2013.02.05

原発事故と調査報道を考える 

奥山俊宏(朝日新聞記者)×藍原寛子

社会

原発震災後、メディアの報道が大きな関心を集めている。福島県内外で避難者の取材をするなかで、国や東電、行政そしてマスメディアに対して、「震災について十分な情報を提供してくれなかった」と疑問をもったという声を何度も聞いた。本来、メディアは住民、読者や視聴者の側に立ち、報道によって十分な情報を提供し、それによって人々のより良い行動の選択へ大きな役割を果たすことを期待される。そのメディアへも不満が募ったことは、今後も起こりうるであろう複合災害や原発事故の報道について大きな宿題を残した。

そこで、原発事故当時、東京電力の記者会見を取材、『検証 東電テレビ会議』(朝日新聞出版、共同執筆)、『ルポ 東京電力 原発危機1カ月』(朝日新書)を上梓した記者の奥山俊宏さんに原発事故と調査報道について聞いた。奥山さんは社会部や特別報道チーム、特別報道部などで調査報道をつづけてきた。東大工学部原子力工学科で原子力を学び、朝日新聞入社後も福島支局時代に原発を取材した。メディアのなかでも原発と調査報道の両方の数少ないエキスパートだ。(聞き手・構成/藍原寛子)

情報の非対称性はあったのか ―― テレビ会議の検証

―― 東電のテレビ会議の記録が昨年から報道機関に開示されています。奥山さんは3人の同僚を含む取材チームで『検証 東電テレビ会議』を上梓されましたが、この録画記録に注目した理由を教えてください。

東電のテレビ会議の映像は、その存在が分かって以降、資料価値がかなり高いもので、いつかは見てみたいと思っていました。東電の社内で何が話し合われたのかを知ることは、どのように事故が拡大していったのか、東電がそれにどう対処したのか、つまり、事故の核心を知るために、とても重要なことだと思いました。同時に、「東電はウソをついたのではないか」「東電が持っていた情報と、国民が知らされた情報に違いがあったのではないか」という疑問を検証するのに役立つだろうとも思いました。

ぼく自身、震災の2カ月半後の2011年5月31日の政府・東京電力統合対策室合同記者会見で直接、東電や細野さん(当時は総理大臣補佐官)に「ぜひ公開していただきたい」とお願いし、細野さんは「事態が落ち着いた段階で皆さんに御説明するということは当然あり得べしだと思う」と返答しました。不十分とはいえ、それがやっと実現したのが昨年8月のことでした。

―― 今回の原発事故では、東電や政府が持っている情報と、国民が得た情報のあいだに格差、「情報の非対称性」があって、それは大きな問題だと指摘されることがありました。情報の非対称性について明らかにすることは、大きな災害や事故の際に、事故原因者が被災者に対してどう情報を提供するかという課題を明確にするでしょう。情報の非対称性の有無について、テレビ会議で分かったことはありますか。

東電自身が原子炉の内部の状況について見誤っていた、状況を把握できていなかった、ということがテレビ会議でのやりとりで裏づけられました。テレビ会議を見ると、東電の人たちは「圧力容器の底は抜けていない」という前提で、内部で話をしています。「格納容器は健全だ」という前提で話し合っています。つまり、「格納容器は健全です」と発表したのは、ウソをついたのではなく、本当にそう思っていた、ということがよく分かります。

ちょっと恐ろしいことですが、情報の非対称性は、世間で言われているほどには、大きくはなかったと感じました。速やかに発表すべきことを速やかに発表しない、発表に消極的、発表し渋っていた、というような実態もテレビ会議でよく分かりましたが、事故の核心、事態推移の核心について意図的なウソをついた、というところは、今はまだ精査中ですが、今のところ見あたりません。

東電による事態の評価については、「過小評価の事例」「過大評価の事例」「意図的にウソをついた事例」があったことが今となっては分かっています【表参照、奥山氏まとめ】。これが「過小評価の事例」ばかりで、「過大評価の事例」がなかったのだとすれば、それは、東電が意図的にウソをついたことを裏づける状況証拠になりますが、実態としては、そうではなかったことが分かります。

