2020.03.30
「ネットは社会を分断しない」? ―― 楽観論を反駁する
1.ネットによる「社会の分断」
本年1月末、イギリスはついにEUを離脱した。だが、それをめぐって二分された世論の溝は、そう簡単に埋まりそうにはない。ふたたび大統領選挙を迎えるアメリカでも、共和党と民主党の、あるいは保守とリベラルの激しい反目が続いている。トランプ大統領が一般教書演説をおこなった直後、そのスピーチ原稿をびりびり破り捨ててみせたペロシ下院議長のパフォーマンスは、そのことを端的に象徴していよう。
日本でも安倍政権シンパとアンチの対立には、これまでになかった根深さが感じられる。たとえば近い将来、憲法改正の国民投票が現実のものとなったとき、はたして私たちは、今のアメリカやイギリスにみられるような社会・世論の「分断」状況を避けることができるだろうか? その意味で、この問題は私たちにとっても決して対岸の火事ではない。
本題に入ろう。ネットが、こうした社会や世論の「分断」をもたらす要因のひとつになっているのではないか、という見方がある。世界中の研究者が精力的にその検証に取り組んでいるものの、未だ必ずしも見解の一致をみていない。そもそも日本では、この問題にかんする実証研究に乏しいのが実情だ。
そうしたなかにあって、稀少な調査研究の成果が昨年10月に公刊された。計量経済学者・田中辰雄氏と浜屋敏氏の共著『ネットは社会を分断しない』(角川新書)である。このシノドスにもその内容の要約版が今年1月に掲載されているので、ご存知の方も多いだろう (https://synodos.jp/society/23196)。
タイトルにあるとおり、ネットがユーザの政治意識を保守とリベラルの二極に分化=「分断」することはない――むしろ穏健化させる――というのが、本書の眼目である。
私も出版されてすぐ買って読んだ。田中先生からもご恵贈いただいた。その恩を仇で返すようで気が引けるところはあるのだが、学究の徒としては忖度を慎み、率直に批判せねばならない。本書の分析には数多くの問題点がある。これでは「ネットは社会を分断しない」とはとても言えない。以下、理論と実証の両面から田中氏らの主張に反駁し、今後の建設的な議論につなげていきたい。
2.「ネットは社会を分断しない」研究の問題点
問題点は多岐にわたるが、ひとまず次の3点に絞り、それぞれできるだけ簡潔に説明していく。専門的詳細については、私のウェブサイトにアップしてある学会報告時の配布原稿をご参照いただければと思う (http://d-tsuji.com/908/)。
[1] ウェブ調査データの信頼性の限界
[2] 政治関心という第三の要因をめぐる錯誤
[3] ミスリーディングな「分断」度の測り方
まずは、[1]から。田中氏らの調査は、ウェブ調査会社の登録モニターを対象におこなわれている。登録モニターは、日本のネットユーザ全体からまんべんなく選びだされたわけではない。自発的に応募した人たちなので、さまざまな面で偏りがある。10万人の大規模調査であれ、対象者がまんべんなく――無作為(ランダム)に――サンプリングされていない限り、結果の信頼性は落ちるのである。
だからといって、ウェブ調査の結果はまったく信頼がおけないというわけではない。ウェブ調査の場合も、複数の調査でくり返し同じような分析結果が得られれば、その分だけ信頼性は高まる。その点で、田中氏らの調査にもケーススタディ1つ分の蓄積が得られたという意義はある。しかし、ランダムサンプリングの調査データとは違って、統計学的な信頼性の計算法(「検定」という)は原則的に適用できない。あくまで参考程度にとどまる。1つ分のケーススタディからは、さほど確たる結論や強い主張を導くことはできないのである。
もっとも私自身も、これまでウェブ調査データをもとに、いくつかの論文を発表してきた。ただ、半ば言い訳にはなるが、それらの論文中では「今後の課題」としてランダムサンプリング調査による再検証が必要であることをつねに書き含めている。幸い、昨年7月末から9月にランダムサンプリングの全国調査を実施する機会に恵まれ、その「課題」を果たすことができた。今回、田中氏らの主張の反証に用いるのは、その調査データである。
それはさておき、次に、[2]政治関心という第三の要因をめぐる錯誤について。それを説明する前にまず、そもそもネット利用がどのようにして政治意識の分極化・「分断」につながるのか、理論的に想定されるプロセスをおさえておく必要がある。
もっとも有力な理論枠組のひとつ、ベネットとアイエンガーの「最小効果説」によれば、そのプロセスはおおむね次のようなものだ (Bennett, W.L. & Iyengar, S., 2008, A New Era of Minimal Effects? The Changing Foundations of Political Communication, Journal of Communication, vol.58, pp.707-731)。
3.政治関心という第三の要因の重要性
たとえば従来のテレビ視聴では、見たいドラマが終わった後もつけっぱなしにしていてニュース番組が始まり、特に関心のなかった政治問題を知る、といったことが往々にしてありえた。しかしネットのような情報環境では、このような無関心層が偶発的に政治ニュースに接触して影響を受ける機会が減る。エンタメ好きがもっぱらエンタメ動画ばかりに接するといった、「情報の選択的接触」傾向が加速する。
一方、ネットでは政治に関心のある層もまた、自らの政治選好(保守かリベラルか)に合った情報や意見ばかりに選択的に接触しやすくなる。同類結合によって形成された人と情報のネットワーク――同質的な意見の反響する「エコーチェンバー」――のなかで、保守派はさらに保守的に、リベラルはさらにリベラルな方向へと、それぞれの先有傾向を極端化していく。こうしてネットは人びとの政治意識を分極化し、「分断」を深めていくのだ、と。
