震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家・メディア・民衆

日本国家の朝鮮人暴動の誤認情報の流布――日本国家の第一の責任

 

関東大震災は一九二三年九月一日午前一一時五八分に起こった。東京や横浜では震災が火災を呼び起こして大災害となった。東京では早くもこの日の夕方には警官が朝鮮人暴動の情報を流布した(史料7、8、9)。警視庁『大正大震火災誌』(同庁、一九二五年)はこのことに関して全く沈黙して、その責任を隠蔽している。

 

■史料7 東京市麻布区本村尋常小学校一年生西村喜代子の作文「だいじしんのはなし」

大じしんのとき、私はいいぐらにいました。(中略)みんなで本村のほうににげてきました。(中略)それからゆうがたになったら、〇〇〇〇〇〇〇(ふていせんじん)がせめてくるからとおまわりさんがいいにきました。(東京市学務課編纂『東京市立小学校児童震災記念文集』一九二四年。琴秉洞編『関東大震災朝鮮人虐殺関係史料 1 朝鮮人虐殺関連児童史料』緑蔭書房、一九八九年、二九九~三〇〇頁)

 

■史料8 寺田寅彦「震災日記より」九月二日の条

帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難してきた。いずれも何一つ持ち出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て〇〇(朝鮮)人の放火者が徘徊するから注意しろと言ったそうだ。(琴秉洞編、史料6前掲書、1、緑陰書房、二八五頁)

 

■史料9 一九二三年一〇月二五日、東京市本郷区の区会議員の一部、区有志、自警団代表の会合での報告

先ず曙町村田代表から九月一日夕方曙町交番巡査が自警団に来て「各町で不平鮮人が殺人放火して居るから気をつけろ」と二度迄通知に来た……。(『報知新聞』一九二三年一〇月二八日)

 

しかしこれら警察官の行動は治安当局の中枢部の指示によるものではなく、常日頃朝鮮人に対して神経を使って警戒に当っていた個々の警察署の判断でなされた行動であろう。

 

二日になると内務省警保局長は朝鮮人が暴動を起したと誤認して、道府県にこれを伝達する処置を取って道府県の地方長官に警戒を命じた。その証拠が史料10と11である。

 

警保局長の電文の打電が一日おくれて三日になったのは、騎兵が電文を船橋海軍無線電信送信所までもっていかなければならなかったからである。

 

■史料10 各地方長官宛内務省警保局長電文 九月三日午前八時十五分船橋海軍無線電信送信所から打電。

東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分宗密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし。

(注)電文欄外に「この電文を伝騎にもたせやりしは二日の午後と記憶す」と記載。(姜徳相、琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、一九六三年)

 

■史料11 9月2日埼玉県内務部長の県下群町村長宛の自警団結成の移牒

庶発第八号 大正十二年九月二日 埼玉県内務部長

群町村長宛 不逞鮮人暴動に関する件

移牒

今回の震災に対し、東京に於いて不逞鮮人の妄動これあり、又その間過激思想を有する徒これに和し、以って彼等の目的を達せんとする趣聞くに及び、漸次その毒手を振わんとする惧(おそれ)これ有り候に付いては、この際町村当局者は、在郷軍人分会・消防隊・青年団等と一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の策を講ずるよう至急御手配あいなりたし。右その筋の来牒により、この段移牒に及び候也。

(吉野作造『圧迫と虐殺』、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫所蔵吉野文庫)。

※解説 一九二三年一二月一五日の衆議院本会議での永井柳太郎の演説によると、埼玉県の地方課長が九月二日に本省つまり内務省との打ち合わせを終えて、午後五時頃帰ってきて内務部長に報告し、内務部長はその報告に基づいて郡町村長にこの指示をしたという。その結果、県下に自警団が組織された。

 

政府はこの処置と並行して九月二日に東京市とその周辺五群に戒厳令を布告し、三日に東京府と神奈川県に、四日に埼玉県、千葉県にも適用した。

 

