2016.01.05

初詣は新しい参詣スタイル!?――鉄道が生んだ伝統行事

平山昇 歴史学

社会 #初詣#鉄道が変えた社寺参詣

はじめに

初詣と言えば一般的には古くから続く“伝統”のようにイメージされている。ところが、初詣は明治以降に鉄道と深く関わりながら成立した意外にも近代的な参詣行事である。

筆者はこれまで初詣の近代史を掘り起し、『鉄道が変えた社寺参詣』(交通新聞社新書、2012年)と『初詣の社会史』(東京大学出版会、2015年)の二著にまとめた。以下、拙著の内容紹介もかねて初詣の成立過程について述べてみたい。

 

古い俳句には「初詣」が出てこない

小説家・俳人の高桑義生は「俳句に見る初詣と初午」と題したエッセイ(『朱』第8号、1969年)のなかで、次のような指摘をしている。

「意外なことに古句には初詣の作品がない」

高桑は次のように説明する。古句には、恵方詣はみられるのだが、「古歳時記をひもといても初詣の季語すら無い」。つまり、現代では当たり前のように用いられている「初詣」という季語が昔の俳句の世界にまったくみられないということに高桑は気づき、「意外なこと」と記したのである。

それでは、「初詣」という季語はいつ登場したのだろうか。明治以降の季語について調査した研究(橋本直「近代季語についての報告(2)秋季・新年編」『中央大学大学院研究年報』第31号、2001年)によると、「初詣」が俳句の世界に初めて登場するのは1908年である。

ただし、歳時記で「初詣」と立項されているだけで「初詣」を含む例句は示されておらず、「初詣」を詠んだ俳句が多く登場するのは大正時代以降のことであるという。つまり「初詣」は、俳句の世界ではたかだか100年程度の歴史しかもっていない“新参者”の季語なのである。これはいったいどういうわけなのだろうか。

「初詣」の初出

結論から言えば、初詣とは鉄道の誕生と深く関わりながら明治中期に成立した近代の新しい参詣スタイルである。その成立からしばらくたった明治末期になって、後を追うように俳句の世界で「初詣」という季語が登場したのである。

それでは、季語に限らず「初詣」という言葉そのものが登場したのはいつなのだろうか。筆者がこれまで調べた範囲では、次の1885年の新聞記事が「初詣」の初出である(図1)。

「新橋横浜間の汽車ハ急行列車の分ハ平生ハ川崎駅へ停車せざれど、昨日より三ヶ日ハ川崎大師へ初詣の人も多かるべきなれば、夫等の便利のために特に停車せらるゝこととなりしとぞ」(『東京日日新聞』1885年1月2日)

1872年、新橋~横浜間に日本最初の鉄道路線が開業し、その途中に川崎停車場が設けられたことによって、東京から鉄道を利用して川崎大師に参詣することが可能となった。そして、この川崎大師こそが初詣の成立の端緒をなすこととなる。それはなぜだったのか。

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図1「初詣」の初出(『東京日日新聞』1885年1月2日)

 

「初詣」の中身の曖昧さ

ここで確認しておかなければならないのが、「初詣」の中身の曖昧さである。

もともと江戸時代の社寺参詣には「いつ」「どこに」お詣りすべきかについて細かいルールがあり、このルールにもとづいて参詣をすることで御利益を授かることができると考えられていた。

この慣習に従えば、大師の縁日は21日なので、川崎大師は元日ではなく初縁日である1月21日に参拝するのが順当ということになる(なお、東京では1872年の改暦にともなう縁日の新暦への移行は比較的スムーズであった)。

一方で、もし元日に川崎大師に参詣するとすれば、基本的にそれは恵方詣としての参詣であった。恵方詣とは、居住地からみて恵方に当たる方角に位置する社寺に元日に参詣するというものである。ただし、恵方は5年周期で毎年変わる(注)。つまり、川崎大師が毎年元日に恵方詣で賑わうということはあり得ない。

(注)恵方とはその年の歳徳神がいるとされる方角のことで、「寅卯→申酉→巳午→亥子→巳午」の順に5年周期で毎年変わる。川崎大師は東京から巳午(ほぼ南南東)の方角に当たるとされていたので、川崎大師が東京から恵方に当たるのは5年に2回となる。

このような江戸の正月参詣のあり方と比較してみると、現在行われている初詣には「いつ」「どこに」に関する細かいルールがないことに気づく。

「いつ」については、多くの人々が休み日となる元日(あるいは三が日)に賑わいが集中しているものの、4日以降にお詣りしたら初詣ではない、というわけでもなかろう(たとえば神田明神では仕事始め当日に多くの企業が団体参拝する形の初詣が恒例となっている)。

