2018.09.28

肉食と環境保護――非菜食主義の環境倫理学者が言えること

熊坂元大 環境倫理学・政治哲学

社会 #肉食#環境保護

環境倫理学とは

本記事のタイトルには、環境倫理学という言葉が含まれている。環境倫理学を専門にする者としては肩身が狭いのだが、環境と倫理というそれぞれの言葉は理解できるにしても、環境倫理学という学問が何をするものなのかはよくわからない、という人は多いのではないだろうか。

簡たんに言えば、自然環境に関連する倫理的問題を扱うのだが、具体的な研究テーマをひとつあげれば、たとえば自然利用の利益と負担の分配の不公正(環境正義)がある。このなかでさらに、都市部と農村部のあいだの不公正、先進国と途上国のあいだの不公正、現在世代と将来世代のあいだの不公正など、さまざまな課題が考えられる。

これらの課題は、すべて自然を介した人間同士の関係における倫理的問題であるが、そこで考慮の対象となっていない問題もある。それは人間以外の存在、すなわち自然との関係における倫理的問題である。

私たちのほとんどは、自分に都合が良いから、あるいは役に立つからという理由で自然に関心を持つようになったわけではないはずだ。子どもは虫や草花、雲や風が好きだが、それは純粋に自然に心惹かれているからである。そして、野山や河川が汚染され、そこに住む動植物たちが傷つき死んでいく事態を報道などで目にすると、私たちの多くは、人間の都合と関係なく、自然それ自体の被害のために心を痛めているはずである。

しかし、人間の都合を離れた自然の被害という言葉で(環境倫理学では、自然の権利などの言葉も用いられる)一体何を指しているのか、たんに文学的な表現に過ぎず実体を伴わないのではないか、と疑わしく思う人もいるだろう。実際、こうした批判は環境倫理学の議論でも繰り返し登場してきた。

一例をあげると、かつてカリフォルニア州ミネラルキング渓谷のリゾート開発計画が持ち上がったとき、開発反対のためにその渓谷自身の権利を持ち出す議論がなされた。それに対して、マーク・サゴフという哲学者は、長い時間を何もせずにただそこに存在していただけの土地が、なぜリゾート地として利用されることにだけは不満を抱くのだろうか、という皮肉を込めた表現をしたのである。

サゴフのコメントはもっともだが、自然が利益を求めるのか、権利を有するのかといった自然の側の事情を探る議論は、ひとまず脇に置いておきたい。その代わりに、自然環境を大切にしなければならないという感覚が湧き上がるときの、私たち自身の胸の内を覗いてみよう。

口やかましい環境保護論者の存在を頭から追い出し、彼らへの反感を忘れて虚心坦懐に自分の心の声に耳を傾けてみれば、少なからぬ人びとは、自然環境の破壊によって苦しむ人びとについてのみ考えているのではないことに気が付くはずだ。美しい山や川が汚されてしまうこと、そこで生きる動植物の営みが損なわれることへのやるせなさや憐憫、苛立ちなどが渦巻いていることを感じるのではないだろうか。

そうだとすれば、私たちは人間の都合を離れて、自然そのものに対する申し訳なさや同情を感じているとも考えられる。人間の都合とは関係なく、自然環境は大切にされるべきだという立場を非人間中心主義と言うが、環境倫理学ではこの立場にたった理論研究が大きな比重を占めてきた。私たちが気にかける自然はさまざまだが、渓谷や岩石などの無生物よりは生物のほうが、そして目立った動きを見せず鳴き声も出さない植物よりは動物のほうが、私たちの気持ちを動かしやすい。

環境問題と動物

実際、気候変動の話題を扱うニュースでシロクマの画像がシンボリックに持ち出されることは多いし、イルカやクジラも生物多様性を論じるときのシンボルとして登場することが多い。地域的な環境問題でも、その地域に生息する動物(アマミノクロウサギやムツゴロウ、イリオモテヤマネコなど)がメディアで取り上げられてきたことを連想する人もいるのではないだろうか。

