核と原子力とジャーナリズムの宿命 ―― スクープの舞台裏を語る

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の連鎖的爆発事故は、日本人の価値観や世界観を大きく変えたと言っても過言ではないだろう。

 

とりわけ県や県議会が「全基廃炉」を訴える福島県では、原発という存在は、震災前には雇用を生み、地方経済・財政を支える産業であり、首都圏に電気を安定供給する役割を担っていたのが、震災後には多数の避難者と計り知れない損害を生み、健康や環境に影響を与える脅威として位置づけられている。同時に、過去と現在、そして未来に向けた核や原子力をめぐる政策に対して、人々の関心を喚起し続けている。

 

共同通信編集委員の太田昌克さんは今年4月、「日米核同盟」の政策過程に関する取材の集大成となる著書『秘録 核スクープの裏側』(講談社)を上梓(*1)。核持ち込みの密約(核密約)の真実を追い続けたジャーナリストとしての取材体験も交えながら、「核」をめぐる日米間の政策決定過程を明らかにしている。太田さんに、「核なき世界」の展望や、ジャーナリストとしての活動の様子などを聞いた。(インタビュー/構成・藍原寛子)

 

(*1)http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2174235

 

 

―― 『秘録 核スクープの裏側』は、太田さんの著書『盟約の闇 核の傘と日米同盟』(日本評論社、2004年)、『アトミック・ゴースト』(講談社 2008年)の続報と言える内容です。『秘録―』は震災をきっかけに出版されたのですか。

 

いえ、震災前から編集者の方と「『アトミック・ゴースト』の続編を書きましょう」という話をしていました。ちょうど東日本大震災の前日の2011年3月10日に出版の打ち合わせをしたところでした。その際「日本は自民党から民主党、アメリカは共和党から民主党に政権交代する中で、核政策がいかに変わったのか、またどう変わろうとしているのか」との問題意識を持って新著をつくりましょうという話をしました。

 

その翌日、大震災が起き、私はしばらく会社の宿泊施設に泊まり込みながら、原発事故の推移にほとんど全神経を注ぐと同時に、その後、核燃料サイクルに象徴される「核の平和利用」の取材に集中しました。そのため、結果的に出版が遅れることになりました。しかし、原発事故を受けて新たに見えてきたこと、つまり日米の重層的な「核の同盟」関係についても熟考する時間を持つことができ、出版が遅れた分、当初自分が考えていたよりも若干厚みのある内容にすることができたと思っています。

 

 

―― 『アトミック―』は、新しい核の脅威、「仮想敵・核」とでも言える、核の脅威と、それを「必要悪」として政治の駆け引きに使う米ソ、各国の核政策の裏側を描いた本でした。

 

共同通信のワシントン支局に駐在した2003年から07年の取材を中心に、国際的な核政策の問題点と課題を厳しく検証したつもりです。現代における新しい核の脅威とは何か?その中には例えば核テロも含まれますが、新たな核の脅威とは何かということにフォーカスを絞りました。今回の『秘録―』は、その続編という位置づけです。

 

 

―― 2009年の政権交代後、核密約の事実が明らかになった際、そのスクープの真ん中に取材者として太田さんがいたわけですが、その経緯は『秘録』を読んでいただくこととして、非常に驚きだったのは、ジャーナリストがあまり書きたがらない、スクープが生まれる取材現場と取材経過、キーパーソンへの一問一答までも詳細に書いている点です。ストレートニュースの取材であれば、「手持ちのボイスレコードに保存されたままになるだろう」といった内容も、オープンにしていますね。

 

私はかれこれ10年ほど核密約問題を調べ、報道してきました。その間、日米で、数十万ページにもわたる公文書に目を通し、米側キーパーソンのインタビューを重ねてきました。この取材の中で、米政府関係者から「船に核兵器を積んで日本に持ってくるのは核の『イントロダクション(持ち込み)』には当たらず、そうした行為が行われてきた」との点を確認し、報道してきました。

 

しかし日本で核密約や核持ち込みに関する取材をすると、日本側関係者からは決まって「そんなことはない」と、木で鼻をくくるかのような答えしか返ってこない。米国と日本では対応が大きく異なっていました。「おそらく密約はあったであろう。しかしそれを裏付ける日本側の証拠がない」という状態が長く続いていたのです。ですからこの本では、核密約の報道の経緯を読者のみなさんにありのままにご説明したかったのです。

