い過去への厳粛な反省と明るい未来への希望をこめてこの碑を建立し日朝友好と世界平和のために献身することを地下に眠る犠牲者に誓うものである。(安井郁撰文)。

 

日本人が虐殺主体であることを明記したのは、朝連千葉県本部が建立した史料3の碑の碑文しかない。その後、朝鮮人・韓国人により建立された追悼碑では、日本人への気兼ねか、虐殺主体への明確な言及はない。

■史料3 千葉県船橋市馬込霊園内在日本朝鮮人連盟千葉県本部建立。「西紀一千九百四十七年三・一革命記念日竣成関東大震災犠牲同胞慰霊碑」

……当時、山本軍閥内閣は戒厳令を施行し、社会主義者と朝鮮人らが共謀して暴動を計画中という無根の言辞で在郷軍人と愚民を扇動・教唆し、社会主義者とわが同胞を虐殺させた(原文は朝鮮語)。

柳田謙十郎も安井郁も、朝鮮人を虐殺した地元の民衆に気兼ねして、碑文から虐殺主体を省いたのであろう。しかし日本の民衆が朝鮮人虐殺の自己の責任を曖昧にしていたのでは、日本国家が虐殺責任を認めて謝罪するはずもない。

ここに今日も清算されていない朝鮮人虐殺責任が民衆の側にもある。日本民衆は朝鮮人虐殺に加担した原因を自ら解明し反省すると同時に、国家責任を解明することが、その責任であろう。

(3)新聞の責任

「報知新聞」は報道によって官憲が流言を流したことを報じ続けた新聞であった。しかも最底辺の被害者である朝鮮人に目を向けた。前者の点は『東京日日新聞』もなしたが、後者は『報知新聞』のみがなしえたことだった(注1)。

(注1)この点に関しては、山田編『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅴ朝鮮人虐殺関連報道史料』別巻(緑蔭書房、二〇〇四年)中の解説論文「関東大震災時朝鮮人虐殺事件に関する新聞報道と論説の諸傾向」を参照されたい。

『報知新聞』は事件一周年に近い一九二四年八月二九日付夕刊で「流言の火元は官憲だと証拠だてる事はいくらでもあるが、お役人で責を負ったものは一人もいない。結局永遠の暗に葬られじまいである。」と、事を慨嘆した。

しかし新聞は全般的にはこの事件以前から朝鮮人の解放・独立運動に偏見をもたせる報道しかしなかったし、事件当時も政府の政策に追随するだけだった。この新聞の責任も視野に入れたい。

関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の歴史的前提――在日朝鮮人の増大や朝鮮人の独立解放運動の発展と日本の国家・新聞・民衆

(1)在日朝鮮人の増大とその生活

在日朝鮮人労働者の起源は古く、すでに一八九〇年代に福岡県の筑豊炭田や佐賀県の炭鉱で彼らは働いていた。

在日朝鮮人が急速に増大したのは第一次世界大戦中の一九一七年頃からである(表1)。関東では京浜工業地帯に朝鮮人は集中した(表2)。一九二三年の関東在住朝鮮人は一四、一四四人、東京府・神奈川在住朝鮮人は一二、二一二人であった。

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表1 在日朝鮮人人口(推計)と渡航数・帰国数
表2 関東地方の府県別朝鮮人人口
表2 関東地方の府県別朝鮮人人口

戦争のために欧州諸国の輸出がとだえたので、日本の工業製品に対する海外からの需要が増大し、日本資本主義は急速に発展したために労働力不足が生じた。日本の企業は低賃金の朝鮮人労働者を求めた。

他方、朝鮮では農民が没落して、農業だけでは生活できなくなり、出稼ぎせざるをえなくなっていた。その最初のきっかけとなったのは一九一〇年から一九一八年にかけて行なわれた土地調査事業で、その結果、自作農や自小作農が分解し、一方の極に地主が、他方の極に小作農が増大した(表3)。

表3 朝鮮地主・自作・自小作・小作戸数とその比率
表3 朝鮮地主・自作・自小作・小作戸数とその比率

原因は色々あった。それまで事実上農民の所有だった駅屯土や帝室財産の土地が国有地に編入されて、農民は小作農に転落した。地主が共有地を自己の私有地に編入して農民が使用できなくなることもあった。また土地を申告しないで没収された農民もいた。当時、文字を知らない農民も多く、書類をつくり、煩瑣な手続きを限られた期間にすることが困難な農民も多かった。

日本側の吸引要因と植民地朝鮮の排出要因が重なって、在日朝鮮人が急速に増大した。彼らは日本人の五〇%から八〇%の資金で、炭鉱や土建など危険な職場で働いた。

第一次世界大戦終了後の不況期になると、企業は日本人労働者よりも低賃金の朝鮮人を使って不況を乗り越えようとする傾向を示したので、失業におびえた日本人下級労働者の朝鮮人労働者に対する態度は蔑視から労働市場での競争相手としての敵視へと変わった(前掲拙著、五五―五七頁)。

