「不自由展」をめぐるネット右派の論理と背理――アートとサブカルとの対立をめぐって

はじめに

 

2019年8月、「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が右派からの抗議を受け、中止に追い込まれるなか、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のキャラクターデザインなどで知られるクリエーターの貞本義行が発したツイートが物議をかもし、炎上するという一幕があった。

 

「キッタネー少女像。/天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。/かの国のプロパガンダ風習/まるパク!」などというその発言には、リベラル派からの激しい批判を中心に、千件を超えるリプライが付けられる一方で、右派からは続々と賛意が寄せられ、2万件近くもの「いいね」が付けられた。そうしたなか、貞本は釈明のツイートを投じていったが、するとそれに受けて5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)には関連するスレッドが立てられ、その援護が試みられた。

 

「不自由展」の検証委員会によれば今回の騒動は、「電凸」などによる抗議が「祭り」に転換することによって起きたものだという。「電凸」にしても「祭り」にしても、元来はいわゆる2ちゃんねる語だ。だとすれば今回の件は、2ちゃんねる文化の、そしてその中で育まれてきた「ネット右派」の文化の一つの現れだったと見ることもできるだろう。そしてそこで彼らの「部族文化」として強く志向されてきたのが、とりわけマンガやアニメなどのオタク系サブカルチャーだった。

 

実際、ネット右派とオタク系サブカルチャーとの結び付きが強いことは、これまでのさまざまな事例からも見て取ることができる。たとえば1990年代の小林よしのり、2000年代の山野車輪、10年代のはすみとしこなど、この運動の「エバンジェリスト」となってきた者の多くはマンガ家だった。また、ゼロ年代半ばに急激な「右旋回」を遂げた日本青年会議所(JC)は、啓蒙のために何本かの本格的なアニメ作品を制作している。さらに10年代初頭に創刊されたオピニオン誌『JAPANISM』(青林堂)ではしばらくの間、美少女アニメ風のイラストが表紙に用いられていた。

 

こうした結び付きの延長線上に立って彼らは今回、アート、とりわけアクティヴィズム系アートというジャンルへの抗議に当たり、サブカル、とりわけオタク系サブカルチャーというジャンルのもとに結集し、その第一人者としての貞本を援護することになったのだろう。そこでは左右のイデオロギー対立の構図が、「アートとサブカル」との対立として焦点化されていたと言えるだろう。

 

今回の件では一般に、河村たかし名古屋市長らによって加えられた政治的圧力と、それに呼応するかたちで一部の勢力によって行われた脅迫行為とが問題とされている。弾圧的な公権力とそれに帯同する狂信的な右派という、まるで戦前の超国家主義体制を思い起こさせるような構図が問題とされているわけだが、しかし一方でその背後には、オタク系サブカルチャーとそれに帯同するネット右派という、より漠然とした、しかもより分厚い層があったことを見落としてはならないだろう。今回の件の大きな支えとなっていたのは、実はむしろそうした層だったのではないだろうか。

 

そこで彼らは何を問題化し、何に反発していたのだろうか。また、そこにはどのような論理があり、そしていかなる背理が孕まれていたのだろうか。本論ではこうした点に着目し、貞本の一連のツイートを手がかりに、「不自由展」をめぐる議論に独自の角度からの考察を加えてみたい。

 

 

特権的な文化エリートへの反発

 

ここでまず今回の件をめぐる対立を、「権威主義対反権威主義」という構図から整理してみよう。今回の件では一般に、公権力とそれに帯同する右派が権威主義の側に、アクティヴィズム系アートとそれに帯同するリベラル派が反権威主義の側に位置付けられている。

 

つまり歴史修正主義に与し、天皇中心主義に依拠しているとされる権威主義的な体制に対して、アクティヴィズム系アートが反権威主義的な立場から問題提起を行ったところ、弾圧的な公権力とそれに帯同する狂信的な右派という、さらに権威主義的な体制が現れ、それを押しつぶしてしまった。そこでリベラル派がやはり反権威主義的な立場から異議申し立てを行った、ということになるだろう。

 

こうした構図に従うと、貞本とその援軍としてのネット右派は権威主義の側に位置付けられることになる。つまり歴史修正主義を奉じ、天皇中心主義を信奉しているがゆえに、いいかえれば日本は正しかったという信念や、天皇は神聖なものだという信条のゆえに、それらが批判されたことに対して反発した、ということになるだろう。確かに一部の「電凸」などではそうした論理が執拗なまでに強調されていた。

 

