2013.06.12

メディア全体で「つながる」ことの大切さが問われている 河北新報編集委員・寺島英弥氏インタビュー

藍原寛子 ジャーナリスト

社会

東日本大震災と原発事故後、日本社会の脆弱性(Vulnerability)が盛んに議論され、とくに情報の点においては、行政やメディア、市民の情報受発信の問題がクローズアップされた。そのなかでも、ジャーナリズムの問題や可能性については、まだまだ議論は途上だ。今年3月11日で震災から3年目に入り、メディアによる報道は激減している。こうしたなかで、取材者は何を伝え、どう発信していけばいいのか。河北新報編集委員で被災地に何度も足を運んで取材している寺島英弥さん(福島県相馬市出身)に、震災報道や東北各地の被災地の現状、今後のメディアの役割などについて聞いた。(インタビュー・構成/藍原寛子)

被災地の最大の課題は人口減少と住民の分断

―― 寺島さんとはときどきお会いしては、仕事のこと、メディアの将来など、いつも刺激になる内容で議論させていただいています。会社は違えど、メンター的に取材記者として仕事上のアドバイスをいただくこともたびたびでした。震災後、河北新報社が運営する市民参加型の地域SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)「ふらっと」のなかで、「余震の中で新聞を作る」を執筆され、ウエブサイトも活用して、被災地の情報発信をつづけてこられました。3月、『東日本大震災 希望の種をまく人びと』(明石書店)を上梓、被災地の声を伝えています。東北各県を飛び回って継続的に取材されている寺島さんに、まずは直球の質問をしたいのですが、震災から丸2年、いまの被災地の最大の課題は何だとお考えですか。

岩手、宮城、福島と、それぞれに当事者は大変な現実を抱え、課題は多様です。そのなかでもじつは共通している大きな課題があります。それは震災3年目のいま、被災地の人々に「古里に留まるか、去るか」といった厳しい選択が迫られていることです。東北各地の自治体が行った住民意向調査の結果が昨年来報じられていますが、津波被害の自治体でも、原発被害の自治体でも、住みつづけたい人の割合は減りつづけ、東北の被災地一円で人口流出が止まりません。

―― 福島県内の浜通り、原発災害の自治体では「仮の町」というような構想もありますが、それまでの過疎化、高齢化に拍車がかかり、子どもや若者が激減した高齢自治体が急増する可能性ですね。

東北では被災三県で約11万人が減っています。「留まる」と答えた住民はわずか2割という自治体もあります。率直に言って、今後、この1年はとくに被災地再生の行方は正念場を迎えるでしょう。これは「アベノミクスで景気が良くなる」などという経済界の期待とはまったく別世界のように起きていて、逆に被災地では建設資材や人件費、工事コストの高騰、働き手の流出、復興関連事業の相次ぐ入札不調といった負の問題も広がっている。

さらに深刻なのは、多くの被災者がいまだ希望を見いだせない状況になっていること。「5年で除染を終了する」とか、「戻れるようになります」といっても、住民にとっては国が信頼できず、当事者の訴えを吸い上げ、反映してももらえない現状があります。さらには進まない公営住宅の建設。今年3月の時点で、着工はわずか5%。完成は大船渡市と相馬市の合計156戸だけで、2015年3月でも必要戸数に8千戸も満たないというのが実情でした。そのために仮設住宅の入居期限を何度にもわたって延長している経緯があります。

狭い仮設住宅であと丸3年は我慢しなくてはならない、と言われても、高齢になった人や自己資金の乏しい人はそこから離れることができず、さらに希望を持てないでしょう。そんな状況のなかで、「希望は自らをつくるしかない」と自助の活動を始めた人たちもいる。支援する放射線や土壌の専門家と協働し、自ら除染実験に取り組む福島県飯舘村の農家らを、わたしは取材してきました。

支援する側、される側、取材する側、される側の溝

―― 希望がつくり出せない現状。それは本当に厳しいですよね。しかし、一方で、東北地方にはたくさんの支援者が駆けつけてくれました。そうした支援により、希望は生まれたといってもいいのではないでしょうか。

震災の年は、本当にものすごい数の支援者が来てくれました。東北では過去にも、こういうことはなかったと思います。それは被災者の大きな力づけになったと思います。とくに若い人が、高齢化、過疎化の村や町に入って、聞き慣れない東北弁を聞き取ろうとし、つながって手助けしてくれる。そんな姿は、大きな励ましになってきたことでしょう。