■史料4 在日朝鮮人の労働条件

1、一般に内地人のそれよりも賃金の低廉なること

2、労働時間の他より長きこと

3、危険の伴う仕事、汚い仕事、労苦の多き仕事

(東京府学務部社会課『在京朝鮮人労働者の現状』一九二九年。朴慶植編『在日朝鮮人関係史料集成』第二巻、三一書房、一九七五年、九七一頁)。

(2)朝鮮人の独立解放運動の発展と日本の治安当局の在日朝鮮人、特に在京朝鮮人に対する警戒心の増大

 

一九一九年三月一日に起こった三・一独立運動は巨大な運動だった。三月一日から四月二十九日にかけて二一二府群で一二一四回のデモに延べ一一〇万人以上が参加した(金鎮鳳「三・一運動と民衆」、高在目編『三・一運動50周年記念論文集』東亜日報社、一九六九年、三六五頁)。

それ以後も義烈団のテロ闘争や中国東北部(満州)に拠点を置いた独立軍の武装闘争が高揚して、日本の支配者の心胆を一層寒からしめた。三・一運動に対する武力鎮圧がこのような形の独立運動を呼び起こした。

在日朝鮮人の運動も、三・一運動に励まされて高揚した。一九二〇年六月に刊行された内務省警保局保安課『朝鮮人概況』第三も、このことを認めて、在日の「不逞鮮人の排日思想が大正八年の独立騒擾以来益々硬化の跡あるは注目すべきところなり」と述べた。

同書によると、要視察朝鮮人、つまりブラックリストに登録された朝鮮人は二一二人、このうち東京にいるそれは一五五人で、全員の七三%を占めた。その原因は同書が言うに東京には朝鮮人留学生が集中していたからである。

同書によると、一九二〇年六月末現在、日本全国の朝鮮人学生数は八二八人、東京にいる朝鮮人学生は六八二人で全国のそれの八二%だった(朴慶植編『在日朝鮮人関係史料集成』第一巻、三一書房、一九七三年、八三頁、一一七―一一八頁)。

三・一運動直後に東京に留学した金山(キム・サン)こと張志楽(チャン・ジラク)の回想によると、当時東京にいた朝鮮人学生の「三分の一が貧乏な『働きながら学ぶ』学生」で、彼らは金持ちの別の一派の朝鮮人学生より知的に進んでいて「みんなマルキシズムを勉強していた」(ニム・ウェールズ著、松平いを子訳『アリランの歌――ある朝鮮革命家の手記――』岩波文庫、一九八七年、八九―九〇頁)。

三・一運動以前から治安当局は「東京は庁府県中要視察人最多の地」として警戒していた(内務省警保局保安課『大正七年五月三十一日調 朝鮮人概況』第二。朴慶植編、前掲書、六二―六三頁)。三・一運動後ともなれば、治安当局の警戒が在京朝鮮人に一層集中するゆえんであった。一九二一年七月二八日、警視庁に内鮮高等係が置かれた(警視庁史編さん委員会『警視庁史』大正編、一九六〇年、一〇七頁)。

一九二一年一一月には在京の朝鮮人社会主義者・無政府主義者が黒涛会を組織した。この会は分裂し、一九二二年一一月には社会主義者は北星会を、無政府主義者は黒友会を結成した。この月には東京朝鮮労働同盟会が結成された。

内務省警保局長はこの動きを警戒し、一九二三年五月一四日付けの通牒で在日朝鮮人労働者が「往々にして社会運動及労働運動に参加し、団体的行動に出でんとする傾向の特に著しきものあり」と各地方長官に注意を促した(朴慶植編『在日朝鮮人関係史料集成』第一巻、三一書房、一九七五年、三八頁)。

一九二三年の春には朝鮮人に対する日本の治安当局の警戒心と弾圧は極度に達した。この年の三月一日、警視庁は京浜在住の朝鮮人が上海フランス租界の上海高麗共産党やハワイの朝鮮人団体と連絡を取って何事か策しているというデマ情報を入手して、東京市とその周辺の群の朝鮮人居住地帯一帯を厳戒した(『東京朝日新聞』一九二三年三月一日)。

この年の五月一日のメーデーに際しては、警視庁は社会主義者、その他思想団体の参加を禁じた(『読売新聞』一九二三年五月一日)。思想団体として重視されたのは朝鮮人団体だった。参加禁止にもかかわらず、メーデーに参加した朝鮮人に対しては警官隊は殴る、蹴るの暴行をして検束した。翌日の『東京日日新聞』はその状況を「見る人の目にも残忍そのものを思わせた」と報じた。

(3)新聞と「不逞鮮人」像の流布

この頃には「不逞鮮人」という言葉がよく使われた。「不逞」とは、岩波書店刊行の『広辞苑』によると「①不平をいだき、従順でないこと。②勝手な振る舞いをしてけしからぬこと。ずうずうしいこと。」という意味である。

しかしこの当時は「不逞鮮人」とは朝鮮の独立解放を目指す朝鮮人を指した。民族自決は当然の権利であって、不正なことではない。それを「不逞」というには、日本の植民地支配を批判も抵抗も許されない日本国家の聖域と考えるところから発生した。