じつは、倫理学には動物倫理学という分野もある。こちらでは動物実験や狩猟のあり方、伴侶動物(注)との関係などが論じられているが、動物倫理学の場合は環境倫理学に比べると、どのような問題に取り組んでいるのかわかりやすいと感じる人も多いかもしれない。

(注)伴侶動物とはいわゆるペットのことで、以前は主に愛玩動物と言われていた。近年このように言い換えられるようになってきた要因のひとつには、動物倫理学の議論の積み重ねがあると言ってよいだろう。もちろん、動物倫理学の成果は、単なる言葉の言い換えに留まるものではなく、さまざまな動物の福祉向上にも貢献している。

この動物倫理学と環境倫理学は、どちらも人間以外の存在が関わる道徳を研究するということでは、いわば隣接する研究分野と言うことができるのだが、必ずしも協調関係にあるわけではない。実際、J. B. キャリコット(注)という環境倫理学者は、「三極対立構造」という論文で、動物倫理学(論文中では、動物解放論や動物の権利論が名指しされている)と環境倫理学は協力関係にあるのではなく、自然を人間が身勝手に使っても道徳的には問題ないと考える立場(人間中心主義)を交えての三つ巴で争っていると整理している。

(注)キャリコットは史上初めて、環境倫理学の教授となった人物であり、環境倫理学という学問が成立した70年代から現在に至るまで、この分野を代表してきた研究者の一人でもある。なお、現在はキャリコットも、動物倫理学との対立よりも協調を重視しているようである。

なぜ、環境倫理学と動物倫理学のあいだで対立が生じるのか。その理由は、環境倫理学が生態系、すなわち生物と無生物が織りなすネットワークの安定に重きを置くのに対し、動物倫理学は基本的に動物個体の苦痛や恐怖を無くすこと、少なくとも軽減することを目指しているからである。

環境倫理学も動物倫理学も日々の暮らしのなかで耳にする機会はないし、どうせ欧米で盛り上がっているだけで日本とは無関係の話題なのだろうと考える人は、捕鯨についての非難の応酬を思い出してほしい。捕鯨の支持や容認の訴えは、生態系が崩れなければ鯨を捕まえても良いじゃないかという考えがその土台にあり、これは環境倫理学の問題設定と重なる。それに対して、鯨に苦痛を与えて殺すこと自体に反対だという反捕鯨の訴えは、動物倫理学的な問題意識に基づいている。(注)

(注)もちろん、捕鯨が本当に生態系の安定を崩さないのか、鯨以外の動物の問題はどうなるのか等の考慮すべき論点が他にあるので、きちんと検討しようとすれば話ははるかに複雑になる。

このように整理すると、環境倫理学と動物倫理学は、どちらも人間以外の存在との関係を扱いながら、お互いにそっぽを向いた学問のような印象を受ける。事実、捕鯨論争のように両者の対立が鮮明で、理論的にも政治的にも折り合いをつけることが困難な事例もある。

しかし、あらゆる局面で対立が不可避なわけではない。生態系にしろ動物にしろ、大事にしよう、保護の取り組みを促進しようというとき、生態系を基盤とするか個々の動物を基盤とするかという違いは、そこまで重要なものではない。豊かな生態系が保護されることは多くの生物にとって良いことだろうし、動物に配慮しようとすれば、その生態に即した環境が必要であることは明らかである。

こうした観点から眺めたとき、動物を食料のために殺すという点では同じはずなのに、捕鯨論争と対照的に、動物倫理学の議論と環境倫理学の議論が同じ方向を見ている(と、私には見える)のが、家畜についての議論である。

家畜の肉なら食べても良い?