ただその一方で最近は、「もう忘れられて行くのかな」という声を、震災3年目になって聞いてもいます。たとえば被災地各地につくられた仮設の商店街。ニュースで報じられ、外部のボランティアやバスツアーなどで立ち寄ってくれル人たちで賑わったものの、いまでは地元の仮設住宅の住民もくしの歯が掛けるように減り、維持するのが大変になっているところが多いと聞きます。

―― 希望が持てなくなった要因のなかには、情報が適切に伝えられなかった失望感などもあるのではないかと思いますが、寺島さんはどうお考えですか。

震災直後、情報を十分に把握して評価してというような準備は被災者にはなかったと思います。政府の発表や指示も二転三転した原発事故の被災地などでは、なおさらです。どれが確かなのか確かめるすべがない。もう政府などは信頼できない、という状況でしたね。

たとえばこんなことがありました。原発事故の影響を受けた飯舘村で、震災後にさまざまな人が入れ替わり立ち替わり訪れた。そのなかには、「飯舘村は危ないから、フランスに移住したら」と勧める人がいたり、チェルノブイリで調査をやっていた研究者がお母さんを集めて話しながら泣き出してしまい、「わたしたち、そんなにかわいそうなんだろうか」と、いたたまれないような思いにさせたこともありました。

支援で駆けつけてくれた人はそれぞれ善意でも、被災地を短時間訪問しただけだと、住民の気持ちが分からない。一方で、住民も相手の意図や被災の全体像が分からないといった状況にあって、さまざまな善意が村を混乱させることにもなった。「人殺し」「住民をモルモットにするのか」といったメールやファクスもたくさん届いた、と菅野典雄飯舘村長から聞きました。

外部からの善意の支援者が、さまざまな情報をもたらしてくれた一方で、短時間あるいは一部分だけ関わることによって、結果的に住民に分断を生んでしまったとも言えると思います。放射能に対する考えや行動に対して、これといった正解はないのにもかかわらず、何か選ばないといけない。結局、政治が決めるしかないのと、自分で許容範囲を決めるしかない。そのときに、誰も責任を負えない、誰にも信頼を託せないという渦中で、上書きされたり修正されることもなく情報が流通していった。そういう側面もあったと思います。

―― 支援者だけでなく、取材者もそうですね。震災直後はメディアが殺到しても、いまになれば継続的に取材をしている人は地元メディアを除いてはめっきり減ってしまった。寺島さんの『東日本大震災―』の取材姿勢に強く共感するのですが、とにかく自分の足で歩いて継続的な取材をする。それがいまこそ、これからこそ大事になると思います。

わたしも体験しましたが、震災直後、同業者から「こんな人はいないか」「こういう取材がしたい」と取材先の紹介を頼まれたり、問い合わせが殺到したと思いますが、その後、紹介した先の人との関係については追跡していますか。本来は取材記者であるなら、自力で取材対象を発掘し、連絡先を探し当てるべきですが。その方がよっぽど記者として力が付く。それに、自分の足で福島を歩いて、畑仕事している人に声をかけてみて、その人から取材を始めるというような試みも重要だと思います。

とくに最近は記者の生活体験やコミュニケーション能力、行動力が減退していると指摘されていますからね。しかし、いまの記者はみな忙しいから、デスクから言われたことをやるので精いっぱい……。デスクに言われたこと以外は、「無駄なこと」と切り捨ててしまうかもしれません。そうせざるを得ない状況もあるかもしれないですね。

震災後から、「こんな人を紹介してくれ」という話は本当にたくさんきましたね。同じ地方紙には紹介してきました。ただ、わたしは震災前から、人と人とをつないでいくということが重要な新聞の役割だと思っていますから、一度きりの取材に関しては、「その人の偶然の声を伝えることにはなるけれども、果たして、つながることになるのだろうか。切り取って持って行くということにしかならないのではないか」という疑問を持っています。テレビのワイドショーではとくに、そういうような事例があったと思います。非常に不本意なかたちで言葉を切り取られ、全国放送されて傷ついたとか、顔も名前も出さないでという約束だったのに翌朝、全部出されたとか、現場で被災者の訴えを聞かされました。

