肉食と環境保護――非菜食主義の環境倫理学者が言えること

環境倫理学とは

 

本記事のタイトルには、環境倫理学という言葉が含まれている。環境倫理学を専門にする者としては肩身が狭いのだが、環境と倫理というそれぞれの言葉は理解できるにしても、環境倫理学という学問が何をするものなのかはよくわからない、という人は多いのではないだろうか。

 

簡たんに言えば、自然環境に関連する倫理的問題を扱うのだが、具体的な研究テーマをひとつあげれば、たとえば自然利用の利益と負担の分配の不公正(環境正義)がある。このなかでさらに、都市部と農村部のあいだの不公正、先進国と途上国のあいだの不公正、現在世代と将来世代のあいだの不公正など、さまざまな課題が考えられる。

 

これらの課題は、すべて自然を介した人間同士の関係における倫理的問題であるが、そこで考慮の対象となっていない問題もある。それは人間以外の存在、すなわち自然との関係における倫理的問題である。

 

私たちのほとんどは、自分に都合が良いから、あるいは役に立つからという理由で自然に関心を持つようになったわけではないはずだ。子どもは虫や草花、雲や風が好きだが、それは純粋に自然に心惹かれているからである。そして、野山や河川が汚染され、そこに住む動植物たちが傷つき死んでいく事態を報道などで目にすると、私たちの多くは、人間の都合と関係なく、自然それ自体の被害のために心を痛めているはずである。

 

しかし、人間の都合を離れた自然の被害という言葉で(環境倫理学では、自然の権利などの言葉も用いられる)一体何を指しているのか、たんに文学的な表現に過ぎず実体を伴わないのではないか、と疑わしく思う人もいるだろう。実際、こうした批判は環境倫理学の議論でも繰り返し登場してきた。

 

一例をあげると、かつてカリフォルニア州ミネラルキング渓谷のリゾート開発計画が持ち上がったとき、開発反対のためにその渓谷自身の権利を持ち出す議論がなされた。それに対して、マーク・サゴフという哲学者は、長い時間を何もせずにただそこに存在していただけの土地が、なぜリゾート地として利用されることにだけは不満を抱くのだろうか、という皮肉を込めた表現をしたのである。

 

サゴフのコメントはもっともだが、自然が利益を求めるのか、権利を有するのかといった自然の側の事情を探る議論は、ひとまず脇に置いておきたい。その代わりに、自然環境を大切にしなければならないという感覚が湧き上がるときの、私たち自身の胸の内を覗いてみよう。

 

口やかましい環境保護論者の存在を頭から追い出し、彼らへの反感を忘れて虚心坦懐に自分の心の声に耳を傾けてみれば、少なからぬ人びとは、自然環境の破壊によって苦しむ人びとについてのみ考えているのではないことに気が付くはずだ。美しい山や川が汚されてしまうこと、そこで生きる動植物の営みが損なわれることへのやるせなさや憐憫、苛立ちなどが渦巻いていることを感じるのではないだろうか。

 

そうだとすれば、私たちは人間の都合を離れて、自然そのものに対する申し訳なさや同情を感じているとも考えられる。人間の都合とは関係なく、自然環境は大切にされるべきだという立場を非人間中心主義と言うが、環境倫理学ではこの立場にたった理論研究が大きな比重を占めてきた。私たちが気にかける自然はさまざまだが、渓谷や岩石などの無生物よりは生物のほうが、そして目立った動きを見せず鳴き声も出さない植物よりは動物のほうが、私たちの気持ちを動かしやすい。

 

 

環境問題と動物

 

実際、気候変動の話題を扱うニュースでシロクマの画像がシンボリックに持ち出されることは多いし、イルカやクジラも生物多様性を論じるときのシンボルとして登場することが多い。地域的な環境問題でも、その地域に生息する動物(アマミノクロウサギやムツゴロウ、イリオモテヤマネコなど)がメディアで取り上げられてきたことを連想する人もいるのではないだろうか。

 

じつは、倫理学には動物倫理学という分野もある。こちらでは動物実験や狩猟のあり方、伴侶動物(注)との関係などが論じられているが、動物倫理学の場合は環境倫理学に比べると、どのような問題に取り組んでいるのかわかりやすいと感じる人も多いかもしれない。

 

(注)伴侶動物とはいわゆるペットのことで、以前は主に愛玩動物と言われていた。近年このように言い換えられるようになってきた要因のひとつには、動物倫理学の議論の積み重ねがあると言ってよいだろう。もちろん、動物倫理学の成果は、単なる言葉の言い換えに留まるものではなく、さまざまな動物の福祉向上にも貢献している。

 