一方、「どこに」については、神社仏閣であればどこでもOKという感覚だろう。近所の氏神でも、明治神宮、成田山、川崎大師のような有名どころでも、神社仏閣であればどこへお参りに行っても「初詣」なのである(注)。

(注)「注」というよりは「余談」になってしまうが、1982年12月26日付の『読売新聞』に東京サマーランド(東京都あきる野市のテーマパーク)が「アラレちゃん神社に初詣」とうたった広告を掲載している。筆者の世代には馴染み深い漫画キャラクターであるアラレちゃんが和服姿で「アラレ神社で初詣!! みんなで来てチョ!」と呼びかけており、これをみた筆者は「これも初詣なのか……」としばし唖然としてしまった。著作権の関係でここにその広告を掲載できないのが残念である。

 つまり、「いつ」「どこに」に関する細かいルールがあった江戸時代の正月参詣と異なり、現代の初詣は「正月にどこかの神社仏閣にお詣りする」という程度のきわめて曖昧な中身しかない行事なのである。なぜこのような中身のあやふやな行事が成立したのであろうか。

「鉄道(ハレの乗りもの)+郊外散策」という行楽的魅力

前に述べたように、川崎大師は日本最初の鉄道路線に設けられた停車場のおかげで鉄道によるアクセスを得たが、そうは言っても、縁日や恵方といった江戸時代以来のルールが守られているかぎりは、中身が曖昧な「初詣」のスタイルは生じえなかったはずである。

ところが、明治中期になると、川崎大師は今日と同じように(初縁日にも恵方にも関係なく)毎年元日に参拝客がつめかけるようになり、それが「初詣」と称されるようになった。

この変化の要因を端的に示す新聞記事がある。この記事は東京およびその周辺の元日の参詣の賑わいを報じているのだが、そこには「川崎大師がちよツと汽車にも乗れぶらぶら歩きも出来のん気にして至極妙なりと参詣に出向きたるも多くありし」(『東京朝日新聞』1891年1月3日)とある。

つまり、汽車に乗れて手軽に郊外散策を楽しめるという川崎大師特有の行楽的魅力にひきつけられた人々が、従来のルールを気にせずに正月休みに参詣につめかけるようになったのである。もっとも、この魅力が当時の人々にとってどれほど格別なものだったのかを現代人が理解するのはおそらく容易ではない。以下で補足説明しておこう。

現代では鉄道を日常的に利用するのはごく当たり前のことだが、明治期には鉄道による通勤・通学はまだ広く定着してはおらず、多くの人々にとって、汽車は特定のハレの日にだけ利用できる乗り物であった。つまり「ちよツと汽車にも乗れ」ることが、現代で言えば有名テーマパークのアトラクションにも匹敵するほどの非日常的な魅力をもった時代だった。

また、「此日ハ風もなくいと麗らかに大師河原の長堤景色最も好く三四月の頃郊外漫歩の心地しけり」(『読売新聞』1893年1月3日)という新聞記事も示すように、当時の川崎大師周辺は都会の喧騒から離れてのんびりと「郊外漫歩」を満喫できる場所であった。

すでに江戸の人々ですら都会の人ごみから離れた郊外での散策に魅力を感じていたほどだから(鈴木章生「名所記にみる江戸周辺寺社への関心と参詣」、地方史研究協議会編『都市周辺の地方史』雄山閣、1990年)、東京が近代化とともに喧騒を増していけばいくほど、この都市に住む人々にとって郊外散策はレクリエイションとしての重要性を増していくことになった。

そして、明治中期(明治20年前後)は、元日の川崎大師参詣のための臨時列車が毎年運行されるようになるとともに、参詣客を受け入れる川崎大師の側でも、川崎停車場からこの仏閣に至る新道を開通させ、桜の木を植えて風情を出すなどして環境整備に努めるようになった。つまり、「ちよツと汽車にも乗れぶらぶら歩きも出来」るという川崎大師の魅力が飛躍的に充実した時期だったのである。

さらには、1899年に関東最初の電気鉄道である大師電鉄が川崎停車場近くの六郷橋と川崎大師のあいだに開業した。「汽車+電車」を一度にダブルで体験できることが当時の人々にとってどれほど魅力的であったか、現代人にはなかなか想像がつかないだろう。

小括すると、ハレの乗り物(鉄道)と郊外散策をあわせて満喫できるという、川崎大師の(当時では)他に類をみない独特な行楽的魅力にひきつけられて、多くの人々が初縁日や恵方といった旧来のルールにこだわらずに正月休みに参詣する形が広がっていった。そして、この新しいスタイルが「初詣」と称されるようになったのである(注)。