―― テレビや、また新聞もそうですが、「尺(原稿の長さや放送時間)の限界」が、「被災者が十分に思いを伝える」という点に関しては足かせになることは多々ありますね。とくに、今回の震災では、これだけ甚大な犠牲も損害も生じたために、被災者側から発信したいことがたくさんあった。これは一方で、生々しく言うと、メディアや取材者が、被災者の体験や声をニュースや取材のテーマとして大量に消費するという側面を持っている。これでは、寺島さんもわたしも言いたいところの「つながり」にはならない。どうしても人を紹介する際に、とても慎重になるのはやむを得ないですよね。

取材者も支援者も同様に、「また来ますと言いながら、それきり二度と来なかった」というような話はいろんなところで聞かされました。取材されたり支援されたりする被災者から見ると、いろんな人が入れ替わり立ち替わりでやって来た、という印象が強い。信頼関係というのは、何度も何度も会って話をすることで築かれていく。何回か会う過程で、「ああ、これぐらいは話せるな」と思い、「あんな記事を書いてくれたから、自分の気持ちを分かってくれたんだな」と確かめられる。共にいる時間を重ねることで関係が生まれてくるのだと思う。何度も何度も通うということが、当事者とつながることの始まりではないか、と。

脱スパイクタイヤ問題 ―― 市民運動と新聞報道

―― 寺島さんが、何度も何度も現場に足を運んで当事者に取材することがとても重要であると実感した取材体験について、具体的に教えて下さい。

わたしが入社して8年目ごろ、ちょうど仙台市政を担当していたときにあった「脱スパイクタイヤ運動(1982~89年)と“SENDAI光のページェント(第1回が86年)”」ですね。89年、年号が平成になったその年、仙台市が政令指定都市になり、街が大きく変わっていく時代とリンクするのですが、市民が直接的に環境問題やまちづくりについて発言したり、動いたりすることが、仙台の街の伝統になっていった頃でした。

脱スパイクタイヤは、かつて降雪地帯で使っていた金属製の鋲(びょう)がついた「スパイクタイヤ」をやめようという市民からの運動です。スパイクタイヤは、雪道の滑り止めには有効ですが、一方で、ピンによって削られた道路のアスファルの粉じんがまき散らされ、大気汚染と健康被害を起こしていたことが問題になりました。

―― 脱スパイクタイヤが実現し、市民運動が成功したわけですが、どのようにして実現したのでしょうか。イデオロギー的に矮小化せずに、市民全体の運動に広がっていったということですか。

そうですね。純粋に北国の暮らしの質と環境を問う議論と実践が広がり、誰からも共感を得られたことが成功した理由だと思いますし、それ以外にもユニークな点がいくつかあったこともあげられます。ひとつには、仙台市政が島野武市長(全国市長会長、全国革新市長会副会長など歴任、故人)以来、環境問題を旗印にして市民参加のまちづくりを進めようという行政の姿勢が伝統になったこと。当時は町内会が市民生活のさまざまな問題の発信と解決のチャンネルになって、たとえば「清流を守ろう」とか「杜の都・仙台」にふさわしい緑を守ろうという活動を市民が起こし、行政と協働することが頻繁にありました。

―― 覚えています。わたしは小学生の頃でしたが、テレビではローカルニュースは毎日のように脱スパイクタイヤの動きを伝えていました。そして賛否が明確に分かれていたのを覚えています。とくに福島県の会津地方の住民からは、「脱スパイクタイヤは環境や健康にはいい。しかしスリップ防止、事故防止の面からは危険だ」という意見が出ていました。そのような意見が対立するような問題に対して、どのように報道したのですか。

もちろん、脱スパイクタイヤには安全か危険か ―- など賛否両論、さまざまな意見が百出しました。そこで、河北新報では、多様な意見を新聞紙上で紹介していったのです。障がい者の方からは「スリップするのが怖い。安全のためには、タイヤにスパイク(鋲=びょう)がついていた方がいいのでは」という意見が出されました。警察は交通安全の立場から反対しました。ある人は脱スパイクの実践体験を投稿し、通勤ルートの商店街は環境被害を訴え、それらの意見に対して、別の人が意見を述べ、解決策があるのかないのか議論する。あらゆる声を紹介し、議論する場として紙面を展開していった。夕刊(仙台市内のみ発行)や朝刊の各県内版は議論の場になりました。当時はネットがなかった時代でしたから。