捕鯨論争がやっかいなのは、鯨の苦痛や死を論じるときに、そこに食文化の違いや、鯨という動物の特殊性(大型野生動物であること、鯨はひときわ高い知能を持つと考える人が一定数存在すること)が絡むためである。

しかし、現代社会で大量に食肉として消費されている牛・豚・鶏について言えば、一部の宗教で口にすることが禁忌となっているにせよ、それらを食べるという習慣は広く浸透している。また、家畜という言葉の通り、これらの動物は野生状態にあるのを捕獲しているわけではなく、生殖から屠畜まで人間社会の管理下にあるので、乱獲による絶滅から生態系が乱れることを懸念する必要もない。そして一般に、牛や豚、鶏は鯨ほどに「賢い」生物であるとは見なされていないので、「賢い」鯨を殺すことには反対しつつ、肉食を継続することはさほど違和感を覚えない人が多いようだ。(注)

(注)ただし、実際には豚や牛が鯨と比べて「賢い」と言えないのかという点については疑問の余地が大いにある。また、反捕鯨の活動家や支持者のなかには、鯨以外の動物についても殺すことに反対で、その肉や革製品を消費しない者もいる。

こうして見てみると、家畜の飼育を人間の監禁に、屠畜を殺人に準ずる行為と見なすような強硬な立場の人びと以外にとって、家畜を食べることに大きな問題はないように思われるかもしれない。しかし、実際には現行の肉食は、環境保護の観点から見ても問題を抱えている。

環境問題としての肉食

よく指摘されることだが、家畜を育ててそれを食べるというのは非常に効率の悪い食料生産の方法である。というのも、飼料として収穫された作物を人間がそのまま口にするのではなく、飼料を家畜に与えて育てるというプロセスを経るためだ。牛の枝肉1キロのためには、トウモロコシなどの飼料が10キロ以上必要となる。

その枝肉からさらに骨や余分な脂肪が取り除かれるわけなので、何億人という人びとが飢えや栄養失調に苦しんでいる現状では、肉を食べるというのはきわめて贅沢な行為だと言える。また肉を保管するためには温度管理が必要になるなど費用が増えるし、貯蔵可能期間も穀物に比べると短いという問題もある。

世界の穀物生産量は約25億トンにのぼり、そのほかに野菜や果物が栽培されていることを考えると、世界人口を養うのに十分なだけの食物は生産されている。つまり、飢餓と栄養失調は、十分な食料を生産することができないという自然の限界に由来するものではないし、人口抑制が不十分だからだなどと言って途上国にのみ責任を押し付けることもできない。問題の本質は、分配の不公正と供給の非効率性にあり、穀物を家畜に与えるという畜産業は、この不公正と非効率性を生み出している一因なのである。

政府や多国籍企業によって、途上国の農業従事者が生産活動における自律を、国民が食生活の自律を奪われるという問題は、環境学や開発学の文献でつねに取り上げられてきた問題である。環境問題には資源利用の不公正という側面があるが、食物が人間の生存に不可欠な資源であることを考えると、肉食のあり方を検討することは環境問題の根幹に関わる課題だと言えよう。

よく知られている事例として、1970年から87年にかけて、世界銀行グループが畜牛事業とその関連事業向けに、合わせて3億6千万ドル以上の貸付を南米で行ったことがある。これにより、中南米では森林破壊が引き起こされるほど畜産が発展したにも関わらず、現地の住民のあいだでは栄養状態をはじめとする生活水準の低下が起きている。

これは、現地で生産されるトウモロコシなどの穀物が、牛を中心とする家畜の飼料に回されたことが大きい。そうして生産された牛肉は、栄養失調にあえぐ貧しい人びとの手が届くものではなく、メキシコやアメリカの都市上層民の消費に回されたのである。南米で起きたことは、肉食にまつわる不公正のまさに典型である。

なお、その後メキシコのトウモロコシ農家たちは、NAFTA(北米自由貿易協定)が締結されたことで、大量に補助金が投入されているアメリカの安いトウモロコシに太刀打ちできずに職を失った。そして、多くが不法移民として、劣悪な労働環境で知られるアメリカの食肉工場などで働くようになった。現在私たちが見聞きするアメリカのニュースで、トランプ大統領とその支持者たちの攻撃対象となっている不法移民だが、その背景にも肉食は関係しているのだ。

