「正義」とはなにか 大澤真幸×宮台真司「初対談」を論じます 

「ありえない対談」の実現

 

待望の新訳、ロールズの主著『正義論』がついに出た。20世紀政治哲学最大の古典とされる本書は、おそらくマイケル・サンデルのいくつかの著書とならんで、日本でこれから多くの議論を呼び起こすであろう。

 

これに呼応するかのように、社会学者の二人の重鎮、大澤真幸と宮台真司もまた、政治哲学へと軸足を移している。そしてこのたび、「ありえない」と思われていたことが実現した。大澤真幸主宰の雑誌『シンキング・オー』(第8号、11月刊行)で、ふたりの初の対談が交わされたのである。

 

おそらく歴史に残るであろうこの対談のテーマは、「正義」。「「正義」について論じます」がそのタイトルだ。

 

宮台氏によれば、この20年のあいだに「社会学」は退潮し、代わって「政治哲学」が浮上してきたという。ロールズがその普遍的な正義論を捨てて、文化相対的な正義論にシフトしたのは、1993年ごろであった。その転向は「哲学の死」を意味するともいわれたが、宮台氏は反対に、ロールズはこれによって、「共同体同士の共和」ないし「共同体の共和からなる圏同士の共和」という主題へと、戦線を拡張したのだと評価する。

 

あわせてサンデルやテイラーなどのコミュニタリアン(共同体主義者)もまた、「理性によっては超えられない(規定不可能な)情動(意志)」を持ち出す点で、右翼思想の根幹に通じるものがあるとみる。議論はきわめて政治的となり、面白くなってきたということだ。

 

 

グローバルな資本主義と共同体の可能性

 

宮台氏が支持するのは、リベラルであれコミュニタリアンであれ、国家の帰結主義的な政策思考に抗する「規定不可能な意志」を示した思想であり、それは「国家に過度に依存しない共同体」を育むためにも必要だという。なぜならそれは、現実の資本主義が要請しているからである。

 

たくましい「共同体」のネットワークを築かなければ、市場における個人の生存確率は、かえって低くなる。今日の日本人は、個人主義化の傾向を強める一方で、華僑やユダヤ人などの共同体ネットワークをもった資本には勝つことができない。グローバルな資本主義ゲームの現実を踏まえれば、国家に依存しない共同体の構築が不可欠というわけだ。

 

だが大澤氏が疑問を投げかけるのは、まさにこの点である。

 

いったい共同体は、グローバル資本主義のなかで生き残るために求められているのだろうか。だとすれば、そこから排除される共同体はどうなるのか。あるいはもっと根源的に、資本主義システムにとって代わるような、外部の共同世界を描くことはできないのだろうか。大澤氏によれば、この「資本主義の外部への想像力」こそが、今日の社会思想の最大の問題であるという。

 

 

「善きサマリア人」の正義をめぐって

 

ふたりの対談はここから、「共同体を超える正義はいかにして可能か」という問題に向かい、とりわけ「善きサマリア人」の正義について、議論が深められていく。

 

大澤氏の立論は、社会を変えるために「立派な人」の出現を待つとか、立派な人に感化されて動くというのではなく、共同体から排除されたサマリア人が、行き倒れた人の「現前」を「感染源」として、利他的行為へと駆り立てられていく点に、資本主義を超越する可能性を見出している。誰も排除しないという「包摂性の最終的な準拠点としての正義」を、排除された人びとの実践のなかにみるのである。

 

宮台氏も同様に、「行き倒れた人」が「現前的なフックとして非日常的な時空」を開くことに、システムを超越する可能性を認めている。だがそのような時空が、資本主義を否定しないことについても、氏は自覚的である。資本主義が持続可能であるかどうかは「不確定」としかいいようがない。宮台氏は、システムの予測不可能性に覚めた認識をもちながらも、「それでもなお」といえるような、共同体精神の機動力に関心を寄せるのであろう。

 

これに対して大澤氏は、もっとロマン的で、野心的ですらある。たとえば氏は、アフガニスタンで井戸を掘って灌漑システムをつくった中村哲氏の活動に、資本主義を超える利他的活動の一例を見出している。かかる取り組みを通じて、資本主義の外部に「みんな」の地平が開けていくことに、関心を寄せている。

 

むろん、アフガニスタンで構築された灌漑システムは、家産制的な封建経済に資するのであって、資本主義を超える構想ではない、と批判することもできよう。資本主義を超える構想力は、他にもないのだろうか、と。大澤氏は、資本主義システムを超えるという「不可能性」に導かれた企てが、この世界をより善いものにする(あるいは「正義」を遂行する)とみるが、その構想力は、たえざる困難に直面しているのかもしれない。

 

 

愛の無世界性が世界を正義へと変えていく

 

善きサマリア人の例に即していえば、問題にすべきは「資本主義の超越」というよりも、「愛の無世界性」ではないか。

 

善きサマリア人は、共同体から迫害されているがゆえに、その行為を「社会の宇宙論的な秩序(コズミック・オーダー)」のなかで承認してもらうことができない。正義を行っても、それは承認されるべき世界=社会の外側にあるとみなされてしまう。サマリア人は、もっとも基底的な承認関係を奪われているのであり、その意味で無世界的である。

 

しかし正義とは、じつはこうした承認関係の外部でなされ、またそのような実践が、共同体の限界を突き破っていく。正義とは、その意味で愛であり、その無世界性こそが、逆説的にも世界を正義へと変えていくのではないか。

 

議論は尽きないが、いずれにせよ、大澤-宮台対談は、ロールズの正義論から、ずいぶん遠くへ至り着いたようである。「共同体を超える正義はいかにして可能か」というふたりの関心は、じつはロールズと同時代を生きたネオコン(新保守主義)の教祖、レオ・シュトラウスの問題関心でもあった。

 

ロールズ的なリベラリズムからシュトラウス的なネオコンへ。正義をめぐるわたしたちの問題関心は、どうも現代のネオコンの思想的影響力と無縁ではないようである。

 

 

推薦図書

 

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最近、大澤真幸氏の著作が、立てつづけに三冊も出た。いずれも周到に書かれた珠玉の作品であり、第一級の思考と分析を示している。多産で豊穣な、大澤社会学の収穫の秋といえるだろう。なかでも本書は、「社会とは宗教現象そのものである」との観点から、ポストモダンの脱世俗化状況を、縦横無尽に論じる。オウム、エヴァ、サカキバラ事件などに分析の光を当てている。

 

大澤氏によれば、わたしたちの世俗社会・資本主義社会を用意したのは、カルヴィニズムの予定説であった。神による救済の確証が、無限に遅延化されてしまうと、人間に可能な真実は、「信仰」によって与えられるのではなく、ひたすら科学的な「知」の「仮説」にとどまることになる。こうした考え方が、やがて西洋社会における世俗化と近代化を推進していった。しかし、科学的な「知」の権威が低下した私たちのポストモダン社会は、ふたたび「信仰」の問題を前景化している。本書はその意味を探った重要な成果といえる。

 

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.2019.4.15 

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