―― いまは、ネット上のSNS、ツイッターやフェイスブックなどで議論が展開されていますよね。

そのようななかで、市が毎週測定している粉じんの調査結果や、市民によるピン抜き運動の広がり、町内会、商店街、事業所などの脱スパイク宣言を報道しました。北海道新聞、長野県の信濃毎日新聞とも連携して相互に各県の取り組みを紹介したり、雪国の弁護士会や自治体が広域で手を組む動きも丁寧に取材して伝えていきました。すると、当時批判が集まっていたタイヤ業界がついに、スパイク(鋲)のないタイヤ(=スタッドレスタイヤ)の開発、販売に転換し、のちに私が東京支社に転勤になった後、国会でスパイクタイヤ粉じん公害防止法が成立、法制化が実現しました。

―― 議論の場として新聞が力を発揮した事例ですね。

ここでよく分かったことは、賛否が大きく分かれる問題に対しては、行政が何かを決めたから物事が決まるとか、何かが始まるというのではなく、住民が議論し、社会に呼びかけることによって実現していくものだということです。その議論の場としてメディアが関わっていくことが重要だということですね。

―― 議論の場としてのメディア。新しい可能性を示した出来事でしたね。

そしてひとつにわたしの原点になったのですが、「報道の役割は、当事者の声を聞いて、声の発信を助けることである」と。何度も何度も当事者のところに通うことで、その人の生き方や状況に変化が起きていき、それが続報になる。ニュースは一度書いて終りではないということです。もちろん、最初は被災地の光景に「何ができるのか」という無力を感じたとしても、そこで出会った人の話を聴くことを通じて、震災がもたらし、奪ったもの、地域の変化、自らが主体となって復興や解決策を探る歩み、人間の弱さと強さも、初めて浮き彫りになっていく。そこに培われる信頼の関係から初めてナラティブ(人が体験し物語る事実)が流れ出してくる。

―― 問題が長期化すると、当初の報道に対して、軌道修正が必要になる場合があります。新聞やテレビは、この軌道修正が難しい。それだけに、「間違いのないもの」「クレーム・ゼロ」のようなかたちで、角の取れた丸い、差しさわりのないニュースが出てくることになりがちです。

それでも、ひとつのテーマ、一人の人をずっと取材していくという姿勢があれば、仮に誤解や間違いがあっても、そこから逃げないことで、また関係をつくっていくことができるはずです。一番大事なことは、同じ場所にいて、同じ時間を生きていくということ。

市民の力で実現した地域振興としての光のページェント

―― 脱スパイクタイヤ運動に戻りますが、この運動が光のページェントにつながったと言って良いのでしょうか。それは興味深いですよね。仙台市の年末のケヤキ並木の光のページェントは全国的に有名ですよね。

そうです。脱スパイクタイヤ運動で目覚めた市民の新しいまちづくりへの夢が、仙台市定禅寺通などのケヤキ並木に電球を灯す「光のページェント」につながったと言っていいと思います。

最初に声があがったのは、定禅寺通の若い商店主らからでした。「冬の仙台は寂しい。スパイクタイヤのひどい粉じんで、ほこりっぽいだけの冬になってしまう。冬枯れの街に、自分たちで『光』を灯せないか」と。そして、1000万円もの費用のカンパを街頭で市民に呼び掛けた。取材の中で、完成予想図(パース)を入手し、当時の社会面デスクに「こんな光の通りを目指すそうですよ」と話したら、デスクは「そんなのできっこない」。それでも何とか社会面に掲載してもらい、その後は商店主らに問い合わせが殺到し、街頭募金はぐんぐん伸びて、仙台市や商工会議所も支援に乗り出し、ついにその冬に実現させたのでした。

―― 脱スパイクタイヤや光のページェントは、一見、ローカルな問題かもしれませんが、政策提言力と実行力をつけた市民が、地域振興のけん引役になった事例としてはモデルケースではないかと思います。そこに議論の場として、どうメディアが関わるか、そういった可能性も示唆していると思います。