 

 

―― それが村田良平・元外務事務次官(故人)へのインタビューで、やはり核密約があったことが明らかになったわけですね。

 

2008年に村田さんが外交官時代の回顧録を出版されました(『村田良平回顧録 上、下巻』ミネルヴァ書房)。それを基に彼を取材したら、具体的な証言を得ることができました。09年5月31日に記事を出し、09年9月に誕生する民主党政権の密約調査につながりました。10年間も自身が関わってきたテーマです。それなりに自信を持って語れるし、伝える責務もあるだろうと考えました。

 

同時に、自分の報道をきっかけに、半世紀近く嘘をついてきた政府が「密約はあった。嘘はあった」と認定しました。自分の報道が一種の政策変更、民主党政権の政策決定に多少なりとも影響を与えたという点で、ジャーナリストでありながら、ある意味、歴史の当事者として重要な記録を後世のために残すことは責務であろうと実感しました。それで取材と報道のプロセスもきちんとお伝えしなければ、と思った次第です。

 

 

―― 東日本大震災があり、福島第一原発事故が起き、原発や科学技術、核や被曝の問題と、核を巡る問題が噴出しました。同時に、情報伝達や開示の問題、報道に対する国民の不信などもありました。

 

震災後、「マスコミ不信」の議論が続くなか、「何とかしなければ」という思いもありました。例えば私の母や友人など、普通に暮らしている人々から「いったいマスコミは何をやっているんだ」と言われるような状況に直面し、何とか、日々の報道活動の実態を知ってもらい、ジャーナリストも力の限りその職責を全うしようとしている姿を見ていただきたい、そのきっかけになればとの思いもあって、「秘録」を書きました。

 

ジャーナリストは自分が見たり書いたり聞いたりしたことを客観的に記すものですが、この本は核密約やトマホーク核ミサイルの退役など実際の政策現場に自分の書いた記事が一定の影響を与え、自分自身が半ば当事者的な立場に立ってしまった、そうした要素も踏まえて書き残した記録としての要素もあります。だから、客観的な事実を読者にプレゼンテーションしながら、同時に自分の思いが伝わるような書きぶりにこだわりました。

 

私小説というと語弊があり、大げさかもしれませんが、こういうスタイルで本を書いたのは初めてでした。実は最初は戸惑いましたが、書いているうちに楽しくなっていきました。「記録を残すというのはこういうことなんだなあ」と思いながら、「村田さんも楽しんで回顧録を書かれたのではないか……」などと思いをめぐらせました。いずれにしても政策決定に間接的に携わった者として、記録を残し、多くの人に読んでいただくこと、そしてジャーナリズムの信頼回復に少しでも寄与できれば……そんな思いでした。

 

 

―― 3.11の枝野幸男官房長官は「直ちに健康に影響を与えるものではない」ということを話していましたね。

 

マスコミが報じた震災情報に対する人々の不信は深刻だったのだと思います。そしてその点が「事故前からマスコミは原子力ムラと癒着していたんじゃないか」との疑念や批判につながったのではないかと考えます。実はマスコミの中にも「村」があったのではないか?つまり、原子力ムラの行ってきた説明を十分な検証もないまま、ムラの言うことを書いてきたというマスコミの「村」が実在したのではないか?世間の方々にそう思われても仕方がないかもしれません。臆測で軽々なことを言うことには慎重にならなくてはなりませんが、記者クラブに拠点を置いた取材スタイルを取るマスコミが内省すべき問題だと考えます。もちろん、私自身も含めてです。

 

 

村田良平氏へのインタビュー

 

―― 『秘録―」で核密約が明らかになる重要証言をする村田良平さんへのインタビューですが、村田さんとは以前から面識があったのですか。インタビューは09年3月、まだ政権交代前で、核密約のスクープ合戦も盛んではなかった頃ですね。

 

一番のきっかけは村田さんが回顧録を出版されたことです。当時、密約については誰も騒いでいなくて、どこのメディアもこの出版自体をまともに報じていませんでした。あるとき、ネットサーフィンをしていたら、たまたま天木直人さん(元外務官僚)がブログで村田さんの回顧録を紹介しているのに気付きました。