―― 報道機関の原発事故報道について「大本営発表報道だった」「パニックを恐れて情報統制した」「報道機関は東電と一緒になって隠していたのではないか」という批判があります。その指摘についてはどのようにお考えですか。

東電に取材が集中したのは、東電が事故を起こした当事者だからです。東電がもっとも事実に接近できる立場だったからです。

「報道機関が情報統制に手を貸した」とか、「報道機関が東電と一緒になって隠した」とかいうのも、あり得ない話だと思います。ぼく自身、社内でそんなことはまったく見聞きしていません。3月15日から16日にかけての各紙の一面を見れば、それは裏づけられます。

情報統制どころか、各紙ともむしろ、あおるくらいの調子で書いています。たとえば、3月15日の読売新聞夕刊の一面トップの見出しは「超高濃度放射能が拡散 4号機 年間限度の400倍 官房長官『身体に影響の数値』」ですから。

―― 放射線量などは的確に住民に知らされていた?

ぼくがいた東電本店では、福島第一原発や福島第二原発の敷地のなかの放射線量が公表されていました。それらのうち大きな値は新聞で報じられました。福島第一原発の敷地内には一般の人はいないので、10キロ離れた場所の線量であるという点で第二原発の線量を目安に推移を見ていましたが、それらの値はインターネット上で公開されていました。宮城県の女川原発や茨城県の東海第二原発で線量が上がったことは報道で知り、「そんな遠くまで放射性物質が飛んでいったのか」と感じた覚えがあります。それらの情報は公表はされていましたが、「的確に知らされていた」といえるかというと、そこに問題があった、ということだと思います。

―― あの当時、放射線量の発表を知っても、その線量の数字の意味を個人個人が理解して判断し、行動できたかというと、ほとんどの人はできませんでしたよね。

そうなんだろうと思います。線量が仮に毎時100マイクロシーベルトだというときにどう行動するべきか。人によって状況によって異なると思います。逃げるべきか、それとも、とどまるべきか。福島第一原発事故では、避難の途中に亡くなった人がいました。国が一律に避難を押しつけるべきものなのかどうか。年齢や健康状態、生活環境、価値観などなどを総合して個々人ごとに判断できればいいのでしょうが、それは理想論かもしれません。

―― では、政府が出した避難指示というのは、やり過ぎだったのでしょうか。

政府が出したのは当初、原子炉がこの先どうなるか分からない段階での「念のため」の予防的な避難指示でした。原子炉の格納容器が爆発するような事態に備えたのだと思います。実際には、格納容器からその中身の一部が漏れましたが、格納容器が爆発してその中身の大部分が外部にぶちまけられるということはありませんでした。格納容器の爆発がなかったことをもって、後知恵で「もっときめ細やかに避難あるいは屋内退避を指示するべきだった」と言うことができますが、それがあの局面で正しいかどうか。

―― 奥山さんは格納容器の健全性について、東電が「事態を過小評価した事例」としています。東電側が正確に状態を認識していなかったのに、結果として格納容器が爆発しなかったことについてはどうお考えでしょうか。

格納容器が爆発しなかったのは、偶然なのか、必然なのか。これは大きな疑問です。結果的に1号機、2号機、3号機のすべてが高圧状態になったのに爆発せずに済んでいます。これが偶然によって起こる確率は非常に小さいです。爆発する前に高温・高圧状態になったらどこかが抜けてしまうような、意図せざるベント状態になってしまう、もともとの構造があったのだと推定できます。

その意図せざるベント状態については認識が甘かったと思います。制御できない状態で格納容器の中身の放出がつづきました。それは爆発が原因ではなく、格納容器の蓋の隙間の抜けが原因だとみられることが分かってきています。2号機の原子炉は3月15日から16日にかけて完全に気密性を失って外部とツーツーになったのではないかとぼくは思っていますが、それについては当時、過小に見ていたのではないかと疑っています。

