2016.07.13

舛添騒動で得たものと失ったもの

田中辰雄 計量経済学

社会 #都知事選#舛添

乏しい候補者リスト

都知事選の候補者選びが難航している。特に民進党が深刻で、蓮舫氏、片山善博氏、松沢成文氏など国会議員や知事経験者の名前がいくつかが上がったがいずれも候補から消えてしまった。首都東京の顔である知事の座は政治家にとって魅力的ははずであるが、なかなか有為な人材候補が名乗り出ようとしない。これは異常な事態である。

これは舛添騒動の思わぬ余波である。舛添氏は政治資金の支出の公私混同問題で辞任した。これはこれで国民の意思である。しかし、政治資金の支出ルールはそもそも明確でなかったので、舛添氏ほどではないにしろ多少の“公私混同”を行っていた政治家は多いと思われる。(注1)過去にさかのぼって支出内容を精査され、公私混同が見つかれば政治生命を失うとなれば、どんな政治家もしり込みするだろう。

(注1)たとえば、地方のセミナーに一泊出張した際、ホテルの同室に家族を呼び寄せて泊まり、翌日一緒に観光して帰った場合はどうだろう。舛添氏の「正月の家族旅行に知人を呼んで議論して会議扱いにした」事例よりは罪が軽そうであるが、その差は微妙である。

これを察知してか自民党は早くから非議員で候補を探す方針を固めて官僚出身者を中心に候補者を探していたし(注2)、民進党の場合、議員など政治経験のある人に依頼しては固辞されつづけ、結局公示日3日前に民間人に候補にするにいたっている(注3)。過去に政治資金の公私混同問題がない人という制約をつければ、候補者リストが乏しくなることは避けがたい。

(注2)「都知事候補の本命不在:自民、非議員擁立で調整 民進、知事経験者らの名」 2016/6/29付日本経済新聞 朝刊

(注3)「都知事選 民進党、石田純一氏と古賀茂明氏の2人を軸に調整」フジテレビ系(FNN) 7月11日(月)5時5分配信

このような結果を招いた原因のひとつは舛添騒動が炎上的になり、落ち着いた議論ができなくなってしまったからである。通常は炎上はネット上のことであり、今回のようにマスメディアが主導する場合は狭義には炎上とは呼ばれない。また、ネット上の炎上が少数者の書き込みで起こりうるのに対し、今回の批判は明らかに国民の大多数の意思を反映していた点も異なる。

しかし、多くの批判が殺到して発言が一方的になり、議論が不可能になってしまうという点では、炎上と同じ現象が起きた。議論が不可能になったため、決着のつけ方が過激化してしまい、その結果多くの人材が立候補できないという事態を招くことになったと考えられる。本稿では、舛添騒動をネットではなくマスメディアが主導した変わったタイプの炎上事件としてみていくことにする。

理想を言えば炎上の程度を抑え、もう少し落ち着いて議論をしていれば事態はちがっていかもしれない。たとえば、支出の公私混同はこれから先は厳に慎むことにし、過去については自分で精査して公私混同部分を返上して自腹で弁済すればよしとする。そういうルールにすれば、舛添氏が辞めた後、新たな候補者は自らの過去を清算して出馬することができるから、都民はいまよりも豊富な候補者リストから知事を選ぶことができただろう。

しかしながら、炎上してしまうとそのような妥協的な決着はありえない。燃え上がる正義の炎は、相手を社会の表舞台から消すまで止むことはない。かくして炎上の炎の中で政治生命を失っていく知事の姿を見た政治家たちは恐れおののき萎縮してしまい、その結果、都民は乏しい候補者リストから知事を選ばざるを得ない事になったと考えられる。

もとより炎上には民主主義の発露の面もある。公私混同を正さんとすると国民の声が貫徹されたのはよいことであり、今後は政治家は襟をただすことになるだろう。しかし、行きすぎた炎上は行動の萎縮というコストももたらす。本稿は炎上の良い面を認めつつも、そのコストを減らすため炎上をもう少し抑制できなかったかどうかについて考察する

炎上を抑制する余地はあったか

炎上の程度を抑制し、もう少し落ち着いて議論をしたうえで辞めさせることは可能だっただろうか。そもそもそんな議論の余地はあっただろうか。舛添辞任時にはどのメディアもネットも舛添叩き一色であり、とても議論は成立しなかったように思える。しかし本当に人々の意見は一色だったのだろう。これをみるために、都民に対して簡単なアンケート調査を行った。問いは、都議会が舛添知事を辞めさせたことについて、辞任させるべきだったと思うか、辞任させなくてもよかったと思うかを問うたものである。図1がその結果である。調査日は2016年6月30日で知事が辞職した2週間後の時点で、サンプルは東京都在住の2400人である。(注4)

(注4)調査モニターは「アンとケイト」のモニターである。この会社のモニターの信頼性は不明であるが、得られた結果は一貫しているので大きなバイアスはないだろうと推測する。以下、この推測の下で議論を進める。