(注)筆者は大阪における初詣の成立過程についても調査したが、東京とほぼ同様の過程をたどったことを確認している。大阪において初詣が定着する先駆けとなったのは、南郊の住吉神社(現、住吉大社)である。江戸時代以来の正月の同神社への参詣は、その年の最初の卯の日に参詣する「初卯詣」が主流だったが、1885年に関西で初めての私鉄である阪堺鉄道(南海電鉄の前身)が開業すると、その沿線にある住吉神社に「初卯」にこだわらずに正月休みに参詣する形が生まれ、これが「初詣」と呼ばれるようになった。

ちなみに、現代メディアでは「初詣は氏神にお参りするのが正しい」などとまことしやかに初詣の「正しいルール」について説く専門家(と称する人々)が散見される。

しかし、もし仮に成立当初のあり方を忠実に再現するのが「正しい」とすれば、細かいルールにはこだわらず、鉄道を利用して郊外の社寺にお詣りし、ついでに周辺をのんびりと散策することこそが、初詣本来の「正しい」あり方なのだ! 鉄道を利用せねば初詣にあらず! ルールより、レール! ……などと主張するのは、さすがに原理主義的すぎるだろうか。

鉄道による参詣客争奪戦

ところで、現在の首都圏の初詣の賑わいをみてみると、大正時代に創建された明治神宮を除けば、川崎大師と成田山が圧倒的な参詣客数を誇っている。郊外鉄道路線の沿線にはこの両寺院のほかにも無数の神社仏閣があるにもかかわらず、なぜこの二つの寺院にかくも人気が集中しているのであろうか。

「御利益」「信心」「由緒」といった要因も否定はできないが、その点で川崎大師や成田山にひけをとらない神社仏閣は他にいくらでもあるのだから、この要因だけで説明するのには無理があろう。

実は、首都圏だけではなく、愛知の熱田神宮と豊川稲荷、京都の伏見稲荷、大阪の住吉大社のように、各都市圏で突出した初詣客数を集める神社仏閣の多くには、共通する明白な特徴がある。それは、単一ではなく複数の鉄道がアクセスしているということである(表1)。

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表1 三が日の初詣の人出(全国上位10位、2009年、警察庁まとめ)
(出所) 『読売新聞』2009年1月9日夕刊「初詣で9939万人 明治神宮トップ」
(注) ★は「複数の鉄道路線がアクセスしている郊外の社寺」を示す。

これらの神社仏閣は、ただ単に鉄道がアクセスしただけではなく複数の鉄道路線がアクセスするようになったために、私鉄同士、あるいは私鉄と国鉄とのあいだで激しい乗客争奪戦が生じ、乗客(=参詣客)が激増したという共通の歴史を有しているのである。

以下では、成田山の例をみてみよう。成田山では、まず明治期に成田鉄道と総武鉄道のあいだで競争が生じた。この両社のサービス競争の過熱のなかで、日本の鉄道史上初となる列車内喫茶室が成田鉄道に登場したことは、鉄道史研究者にはよく知られたことである。だが、ここではそれよりもはるかに大きなインパクトをもたらした国鉄VS京成電気軌道(現在の京成電鉄)の競争をみてみたい。

「京成」という社名が示すとおり、この私鉄は1909年の創立当初から東京~成田の開業を目指していたが、1926年12月になってようやく押上~成田間が全通した。国鉄の二つの成田行き路線(前述の成田鉄道・総武鉄道を国有化した区間を含む、上野~我孫子~成田、両国~佐倉~成田の路線)よりも短い路線を走って運賃が安いうえに、電車による便数の多い運転(フリークエントサービス)をおこなうこの電車路線の登場によって、成田山参詣が大いに便利になったのは言うまでもない。

さっそく、1927年の正月には京成成田駅の元日乗降客数が16,000人という成果をあげた(以下、京成成田駅と国鉄成田駅の元日乗降客数については表2を参照)。

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表2 京成成田駅・国鉄成田駅の元日乗降客数(拙著『初詣の社会史』p.225)

こうなると国鉄側も黙ってはおられず、正月三が日の成田臨時列車を例年より増便して京成に対抗したのだが、その結果がたいへん興味深い。京成が新規参入して国鉄の取り分が減ったのかといえば、結果はその逆で、国鉄成田駅の元日乗降客数は前年より2,600人増加して27,000人となったのである。

つまり、この国鉄の増加分と新規参入の京成の数をあわせて考えると、元日の成田乗降客数はわずか一年で18,600人も増加したわけである。この初詣客の急増によってまさに「成田はこの数年来にない景気」(『東京日日新聞』1927年1月4日)となった。

