2015.10.13

手術直前にカミングアウト

遠藤まめた:連載「二歩先はゾンビ」

社会 #カミングアウト#二歩先はゾンビ

「今度、大切な人が来るんだ」と親にメールしたヒロは、絶賛入院前夜なのだった。ときは5月。数日後には手術を控えていた。おなかに「爆弾」を抱えながら、ヒロはケータイをおいて、そっと溜息をついた。

こわい。でも、もう逃げることはできない。「大切な人」とは、一緒に暮らしているパートナー・わかさんで、ふたりは戸籍上・同性カップルだった。不安で表情の浮かないわかさんが「家族」としてヒロの手術に立ち会うためには、ヒロが親に「この人がパートナーなんです」とカミングアウトすることが避けられなかった。

さて、ふたりの運命や、いかに!

……本連載は、マイノリティである個人が、さらに「もう1歩」進んだ状態に陥った際に見えるゾンビ的世界について洞察を試みていく、血と涙(と笑い)の体験記である。マイノリティ要素がひとつあるだけでも厄介なのに、いわゆるダブル・マイノリティの状態に陥ったとき、人はあまりにオンリーワンかつ個性的すぎて、生存が危ぶまれるゾンビ状態になってしまう。ゾンビとは、すなわち「肉体的,精神的ならびに社会的に人間としてどうかと思う状態」のことである。

前回は、「LGBTかつ難病」という状態に陥った筆者が、具合が悪すぎてカミングアウトできず、自分の意思とは異なる性別のピンク・パジャマを着せられ、さらには「将来ママになれるように」というザ・不要な配慮ゆえに高額医療の世界を垣間見たという、体を張った(!)体験記だった。今回は、LGBT×病気の「第二弾」だ。

不覚にも「二歩分」進んでしまったとき、私やあなたには、いったい何が起きるのか……。これは「そんなの関係ないよ~」「1歩分だって進んでないよ」と思っている“フツー”や“マジョリティ”のあなたにも、ふりかかるかもしれない事態ですよ。

っていうか、たぶんあなた、“フツー“じゃないですよ!

■連載「二歩先はゾンビ」

トランスジェンダー、婦人科へいく

20代後半。まさか自分がいきなり病気になり、手術直前になって、親にカミングアウトするだなんて思わなかった、とヒロは言う。ことの始まりは、モーレツな腹痛だった。

「おなかが、いた、い・・」

部屋でダンゴムシのように転がるヒロは、これはいつもの腹痛とは違うことに薄々気が付いていた。なんだか、胃や腸がある辺とは、違う気がする。なんとなくイヤな予感をしながら病院に行くと、薦められたのは「婦人科」だった。

婦人科。恐怖の婦人科……!!!!

ヒロはトランスジェンダーで、生物学的には女性だが、自分のからだの性別には違和感がある(自身のことは「男でも女でもない」と捉えている)。自分の好きではない体の部分が「爆弾化」しているらしい、と考えることは、自分の女性性を突き付けられるようなシンドイことだったし、婦人科に行くことは「女性ばかりの空間に投げ込まれ」「怖そうな検査」をされるのではないか、という究極の恐怖のミッションだった。

しかし、背に腹は変えられない。「たのもう!!!」とココロの中で叫びながら、見た目ボーイのヒロは婦人科の門をくぐり(ちなみにドアは自動で開いた)、女性だらけの待合室を「11ぴきのねこ」「三びきのやぎのがらがらどん」などの微笑ましい絵本をながめることで上手にクリアし、とうとう診察室へと足を踏み入れた。

看護師の指示に従い、男らしく(?)猛烈なスピードでパンツをおろすも、検査が始まるとやはりテンションは急降下する。そしてわかったのは、「爆弾」の正体は「卵巣のう腫」という病気(進行すると激痛を伴う良性腫瘍)で、入院と手術が必要だということだった。

 

カミングアウトした理由

はじめての入院と手術。新しいパジャマを買ったり(ピンク・パジャマの二の舞は踏まなかった)、家をあける間の準備をしたりと忙しい中で、ドタバタと時間が過ぎていった。隣にいるわかさんが浮かない顔をしているのにも気が付かなかった。

「心配やねん」

パートナーであるわかさんは、法律上はヒロの「他人」である。手術にはヒロの両親が立ち会うことになっていたが、わかさんも当然その場にいたかった。パートナーのことを、両親にどう紹介したらよいのか。ヒロは、自分がトランスジェンダーであることを母親にしか話しておらず、同居している恋人のことを両親には紹介していなかった。

わかさんの不安はつのる。このままでは、カミングアウトせず「ただの友だち」として手術に立ち会い、看病をすることになる。手術時にヒロの容態が急変したとしても、何年も連れ添ったパートナーではなく「ただの友だち」のふりをして、ヒロの家族や病院のスタッフと接しなくてはいけなくなる。万が一のことがあっても、ふたりのことを周囲に言えずに、パートナーとしての不安や疑問、気持ちを受けとめる人がだれもいない環境で「お別れ」するかもしれない。そんなこと、想像さえしたくなかった。

入院前夜。シャバとのしばしのお別れ(?)に訪れた居酒屋で、ついに、わかさんは口を開いた。口を開いたら、言葉があふれだした。

「このまま何も言わんの?いまカミングアウトせんくて、私はどうしろっていうねん。」

わかさんは不安すぎて、悲しすぎて、怒っていた。まざった感情で、涙がぽろぽろとこぼれた。

ぬるくなったグラスが、テーブルの上で汗をかいていた。ヒロも冷や汗をかいた。自分のことばかりで、パートナーのことなんて考えてもみなかったことに、ヒロは、はじめて気づかされた。