図1

図01

辞任させるべきだったを選んだ人が74%で圧倒的に多数派であり、予想通り舛添辞任すべしの世論は動かない。しかし。辞任させなくてもよかったを選んだ人が15%存在する(後に見るようにネットが情報源の人に限るとこの比率は20%程度に上昇する)。この数字なら議論は成立するレベルである。議論をしても舛添辞任すべしの結論は動かないだろうが、政治資金の支出のあり方についての議論が深まり、次の都知事期選に悪影響が出ないような決着がつけられたかもしれない。

論点はいろいろある。政治資金の使途を制限すると政治活動の自由を侵さないのか、公私行動の公私の区別をどうつけるのか。区別がついたとして適用は過去にどこまでさかのぼるのか。違反したときのペナルティをどうするのか。政治資金の使途についてはこれまでルールがなかったので、論点はさまざまに考えられる。舛添知事を辞任させるべきという側と辞任させなくてもよいという側が議論すれば、おのずからこれらの論点に話題が及び、議論が深まることになる。

ちなみに辞任させなくてもよかったと考える人がなぜそう思うのかはあまり知られていないので、自由記入で書いてもらった。すると「選挙するとかえってお金がかかる」「彼は有能であり、無給でやると言っているからやらせた方がよい」「似たようなことは他の政治家もやっており、彼は金額が小さく、大した問題ではない」の3つが大きな理由である。

一方、辞任させるべきという理由はすでに多くの人が表明しているように、せこい、公金を私的に使うなど信頼できないなど政治家としての資質に関する指摘が多い。辞任させるべきと考えている人は行使混同にあきれ、彼の資質に見切りをつけているのに対し、辞任させなくてもよいと考えている人は、他の政治家も同じことをしており、そのなかで彼は能力的にましな方だと考えているようである。

炎上が拡大した理由

意見の分布としては議論は成立しえただろう。では、炎上を抑制し議論の場をつくることができただろうか。炎上が抑制できたかどうかまではわからないが、今回の事件が大きく炎上した理由を二つ指摘できる。ひとつはテレビが炎上を主導したこと、もうひとつは舛添氏の対応が大変まずかったことである。

まず、すでに述べたように今回の炎上はネットではなく、テレビが主導した点に特徴がある。週刊文春が調査で先導したが、これを大きく取り上げ、世論をつくりだしたのはネットではなくマスメディア、特にテレビであった。これを確かめるために、図1の舛添氏が辞任すべきだったかどうかについての回答を、回答者のメディアの利用時間別にみてみよう。

図2で横軸はメディアの利用時間、縦軸は辞任させなくてもよかったと答えた人の割合である。上図はネット系メディア3種(Twitter, Facebook, 2チャンネル等の掲示版)の利用時間別で、下図はテレビと新聞の利用時間別である。利用時間はいずれも平日の利用時間である。

上図を見るとネットメディアでは利用時間が増えるにつれて辞任させなくてもよかったという人が増えている。全体平均15%に対し、ネットメディア利用時間が1時間以上の人では20%程度の人が辞任させなくてもよかったと答えている。特にFacebookを1日に1時間以上利用する人では、舛添氏を辞めさせなくてもよかったと考える人が26%にもなっている。一方、マスメディアの利用時間に関しては下図に見るように横ばいで変化はない。

図2 辞任させなくてもよかったと思う人の割合

図02左

図02右

図3は、逆に辞任させるべきだったという人の割合である。上図のネットメディアの場合、すべて右下がりであり、ネットメディアの利用時間が長い人ほど辞めさせるべきだったという人が減っている。特にfacebookとtwitterユーザーでその傾向が強く、利用しない人に比べて10%ポイント近く辞めさせるべきという人が少ない。

図2とあわせて考えると、ネットのヘビーユーザは相対的には舛添氏に対し容認的だったことになる。一方、下図のマスメディアでは右上がりであり、テレビ・新聞というマスメディアの利用時間が長い人ほど舛添氏を辞任させるべきだったという人が増える。したがって、ネットのヘビーユーザよりもテレビ・新聞などマスメディアのヘビーユーザの方が舛添氏に批判的であることになる。これは炎上の主舞台がネットではなく、テレビ・新聞であったことを示唆する。

図3 辞任させるべきだったと答えた人の割合

図03左

図03右

炎上の場合、マスメディアが攻撃側に参加するかどうかの影響は大きい。炎上はネット内だけにとどまっている限りは影響力が限られるが、マスメディアに取り上げられると急激に威力が高まるからである。昨年の五輪エンブレム事件が大事件になってエンブレムの撤回に至ったのも、ネットだけで無く、テレビ等のマスメディアがいわゆるパクリ騒動を取り上げたからである。今回の炎上事件では最初から主役がネットよりもテレビであり、それゆえ炎上の威力が非常に強まったと考えられる。

炎上が拡大した第二の理由は、舛添氏の対応が大変まずかったことである。公私混同に対して舛添氏は第三者委員会を立ち上げ、そこで「不適切だが違法ではない」と報告した。しかし、人々が問題視しているのは違法かどうかではない。政治資金の支出には規制が無いので、違法かどうかでいえばほとんどの支出は合法になる。