これらの取材では、現場の住民が発想した運動が地域の環境を変え、人の心も行政も動かすのだなと実感しました。住民が自ら夢を描いて、そして、それが実現できるんだという体験。点灯の瞬間の感動を今も忘れません。現場を歩きつづけるわたしの原点のひとつです。

アメリカのシビック・ジャーナリズムから学んだ「つながる」ことの大切さ

―― 「つなぐ」という点では記者の地道な取材のほかに、河北新報ではネットを使って、購読者以外にも情報を広く発信していますね。寺島さんもブログCafé Vitaで積極的に記事を書いています。これはやはり、東日本大震災が大きなきっかけだったと言っていいのでしょうか。

そうですね。それと、会社の先輩のなかに、米国の大学に留学して現地のジャーナリズムに触れた人がいて、彼の勧めでフルブライトの奨学生試験を受けた。そして、2002年から03年にかけてノースカロライナ州のデューク大学に留学し、全米の地方紙を調査して、未知のジャーナリズムの運動に出合ったことも個人的には大きかったと思います。この調査の旅で、人生を変える言葉との出合いがありました。

―― その言葉とは。

「やじ馬的な興味で取材することをみずから禁じなさい。市民が記者に望むのは興味の一べつではない。癒やしたり、立て直したり、状況を変えたりできる、あなたのコミュニティのそんな一人ひとりの力をたたえなさい」「地域で何が起きているかを知りたければ、住民の暮らしのあるところに行って、直接聞きなさい」という言葉でした。また「新聞というのは、つながりをつくる仕事である。記者というのは、つながりをつくる職業である」と。「シビック・ジャーナリズム」「パブリック・ジャーナリズム」という名で、地方紙から始まった新聞改革の運動でした。

―― まさにわたしたちが肝に銘じないといけないことですね。もう少し具体的に、米国のジャーナリズムの取り組みの研究成果について教えてください。

この留学では読者離れが深刻な米国の新聞が、読者とどのようにつながっていこうとしているのか、「シビック・ジャーナリズム」「パブリック・ジャーナリズム」との出合いから7カ月にわたって全米の大学や地方紙を訪ね、その取り組みを調べました。調査の結果は『シビック・ジャーナリズムの挑戦 ― コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)にまとめましたが、日本の新聞も同様の流れをたどるなかで、大きなヒントがあると思います。

米国の地方紙がやっていた「シビック・ジャーナリズム」は、「問題を一番知っているのが住民だ。役所のレベルでは出てこない問題も、住民に直接聞くことによって知ることができる」を基本に、「人々の生活から問題の掘り起こしを始め、当事者と読者をつなぐ場になり、行政や企業や地域を巻き込んでつないで、解決を模索する議論の場だ」という新聞づくりを目指していました。全米の地域メディアの運動として広がり、「双方向の議論をする場」としてのネットの活用も先進的でした。当時すでにアメリカは日本の10年先を行くネット社会でしたから。新聞かネットか、ではなく、「いままでつながれなかった声に、どうつながれるか」の必要からの開発された手法でした。

―― 米国は「トライ、エラー&トライ・アゲイン」というような、ある種の「実験社会」であるともいえると思います。「とにかくやってみて、そして失敗しても、そこから何かを学べる」と。その点では参考になる点がありますよね。とくにインターネットの分野では。ところで、寺島さんは、大学や研究機関とメディアやジャーナリストが連携する「アカデミック・ジャーナリズム」にも注目していますよね。

その頃日本には、新聞の業界はあっても、アカデミック、つまり「学」と現場のつながりはあまりなかったし、「社」を超えたジャーナリズムの運動もそれまで起きていなかった。各紙の報道は記事として知っていても、メディアの問題や成果、課題を現場の記者同士が議論し分かち合う場はほとんどなかった。

ところが米国では、大学のジャーナリズム・スクールを拠点にして、さまざまなメディアで働く卒業生や教官、学生がともに議論し、経験や知見を共有して新しいジャーナリズムを実験し、現場に還元している。教官にも現役のジャーナリストが多く、実践の場にいるベテランであるということには驚きました。シビック・ジャーナリズムの運動と実践も、そうした土壌から全米に広がったのです。