例えば朝鮮人の独立運動に関する当時の新聞の見出しを紹介すると史料5のようで、たいがい「陰謀」とか「不逞」というレッテルが貼られた。しかも「不逞鮮人」とは殺人鬼のように報じられた(史料6)。

■史料5 朝鮮人の独立運動に関する新聞記事の見出し

朝鮮独立の陰謀暴露して李鋼公以下関係者取押らる(『読売新聞』一九一九年一一月二八月)

耶蘇教徒より成る朝鮮婦人陰謀団 青年外交団の検挙より内情暴露し十四名逮捕(『東京朝日新聞』一九一九年一二月一九日)

不逞鮮人が独立陰謀の顛末 暗殺放火強盗を恣にす(『読売新聞』一九二〇年八月一八日)

鮮人釜山署に爆弾を投ず 署長は軽症を負い 兇漢鮮血に塗れて人事不省に陥る(『東京朝日新聞』一九二〇年一〇月四日)

市内各所に出没して陰謀を図る不逞鮮人団 何れも上海仮政府の巨頭 連密談のわが警部を絞殺す 警視庁の大活動(『東京朝日新聞』一九二一年三月二日夕刊)

日比谷の密儀俄然大発展 不逞鮮人や過激派の巨頭連が入京して社会主義者と連絡の形跡 警視庁活動す(『東京朝日新聞』一九二一年一〇月二八日)

■史料6 新聞の朝鮮人報道に対する中西伊之助の批判

私は寡聞にして、未だ朝鮮国土の秀麗、芸術の善美、民情の優雅を紹介報道した記事を見たことは、殆どないと云っていいのであります。そして爆弾、短刀、襲撃、殺傷、――あらゆる戦慄すべき文字を羅列して、所謂不逞鮮人――近頃は不平鮮人と云う名称にとりかえられた新聞もあります――の不逞行動を報道しています。それも、新聞記者の事あれかしの誇張的筆法をもって。

若し、未だ古来の朝鮮について、また現在の朝鮮及朝鮮人の知識と理解のない人々や、殊に感情の繊細な婦人などがこの日常の記事を読んだならば、朝鮮とは山賊の住む国であって、朝鮮人とは、猛虎のたぐいの如く考えられるだろうと思われます。朝鮮人は、何等考慮のないジァナリズムの犠牲となって、日本人の日常の意識の中に、黒き恐怖の幻影となって刻みつけられているのであります。……私は敢えて問う、今回の朝鮮人暴動の流言蜚語は、この日本人の潜在意識の自然の爆発ではなかったか。この黒き幻影に対する理由なき恐怖ではなかったか。(中西伊之助「朝鮮人のために弁ず」『婦人公論』一九二三年一一・一二月合併号。琴秉洞編(関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料 Ⅲ  『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応』1、緑蔭書房、一九九六年、二六七頁)

一九二二年一一月に朴烈・金子文子が東京で創刊した『太い鮮人』創刊号は、「不逞鮮人」像を抱く日本人労働者に対して次のように訴えた。

「日本社会で酷く誤解されて居る『不逞鮮人』が果たして無暗に暗殺、破壊、陰謀を謀むものであるか、それとも飽くまで自由の念に燃えて居る生きた人間であるかを、我々と相類似せる境遇に在る多くの日本の労働者に告げる……」

日本の新聞は中西が指摘したように、日本人に朝鮮人の運動に恐怖感をも抱かせた。しかし問題はそれだけではない。朝鮮人の運動に「不逞」、「陰謀」というレッテルを貼って民族自決という倫理的正当性を奪った。その結果、日本民衆の多くは朝鮮人に対する民族的偏見を一層強め、いたずらにこれに対する恐怖や敵意、蔑視を持つようになったと思われる。

日本国家の朝鮮人暴動の誤認情報の流布――日本国家の第一の責任

関東大震災は一九二三年九月一日午前一一時五八分に起こった。東京や横浜では震災が火災を呼び起こして大災害となった。東京では早くもこの日の夕方には警官が朝鮮人暴動の情報を流布した(史料7、8、9)。警視庁『大正大震火災誌』(同庁、一九二五年)はこのことに関して全く沈黙して、その責任を隠蔽している。

■史料7 東京市麻布区本村尋常小学校一年生西村喜代子の作文「だいじしんのはなし」

大じしんのとき、私はいいぐらにいました。(中略)みんなで本村のほうににげてきました。(中略)それからゆうがたになったら、〇〇〇〇〇〇〇(ふていせんじん)がせめてくるからとおまわりさんがいいにきました。(東京市学務課編纂『東京市立小学校児童震災記念文集』一九二四年。琴秉洞編『関東大震災朝鮮人虐殺関係史料 1 朝鮮人虐殺関連児童史料』緑蔭書房、一九八九年、二九九~三〇〇頁)

■史料8 寺田寅彦「震災日記より」九月二日の条

帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難してきた。いずれも何一つ持ち出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て〇〇(朝鮮)人の放火者が徘徊するから注意しろと言ったそうだ。(琴秉洞編、史料6前掲書、1、緑陰書房、二八五頁)