しかし一方で貞本の釈明のツイートには、歴史の話題も天皇の話題も一切出てこない。いいかえればそこでは、歴史修正主義や天皇中心主義を擁護しようとする姿勢は示されていない。つまりそれらは貞本の中で、実は反発の核心にあった本質的な問題ではなかったということだろう。代わってそこに提示されていたのは、釈明になっているかどうかもよくわからないような、個人的な体験に基づく「アート論」だった。

 

貞本によれば「アートとは、今一番部屋に貼りたい絵なのだ」という。それが「少年時代は、ジャンプの通販で買った映画イージーライダーのキャプテンアメリカのポスター」だったが、「中学になると宇宙戦艦ヤマトに変わり、高校では菊池桃子のポスターに」変わった。この「アート論」は大学時代の「友人の受け売り」だが、当時「芸術家に憧れてた」という貞本は、それを聞いて「迷いが吹き飛んだ」ため、卒業制作では「初めての優評価」を得た。「批評会では/不服そうな教授もいた」が、「口調が気にくわないから/あんたの作品が嫌い」と評価されてもかまわないと考えたという。

 

ここに示されているのは、歴史修正主義や天皇中心主義に傾倒している「権威主義的パーソナリティ」の姿などではないだろう。「イージーライダーのキャプテンアメリカ」の例や「不服そうな教授」への反発の件に示されているように、そこではむしろその反権威主義的な姿勢が強調されている。しかもそれはマンガ、映画、アニメ、アイドルなどのサブカルチャーに支えられ、「部屋に貼りたい」という直接的な情動を伴うものとして提示されている。一方でそこで権威主義的な存在として設定されているのは、かつて「憧れてた」という「芸術家」や「教授」など、特権的な文化エリートの世界だろう。

 

そしてそうした世界の一画を成すものとして批判されていたのが、アクティヴィズム系アートというジャンルであり、その作品群だった。貞本によればそれらは「造形物として魅力がなく」、「プロパガンダをアートに仕込む行為」に終始しているため、「面白さ! 美しさ!/驚き! 心地よさ」が「皆無」で、「コンセプチャルな刺激」も感じられないという。

 

つまりそれらは「プロパガンダ」、すなわち「言論」的な要素に過剰に色付けられてしまっているため、「造形」的な要素に十分な創意が注がれていないということだろう。そのためそうした作品を理解するためには、それらを造形的に感知することよりも、むしろ言論的に読解することが求められる。

 

ただしそこで貞本はコンセプチュアルアートそのものを批判していたわけではない。実際、それらの作品には「コンセプチャルな刺激」も感じられないとされ、一方で貞本なりのコンセプチュアルアートのアイディアも紹介されている。

 

つまりそこで批判の眼目とされていたのは、単に作品が言論的な要素に色付けられていることではなく、一方向的に意味付けられてしまっていること、また、単に作品を言論的に読解することが求められていることではなく、特定の言説をそこに読み取ることが強いられていることだろう。そしてアクティヴィズム系アートの領域では、多くの場合、そうした言説のもとになっているのはリベラル派のイデオロギーだった。

 

つまり特定のイデオロギーに基づく特定の言説に作品が色付けられ、一方向的に意味付けられてしまっているため、そこにはどこか啓蒙主義的・規範主義的な性格が生じていると捉えられたのだろう。自由な解釈を許さないような、どこか教条的・独善的なそうした態度の中に貞本は、「芸術家」や「教授」などの特権的な文化エリートの世界に通じるような、権威主義的な匂いを嗅ぎ取ったのではないだろうか。

 

そしてそうした感覚は、ネット右派の間では以前から広く共有されていたものだった。つまりオタク系サブカルチャーという彼らの「部族文化」を足場に、リベラル派の教条的・独善的な態度と、それゆえのある種の「単純さ」を批判するという行動は、いわば彼らの「伝統芸」の一つだった。そこで今回も彼らは貞本に帯同し、さらに貞本を担ぎながら、アクティヴィズム系アートの領域を攻撃することになったのだろう。

 

 

権威主義と反権威主義、単純さと複雑さ

 

こうして見ると今回の件は、「権威主義対反権威主義」という構図の中に納まるものではなかったことがわかるだろう。権威主義的な体制の大きな支えとなっていたのは、実は彼らの反権威主義的な気分だった。だとすれば今回の件はその底流では、むしろ「反権威主義対反権威主義」の争いだったと見ることもできる。だからこそそこではひときわ激しい、しかもどこか噛み合わない戦いが繰り広げられたのではないだろうか。