―― わたしも昨年、カリフォルニア州のUCバークレーのジャーナリズム・スクールを訪ねました。大学院のなかに、ハイパーローカル紙の編集局があり、「ミッション・ローカル」「オークランド・ノース」「リッチモンド・コンフィデンシャル」を発行していました。学生と現役ジャーナリストが一緒に取材、編集にあたっているのが印象的でした。

社会資源としての大学を有効活用し、そこに知識を蓄積していこうとしている。メディアの吸収合併や倒産が頻繁にあるのと、ジャーナリストはフリーランスがほとんどで転職も多いことも、背景にはあると思います。また利益相反(利害関係)の点からも、誰もがアクセスできる共有財産としての、ジャーナリズム体験や知識の蓄積というのはとても重要だと思います。そうでなければ新聞業界、テレビ業界などが「ムラ社会」になってしまいます。

そう。ジャーナリズムは業界のための学問ではないですからね。アカデミック・ジャーナリズムの体験と言えば、昨年の3月、米カリフォルニア州でUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)テラサキセンターと河北新報が共催で、東日本大震災の経験を共有するシンポジウムを開催しました。東北大からテラサキセンター所長に移られた建築学の阿部仁史教授との縁で実現したものですが、多様な協働も新しい可能性を開くと思います。

ネットは既存メディアの“補完”か?

―― ひとつ大きな問いがあります。それは、「ネットは既存メディア、とくに新聞において、新聞の記事を補完するような役割なのか?」といったものです。新聞社に勤めている方からダイレクトにお聞きする機会はそうそうないので、ぜひお伺いしたいですね。

わたし自身、新聞記者をした後で、いまはネットを中心に仕事をしていますが、ネットの仕事を始めた当初は、その特性を理解していませんでしたが、いまはだいぶその違いを理解してきたように思います。メディアの特性だけでなく、読者層、そしてテーマの設定や取材をする側の構えも、新聞とネットでは違う点があると思います。寺島さんはCafe Vitaで情報発信されていますが、どのようにネット、ウエブ上の報道をお考えで、そして震災後の新聞報道との関連についてお考えでしょうか。

ウエブが新聞の補完というより、両方が必要になったのです。わたしの場合、震災直後から書きつづけている「ふんばる」という社会面連載で、被災地に生きる人々を取材し、新聞に載った記事で終わりにしてしまうのではなく、その取材ノートに記した声と事実をみんな、ブログ「余震の中で新聞を作る」に収録し、新聞販売エリアの外の人たちにも被災地のいまこのときを、ありのままに追体験してもらおうとしてきました。

新聞には伝統的に販売エリアがあり、震災前までは、その販売エリア内の読者に向けてのみ、情報を発信していけば良かった。河北新報の場合はブロック紙なので、東北一円の読者ですね。しかし、東北の被災地の内と外を隔てる壁を超えて伝え、つなぐ役割をネットは担うようになりました。風化と風評という問題は、被災地の内側だけでは解決できませんし、新聞読者を超えてさらに多くの人の関心と応援につなげたい願いもあります。

河北新報のサイト「KOLNET」のビューアーは、震災報道の読者を中心に全国に広がりました。夕刊編集部やデジタル編集部の記者たちも、そのサイトを根城にブログを書き、ツイッターによる情報も発信しています。そうした旧来のエリアの枠を超えた発信もまた、震災を契機に、地方紙の新たな使命になったと思います。

「新しい取材対象、読者となる可能性のある人がいれば、すぐそこに行って、それぞれがナラティブを語るやり方にあった、新旧あらゆる方法を考え、提供すべきである」という米国の先人の言葉も、シビック・ジャーナリズムにはあります。

―― ツイッターやフェイスブックも活用していたのですか。

ツイッターやフェイスブックは、やはり震災が大きく関係していました。ここで少し発災直後の対応に戻ります。震災当日は8 ページの紙面から始まり、少しずつページを増やしていきましたが、それでも紙の確保が大変で、20ページという期間がだいぶ長くつづきました。

そのとき、「なにができるのか」ということを編集局の人間が真剣に考えました。「自分は陸前高田にも石巻にも行けないけれど、何かできることがある」と、内勤の記者が自分たちで街を歩いて、見たこと、聞いたことをツイッターで発信しようということになった。「○○スーパーが明日再開します」とか、「○○がここで買えます」とか。日常生活情報を発信しつづけました。当初、ツイッターはフォロアーが200人だったのが、いまでは1万人を超えています。