この動物倫理学と環境倫理学は、どちらも人間以外の存在が関わる道徳を研究するということでは、いわば隣接する研究分野と言うことができるのだが、必ずしも協調関係にあるわけではない。実際、J. B. キャリコット(注)という環境倫理学者は、「三極対立構造」という論文で、動物倫理学(論文中では、動物解放論や動物の権利論が名指しされている)と環境倫理学は協力関係にあるのではなく、自然を人間が身勝手に使っても道徳的には問題ないと考える立場(人間中心主義)を交えての三つ巴で争っていると整理している。

 

(注)キャリコットは史上初めて、環境倫理学の教授となった人物であり、環境倫理学という学問が成立した70年代から現在に至るまで、この分野を代表してきた研究者の一人でもある。なお、現在はキャリコットも、動物倫理学との対立よりも協調を重視しているようである。

 

なぜ、環境倫理学と動物倫理学のあいだで対立が生じるのか。その理由は、環境倫理学が生態系、すなわち生物と無生物が織りなすネットワークの安定に重きを置くのに対し、動物倫理学は基本的に動物個体の苦痛や恐怖を無くすこと、少なくとも軽減することを目指しているからである。

 

環境倫理学も動物倫理学も日々の暮らしのなかで耳にする機会はないし、どうせ欧米で盛り上がっているだけで日本とは無関係の話題なのだろうと考える人は、捕鯨についての非難の応酬を思い出してほしい。捕鯨の支持や容認の訴えは、生態系が崩れなければ鯨を捕まえても良いじゃないかという考えがその土台にあり、これは環境倫理学の問題設定と重なる。それに対して、鯨に苦痛を与えて殺すこと自体に反対だという反捕鯨の訴えは、動物倫理学的な問題意識に基づいている。(注)

 

(注)もちろん、捕鯨が本当に生態系の安定を崩さないのか、鯨以外の動物の問題はどうなるのか等の考慮すべき論点が他にあるので、きちんと検討しようとすれば話ははるかに複雑になる。

 

このように整理すると、環境倫理学と動物倫理学は、どちらも人間以外の存在との関係を扱いながら、お互いにそっぽを向いた学問のような印象を受ける。事実、捕鯨論争のように両者の対立が鮮明で、理論的にも政治的にも折り合いをつけることが困難な事例もある。

 

しかし、あらゆる局面で対立が不可避なわけではない。生態系にしろ動物にしろ、大事にしよう、保護の取り組みを促進しようというとき、生態系を基盤とするか個々の動物を基盤とするかという違いは、そこまで重要なものではない。豊かな生態系が保護されることは多くの生物にとって良いことだろうし、動物に配慮しようとすれば、その生態に即した環境が必要であることは明らかである。

 

こうした観点から眺めたとき、動物を食料のために殺すという点では同じはずなのに、捕鯨論争と対照的に、動物倫理学の議論と環境倫理学の議論が同じ方向を見ている(と、私には見える)のが、家畜についての議論である。

 

 

家畜の肉なら食べても良い?

 

捕鯨論争がやっかいなのは、鯨の苦痛や死を論じるときに、そこに食文化の違いや、鯨という動物の特殊性(大型野生動物であること、鯨はひときわ高い知能を持つと考える人が一定数存在すること)が絡むためである。

 

しかし、現代社会で大量に食肉として消費されている牛・豚・鶏について言えば、一部の宗教で口にすることが禁忌となっているにせよ、それらを食べるという習慣は広く浸透している。また、家畜という言葉の通り、これらの動物は野生状態にあるのを捕獲しているわけではなく、生殖から屠畜まで人間社会の管理下にあるので、乱獲による絶滅から生態系が乱れることを懸念する必要もない。そして一般に、牛や豚、鶏は鯨ほどに「賢い」生物であるとは見なされていないので、「賢い」鯨を殺すことには反対しつつ、肉食を継続することはさほど違和感を覚えない人が多いようだ。(注)

 

(注)ただし、実際には豚や牛が鯨と比べて「賢い」と言えないのかという点については疑問の余地が大いにある。また、反捕鯨の活動家や支持者のなかには、鯨以外の動物についても殺すことに反対で、その肉や革製品を消費しない者もいる。

 

こうして見てみると、家畜の飼育を人間の監禁に、屠畜を殺人に準ずる行為と見なすような強硬な立場の人びと以外にとって、家畜を食べることに大きな問題はないように思われるかもしれない。しかし、実際には現行の肉食は、環境保護の観点から見ても問題を抱えている。

 

 

環境問題としての肉食

 

よく指摘されることだが、家畜を育ててそれを食べるというのは非常に効率の悪い食料生産の方法である。というのも、飼料として収穫された作物を人間がそのまま口にするのではなく、飼料を家畜に与えて育てるというプロセスを経るためだ。牛の枝肉1キロのためには、トウモロコシなどの飼料が10キロ以上必要となる。

 