―― 東電のテレビ会議の映像は、当時の菅首相や民主党の議員に対する論評、官邸内の動きなどが緊張感なく話し合われている3月12日夜の場面から始まります。12日午後11時12分には、都内の本店の対策本部は一部の社員を残して「解散」してしまっています。炉の内と外、福島と東京、東電の本店と原発サイトでは、あまりにも温度差があり過ぎると思います。被災者からすると本当にやりきれない思いですが……。『検証 東電テレビ会議』でもこのあたりは書かれていますが、なぜ、3月12日夜、東電社内はあんな空気だったのでしょうか。

12日夜に武黒一郎フェローが画面の前でずっと話をしている場面ですよね。1号機の原子炉建屋の爆発の7時間ほど後の場面です。原子炉に水が入り始めて峠を越えたといったような、あののんびりした雰囲気は、東電の危機感のなさが感じられて確かにショックで、残念です。

あの時間帯は、3号機の原子炉が制御不能に陥ろうとしていたころです。2号機はまだ冷却ができていて、4号機も無事だったころです。やるべきことがもっとあったのではないか、もっといい対応をすれば、抑え込むことができたのではないか、ましな結末があったのではないかと痛切に感じます。少なくとも2号機、3号機、4号機は救えていたはずです。

―― そうですね。

3号機の原子炉主蒸気逃がし安全弁(SR弁)を開くためのバッテリーがなくて、社員にマイカーのバッテリーの拠出をお願いしたり、ホームセンターにバッテリーを買い出しにいくための現金を貸してほしいと社員に呼びかけたりする3月13日朝の場面が象徴的です。

3月13日の早朝に3号機の原子炉が冷却できなくなっていることが分かった。消防車の低圧のポンプで外部から原子炉に注水するためには、SR弁を開いて原子炉内を減圧しなければならない。SR弁を開けるには120ボルトの直流電源があればいい。ところが、そのとき、福島第一原発には、その120ボルトの直流電源がなかった。12ボルトの自動車用バッテリー10個を直列につなげばいいのですが、3月13日の朝、原子炉が冷却不能になった後になって、福島第一原発の現場でそれを集め始めています。

「資材班です。すいません。これからバッテリー等を買い出しに行きます。現金が不足しております。現金をこちらに持ち出せる方、ぜひ、お貸しいただきたいと思います。すいません。申し訳ありませんが、現金をお持ちの方、貸していただけないでしょうか。よろしくお願いします」

3号機原子炉の水位がどんどん下がって、メルトダウンが始まろうというときに、福島第一原発の免震重要棟の中でこう呼びかけている。

もし、一般の家庭で夜、停電になったら、どうするか。まず懐中電灯と電池を探しますよね。電池が足りなければ、使っていない電気機器から電池を取り出して電池を集めるかもしれないですし、コンビニに行って電池を買おうと思うかもしれない。そういうふうに考えるのはそれほど難しいことではないです。ところが、福島第一原発では、残念ながら、震災の2日後に至るまで、それがちゃんと行われなかった。とても単純だけど、とても大事な話。これが抜けていたように見えます。

―― 記者会見でSR弁の話が出ていた時、「いったいSR弁はどのような仕組みで、動力は何か」などを聞いた記者はいましたか。

東電の原子力設備管理部の課長が「バルブ(SR弁)もなかなか言うことを聞いてくれなくて……」と言っていたのが印象に残っています。SR弁というのは「Safety Relief Valve」のことで、日本語では「原子炉主蒸気逃がし安全弁」と言うんだということも説明がありました。SR弁の「開」を維持するにも、コンプレッサーとバッテリー電源が必要だという説明もありました。SR弁の動力は電気ではなくて、圧縮空気です。電源が必要なのは、作動信号を送る際のことです。そんなようなことがぼんやりと頭に入ってきたような覚えがあります。しかし、あの状況で、記者が「SR弁の構造を説明せよ」と一から問えるか、というと、それは難しかったと思います。

―― でもそうなると、自分が書いたり話したりしているその「SR弁」は、字面(じずら)としては分かっても、いったいどのようなものか理解できないまま記者は聞いていたということになりはしませんか。意識的あるいは無意識的にでも、記者会見という集団取材の場で、「質問することによって全体の空気を乱したくない」というような意図が働いたことはありませんか。それによって基本的で非常に重要な質問を避けてしまい、東電側に新しい思考回路を開く機会を与えず、また自分の頭でも確実に理解するということを飛ばしてしまったのではありませんか。