弁護士の山崎今朝弥はいみじくも「実に当時の戒厳令は、真に火に油を注いだものであった。何時までも、戦々恐々たる民心を不安にし、市民をことごとく敵前勤務の心理状態に置いたのは確に軍隊唯一の功績であった」と言った(「地震・流言・火事・暴徒」、『地震・憲兵・火事・巡査』岩波文庫、一九八二年、二二三頁)。戒厳令の布告、軍隊の出動、その朝鮮人虐殺は民衆の目に朝鮮人をまがいもなく「国賊」に仕立て上げた。

 

 

朝鮮人虐殺状況

 

(1)軍隊の朝鮮人虐殺と民衆

 

軍隊の朝鮮人虐殺状況は報道抑制のためにすべてはわからないが、表4を参照されたい。荒川の四ツ木橋近辺と小松川橋近辺では軍隊(恐らく習志野騎兵連隊)が機関銃を使って朝鮮人を大量殺戮した。

 

弁護士山崎今朝弥は「立て、座れ、ドンドン、ピリピリ、南島で機関銃を見た者は千や二千の少数ではない。否、その地方でこれを知らない者はあるまい。」と、新聞には全く報道されずに隠されたその凄まじい状況を伝えた(「地震・流言・火事・暴徒」、『地震・憲兵・火事・巡査』岩波文庫、一九八二年、山崎今朝弥、二三二頁)。

 

架空の「不逞鮮人」を恐れた民衆は軍隊への依存意識を強めた。民衆は軍隊が東京に入ると「万歳! 万歳!」と叫んで喜んだ(黒坂勝美『福田大将伝』福田大将伝刊行会、一九三七年、三八一頁。関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ鳳仙花を呼べ』教育資料出版会、一九九二年、五七頁)。

 

『河北新報』九月五日夕刊は、仙台「市民の一部から警察のみでは不安だから軍隊で警戒して貰いたいと仙台憲兵隊へ交渉に及んだものがあるそうだ」と報じた。九月二〇日、横浜の復興会は「この度の如き大事変には警察のみでは不安だから軍隊で警戒して貰いたいと仙台憲兵隊へ交渉に及んだものがあるそうだ」との建議を決議、翌二十一日には八王子市会も同じ趣旨の決議をした(『報知新聞』九月二九日夕刊)。

 

 

(2)警察の朝鮮人虐殺の容認と自警団員の国家主義的思想――「天下晴れての人殺しだから、豪気な者でさア」

 

吉田光貞『関東大震災の治安回顧』(法務省特別審査局、一九四九年)によれば、自警団は関東に三、六八九結成されたという(四三頁)。しかし自警団は関東以外の東北、東海、北陸の諸地域にも結成されたから、その数は五、〇〇〇を下らないだろう。

 

自警団の指導者は市街地では家主や地主、農村では村の有力者だった。その発生経路は多様である。自然発生的なものもあるし、埼玉県の例のように県の指令によりつくられたものもある。また関東大震災より数年前から「警察の民衆化、民衆の警察化」のスローガンにより警察の下請け組織として地元有力者が町会や町村単位に結成してあった「安全組合」とか「保安組合」から自警団に転化したものもある。

 

自警団がどのような経路でつくられようと、九月はじめ頃は警察は自警団を歓迎し、その朝鮮人虐殺を認めたので、民衆も朝鮮人を殺害したことを得意にしていた。

 

九月二日の夜、三田警察署の警官は自警団に対して「××(鮮人)と見たら、本署につれてこい。抵抗したらば〇(殺)しても差し支えない」といった(一九二三年一〇月二二日付け『東京日日新聞』投書)。同じく二日の夜、弁護士布施辰治の友人が警官の命令で日本刀を下げて戸外にいると、警官が来て「鮮人が来たらば、ヤッツケてもカマワない」といった(布施辰治「鮮人騒ぎの調査」『日本弁護士会録事』一九二四年九月。姜徳相、琴秉洞編、前掲書、五八八―五八九頁)。

 