翌年からは京成の攻勢がいよいよ本格化する。京成はメディアでの宣伝を大幅に強化したほか、正月三が日に押上~成田間を5分間隔で運転するという大胆なフリークエントサービスを実施し、国鉄に電車の有利を見せつけた。その甲斐あって、京成利用客は年々増え続け、1931年には元日の京成成田駅乗降客数が35,000人に達した。1927年からわずか4年で倍以上に膨れ上がったわけである。

対する国鉄も指をくわえて黙ってみているわけにはいかない。京成のような電車によるフリークエントサービスはかなわないものの、臨時列車を年々増便していったほか、1929年には新しい試みとして両国・上野から臨時の「特別急行列車」を運行した。

「所要時間は普通片道二時間二十分であるが此列車は片道一時間半で賃銀は二割引の大人往復二円となつて居る」(『読売新聞』1928年12月26日)。つまり、運賃が割引になるうえに、所要時間が通常よりなんと50分も短縮されるというのであるから、国鉄もずいぶんと頑張ったものである。

政府の鉄道が私鉄を相手に喧嘩するのは大人気ないなどという批判も一部にはあったようだが(青木槐三『国鉄』新潮社、1964年)、現場の関係者たちはそのような悠長なことは言っていられなかったようである。

両者の競争は1931年に京成が念願の日暮里駅乗入れを果たして山手線と接続してからピークを迎えた。その模様をセンセイショナルに報じた当時の新聞記事を引用しておこう。

「成田山の初詣客を当て込んで早くも成田行を持つ省線〔国鉄〕・私鉄は火の出るやうな旅客争奪合戦をはじめた。まづ省線は東京―中山〔下総中山〕の各駅から成田山まで往復賃金一円五十銭と奮発すれば、これに並行線をもつ京成電車は〔中略〕押上、日暮里及び中山駅までどこから乗つても往復賃金一円三十銭、省線よりも二十銭安いといふことで、省線には一人の客も渡さぬといふ寸法。それでもまだ足りないとあつて〔中略〕「純金」と「純銀」の不動尊像と開運御守りを乗客に抽選で出さうといふ計画、更に大晦日の終夜運転等、等、省線をペシャンコにしようと文字通りの大馬力とある」(『読売新聞』1932年12月28日)

かくも熾烈なサービス競争が繰り広げられたのであるから、当然人々にとって成田山は時間的にも運賃的にも格段に行きやすくなったわけで、1940年には元日の京成・国鉄両成田駅乗降客数は合計243,000人となった。わずか14年のあいだになんと約10倍(!!)にまで膨れ上がった計算になる。

実のところ、このように同一の社寺にアクセスする複数の鉄道路線同士で乗客=参詣客を奪い合う競争が生じ、その結果として乗客=参詣客のマーケットが拡大するという変化は、成田山にかぎらず全国の都市圏で共通して生じたものである。

それゆえ、今日の初詣の人出ランキング(上位10位)に名を連ねる社寺のうち複数の鉄道路線がアクセスする郊外の社寺が7つにものぼるというのは(表1)、偶然ではないのである。

おわりに

以上、初詣の成立過程について主に鉄道との関わりに注目して述べてきたが、初詣の近代史にはもう一つ重要な論点がある。それは、ナショナリズムとの関わりである。初詣は明治期に庶民の娯楽行事として誕生したはずなのに、大正期以降になると、皇室や「国体」と結びつけて初詣を語るナショナリスティックな言説が新たに生じてくるのである。

だが、残念ながら本稿はすでに依頼された字数を大幅に超過している。上記の論点も含めて、初詣の歴史についてもっと深く知りたいという方は、拙著をお読みいただければ幸いである。

なお、『鉄道が変えた社寺参詣』と『初詣の社会史』の二冊の違いを簡単に述べておくと、初詣が鉄道の発達とともに娯楽的な行事として成立していく過程について、前者で一般向けにやわらかく、後者(第1部)で学術的な体裁で説明している。

一方、後者(第2部~第3部)では、庶民の娯楽として成立した初詣が、大正期以降知識人層に波及し、「娯楽+ナショナリズム」の二面性をあわせもった「国民」的行事として展開していく過程について論じている。読者各位の御関心に応じて書店で手にとってご覧いただければ幸いです(レジまで持っていってくだされば、なお幸いです)。

プロフィール

平山昇歴史学

1977年、長崎県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学、博士(学術)。立教大学兼任講師、駿台予備学校講師などを経て、現在は九州産業大学商学部観光産業学科講師。専攻は日本近代史。著書に『初詣の社会史』(東京大学出版会)、『鉄道が変えた社寺参詣』(交通新聞社新書)がある。

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