■史料9 一九二三年一〇月二五日、東京市本郷区の区会議員の一部、区有志、自警団代表の会合での報告

先ず曙町村田代表から九月一日夕方曙町交番巡査が自警団に来て「各町で不平鮮人が殺人放火して居るから気をつけろ」と二度迄通知に来た……。(『報知新聞』一九二三年一〇月二八日)

しかしこれら警察官の行動は治安当局の中枢部の指示によるものではなく、常日頃朝鮮人に対して神経を使って警戒に当っていた個々の警察署の判断でなされた行動であろう。

二日になると内務省警保局長は朝鮮人が暴動を起したと誤認して、道府県にこれを伝達する処置を取って道府県の地方長官に警戒を命じた。その証拠が史料10と11である。

警保局長の電文の打電が一日おくれて三日になったのは、騎兵が電文を船橋海軍無線電信送信所までもっていかなければならなかったからである。

■史料10 各地方長官宛内務省警保局長電文 九月三日午前八時十五分船橋海軍無線電信送信所から打電。

東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分宗密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし。

(注)電文欄外に「この電文を伝騎にもたせやりしは二日の午後と記憶す」と記載。(姜徳相、琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、一九六三年)

■史料11 9月2日埼玉県内務部長の県下群町村長宛の自警団結成の移牒

庶発第八号 大正十二年九月二日 埼玉県内務部長

群町村長宛 不逞鮮人暴動に関する件

移牒

今回の震災に対し、東京に於いて不逞鮮人の妄動これあり、又その間過激思想を有する徒これに和し、以って彼等の目的を達せんとする趣聞くに及び、漸次その毒手を振わんとする惧(おそれ)これ有り候に付いては、この際町村当局者は、在郷軍人分会・消防隊・青年団等と一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の策を講ずるよう至急御手配あいなりたし。右その筋の来牒により、この段移牒に及び候也。

(吉野作造『圧迫と虐殺』、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫所蔵吉野文庫)。

※解説 一九二三年一二月一五日の衆議院本会議での永井柳太郎の演説によると、埼玉県の地方課長が九月二日に本省つまり内務省との打ち合わせを終えて、午後五時頃帰ってきて内務部長に報告し、内務部長はその報告に基づいて郡町村長にこの指示をしたという。その結果、県下に自警団が組織された。

政府はこの処置と並行して九月二日に東京市とその周辺五群に戒厳令を布告し、三日に東京府と神奈川県に、四日に埼玉県、千葉県にも適用した。

弁護士の山崎今朝弥はいみじくも「実に当時の戒厳令は、真に火に油を注いだものであった。何時までも、戦々恐々たる民心を不安にし、市民をことごとく敵前勤務の心理状態に置いたのは確に軍隊唯一の功績であった」と言った(「地震・流言・火事・暴徒」、『地震・憲兵・火事・巡査』岩波文庫、一九八二年、二二三頁)。戒厳令の布告、軍隊の出動、その朝鮮人虐殺は民衆の目に朝鮮人をまがいもなく「国賊」に仕立て上げた。

朝鮮人虐殺状況

(1)軍隊の朝鮮人虐殺と民衆

 

軍隊の朝鮮人虐殺状況は報道抑制のためにすべてはわからないが、表4を参照されたい。荒川の四ツ木橋近辺と小松川橋近辺では軍隊(恐らく習志野騎兵連隊)が機関銃を使って朝鮮人を大量殺戮した。

弁護士山崎今朝弥は「立て、座れ、ドンドン、ピリピリ、南島で機関銃を見た者は千や二千の少数ではない。否、その地方でこれを知らない者はあるまい。」と、新聞には全く報道されずに隠されたその凄まじい状況を伝えた(「地震・流言・火事・暴徒」、『地震・憲兵・火事・巡査』岩波文庫、一九八二年、山崎今朝弥、二三二頁)。

架空の「不逞鮮人」を恐れた民衆は軍隊への依存意識を強めた。民衆は軍隊が東京に入ると「万歳! 万歳!」と叫んで喜んだ(黒坂勝美『福田大将伝』福田大将伝刊行会、一九三七年、三八一頁。関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花を呼べ』教育資料出版会、一九九二年、五七頁)。

『河北新報』九月五日夕刊は、仙台「市民の一部から警察のみでは不安だから軍隊で警戒して貰いたいと仙台憲兵隊へ交渉に及んだものがあるそうだ」と報じた。九月二〇日、横浜の復興会は「この度の如き大事変には警察のみでは不安だから軍隊で警戒して貰いたいと仙台憲兵隊へ交渉に及んだものがあるそうだ」との建議を決議、翌二十一日には八王子市会も同じ趣旨の決議をした(『報知新聞』九月二九日夕刊)。

(2)警察の朝鮮人虐殺の容認と自警団員の国家主義的思想――「天下晴れての人殺しだから、豪気な者でさア」

吉田光貞『関東大震災の治安回顧』(法務省特別審査局、一九四九年)によれば、自警団は関東に三、六八九結成されたという(四三頁)。しかし自警団は関東以外の東北、東海、北陸の諸地域にも結成されたから、その数は五、〇〇〇を下らないだろう。