 

―― その時、どう思いましたか。

 

驚きました。当時、外務省の中では既に村田さんの回顧録は相当話題になっていたようでしたが、外務省の外ではほとんど関心が払われていませんでした。その後、共同通信の隣のビルの書店に行って回顧録を探しました。上下二巻の分厚い本で、急いでページを繰りました。核密約の部分を読んでみましたが、実際には具体的なことが書かれていない。「なぜ密約があると言えるのか」を裏付ける証拠も述べられていない。それで「自分で取材しなければ」と思ったわけです。

 

 

―― 京都の村田さんのご自宅でのインタビューで、密約の事実を直接聞いたときはやはり衝撃でしたか。

 

はっきり言って仰天しましたね。村田さんは、「密約の一枚紙が残っていて、その紙は外務事務次官が引き継いでいる」と話しました。さらにその紙の内容は「核兵器を積んだ船が日本に立ち寄っても、それは(核持ち込みの日米間の)事前協議の対象とはならない」との趣旨が書いてあるという。私は「はあー、そうだったのか!やっぱり密約はあったのか」と心の中で叫びました。およそ10年間この取材を続けてきて、これほどすごい証言を聞いたのは初めてでしたから、本当に驚きました。

 

前にも述べましたが、取材当時、アメリカにはある程度、密約関連の公文書が残されている実態が、研究者やジャーナリストの手によって明らかにされていました。米側に関連文書があって日本にないわけはないのに、肝心の外務省、日本政府は否定し続けていた。村田さんの話を聞いた瞬間、「そうか、文書記録に残しているのであれば、記録化され継承されている。つまり、長期間にわたり組織的にやっていたのだ」と理解しました。「これはすごい話を聞いたな」と、話の内容に圧倒されました。

 

 

―― そのインタビューは当時、オフレコ(報道不可)で行われたそうですが、しばらくはオンレコ(実名報道)やバックグラウンド(匿名報道)になりませんでした。翌日の記事にしようとは思わなかったのですか。

 

村田さんは密約に関する証言を行う際「これは書かないでくださいね」と私におっしゃった。もちろん、その時「何とか書かせてください」とお願いすることもできました。でも私はそうしなかった。この時の私を「ジャーナリストとして失格だ」という人もいると思います。それは批判されて当然なのかもしれませんが、私なりにそうできなかった理由がありました。当時、彼は病気を患っていて、奥さんも寝たきりの難病で、自宅で介護を受けておられる状態でした。私もこのころ、妻が病気で家族で支え合っていました。だから村田さんの様子が痛いほど私の日常と重なり、彼の心中に思いをめぐらしました。

 

もし実名で報道すれば、奥さんと二人の静かな闘病生活は壊される。そう容易に想像がつきました。すでに取材としてはインタビューの録音を取っていました。また村田さんへこの件でインタビューしたのは私が最初だということも分かりました。ですからその時に慌てて報道するよりも、ここはいったん持ち帰って、そのほかの情報とすり合わせながら、良い内容の記事にしようと思い立ちました。

 

 

―― ジャーナリストも日常の生活があり、自分の人生があり、信念もあって仕事をしている。仮に短いインタビューの時間であっても、一人の人間として取材対象に向き合う瞬間はありますから。そう考えると、もう一つ新たな疑問も出てきます。そもそも、なぜ村田さんは、ご自身も含めて大変な状況でありながら、太田さんのインタビューを引き受けてくださったのでしょうか。

 

彼は本当に伝えたいことがあったのだと思います。800ページにのぼる回顧録を出版したのも、そのためでしょう。日本の外交、日本の行く末を非常に憂えていて、「日本も米国と核を共有すべきだ」ともおっしゃっていました。私とは核に対する考え方が違いますが…。古いタイプの現実主義者であり、タカ派的な側面もあったのでしょう。中国への不信と同時に米国に対する疑念を持っている。「核の傘」が必要ということで核密約を結び、国民に嘘をつきながら実態とはかけ離れたことをしていた日本の安全保障政策への深い不信と疑念もあり、そうした思いを外部に伝えたかったのではないでしょうか。

 

 

―― その時に、いったん持ち帰ったインタビューの内容はどうしましたか。

 

 