また、前段で森林破壊に言及したが、肉食は気候変動にも関わっている。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)とFAO(国連食糧農業機関)によると、私たちの社会が排出する温室効果ガスのうち12%ほどは農業由来のものだが、その中でおよそ3分の2が家畜に関係しているという。

肉食と環境問題との関係では、畜産業界が生み出す廃棄物の問題もある。牛や豚といった大型家畜が一頭当たりで生み出す廃棄物の量は、人間の成人の20から30倍ほどになる。日本が大量の食肉を輸入しているアメリカ一国だけでも、家畜の排泄物に含まれる燐と窒素の量は、毎年それぞれ約200万トンと約600万トンと見積もられているが、これは近隣生態系に汚染を引き起こす一因となっていることもある。

畜産にまつわる汚染は、CAFO(Concentrated Animal Feeding Operation、集約畜産経営)の場合、さらに深刻なものとなる。家畜工場とも呼ばれる、家畜が身動きできないほどに詰め込まれているこの種の施設から排出される水(畜産は家畜の飲み水や清掃のために、水資源も他の農業以上に大量に必要とする)や排泄物には、飼料に含まれている抗生物質や農薬が溶け込んでおり、これが近隣の水系や土壌を汚染するのである。

CAFOという用語は日本ではまだあまり浸透しておらず、訳語も定まっていないようだが、決してアメリカなど国外だけの問題ではない。後述するように、他国が動物の福祉に配慮した飼育方法を導入しているなかで、日本はその流れに取り残されるか、場合によっては逆行している感もある。

「いただきます」と「ごちそうさま」で解決?

ここまで肉食の問題点を、環境問題の文脈で取り上げてきたが、じつのところ、両者を結びつける視点は目新しいものではない。環境破壊の哲学的議論の口火を切った歴史学者のリン・ホワイトJr.は、自然は人間に利用されるために創造されたのだとするキリスト教の人間中心主義が、自然破壊を推し進める価値観を作り上げてきたと批判した。しばしば、これをもって環境倫理学の始まりとし、日本はその後の英語圏の議論を輸入してきたという見方がなされることが多い。

しかし、ホワイトがこの考えを最初に発表したのが1966年12月の講演であるのに対し、それに先立つ同年1月、やはり歴史学者である鯖田豊之が『肉食の思想』という新書を刊行している。そのなかで鯖田は、ヨーロッパ社会の自然観・動物観とキリスト教の人間中心主義の結びつきを論じていたのである(なおホワイトの講演内容は、1967年に論文としてScience誌に掲載され、1968年にその論文を含む書籍が『機械と神』として刊行されている)。

私は環境倫理学の講義で毎年のように鯖田の名前を出しているが、学術論文や専門書はともかく、環境倫理学の紹介文や入門書で鯖田の名が言及されることは残念ながらほとんどない(2017年に刊行された吉永明弘の『ブックガイド環境倫理』が『肉食の思想』を基本文献のひとつとして取り上げているが、『肉食の思想』に触れている入門書は、これぐらいではないだろうか)。

ところで、私の講義でホワイトと鯖田の主張を交えつつ、キリスト教の人間中心主義を紹介すると、受講生たちは人間中心主義をきわめて「傲慢」な態度だとして、批判的に受け止める傾向があるようだ。ところが、その後の講義で、動物を殺すことを基本的に反道徳的と見なす動物倫理学・環境倫理学の学説を紹介したり、捕鯨論争の話題を取り上げると、彼らの態度は急変する。

「人間が動物を利用するのは当たり前」という人間中心主義の見本のようなコメント、「日本には『いただきます』と『ごちそうさま』の文化があり、感謝している」などの現状肯定意見、ときには菜食主義を偽善として攻撃する意見も提出される。とりわけ、「いただきます文化」の人気は高い。