自警団の指導者は市街地では家主や地主、農村では村の有力者だった。その発生経路は多様である。自然発生的なものもあるし、埼玉県の例のように県の指令によりつくられたものもある。また関東大震災より数年前から「警察の民衆化、民衆の警察化」のスローガンにより警察の下請け組織として地元有力者が町会や町村単位に結成してあった「安全組合」とか「保安組合」から自警団に転化したものもある。

自警団がどのような経路でつくられようと、九月はじめ頃は警察は自警団を歓迎し、その朝鮮人虐殺を認めたので、民衆も朝鮮人を殺害したことを得意にしていた。

九月二日の夜、三田警察署の警官は自警団に対して「××(鮮人)と見たら、本署につれてこい。抵抗したらば〇(殺)しても差し支えない」といった(一九二三年一〇月二二日付け『東京日日新聞』投書)。同じく二日の夜、弁護士布施辰治の友人が警官の命令で日本刀を下げて戸外にいると、警官が来て「鮮人が来たらば、ヤッツケてもカマワない」といった(布施辰治「鮮人騒ぎの調査」『日本弁護士会録事』一九二四年九月。姜徳相、琴秉洞編、前掲書、五八八―五八九頁)。

震災当時、東京市本所区横綱町に住んでいた川島つゆは警官が「○(鮮)人と見れば打殺してよろしい」と触れ歩いたことを証言として書き残した(古庄ゆきこ編『川島つゆ遺稿第二集Ⅰ 大震災直面記』私家版、一九七四年、二七頁)。だから、向こう鉢巻をし親父達が「今日は六人やっつけてやった」とか、「俺が第一番で手を下してやっつけたのだ」とか、得々と語った。川島はこのことも書き記した(古庄編前掲書、二七頁)。

横浜でも「俺ア今日まで六人やりました」「そいつは凄いな。何てたって身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気な者でさア」という会話が取り交わされた(横浜市役所編纂係、『横浜震災誌』第五巻、横浜市、一九二七年、四三一頁)。

当時の民衆はなかなか国家主義者だった。本庄警察署で自警団による朝鮮人虐殺事件が起こった翌日の九月五日、ある人物が本庄警察署の巡査新井賢次郎に対して「不断剣をつって子供なんかばかり脅かしゃがって、このような国家緊急の時に人一人殺せないじゃないか。俺たちは平素ためかつぎをやっていても、夕べは十六人も殺したぞ」と豪語した(関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者追悼実行委員会編・刊『隠されていた歴史――関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件――』増補保存版、一九八七年、一〇二頁)。

一九二三年一〇月二二日、浦和地裁の熊谷朝鮮人虐殺事件法廷で一被告は「当時は秩序が紊れていましたから、国家の為と思いまして」と、朝鮮人虐殺の理由を陳述した(『東京日日新聞』一九二三年一〇月二二日夕刊)。同年一一月四日、千葉県東葛飾郡浦安町での朝鮮人虐殺および日本人誤殺事件を審理する千葉地裁法廷で一被告は、朝鮮人を「一太刀浴びせて殺したが、国家を思うために遣ったのだ」と陳述した(『東京日日新聞』一九二三年一一月一五日房総版)。

以上のように、民衆にあったのは民族差別のみではない。彼らは極めて国家主義者だった。日本国家の朝鮮支配に抵抗する朝鮮人は「国賊」であり、したがって国家が朝鮮人虐殺を容認すれば、民衆には朝鮮人虐殺の歯止めはなく、虐殺が国家への忠誠の証しだった。

(3)朝鮮人虐殺の期間と人数および性的虐待

朝鮮人の虐殺は一般的には九月一日の夜から六日まで行われた。ただし、その後も軍隊が習志野収容所から近辺の農民に渡して殺させた(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会『いわれなく殺された人々――関東大震災と朝鮮人――』青木書店、一九八三年、三―九頁、九四―一〇四頁)。

朝鮮人虐殺数は、司法省調査によれば二三〇余人、在日本関東地方罹災同胞慰問班の最終調査報告によれば、六、六六一人である。後に述べるように、司法省はでっち上げた朝鮮人暴動を一九二三年一〇月二〇日に発表したのだから、朝鮮人虐殺数もでたらめだと思う。朝鮮人慰問班の調査は司法省調査よりは現実の数に近いと思われるが、その調査の期間は一〇月初めから一一月二五日まで二ヶ月弱であり、かつ治安当局は朝鮮人の死体を隠匿して朝鮮人に渡さず、その調査を妨害したのだから、慰問班が正確な調査ができたとは思われない。そもそも警視庁は朝鮮人の調査を認めないので、朝鮮人は同胞の慰問というタテマエでやっと調査したのだった(拙著『関東大震災時の朝鮮人虐殺――その国家責任と民衆責任――』創史社、二〇〇三年、一六四頁―一八五頁、二〇六頁―二〇七頁)。