会社に戻り、「オフレコですが、すごい話を聞きました。やはり密約の文書を組織的に管理していました」と、上司である当時の外信部長に報告しました。ただし、ネックになるのはオフレコの条件です。そこで「村田証言だけに頼らずに、取材を深めよう」ということになりました。以降、まるで絨毯(じゅうたん)爆撃のように、キーパーソンに次々に取材をかけていきました。そして村田さんを含めた4人の外務事務次官経験者から得られた証言を基に、記事として内容をまとめていきました。そして最終段階で村田さんに「オフレコ解除」をお願いしました。村田さんは「私の名前が出なければ結構です」と言ってくださり、晴れて記事になったわけです。

 

 

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ジャーナリストを志した理由

 

―― さて、大きく話が変わりますが、太田さんがジャーナリストを志したきっかけを教えてください。大学の時にマスコミ研究会に入っていたとか?

 

大学時代に入っていたのはテニスやヨット、スキーの軟派なサークル。女性をナンパするサークルではありませんよ(笑)。いつジャーナリストになろうと思ったか、今でははっきりと覚えていませんが、信頼する大学の先輩の助言が大きかったと思います。大学中に私自身が大きな影響を受けたのは、恩師である鴨武彦先生(故人)。国際的な相互依存関係や欧州統合の教訓などから、国際政治を教えておられた。

 

私の在学中に鴨先生は東大に移られて、鴨ゼミは早稲田では「自主ゼミ」になったのですが、それに参加することで先生の生き様、愚直にまっすぐに研究するお姿、とことん真理を突き詰める姿勢には感銘を覚えました。社会をより良き方向に「変革」しないといけないとのお考えを絶えずお持ちだった。では冷戦構造からどう脱却するか?南北の格差問題をどう解決するのか?兵器増産や軍備拡張の予算を他の民政分野に移し替えることで、貧困や飢餓、社会的弱者が救われる「変革』」をしないといけない、そうした趣旨のことをおっしゃっておられた。鴨先生が亡くなられた今も、先生のお考えに影響を受けています。

 

 

ワーホリでカナダへ。湾岸危機当時はニューヨーク

 

―― 大学を卒業して、すぐ共同通信に入社したのですね。

 

そうですが、大学は1年留年して、5年いました。志していたジャーナリストのイメージは、「肉食系」。自分にジャーナリストの仕事ができるのだろうか。もしできるのであれば、まず海外に行って、自分を試してみよう。そんな気持ちで、あえて留年して海外に出ました。

 

最初に行ったのはカナダ。ワーキング・ホリデービザが取れるし、その頃の私は治安面で「米国は怖い」という印象を持っていましたから。カナダでは、ゴルフ場でクラブを磨いたり、農場で日雇いの仕事をしたりしてお金を稼ぎました。カナダと米国で過ごしたのは合計9か月ぐらい。留学できるほどの英語力もなく、親に負担をかけたくなかったので5万円だけ財布に入れて、しかも片道切符でカナダに渡りました。

 

よく考えると、怖いもの知らずでしたね。覚えているのは湾岸戦争が始まる直前、私はニューヨークにいました。「イラクがクゥエートから撤退しなければ、国際社会はあらゆる手段を取る」などとする国連安保理決議が出た日、私は国連をたまたま見学していました。

 

 

―― 小田実さんのように「何でも見てやろう」と日本を飛び出したおかげで、歴史の一コマに立ち会うことができたんですね。ジャーナリストは知的好奇心を持って取材に当たりますが、同時に歴史の証人として、その事実を報道する責任がありますね。太田さんは共同通信に入ってから、ワシントン支局駐在、その後も何度もアメリカに足を運んで取材していますから、最初のアメリカとの出会いが湾岸危機で、その事実がどのようにメディアで報道されているかを客観的に見ることができたのは、衝撃的だったのでしょうね。

 

 

調査報道と政策決定過程

 

―― 太田さんはアメリカの国立公文書館に行かれたり、あちこちに足を運んで、資料だけでなくインタビューでも資料を集めていますが、そのような取材の方法、いわば調査報道のスタイルはどうやって獲得したのですか。

 