さすがに動物には一切の配慮は必要ないと考えた17世紀の哲学者デカルトほどの開き直りは見られないものの、CAFOで行われている動物の福祉に明らかに反する処置について説明しても、彼らの反応に大きな変化は見られない。(注)コメントで表明される意見の大半は、自分たちの食習慣を批判するような議論への防衛的反応であって、現行の食料生産・供給システムへの批判的な見解ではない。

(注)動物倫理学でCAFOが批判されるときによく言及されるものに、「妊娠ストール」や「バタリーケージ」がある。前者は豚、後者は鶏の飼育で用いられるもので、どちらも窮屈な飼育用の檻である。妊娠ストールの中の豚は、方向転換も足を伸ばして寝ることもできず、種付けと分娩のとき以外、そこから出されることはない。ストレスのために、異常行動が多くなり健康状態も悪化する。EUでは2013年に使用が禁止されているほか、オーストラリアやアメリカでも禁止に向かっているが、日本では禁止されておらず、畜産技術協会の平成27年の調査報告書では88.6%の業者がストールを使用していると答えている(ただし、使用しているストールのサイズはまちまちで、幅が150cmとややゆとりのあるストールを使用している業者もあるが、その割合はわずか0.3%に過ぎず、大半は60cmから70cmの幅しかない)。

 

バタリーケージについても状況は似たようなもので、こちらもEUを皮切りに使用禁止へと向かう流れのなかで、日本は規制がない。ケージは卵を取り出しやすいよう傾斜がついており、止まり木や砂浴び場がないなど、鶏の習性を無視した構造になっている。こうした環境に置かれると鶏は他の鶏をつつくようになるので、その嘴はデビーク(嘴を切断する処置のこと。ビークトリミングともいう)することが多いが、基本的に麻酔は用いられず、デビーク時のみならずその後も痛みを味わうといわれる。上述の報告書によれば、日本ではおよそ84%のひながこの処置を施されている。

確かに「いただきます」と「ごちそうさま」を言う文化の根底には、私たちの食事のために犠牲となった生物への感謝や供養の念が込められているのだろうし、それは、自然は人間に利用されるために存在していると考えるキリスト教的人間中心主義の主流の態度には見られなかった要素だと言って良いだろう。その意味では、現代の日本人の自然観・動物観と、人間中心主義批判以前のキリスト教社会のそれとを同一視することは適切ではない。

しかし、食事の前後に儀礼的な言葉を発しただけで、食材として犠牲になった動物、犠牲になるまでにCAFOで虐待され続けてきた動物に対して、何もなかったことにできるというのは、それはそれでやはり「傲慢」な態度ではないだろうか。

しかも、私は週に数回は大学の学食で昼食をとるのだが、そこで学生たちがきちんと「いただきます」や「ごちそうさま」という言葉を発する光景を目にすることはきわめて稀なのだ(心の中で呟いているのかもしれないが、会話や身振りの様子から判断するとそれも疑わしい。教えられた日本のマナーを忠実に守っているのか、アジアやアフリカの留学生が、そうした言葉を発したりそれらしい身振りをしている様子は何度か目撃している)。

肉を食べ続ける肉食批判

前節で随分と批判的なことを書いたが、私も「いただきます」と「ごちそうさま」が、それに見合う心構えを伴っているのであれば意味のあることだと考えるし、自分の子どもにも、こうした言葉を言うように教えている。また、私にとって肉食の魅力は大きいので、当分は菜食主義者になる予定はない。菜食主義でもきちんと勉強すれば健康的な生活が可能だとの説明もあるが、わざわざ勉強不足から生じうる栄養の偏りや不足といったリスクを引き受けてまで、自分の子どもや家族に菜食主義の生活をさせるつもりはさらにない。