虐殺の実態を見ると、それは民族差別だけに起因したのではない。同時に性的差別も随伴した。自警団員たちは朝鮮人女性を裸にして弄んだり、陰部を竹槍で突き刺したり、妊婦の腹をさいたり、さまざまな性的虐待を行なった。その事例は拙著第六章第三節に掲載した。

九月五日から始まる第一の国家責任の隠蔽政策――第二の国家責任の発生

官憲は朝鮮人暴動情報を流したが、朝鮮人暴動を確認できてはいなかった。二日午後四時、第一師団長は「計画的に不逞行為をなさんとするが如き形勢を認めず」と訓示を発する始末だった(東京市役所編・刊『東京震災録』前輯、一九二六年、三〇三頁)。

他方、前述のように朝鮮人虐殺は早くも一日の晩から始まり、二日から酷くなっていった。

内閣は、このまま行けば朝鮮に対する植民地支配が動揺し、かつ欧米諸国から非難されることを恐れて、五日に朝鮮人にリンチを加えることを禁じた「内閣告輸」第二号を布告した(史料12)。

政府はそれと同時に第一の国家責任を隠蔽する政策を展開した。その政策は大きく分ければ下記の三つである。

(1)朝鮮人暴動のでっち上げ

朝鮮人暴動をでっち上げ、日本人の朝鮮人虐殺は朝鮮人暴動の結果として起ったことにして、朝鮮人暴動の誤認情報を流した国家責任を隠蔽した。この方針は九月五日に臨時震災救護事務局警備部に集まった各方面の官憲によって合議決定された(史料13)。そして政府は一〇月二〇日に、九月五日以降、禁じていた朝鮮人虐殺記事を解禁にするとともに、司法省は朝鮮人の「犯罪」を発表したが、朝鮮人犯罪の八割以上が氏名や所在が不明な者であり、残る二割弱は取調べ・予審・公判の最中で容疑者であっても犯罪人として判決も下りていない者や、窃盗・横領・贓物運搬といったこそ泥程度の者だった(表5)。

司法省は苦労して朝鮮人の犯罪をでっち上げたが、その根拠薄弱ぶりは一目瞭然だった。しかし司法省はこんな発表をしておいて、朝鮮人虐殺はこのような朝鮮人暴動のために起ったのだという説明を加えた(史料14)。多くの新聞は国家責任を棚上げする目的のこの説明にまんまと乗せられた(史料15)。

(2)ごく一部の自警団員の検挙と形式的有罪言い渡しによる国家責任の棚上げ

朝鮮人を虐殺した自警団員の検挙は、九月一一日の臨時震災救護事務局警備部内の司法委員会で決議された。ただし、朝鮮人を虐殺した者に対しては情状酌量して一部だけを検挙すること、しかし警察に収容されていた朝鮮人を虐殺するために警察を襲った者に対する検挙は厳しくすることが決議された(史料16)。

朝鮮人を虐殺した自警団員の検挙は九月一九日に始まり、一〇月末には終わったらしい。新聞は検挙と歩調を合わせて「悪自警団」「不良自警団」「殺人自警団」などの呼称で自警団をこき下ろす記事を掲載した。

他方、新聞は軍隊の朝鮮人虐殺は僅かしか報じなかった(注1)。

裁判の結果は司法委員会の方針通り行なわれ、朝鮮人を虐殺した被告の大部分は有罪判決を受けても執行猶予となり、実刑判決を受けた被告は全被告の一六・五%に過ぎなかった。警察襲撃者と日本人殺害者は半数前後が実刑判決を受けた(表6)。弁護士は誤認情報を流した官憲の証人としての出廷を要求したが、浦和地裁、前橋地裁、水戸地裁下妻支部のいずこでも、この要求は拒否された(前掲拙著、一〇四―一〇五頁)。

朝鮮人を虐殺した軍人は一人として何ら罪を問われることがなかった。ほとんどの場合、朝鮮人が暴行したとして、「衛戌勤務令」第一二条第一項によって虐殺は正当化された(司法省『震災後に於ける刑事犯及之に関連する事項調査書』、姜徳相、琴秉洞編、前掲書、四四五―四四八頁)。該当条文を掲げると、次のようである。

「第十二、衛戌勤務に服する者は、左記に記する場合に非ざれば、兵器を用ゆることを得ず。

一、暴行を受け、自衛の為止むを得ざるとき。」(姜徳相、琴秉洞編、前掲書、九五頁)。

■史料12 九月五日内閣告輸 第二号

今次の震災に乗じ一部不逞鮮人の妄動ありとして、鮮人に対し頗る不快の感を抱く者ありと聞く。鮮人の所為若し不穏に亘るに於ては速に取締の軍隊又は警察官に通告してその処置に俟つべきものなるに、民衆自ら濫に先人に迫害を加うるが如きは、固より日鮮同化の根本主義に背戻するのみならず、又諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非ず。(下略)(姜徳相、琴秉洞編・解説『現代資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、一九九四年 七四頁)。