震災当時、東京市本所区横綱町に住んでいた川島つゆは警官が「○(鮮)人と見れば打殺してよろしい」と触れ歩いたことを証言として書き残した(古庄ゆきこ編『川島つゆ遺稿第二集Ⅰ 大震災直面記』私家版、一九七四年、二七頁)。だから、向こう鉢巻をし親父達が「今日は六人やっつけてやった」とか、「俺が第一番で手を下してやっつけたのだ」とか、得々と語った。川島はこのことも書き記した(古庄編前掲書、二七頁)。

 

横浜でも「俺ア今日まで六人やりました」「そいつは凄いな。何てたって身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気な者でさア」という会話が取り交わされた(横浜市役所編纂係、『横浜震災誌』第五巻、横浜市、一九二七年、四三一頁)。

 

当時の民衆はなかなか国家主義者だった。本庄警察署で自警団による朝鮮人虐殺事件が起こった翌日の九月五日、ある人物が本庄警察署の巡査新井賢次郎に対して「不断剣をつって子供なんかばかり脅かしゃがって、このような国家緊急の時に人一人殺せないじゃないか。俺たちは平素ためかつぎをやっていても、夕べは十六人も殺したぞ」と豪語した(関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者追悼実行委員会編・刊『隠されていた歴史――関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件――』増補保存版、一九八七年、一〇二頁)。

 

一九二三年一〇月二二日、浦和地裁の熊谷朝鮮人虐殺事件法廷で一被告は「当時は秩序が紊れていましたから、国家の為と思いまして」と、朝鮮人虐殺の理由を陳述した(『東京日日新聞』一九二三年一〇月二二日夕刊)。同年一一月四日、千葉県東葛飾郡浦安町での朝鮮人虐殺および日本人誤殺事件を審理する千葉地裁法廷で一被告は、朝鮮人を「一太刀浴びせて殺したが、国家を思うために遣ったのだ」と陳述した(『東京日日新聞』一九二三年一一月一五日房総版)。

 

以上のように、民衆にあったのは民族差別のみではない。彼らは極めて国家主義者だった。日本国家の朝鮮支配に抵抗する朝鮮人は「国賊」であり、したがって国家が朝鮮人虐殺を容認すれば、民衆には朝鮮人虐殺の歯止めはなく、虐殺が国家への忠誠の証しだった。

 

 

(3)朝鮮人虐殺の期間と人数および性的虐待

 

朝鮮人の虐殺は一般的には九月一日の夜から六日まで行われた。ただし、その後も軍隊が習志野収容所から近辺の農民に渡して殺させた(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会『いわれなく殺された人々――関東大震災と朝鮮人――』青木書店、一九八三年、三―九頁、九四―一〇四頁)。

 

朝鮮人虐殺数は、司法省調査によれば二三〇余人、在日本関東地方罹災同胞慰問班の最終調査報告によれば、六、六六一人である。後に述べるように、司法省はでっち上げた朝鮮人暴動を一九二三年一〇月二〇日に発表したのだから、朝鮮人虐殺数もでたらめだと思う。朝鮮人慰問班の調査は司法省調査よりは現実の数に近いと思われるが、その調査の期間は一〇月初めから一一月二五日まで二ヶ月弱であり、かつ治安当局は朝鮮人の死体を隠匿して朝鮮人に渡さず、その調査を妨害したのだから、慰問班が正確な調査ができたとは思われない。そもそも警視庁は朝鮮人の調査を認めないので、朝鮮人は同胞の慰問というタテマエでやっと調査したのだった(拙著『関東大震災時の朝鮮人虐殺――その国家責任と民衆責任――』創史社、二〇〇三年、一六四頁―一八五頁、二〇六頁―二〇七頁)。

 

虐殺の実態を見ると、それは民族差別だけに起因したのではない。同時に性的差別も随伴した。自警団員たちは朝鮮人女性を裸にして弄んだり、陰部を竹槍で突き刺したり、妊婦の腹をさいたり、さまざまな性的虐待を行なった。その事例は拙著第六章第三節に掲載した。【次ページにつづく】

 

 

 

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