その枝肉からさらに骨や余分な脂肪が取り除かれるわけなので、何億人という人びとが飢えや栄養失調に苦しんでいる現状では、肉を食べるというのはきわめて贅沢な行為だと言える。また肉を保管するためには温度管理が必要になるなど費用が増えるし、貯蔵可能期間も穀物に比べると短いという問題もある。

 

世界の穀物生産量は約25億トンにのぼり、そのほかに野菜や果物が栽培されていることを考えると、世界人口を養うのに十分なだけの食物は生産されている。つまり、飢餓と栄養失調は、十分な食料を生産することができないという自然の限界に由来するものではないし、人口抑制が不十分だからだなどと言って途上国にのみ責任を押し付けることもできない。問題の本質は、分配の不公正と供給の非効率性にあり、穀物を家畜に与えるという畜産業は、この不公正と非効率性を生み出している一因なのである。

 

政府や多国籍企業によって、途上国の農業従事者が生産活動における自律を、国民が食生活の自律を奪われるという問題は、環境学や開発学の文献でつねに取り上げられてきた問題である。環境問題には資源利用の不公正という側面があるが、食物が人間の生存に不可欠な資源であることを考えると、肉食のあり方を検討することは環境問題の根幹に関わる課題だと言えよう。

 

よく知られている事例として、1970年から87年にかけて、世界銀行グループが畜牛事業とその関連事業向けに、合わせて3億6千万ドル以上の貸付を南米で行ったことがある。これにより、中南米では森林破壊が引き起こされるほど畜産が発展したにも関わらず、現地の住民のあいだでは栄養状態をはじめとする生活水準の低下が起きている。

 

これは、現地で生産されるトウモロコシなどの穀物が、牛を中心とする家畜の飼料に回されたことが大きい。そうして生産された牛肉は、栄養失調にあえぐ貧しい人びとの手が届くものではなく、メキシコやアメリカの都市上層民の消費に回されたのである。南米で起きたことは、肉食にまつわる不公正のまさに典型である。

 

なお、その後メキシコのトウモロコシ農家たちは、NAFTA(北米自由貿易協定)が締結されたことで、大量に補助金が投入されているアメリカの安いトウモロコシに太刀打ちできずに職を失った。そして、多くが不法移民として、劣悪な労働環境で知られるアメリカの食肉工場などで働くようになった。現在私たちが見聞きするアメリカのニュースで、トランプ大統領とその支持者たちの攻撃対象となっている不法移民だが、その背景にも肉食は関係しているのだ。

 

また、前段で森林破壊に言及したが、肉食は気候変動にも関わっている。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)とFAO(国連食糧農業機関)によると、私たちの社会が排出する温室効果ガスのうち12%ほどは農業由来のものだが、その中でおよそ3分の2が家畜に関係しているという。

 

肉食と環境問題との関係では、畜産業界が生み出す廃棄物の問題もある。牛や豚といった大型家畜が一頭当たりで生み出す廃棄物の量は、人間の成人の20から30倍ほどになる。日本が大量の食肉を輸入しているアメリカ一国だけでも、家畜の排泄物に含まれる燐と窒素の量は、毎年それぞれ約200万トンと約600万トンと見積もられているが、これは近隣生態系に汚染を引き起こす一因となっていることもある。

 

畜産にまつわる汚染は、CAFO(Concentrated Animal Feeding Operation、集約畜産経営)の場合、さらに深刻なものとなる。家畜工場とも呼ばれる、家畜が身動きできないほどに詰め込まれているこの種の施設から排出される水(畜産は家畜の飲み水や清掃のために、水資源も他の農業以上に大量に必要とする)や排泄物には、飼料に含まれている抗生物質や農薬が溶け込んでおり、これが近隣の水系や土壌を汚染するのである。

 

CAFOという用語は日本ではまだあまり浸透しておらず、訳語も定まっていないようだが、決してアメリカなど国外だけの問題ではない。後述するように、他国が動物の福祉に配慮した飼育方法を導入しているなかで、日本はその流れに取り残されるか、場合によっては逆行している感もある。【次ページにつづく】

 

 

シノドスのコンテンツ

 

●ファンクラブ「SYNODOS SOCIAL」

⇒ https://camp-fire.jp/projects/view/14015

 

●電子メールマガジン「αシノドス」

⇒ https://synodos.jp/a-synodos

 

●少人数制セミナー「シノドス・サークル」

⇒ https://synodos.jp/article/20937

 

 

 

 

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.256 

・熊坂元大「「道徳教育」はこうすれば良くなる」
・穂鷹知美「終の住処としての外国――スイスの老人ホームにおける 「地中海クラブ」の試み」
・徳山豪「アルゴリズムが社会を動かす」
・鈴木崇弘「自民党シンクタンク史(1)――シンクタンク創設への思いとその戦い」