■史料13 臨時震災救護事務局警備部朝鮮問題に関する協定極秘

鮮人問題に関する協定

一、鮮人問題に関し外部に対する官憲の探るべき態度に付、九月五日関係各方面主任者、事務局警備部に集合、取敢えず左の打合を為したり。

第一、内外に対し各方面官憲は鮮人問題に対しては、左記事項を事実の真相として宣伝に努め、将来これを事実の真相とすること。(中略)

朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事例は多少ありたるも、今日全然危険なし。しかして一般鮮人は皆極めて平穏順良なり。(中略)

第二 朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し、肯定に努むること。(姜徳相、琴秉洞編・解説、前掲書、七九~八〇頁)

 

■史料14 一〇月二〇日在日朝鮮人の「犯罪」発表に際しての司法省の説明

今その筋の調査した所によれば、一般朝鮮人は概して純良であると認められるが、一部不逞の輩があって幾多の犯罪を敢行し、その事実宣伝せらるるに至った結果、変災に因って人心不安の折から恐怖と昂奮の極、往々にして無辜の鮮人、または内地人を不逞鮮人と誤って自衛の意味を以て危害を加えた事犯を生じた……(『国民新聞』一九二三年一〇月二一日)

■史料15 司法省の説明に乗せられた新聞記事の見出しの例

『河北新報』 一九二三年一〇月二一日夕刊

自警団許り責められぬ 至る所に凶行を演じた一部不逞なる鮮人

『上毛新聞』 一九二三年一〇月二二日

混乱中に一部不平の鮮人掠奪強姦其の他の凶行 此の妄動に善良な鮮人迄が悉く不逞の徒と誤解惨害被る

■史料16 九月一一日 臨時震災救護事務局警備部内の司法委員会決議

一、今回の変災に際して行われたる損害事件は、司法上これを放任するを許さず、これを糾弾するの必要なるは、閣議に於て決定せる処なり。然れども情状酌量すべき点少なからざるを以って、騒擾に加わりたる全員を検挙することなく、検挙の範囲は顕著なるもののみに限定すること。

二、警察権に反抗の実あるものの検挙は厳正なるべきこと。(『関東戒厳司令部詳報』、松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料』、日本経済評論社、一九九七年、一五四頁)。

(3)虐殺された朝鮮人の死体の隠匿と朝鮮人に対する朝鮮人死体引渡しの拒否などによる朝鮮人虐殺状況の隠蔽

本庄警察署の巡査新井賢次郎は、この地で虐殺された朝鮮人の死体を焼くに当って「数がわからないようにしろ」と命じられた(関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会編・刊『隠されていた歴史――関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺――』増補保存版、一九八七年、一〇〇頁)。

東京府南葛飾郡吾嬬町(現墨田区八広)と本田村(現葛飾区東四つ木)の間の荒川にかかっていた四ツ木橋近辺の河川敷に埋められた朝鮮人遺体に対する警察の隠蔽工作も徹底していた。ここでは自警団と軍隊による朝鮮人の大量虐殺の後に死体は河川敷に埋められた。

亀戸署内で九月四日夜から五日未明にかけて習志野騎兵第十三連隊の軍人たちによって日本人労働者一〇名が虐殺され、死体はこの四ツ木橋近辺の河川敷に埋められた。一一月一三日、遺族や労働者、弁護士がここに死体の掘り返しに行ったが、警察側はすでに掘り返したという理由で彼等を追い返した。そして翌日、警察側は死体を掘り返してどこかに持ち去った(前掲拙著、一八一~一八三頁)。

警察が遺族たちの肉親の死体を掘り返させなかったのは、それをさせれば同時に多数の朝鮮人死体も掘り返され、虐殺の実態が露呈することを恐れたからであろう。

一九二三年一一月六日付の警視総監の報告によれば、彼は在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班の朝鮮人死体引渡し要求を拒否した(姜徳相、琴秉洞編、前掲書、三二六頁)。

治安当局は虐殺された朝鮮人遺体を隠匿し、これを朝鮮人に渡さず、ひたすら朝鮮人虐殺状況を隠蔽し通した。

(注2)管見の範囲では、新聞が報じた軍隊の朝鮮人虐殺の記載は次の三件しかない。

 一九二三年一一月一五日(一四日夕刊)付『報知新聞』は、千葉県東葛飾郡浦安町での朝鮮人虐殺を審理した千葉地裁法廷で宇田川国松が「九月二日午後、同町(浦安町――引用者注)江戸川辺で習志野騎兵十三連隊の兵二名が一鮮人を射殺したのを目撃し、また役場前に射殺された三鮮人の死体を見た」と述べたことを報じた。

 また一九二三年一〇月二二日(二一日夕刊)付『東京朝日新聞』および一九二三年一〇月二二日付『河北新報』は「千葉県下各所で行われた朝鮮人殺し事件の加害者は独り地方民のみならず軍隊の共に手を下した形跡あり。某連隊の如きは東葛飾郡各町村青年団、消防組に対して実弾五発と鉄砲一挺宛を貸与した事実もあるので」、第一師団の法務部法務官兼司法事務官が詳細調査したと報じた。