過去の政策決定は、現在に至ってもすべてが可視化されているわけではありません。当事者しか分からないという話は、よくあることだと思います。資料が残っているものもあるし、資料が残っていないものもある。証言してくれる人の思い違いもあるかもしれません。歴史の再現というのは、ち密にやろうとすればするほど、より困難な壁に突き当たるわけです。そうしたときでも、諦めないことですね。根気よく続ける、書き続けることだと思います。

 

よく言われることですが、「新聞は歴史のファースト・ドラフト(最初の草稿)を書く」と。そしてその後も取材を重ねながら、さらにセカンド・ドラフトを書いていく。密約問題のように、後になって新たな事実が分かり、新しい歴史が書かれるというケースもある。また歴史家や研究者が、記者の書いたファースト・ドラフトに、さらなる加筆をしていくこともあります。いずれにしても、そのドラフトを書き続けること、調査し続けることなのだと思います。

 

私の調査報道スタイルですが、解禁された公文書はじめ、オープンになっている情報を調べ上げ、当事者や関係者にインタビューして事実関係を掘り起こし、真相を見極めていくというオーソドックスな手法です。共同通信の大先輩である春名幹男さんに学ぶところが多かったと思います。もちろん私など、まだ春名さんの足下にも及びませんが……。

 

 

―― 東日本大震災後、避難や被曝防護などの政策が住民の生活に直結することから重要になり、また住民にも注目されていたのと同時に、政策決定過程が可視化されないために人々の不満も高まりました。政治や政策決定については、どのようにお考えですか。

 

政策決定が規定されていくに当たって、若い世代や政治に直接的な関わりのない人々が考えていること、そして目指していることが実は、政策決定者の心理に大きな影響を与えているのではないかと常々思っています。政府の言うところの国益とか、国家の「パワー」に根差した政策決定の仕方ではなくて、人々が考えていること、言ってみれば「下部構造」に着目していくことが、政策決定の流れを追う上で重要だと思います。

 

第五福竜丸事件を受けた原水爆禁止運動が日本への核の陸上配備阻止に果たした役割や、日本国民の反核感情や非核精神に逆らえないが故に米国と交わしてしまった核密約の問題、さらに人心掌握のプロパガンダを進めながら実現させた原発導入の経過など、日本におけるこれまでの核の歴史を考えると、時の為政者がどれだけ民意や人心、世論の関心に注意を払い、自分たちの政策決定に対する少なからぬ影響力を感じていたことか。それは民主主義が機能していることの表象でもあり、メディアの責任と役割の大きさを痛感します。

 

 

―― そういったアプローチや着眼点など、太田さんの取材スタイルと言ったものは、どのような経験から積み重なったのですか。

 

共同通信に入って最初の赴任地だった広島支局で、731部隊(第二次世界大戦当時、満州で人体実験や細菌兵器研究をした秘密部隊)の取材をしました。私の調査報道スタイルはこの731部隊の取材に始まったと言っていいでしょう。

 

入社3年目の1994年、広島で原爆について調べていたところ、ある方が持っていた私蔵記録の中に、たまたま731部隊の証拠隠滅に関する文書が紛れ込んでいるのを見つけました。8月15日の終戦の日、「細菌兵器開発や動物実験などを行っていた部署は証拠となる文書を廃棄せよ」という内容。最後はAP通信はじめ海外メディアも取り上げたスクープになりましたが、この分野の第一人者である神奈川大学教授の常石敬一先生からご教授をいただきながら、この記録にある断片的な記述が一体何を意味するのかを調べていきました。歴史の闇を照らすというのは面白い作業です。この時の経験が今の取材スタイルの確立にも大きな影響を与えています。

 

 

ポスト3.11の世界とフクシマ

 

―― 太田さんは震災後のポスト3.11の世界をどのように考えておられますか。そして福島が今置かれている現状をどうお考えですか。

 

昨年末、福島県郡山市でIAEAと日本政府が主催する閣僚級の国際会議が開かれた際、会場の隣にある仮設住宅の方々に話を聞きました。一番印象に残ったのは、浪江町の50歳代半ばの女性が、「自分はあとどれぐらい生きられるか分からない。どのくらい時間が残されているか分からないのだから、時間を無駄にしたくない。だから浪江の自宅に帰れるか、帰れないか、はっきりさせてほしいんだ」とおっしゃられた。この言葉が心にグサッと刺さりました。

 