3月12日に記者が「自動車用バッテリーでもいいからちゃんと調達するべきではないのか、調達できているのか」と東電に質問していればよかったのかもしれませんが、それは難しかったと思います。消防車のポンプで原子炉に水を押し込むには、原子炉内の気圧を下げる必要があって、そのためにはSR弁を開ける必要があって、SR弁を開けるにはSR弁の制御用電磁弁に作動信号を送る必要があって、そのためには直流電源が必要で、そのためには自動車用バッテリー10個があれば足りる、という知識、そこまでの知識はどんな記者も持てなかったと思います。

記者は専門家じゃないし、SR弁の作動原理について、事態進行の真っ最中に全部を理解して、それにもとづいて東電の人に質疑するのは非現実的です。「東電側に新しい思考回路を開く機会を与え」るというのは、結果としてそうであったらとても良いことだと思いますが、それそのものは記者の仕事ではありません。

念のため申し上げると、圧力容器のSR弁に限らず、格納容器のベント弁についても、どうやったら動くのかという質問は繰り返し出ていました。「電気がないから言うことを聞いてくれない」というような説明でした。社員のマイカーのバッテリーをかき集めたという話はかなり後になって聞いて、そんな原始的な方法なのかと驚いて記事にしようと考えたことがあります。でも、当時は事実関係を詰めきれませんでした。てっきり3月11日当日にそれをやったんだと思ってました。拙著『ルポ 東京電力』にもそんなふうに受け取れることを書いたのですが、実際は地震の当日ではなく2日後の3月13日でした。そこが残念なところです。

―― 誰でもわかる単純なものが抜けているのは、逆に、原発の複雑な多重構造に注意が向けられているがために、シンプルに考えることができなくなって起きるヒューマン・エラーということもいえるのではないでしょうか。それとも東電特有の企業体質があるとか。

なぜそれが起きたのか、それがいったいどういうことなのかは、今後解明したい点です。東電の広報部に聞いても「当時としては、社員の自家用車のバッテリーを収集してSR弁を復旧するという発想、判断を行うことは難しかったと考える」というような回答が返ってきます。そこに発想が及なかったのはおかしい、間抜けなんじゃないか、と批判することができるのですが、ただ、その批判はもしかしたら、今だから言える後知恵かもしれない。

検証の作業というのは基本的に後知恵で過去のできごとを探ることですが、それは当時の状況でどうだったかという視点でやらないと、現場の人に無理を強いる誤りの教訓を導き出すことになる。これは報道の検証でも同じです。原子炉を運転する通常の専門家ならそこに気づけたか、気づくべきだったか、という点は明らかにしたいです。虚心坦懐に見てみたいと思っています。その答えによって教訓が変わってきますから。

調査報道の重要性

―― 話が変わりますが、原発事故後、調査報道への読者の関心の高まりは実感されますか。

「発表だけに頼るのではなくて、調査報道をしてほしい」という声は震災前からありました。で、その調査報道に対する世間の期待が、福島第一原発事故の後に、より高まったということは言えると思います。原発事故の当初の報道は発表報道の典型で、それはあの局面では仕方のないことだと思っていますが、それに対する批判がとても強い。その批判の裏返しとして、「調査報道をちゃんとやるべきだ」という叱咤激励があるのだと受け止めています。ぼく個人としては、調査報道への関心が高まるのは良いことだと思っています。

――奥山さんとは今からもう20年も前の1992年ごろ、奥山さんが福島支局に赴任されたときにお会いしたのが最初でしたが、一緒に福島市政を回っていたあの頃から、時々、ビックリするような特ダネを書いていましたよね。奥山さんには正直、抜かれたことしか覚えていません(笑)。当時はまだ現在のように情報公開制度が整っていない頃でした。福島に赴任する前から、調査報道をされていたのですか。