しかし、人々は税金から供与された政治資金が家族旅行や美術品の購入に使われたことが納得できないと素朴に感じており、問題の核心はこの素朴な違和感である。批判は素朴な感情にもとづいているので法律をたてに正当性を主張しても人々は反発する。ここは言葉の順番を逆にし、「違法ではないが不適切であった」と述べて、「不適切」の方を後ろに持ってきて強調し、丁寧に謝罪すべきであった。第三者機関にゆだねるというのも法律あるいは権威の陰に隠れるようでイメージが悪い。自分で調べて自分の言葉で謝罪し、公私混同の支出はすべて自腹で弁済すれば炎上はボヤで収まった可能性がある。

一般に炎上事件は謝罪で収まることが多い。むろん謝罪が困難なこともあって、特に個人の信念に関わる領域では謝罪は困難である。たとえば五輪エンブレム事件では佐野氏は自身のエンブレムをパクリだとは認めず、謝罪はしなかった。作品がオリジナルであるというのは彼の守るべき信念であり謝罪は不可能である。しかし、今回の場合、家族旅行を政治資金で賄う事が守るべき信念とは思えない。つい家族旅行に使ってしまいましたと認め、平身低頭のうえで弁済すれば、ここまでこじれなかったかもしれない。しかし、実際には抗弁を繰り返したため事態は悪化していった。

舛添氏にも言い分はあるだろう。特に同じような公私混同は他の政治家にもあるにもかかわらず自分だけがなぜここまで叩かれるのかという不満はあっただろう。これには一理あって、これまで政治資金の公私混同が真剣に話題にされたことはないので、他に同じような公私混同をしている政治家がいてもおかしくない。また、これまで問題にならなかったことを新たに問題視するのであれば、新たなルールはこれからの行為に適用するべきで遡及適用して辞任までさせるのは酷である。

しかし、国民からすれば公私混同がゆるされてきたこれまでの運用ルールがそもそも間違っているのであり、それを国民は今回初めて知ったのであるから、まずは政治家の反省が先にくるべきである。舛添氏以外もやっている事だとしても、今ここで発覚した舛添氏がまずは反省すべきことに疑う余地はない。

それが反省なしに違法ではない、と繰り返すならば、間違った状態を正当化しているように聞こえてもしかたがない。人々はあきれ、やがて怒りはじめる。怒りはテレビでの炎上報道と相互に強めあい、辞任要求へと突き進んでいくことになる。炎上対策としてはまことに拙劣であり、自ら墓穴を掘ったに等しい。

炎上がもう少し抑制できたかどうかを、あとから振り返って議論するのは難しい。しかし、テレビがもう少し抑制的だったら、あるいは舛添氏が率直に謝罪していれば、ここまでの炎上は避けられたかもしれない。

レッスン

炎上のコストは情報発信の萎縮である。人々が炎上を恐れて情報発信を抑えてしまうことが炎上の社会的コストである。(注5)今回の場合、萎縮は情報発信ではなく、政治家の行動に起こった。過去にさかのぼって公私混同が調査され、発覚すると政治生命が失われるということを見た政治家は立候補に及び腰になり、我々は乏しい候補者リストから知事を選ばなければならなくなる。

(注5)田中辰雄・山口真一 2016.06.10 「ネット炎上の真実と解決策」

舛添騒動で得たものと失ったものは何だろうか。得たものは政治資金の公私混同を避けよという国民的合意である。炎上は民主主義のパワーの発露の面があり、社会に規律を与える。今回もこの点は如実に発揮された。これは国民としては一歩前進であり、これからの政治家は政治資金の使途の公私の区別に厳格になるだろう。今後の支出に関して似たような公私混同があればそれこそ徹底的に叩いてよい。

一方、失ったものは都知事選の(ありえたであろう)豊かな候補者リストである。知事選に出てこられるのは政治資金に無関係だった民間人とたまたまた支出が公私で切り分けられていた政治家だけになるので、候補者リストは乏しくならざるをえない。この損失は炎上を抑制できれば避けられたかもしれないというのが本稿の趣旨であった。

ただ現実に炎上が起きてしまった以上、今回は乏しい候補者リストから知事を選ぶことになるのはいたしかたない。しかし、果たして4年後はどうなるのだろうか。そのときも過去の政治資金の公私混同を精査して、クリアしたものだけを候補者にするのだろうか。願わくば、次の都知事選の時には、そのような精査は候補者自らが清算すればよく、だれでも候補になれるようにして、もっと豊かな候補者リストから知事を選べるようになっていてほしいものである。

プロフィール

田中辰雄計量経済学

東京大学経済学部大学院卒、コロンビア大学客員研究員を経て、現在横浜商科大学教授兼国際大学GLOCOM主幹研究員。著書に『ネット炎上の研究』(共著)勁草書房、『ネットは社会を分断しない』(共著)角川新書、がある。

 

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