おわりに

以上のように、植民地支配に対する朝鮮人の抵抗の増大に警戒心を高ぶらせていた官憲は、大震災が起こると、まず個々の警察署から、ついで治安当局の中枢部が「不逞鮮人」の暴動の幻想に襲われて、誤認情報を流布した。最初どこから誤認情報が発されたか、官憲からか、民衆からか、不明である。

仮に最初民衆から誤認情報が流されたとしても、官憲がお上の権威付き誤認情報を流さなければ、このような大惨事にはならなかったであろう。この点で国家の責任は免れがたい。

加えて国家は誤認情報を流して朝鮮人虐殺を引き起こした責任を隠蔽するために、朝鮮人暴動をでっち上げて責任を朝鮮人自身と自警団に転嫁させ、また朝鮮人の死体を隠匿して朝鮮人に引き渡さなかった。肉親が虐殺された上にいたいも受け取れない朝鮮人遺族の悲憤が一九二三年一一月二二日付『中外日報』に掲載されている(資料17)。

遺族が悲憤を表明した文書は今日のところこの一編しか残されていない。その他の遺族もみな同様な悲憤を抱いたであろう。しかしその悲憤は言論弾圧によって隠されてしまった。朝鮮人たちは虐殺された上に、遺族はその怒りも表明できなかったのである。

朝鮮人をかくまった日本人民衆もいた。彼らは多くの場合、朝鮮人と交流のあった人々だったと思われる。しかし多数の日本民衆は朝鮮人虐殺に加担した。その根本原因は日本民衆も朝鮮人を蔑視し、かつ自国の植民地支配を正当なものと信じ、朝鮮人の独立・解放運動を敵視したからである。つまり、民衆は国家から自立し、これを超える普遍的視点を持たず、国家の誤認情報をそのまま受け入れてしまった。

女性として、かつ社会的底辺の存在として受けた二重の差別の痛みを通じて朝鮮人が置かれた状況とその闘いに深く共感して天皇制国家の差別性を徹底的に批判した金子文子のような存在は稀有であった(拙著『金子文子――自己・天皇国家・朝鮮人――』影書房、一九九六年)。

多数の民衆がこのような精神状況だったことについては、朝鮮人の独立運動を「不逞」とか「陰謀」と報道し続け、朝鮮人虐殺の第一と第二の国家責任を批判できなかった大部分の新聞の責任は大きい。

朝鮮民主主義人民共和国の日本拉致のみに激怒し、それに対する経済制裁を叫ぶのみで、関東大震災時に虐殺された朝鮮人本人ならびに遺体すら戻されない肉親の悲憤を公表出来なかった遺族、他方そのような事態を引き起こした日本の国家と民衆に全く思いをいたせない今日の日本人たちを見れば、今日も上記に指摘した問題状況は何一つ解決してないのだと思わざるを得ない。

人権の被害者に対する態度が、被害者の所望する国家によって差別されてはならない。朝鮮民主主義人民共和国によって拉致された日本人被害者に対しても、また関東大震災時に虐殺された朝鮮人とその遺族や、戦時期に強制連行された朝鮮人とその遺族に対しても、国家を超えた視点から同じく人権救済が行われねばならない。

これまで日本の植民地支配を糾弾してきた韓国で、国家を超えた普遍的視点からベトナム戦争時の韓国軍のベトナム民間人の虐殺も展示する平和博物館の設立運動が行なわれている。日本人は国家を超えたこの視点に深く学ぶべきだろう。

■史料17 朝鮮人遺族の悲憤

震災当時の人為的錯誤若しくは偏見によって虐殺された数百人の鮮人の遺族に対し政府は目下いかなる弔慰法を講じているか、それは知るべき由もないが、彼ら鮮人遺族として痛切に感じていることは、すでに虐殺されたことは不運として忍び難い怨みも忍んで諦めるが、一つ諦めようとして諦め難いのは、せめてその遺骨だけなりとも捜し出して懇ろに葬りたいが、それすら出来ないことである。

勿論多くの遺族の中には石を裂いてでも捜すだけは捜して、せめてもの思い遣りをしたいと焦慮しているものもあるが、その大部分は累の身の上に及ばんことを懼れて諦めるようにも諦められず、地団太踏んで悲憤の涙を流している状態である。(「虐殺鮮人の骨はどうした 在留鮮人の深い慨嘆」、『中外日報』 一九二三年一一月二二日。「大坂の某鮮人は語った」と記されている。)

※本稿は「統一評論」(統一評論新社)2004年11・12月号「関東大震災における朝鮮人虐殺 震災直後の首都圏で何が起きたのか?(上)(下)国家、メディア、民衆」を転載したものです。

サムネイル:Kanto Great Earth Quake Nippori Station.jpg

プロフィール

山田昭次日本史

1930年生まれ。立教大学名誉教授。近著に『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任』(創史社)『全国戦没者追悼式批判―軍事大国化への布石と遺族の苦悩』(影書房)『関東大震災時の朝鮮人迫害―全国各地での流言と朝鮮人虐待』(創史社)など。

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