大学4年生のときにリクルート事件が朝日新聞の調査報道で発覚し、調査報道を意識して朝日新聞に入りました。初任地の水戸支局(茨城県)でもかなり一生懸命、調査報道をやったつもりです。なかでも、入社4年目、福島市役所を回っていたときに福島版に書いた「福島市、競売物件を高値買い?!」「商工会議所会頭が仲介」「『競売に気付かず』と市」という記事はとくに思い出深いです。ぼくとしては、とても良い調査報道だったと思っています。

福島市の中心市街地に「第一会館」という名前の古いビルがあるのですが、競売にかけられていた。福島市内の有力企業がそれを1億1500万円で競落した。そのわずか5カ月後に、福島市がそのままそれを1億6250万円で買い取ることになった、という記事です。福島市は競売に参加していなくて、買収価格を決める際に鑑定もせず、しかも、地元財界の有力者と市長の直談判で話がまとまった、という話でした。

この件にかかわった人にお願いして委任状を書いてもらって、裁判所の競売記録を閲覧して、いろいろな事情を把握しました。当時の市長は、第一会館だけでなく、その周辺の一角全体を買うといういわば「地上げ」の計画を持っていたようですが、あの報道で出ばなをくじかれて、断念したのだと思います。もし「地上げ」が進んでいたら、その後の地価下落で市は多大な損失を被っていたところだったので、あのときの報道は大きな意味があったと思います。

―― 何が取材の端緒になったのですか。

たしか、福島民友か福島民報の夕刊に「第一会館買収」の話が肯定的に書いてある記事を読んで、「何かおかしいな」と感じたことがきっかけでした。これは誰かがリークしてくれたのではなく、自分の着眼点でした。こうした感覚、センスはけっこう大事だと思っています。情報があっても、その情報に響く人、響かない人がいます。ぼくも見落としてきたものがたくさんあると思います。頭のなかでは、いつも何かをとっかえひっかえ考えていて、何か引っかかるようなことがあると、四六時中そのことを考えているときがありますね。とにかく考えることが大事なのかなと思います。

――調査報道で重要なことは何でしょうか。

大事なのは着眼点。どこに目をつけるかということは、取材の端緒をどうやって得るのかということと同じぐらい大切だと思います。言ってしまえばその人のセンス。いくら一生懸命取材しても、平凡な着眼点だったら、平凡なニュースしか出てこないことが多い。自分独自の、他の人にはない着眼点や目のつけ所が大事だと思います。

―― 政府は権力があり、東電は大企業。情報も持っています。そうした権力のあるものに対して常にチェックしていくというのは報道機関の役割です。さきほど、「事故の核心に関して東電が意図的なウソをついた、というところは、今のところ見あたらない」という話が出ましたが、そう言ってしまうと、「東電を守っているのではないか」という矢が飛んでくる可能性はありますが。

東電や政府を批判的に検証するのは必要で、実際にそれをやっています。ただ、調査報道は、事実を明らかにすることが何より大事で、それがどっちに有利になろうが、不利になろうが、誰が喜ぶとか、喜ばないとか、取材をする際にはそういうことは記者としてあまり考えるべきではないと思っています。そういうこととは無関係に、分かった事実を書いていくというスタンスであるべきだと。批判のための批判になったら、調査報道とはいえないでしょう。

事実を提示する、「みなさん考えてください」と素材を提示するのが基本だと思います。提示の仕方として、「こういう問題点が考えられます」というのはあっていいと思いますが、事実を見せるのが基本でなければ、単なる論評になってしまいます。自分の意見に忠実であってはならなくて、事実に忠実であらなければならないのだと思います。

その上で思うのですが、「東電だから事故が起きた」「菅内閣だからこうなった」と東電や政府を批判し、問題を指摘したつもりが、結果的には問題を矮小化することがあり得ます。

「東電は分かっていたのにウソをついた」「東電はウソつきだった」という批判は結果として、「今後は何が起こっても正直であらねばならない。そのためのチェックシステムを設けよう」という教訓を導き出しますが、果たしてそれが福島第一原発事故の本当の教訓なのか。また同様に「関西電力は東電とは違って正直な会社なのだから原発を稼働させていいのではないか」という結論を導くことにもなりかねませんが、果たしてそれが正しい結論なのか。