おっしゃる通りだ」と思いました。事故から2年が経過しても、原子力災害の被害者に対する真の救済は行われていない。生活を破壊された人々が「より良き生存権」を行使する社会環境の整備が何らなされていない。将来に不安を抱える被災者の方々に出来るだけ多くの選択肢を示す。これが政治の責任であり役割だと思います。

 

 

―― 太田さんは内部被曝の影響についても記事を書いておられますよね。

 

東京電力福島第一原発事故を受けて初めて内部被曝問題を本格的に取り上げ、過去の内部被ばくに関する歴史を調べました(*2)。長崎では、原爆投下から四半世紀が経った後にホールボディカウンターで初めて調べて、このときの内部被曝線量を計り、そこから逆算して原爆投下時の内部被曝線量を推量している。この逆算には驚きました。被爆から25年も経てばヨウ素はすでに体内からほとんど消えており、被爆時に染色体にどれだけの影響を内部被曝が実際に与えたのか、この逆算では実態がつかめないはずです。それなのに厚労省は「被爆者の内部被曝線量は極めて低い」と言い切っている。問題です。

 

(*2)共同通信「原子力時代の死角」http://www.47news.jp/hondana/nuclear/

 

 

―― 国民の知る権利と人権の問題、それと科学や医療の問題ですね。「専門家」「科学者」の名のもとに、内部被曝の推計、放射能測定を含めた被曝防護対策が取られていますが、本当にその方法で正しいのか、議論をたたかわせること、多様な角度から検証していくことが必要ですね。そのためにジャーナリズムが客観的な事実を突きつけて、さまざまな「村」を崩していくことも必要だと思います。太田さんの取材手法は、オーソドックスでありながらも、普遍性を持っているように思います。

 

私が核の問題をずっと追い続けているのは、ある哲学を持っているからです。哲学というと、何か偉そうに聞こえるかもしれないのですが、「より良き生存権の行使」という一言に尽きます。人間がみな持つ平等の権利としての生存権が守られるのは当たり前のことで、そのために社会が取るべきルールと制度は民主主義に根ざすべきだと考えます。しかし科学の粋を集めたはずの原子力がもたらす破壊力によって、核攻撃や原発事故で被曝した被害者のみならず、その子や孫までもが放射線による後障害を懸念しなくてはならない。こんな非道徳はありません。民主主義制度に依拠した生存権の行使が脅かされている最たる事例です。

 

 

―― アジアで初めてノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの言う「人間の安全保障」の問題ですね。

 

ええ。そうした「人間の安全保障」が危機にさらされる事態は、福島や広島、長崎で起き、今も現在進行形です。731部隊の被害者も同じ経験をしたのだと思います。被害に遭わないためにはどうしたらいいのか、また被害に遭った方はどうしたら「より良き生存権」を行使できるのか。これは現代を生きる人類全体が直面する根源的な問題です。まず、「より良き生存権」を行使できる社会環境が整備され、人々が「より良き生存権」を実現するためのより多くのオプション(選択肢)が用意されることが必要だと思います。そうした状況を創出するには、より良き政策の実現が不可欠です。

 

では、人々にとって何がより良き政策なのか。ジャーナリストが人々を取材することによって、そのニーズを把握する機会を権力に与えることができます。実際に話を聞かないと、絶対に分からない問題も社会にたくさん眠っている。そうした問題の所在を明らかにし、権力に対して警鐘を鳴らしていく作業としてのジャーナリズムがある。この作業は継続されるべきもので、一時たりとも休んではならない。原発事故で避難している方々が「より良き生存権」を行使できるよう、この作業を永遠に続けなければいけない。それがメディアの果たすべき責務であり、定められた宿命だと思います。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.2019.4.15 

・打浪文子「知的障害のある人たちと「ことば」」

・照山絢子「発達障害を文化人類学する」
・野口晃菜「こうすれば「インクルーシブ教育」はもっとよくなる」
・戸谷洋志「トランスヒューマニズムと責任ある想像力」
・濵田江里子「「社会への投資」から考える日本の雇用と社会保障制度」
・山本章子「学びなおしの5冊 「沖縄」とは何か――空間と時間から問いなおす」
・鈴木崇弘「自民党シンクタンク史(6)――設立準備期、郵政民営化選挙後」