―― 新聞では書けないごく狭いエリア情報、しかし重要な生活情報がツイッターに載って全国に拡散した。

震災は、直後から「被災地にいる、あの人はどうしている」「実家のあたりは大丈夫か」「何か、困っているものはないか」「あの町には行けるのか」といった情報のニーズを、外の地域にも呼び起こしました。新聞にとって身近な購読者や県民といった人々につながる人、支援したい人も必要としているものであり、それらの人々もいかにつないでいくか、という発信先の可能性も広がりました。そのためにウエブが大いに有効になりました。

たとえばデジタル編集部では、フェイスブックを活用して「つむぐ 震災を超えて」というサイトを12年3月11日に開設し、同編集部員ら社内だけでなく、被災地からの情報を発信してくれる人たちを「つむぎ人」の名前で委嘱しています。ここには、被災地のことを知りたい、つながりたい、応援したいというフォロアーが現在1900人近くいます。

河北新報は「ふらっと」という会員約5000人のSNSも運営していますが、震災直後から、あらゆる地域のブロガーがそれぞれの被災地の状況を一斉に発信し、限られた記者の数ではカバーしきれない、等身大の出来事を伝えつづけました。新聞だけでなく、新聞が場をつくり、そこに集った住民ブロガーたちの声も合わせての新たな地域メディアが出現したと思っています。

「つむぐ」も、そうして培われた地元からの発信力と、河北新報や被災地からの直接の声に耳を傾けてくれる人々の全国への拡散力を生かした、「東北の再生にかける人々のつながりを紡ぐ」情報交流サイトとして日々利用が広がっています。わたしもよく、全国に伝えたい新聞やブログの記事をそこから紹介させてもらっているんですよ。

―― すぐにつながれるというのはネットの特性ですよね。しかしその一方で、同時に多様な意見もどんどん流れ込んできます。

震災の前と後では、メディア状況が完全に変わったといってもいいでしょう。地方新聞社、地方メディアとか、被災地で活動するジャーナリストは震災の報道、発信を通じて、すぐに外とつながれるという体験をした。国内だけでなく、海外からもメディアや研究者が殺到し、逆にインタビューを受ける機会もあった。被災地発のニュースが、そのまま全国ニュースになり、全国から反響が返って、多くの新しい支援者をつなぐ、という現実も目の当たりにした。そうした取材から何冊もの本も生まれ、ネット書店などを通じて全国に読まれている。地方メディアは、もう昔の「地方」の枠を飛び出したと思っています。

「寄り添う」ことの困難さ

―― 各自治体では復興計画がまとまっていますが、まだまだこの先は長いと痛感します。最後に、長期にわたる被災地取材について、寺島さんのお考えをお聞かせください。

昨年10月の連載で、飯舘村に筑波大学の専門家、専門知識を持った人たちが関わりつづけていることを特集しました。宮城県北部のカキの養殖事業でも、支援者が通いつづけている。過日、NHK放送文化研究所の発表会にコメンテーターで出席した際、NHKのディレクターや記者が「言葉に対する感性が変わってくる」と話していました。

とくに気にかかっていた言葉は「寄り添う」という言葉。被災地では「絆(きずな)」と同様に頻繁に使われていて、耳触りの良い言葉ですが、じつは、この言葉ほど、人に覚悟を迫る言葉はありません。介護の現場の場合、支援する人、寄り添う人が離れたら、介護されている人は命を落としてしまう。だから支援する人、寄り添う人は逃げ場がない。関わりつづけなければならない。そういう厳しい覚悟を問われる言葉になっています。

われわれ、被災地で活動しているメディアの人間は、「共に生きよう」とか、「寄り添う」ということに、一度きりではあり得ないんだというそういう覚悟を持って関わりつづけなければならない。震災はもう3年目。わたしは記者歴33年、56歳になりますが、これはもう、人生の問題になっていますね。

プロフィール

藍原寛子ジャーナリスト

福島県福島市生まれ。福島民友新聞社で取材記者兼デスクをした後、国会議員公設秘書を経て、フリーランスのジャーナリスト。マイアミ大メディカルスクール、フィリピン大、アテネオ・デ・マニラ大の客員研究員、東大医療政策人材養成講座4期生。フルブライター、日本財団Asian Public Intellecture。

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