東電は事実を見誤っていたのだから、これに関しては、正直であることは解決策になりません。また、たとえ仮に関西電力が正直な会社であったとしても、事実を誤認して誤った発表をする危険性は残ります。そのように考えるべきだと、ぼくは思います。そこを間違えると、逆に、原子力発電所を稼働させたい人たちにとって「ウエルカムな批判」になってしまうという、本来意図せざる安直な結果になる可能性があります。

チェルノブイリ原発で1986年に事故があった後、日本では「あれはソ連だから起こった」と言われました。それは一面では事実です。でも、それを言い過ぎた結果、あの事故から教訓を学ぶことがおろそかになったのではないかと疑っています。

福島第一原発事故についても、「あれは日本だから起こった」という側面があります。実際、米国の規制の下なら、ああはならなかったでしょう。それをもって、「あれは日本の原子力安全・保安院や東電だから起こった。米国など国際水準の規制を日本に採り入れればOKだ」と言う人がいるかもしれません。それは一面では事実のように見えますが、他方で、大切なものを見過ごした議論でもあると思います。

できるだけ客観的であろうとするジャーナリストなのならば、原発稼働に反対だとか賛成だとか、あるいは、「東電の人たちはウソをついたに違いない」とか、逆に「東電の人たちは国民のために命をかけて頑張った英雄だ」とか、そういう自分の意見がたとえあったとしても、そういうのは捨てて、虚心坦懐に事実を見る必要があると思います。それが事実なのならば、それがだれに有利になろうが不利になろうが、それを報じていく姿勢であるべきだと心がけています。

―― 福島第一原発事故について、ご自分の記事で印象に残った記事をひとつあげてください。

福島第一原発の4号機がなぜ過熱・崩壊から救われていたのかを報じました。本当は震災4日前の3月7日に外部に抜き取られるはずだった水が、震災直前の工事の不手際によって使用済み燃料プールのそばに残っていたという偶然もあって核燃料が救われたということが分かりました。

3月16日夜、「4号機の燃料プールに水がある」という報告が現場から上がってきましたが、それに対して東電のなかでは「何で水があるの?」と疑問に思った人がいました。一方で「水があるのは当然」と思った人もいました。米政府は「4号機のプールに水はない」と発表し、海外のマスメディアはそれを真に受けて誤った報道をし、その誤報が日本にはね返って、日本のマスコミはなぜ本当のことを報道しないのかという批判の原因にもなりました。

4号機の燃料プールのなかにある大量の核燃料がメルトダウンしていれば、大変な事態になっていたわけですが、実際には、メルトダウンするどころか、一貫して十分な量の水がありました。これについて「どうして助かったのか」「水が残っていたのはなぜだったのか」「それは必然だったのか偶然だったのか」という問題意識があり、いろいろな人に疑問をぶつけているなかで理由が分かりました。

―― 奥山さんは関西電力珠洲原発の立地疑惑の取材では、フィクサーたる人から暴力や脅迫を受けたりしていますが、調査報道により、ただひたすらに「真実を突き止める」という姿勢を貫いているがゆえのことで、数々の問題を突破しながら前に進んでいる人だと思います。ともに同じ現場を回っていたころから約20年という時間を経て、この福島原発事故が発生した現在も、お互いに現場を歩く取材者として現場で会うというのも、ジャーナリストとしては貴重な巡り会わせだと思っています。奥山さんの仕事には今後も注目していますし、私も私なりの視点で取材していきたいと思っています。長時間のインタビュー、ありがとうございました。

プロフィール

藍原寛子ジャーナリスト

福島県福島市生まれ。福島民友新聞社で取材記者兼デスクをした後、国会議員公設秘書を経て、フリーランスのジャーナリスト。マイアミ大メディカルスクール、フィリピン大、アテネオ・デ・マニラ大の客員研究員、東大医療政策人材養成講座4期生。フルブライター、日本財団Asian Public Intellecture。

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