もう、選べないんだ。

両親に対しては、病気のことだけでも「青天のへきれき」だ。それなのに、手術の直前になってカミングアウトをするのは、あまりにドラマチックで、刺激的すぎる。カミングアウトをめぐっては、これまでにもいろいろ考えてきた。いつか自分の暮らしや気持ちがもっと落ちついたら話してみようか、それとも、やっぱり家族から拒絶されるのは怖いからやめておこうか。でも、もはや選択肢はなかった。帰宅後、引き出しから便箋をとりだした。父親に手紙を書き、母親にメールを打った。

「手術当日に大切な人が来るから、その人を「家族」として扱ってほしい。」

このときの心境をふりかえり、ヒロはブログにこう綴る。

法的に結婚していない私とパートナーは、もし今回の件で
私の身に万一のことがあれば、緊急の連絡が相方に行かないかもしれない。

もしかして私が死んだら、同居している相方は
家を出ないといけないかもしれない。

一緒に買ったいろんな品物や思い出を相方が引き取れないかもしれないし、

葬式にさえ来られないかもしれない。

それらに加えて、私が本当は、日々何を思って生きてきたのかという事実を、
親は一切知らないまま、すれ違ってしまうかもしれない。

この時の私にとって、カミングアウトをしないというのは、
そういうリスクを抱え込むことでした。

親にカミングアウトをしないことは、この時の私にとっては、
自分が自分として生きる尊厳を傷つけることにほかならなかった。

たとえそれが、親を傷つけたりがっかりさせることになっても、
きちんと想いを伝えて相方や私自身を守ろうとすることが、私なりの矜持だったのです。

手術当日と「その後」

そうして「その日」はやってきた。わかさんとヒロのご両親は「ご対面」を果たし、その約30分後(!)にヒロは手術室へと搬送。残された3人で手術の立ち会いとなった。「い、いつもお世話になっております……」。3人の緊張エネルギーを足し合わせたら、ギネスブックに載ったかもしれない。

やがて全てが終わり、無事にヒロは病室へと返ってきた。みんなが、ひとまずほっとした。それから半年。ヒロの体調も回復し、ふたりは平和な日々を取り戻した。

いまでも、ヒロの両親には、LGBTについての100点満点の理解があるわけではない。「そのこと」について話すときのぎこちなさが無くなったわけでもない。しかし、電話をするときに「わかさんは元気?」と尋ねてくれたり、わかさんが出張時のおみやげを両親に渡したりするようになった。ヒロの入院・手術は大変なことだったが、おかげでふたりは安心できる「セーフティネット」を作ることができた。

わかさんは言う。

「ほんまに結果がよかったから笑えてるけど、笑えない人もたくさんいるんだろうね。」

ふたりのケースでは、たまたまヒロの意識がはっきりとしており、同性パートナーであるわかさんを「家族」として扱ってもらうために、両親や病院側に交渉できる力があったことから、入院・手術を通してふたりの関係を尊重してもらうことができた。

しかし、これが卵巣のう腫でなくて、交通事故だったらどうだろう。意識もはっきりとしない状況だったら、法律上は「他人」のパートナーはどのように扱われていただろうか。

面会できず、葬式にも行けない?!

そのヒントは、映画『ウーマン・ラブ・ウーマン』(2000年 )で描かれている。この映画では、長年愛し合い、共に暮らしてきたレズビアン・カップルの片方が突然の事故で意識不明になり、「悲劇的な別れ」を迎える様子が記されている。

救急搬送先の病院で同性のパートナーは病状について医師から説明を受けることもなく、廊下で一晩中を過ごした後に「すでに亡くなった」ことを知らされ、葬式にも参加できなかった。それどころか、一緒に過ごした家を相続することもできずに、追い出される羽目になる。

パートナーと「血がつながっているだけ」の親戚がやってきて、ふたりの築き上げたすべてを持って行ってしまったあとに、「これ、あげるね」と形身を渡される。本当は、すべては彼女たちのものなのにも関わらず、だ。

これは全て「法的に家族だとみなされていないから」であり、「周囲からカップルだと認知・理解されていなかったから」による。『ウーマン・ラブ・ウーマン』はけっして誇張した作り話ではなく、現在の日本で起きている話だ。

今年に入って、渋谷区や世田谷区などで同性カップルに「パートナー」としての認定証を出す動きが出てきた。しかし、法的な効力を持つ制度は、いぜんとして日本にはない。制度がない以上、「大切な人」をきちんと扱ってもらうためのセーフティネットは、「周囲からの理解」やカミングアウトに依存している。

法律や制度の「あまり」の部分を補っているのは、生身の人間のつながりだ。「それ」は、すぐに手に入ることもあれば、時間を要することもある。間に合うこともあれば、間に合わないこともある。

同性カップルのくらしの保障とは、微笑ましいラブストーリーについての話だろうか。

周囲からの理解とは、感動的なヒューマン・ドラマだろうか。

万が一のときを想定してみるのは、ホラーだろうか。ゲゲゲのゲ、だろうか。

ふたりは言う。

「家に帰って、モルモットをなでている日常が一番やわ」と。

そこには、感動も、ドラマも、面白さもいらない。

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平和な日常のシンボルモルモットの「ふくちゃん」

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「10,000人の医療・福祉関係者にLGBTのニーズを知ってほしい!」

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プロフィール

遠藤まめた「やっぱ愛ダホ!idaho-net」代表

1987年生まれ、横浜育ち。トランスジェンダー当事者としての自らの体験をもとに、10代後半よりLGBT(セクシュアル・マイノリティ)の若者支援をテーマに啓発活動を行っている。全国各地で「多様な性」に関するアクションや展開している「やっぱ愛ダホ!idaho-net」代表。著書に『先生と親のためのLGBTガイド もしあなたがカミングアウトされたなら』(合同出版)

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