 

なお、そこでアクティヴィズム系アートというジャンルが彼らのターゲットとなったことの背景には、特にもう一つの理由があったと考えられる。それはそもそもこのジャンルが、反権威主義的な姿勢をひときわ強く見せていたことだろう。

 

つまりそうして反権威主義的な構えを見せながら、しかし実際には権威主義的な高みの中にいるというスタンスを、いいかえれば反権威主義的と見せながら実は権威主義的であるようなスタンスを、彼らはそこに見て取り、そしてそこにある種の「卑劣さ」を感じ取ったのではないだろうか。その結果、そうした「偽物の反権威主義」を正すことが「真正な反権威主義」を貫くこととして捉えられるようになる。そうした認識が彼らの行動を正当化し、後押ししていったのだろう。

 

そして今回、そうしたスタンスをシンボリックに体現している存在として彼らの敵意を一身に引き受けることになったのが、芸術監督の津田大介だった。その「金髪」の反権威主義的なスタイルと、一方で大学教授の座に就き、大新聞の論説委員を務めているという権威主義的なステータスとの距離が、彼らにはどうにも苛立たしかったのだろう。かつての鳥越俊太郎など、そうしたスタンスのジャーナリストをことさら敵視することも、やはり彼らの「伝統芸」の一つだった。

 

では一方で、彼ら自身はその「真正な反権威主義」を貫いていたのだろうか。実はそうではないだろう。彼らの行動は、実は彼らの論理そのものを裏切っているものだった。そうした彼らの背理を示す問題として、ここでは特に二つの点を指摘しておこう。

 

まず第一に、彼らの反権威主義的な行動は、実は権威主義的な体制に支えられて成り立っていたものだった。つまり貞本のような「反権威主義的パーソナリティ」を応援することは、河村市長や菅官房長官のような「権威主義的パーソナリティ」に支援されていることと表裏一体となっていたものだった。そうした彼らのスタンスは、むしろ反権威主義的な構えを見せながら、しかし実際には権威主義的な支えの上にあるものだったと言えるだろう。だとすれば、反権威主義的と見せながら実は権威主義的であるようなスタンスを取っていたのは、いいかえればその「卑劣さ」のゆえに真に非難されなければならなかったのは、実はむしろ彼ら自身のほうだった。

 

第二に、アクティヴィズム系アートの中に教条的・独善的な態度を見て取ろうとした彼らの判断は、実はそれ自体、彼ら自身の教条的・独善的な態度に基づくものだった。たとえば貞本が「天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー」として非難していた大浦信行の作品は、そもそも天皇中心主義を一方向的に批判したものなどではない。そこでは天皇崇拝にも天皇批判にも単純に回収されないような、独自の角度からの問題提起が試みられていた。つまりそこに示されていたのは、自由な解釈を許さないような啓蒙主義的・規範主義的な態度などではなく、むしろその逆に、固定した解釈を許さないような反啓蒙主義的・反規範主義的な態度だった。

 

さらに言えば大浦は、そもそも右派へのシンパシーを抱いていたアーティストでもある。たとえば新右翼の活動家だった見沢知廉を題材としたドキュメンタリーを制作したことなどもある。しかもその見沢は、新右翼での活動ののち、小説家として活躍していた人物だったが、サブカルチャー評論家としても知られており、特に『エヴァンゲリオン』の大ファンだったという。

 

そうした見沢の「複雑さ」にかつて光を当てようとした大浦の新しい作品を、『エヴァンゲリオン』のクリエーターだった貞本が今回、その「複雑さ」に一切目を向けることなく、過度の「単純さ」から非難し、さらにそこにネット右派が同様の「単純さ」から雷同していたという経緯は、何とも皮肉なものだろう。だとすればやはり、自由な解釈を許さないような教条的・独善的な態度を取っていたのは、いいかえればその「プロパガンダ」のゆえに真に非難されなければならなかったのは、実はむしろ彼ら自身のほうだった。【次ページにつづく】

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.277 

・坂口緑「生涯学習論にたどり着くまで──人はいかにして市民になるのか」
・平井和也「ジョージ・フロイド殺害事件から考える米国の人種差別問題」
・野村浩子「日本の女性リーダーたち」
・安達智史「「特殊」を通じて「普遍」を実現する現代イギリスの若者ムスリム」
・太田紘史「道徳脳の科学と哲学」
・石川義正「「少女たちは存在しない」のか?──現代日本「動物」文学案内(2)」