当然、学生や読者に菜食主義を強く勧める意図もない。こう書くと、それではこの記事は何のために書いたのかという疑問を持つ人もいるだろう。肉食に問題があると理解しているのであれば菜食主義者になるべきではないか、と責められるかもしれない。しかし、私としてはまったく後ろめたさがないわけではないにせよ、そのように硬直的な態度で迫ることにも問題があると考える。

というのも、肉食だけでなく、その他の環境問題に関する事柄も、そして社会問題一般についても、その解決に貢献するために、自分の生活のなかで一定以上の比重を占める楽しみを自主的に放棄しなければ道徳的に断罪されるというのは、私を含む多くの人にとってあまりに過酷な条件であるし、問題解決のための広い支持を集めるうえでも妨げになると思われるからだ。

原子力発電によるエネルギー供給に反対する人は、原子力発電所から供給された電気が送られてきている可能性がある限り、家電を放棄しなければならないという極論に同意する人はほとんどいないだろう。温室効果ガスの排出量が多すぎると現代社会を批判するからといって、自家用車に乗ってはならないという主張も同様に現実離れしている。ある行為や習慣を支えるシステムの現状を批判し改善を求めることと、そのシステムを利用し続けることは必ずしも相いれないわけではないということである。

一定の基準を境に、白か黒かと色分けする硬直的姿勢は、社会問題に取り組むためのハードルを上げるばかりでなく、問題に加担しているという罪悪感を煽り立てることで、人びとの関心すらも損ねる可能性がある。(注)

(注)ところで、過激な動物愛護団体などのイメージからか、菜食主義者が肉食をする者に攻撃的な姿勢を持っているイメージを持つ人も少なくないようだ。しかし、少なくとも私は菜食主義者に肉食の放棄を迫られた経験も、肉食習慣を攻撃されたこともない。この節で述べている内容も、菜食主義者に向けてのものではなく、むしろ肉食を批判するのであれば一切肉を口にしてはならないかのような思い込みに反対するためのものである。

おわりに

倫理は、人びとの言動を強制的に変えるものではない。強制力を伴う取り組みは、法律や政策を通じて達成されるのである。だが、倫理的思考は、私たちがどのような法律や政策、ひいてはどのような社会を作り出すかに決定的に関わる。倫理の役割は、問題解決のためには大きなものがあるが、あくまでも間接的なのである。

肉食を含む環境に負荷を与える私たちの習慣についての倫理的思考もまた同じである。現代社会における肉食の問題点を知り、それについて倫理的に考えることは、動物の福祉により配慮した肉を求めたり、肉の摂取量を減らしたり、途上国への支援を考えるきっかけとなりうる。また、たとえ即座に行動に移さないにしても、いずれハードルが下がったときにそうした行動を生み出したり、ハードルを下げるための法律・政策に賛同したりする可能性がある。

肝心なのは、私たちの生活習慣が、環境問題やその他の社会問題と関連しているのではないかという批判的視点を持つことである。また、そうした問題意識から活動している人びとの見落としや活動成果の不十分さを、冷笑したり偽善として責めたてるのではなく、問題解決のための助けや補完の道筋を探ることである。

肉食についていえば、まずは食肉生産の実態を学び、そのうえでどのような食料生産のあり方や食生活が望ましいかを考えること、そしてその実現に近づけるための方策を知り、そのなかで自分にできることを探すことが大事だろう。

プロフィール

熊坂元大環境倫理学・政治哲学

1976年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。康寧大學兼任助理教授、國立高雄大學兼任助理教授(どちらも台湾)などを経て、現在は徳島大学大学院社会産業理工学研究部准教授。近著に「『動物のいのち』におけるエリザベス・コステロの振る舞いから考える交感と受傷性の倫理」(環境思想・教育研究10号、136-143頁)など、共著に『「環境を守る」とはどういうことか――環境思想入門』(岩波ブックレット、2016年)、『未来の環境倫理学:災後から未来を語るメソッド』(勁草書房、2018年)など。

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