これが「最小」効果説と名づけられたのは、ひとつには、政治に無関心な層に対するネットの影響(効果)はマスメディア以上に弱いと考えられること、そしてもうひとつには、関心層に対しても、保守をリベラルに、リベラルを保守に転向させるような影響力はもたないと考えられることによる。
この理論枠組に照らしながら、田中氏らがネットによる「分断」(分極化)を否定する論拠とした分析結果を見てみよう。シノドスでの要約版では、図3がそれにあたる (https://synodos.jp/society/23196)。そこでは、フェイスブックやツイッターを新たに利用し始めた人たちの分極化指数が低下していることが示されている。このことをもって、ソーシャルメディアを使い始めると、政治意識の「分断度合いは低下」「むしろ穏健化」する、という主張が導かれるわけだ。
問題は、その図にもはっきり注記されているように、そこでの分析からは政治的動機で利用を開始した人が除外されていることである。政治的動機での利用者は、おおよそ政治関心の高い層とみなせよう。すなわち、ネットによる分極化の影響がより顕著にあらわれると予想される層である。それを除外して、分極化効果を受けにくい無関心層をメインに分析しても意味がない。
X(ネット利用)とY(政治意識)の因果関係を検証するには、X・Yいずれにも関連する第三の要因Z――専門的には「交絡変数」という――を分析モデルに含めて、Zの影響を調整(統制)しなければ、適切な結果が得られない。ここでの田中氏らの分析モデルは、政治関心度という交絡変数がどう結果に影響するかを見誤り、むしろ理論に反した調整を加えてしまっているのである。
4.若年・中高年の単純比較が生みだす錯覚
これ以外の分析でも、政治関心度という交絡変数の影響は、あまりきちんと考慮されていない。たとえば、シノドスの要約版での図2である (https://synodos.jp/society/23196)。そこでは、「ネットを長時間見ている」若年層のほうが、中高年層よりも分極度指数が低いことが示されており、これは「ネット原因説と矛盾する」という。
だが控えめに言っても、矛盾はしない。たとえば、ネットをよく使うほど、体を動かすことが減り、体力が低下するのではないか、という仮説を立てたとする。調べてみると、ネットをよく使っているはずの若年層のほうが、中高年層より体力があることがわかった。さて、この結果は、ネットが原因で体力が低下するという仮説と「矛盾する」だろうか?
そんなことはない。そもそも歳をとるにつれて体力は衰えるものだ。たとえ若者のほうがネットのせいで運動量が減っていたとしても、中高年より体力があっておかしくない。多くの人はそう気づくだろう。しかし、ここで加齢にともなう生理的な運動機能の低下という第三の要因を見落としてしまうと、誤った結論に導かれかねないのである。
田中氏らの若年・中高年比較は、これと同様の誤りをおかしている。政治関心度という第三の要因の等閑視である。政治関心は、年齢が上がるほど高くなる。たとえば選挙の投票率は、ネットが登場するよりも前から、中高年層のほうが一貫して高い。半世紀前の1972年の衆議院選挙でも、20代の投票率は62%にとどまるのに対して、50代は83%にのぼる。
そして、政治関心が高いほど、政治的イシューに対する賛否もより明確になる。音楽好きほど、アーティストに対する評価がはっきり分かれるようなものだ。下の図aは、私が昨年おこなった全国調査から、「ふだんから政治に関心がある」かどうかで分けて、憲法改正に対する賛否の分布を示したものである。政治関心が高いほど、中間部の「どちらともいえない」「わからない」が減り、賛成にせよ反対にせよ両極の回答が増えていることがわかるだろう。
【 図a 】
まとめると、中高年層ほど→政治関心が高まり→政治意識も分極化する、ということだ。そのため、たとえネットが分極化効果をおよぼしていたとしても、見かけ上はこの年齢効果に覆い隠されてしまうのである。
5.ミスリーディングな分極化指数
最後に取りあげる問題点は、そもそも田中氏らの分析が、[3]ミスリーディングな「分断」度の測り方――分極化指数――に依拠していることだ。その測り方とは、次のようなものである。
まず、保守的だとプラス(+)に、リベラルだとマイナス(-)の値をとるような、政治意識の「ものさし」をつくる。さしあたって仮に、このものさしで測ると、きわめて保守的な人は+3、きわめてリベラルな人は-3になるとしよう。保守でもリベラルでもない穏健派は、真ん中の0である。
次に、このものさしで測った値を絶対値に変える。そうすると、-3(きわめてリベラル)も+3(きわめて保守的)も、同じく3になる。言ってみれば、ものさしの目盛りを中間の0で折り返して、マイナスの測定値をプラスに付け替えるようなものだ。
この折り返しものさしを使うと、保守であれリベラルであれ、極端な意識をもつ人ほど測定値は高くなり、穏健な人ほど低くなる。したがって、たとえば100人の集団が、きわめて保守的な50人ときわめてリベラルな50人に、完全に「分断」されている場合には、その平均値は3になる。一方、100人すべてが穏健派の場合は平均値0である。これらの(平均)値がすなわち、分極化指数にほかならない。
この分極化指数は、田中氏ら以前から海外の研究でも用いられており、私も初めて知ったときには、なるほどと思った。しかし同時に、この指数の妥当性には統計数理上の疑問を感じるところも多々あった。そこで、ごく簡単なシミュレーションをしてみたのだが、この指数を用いて分析すると、分極化しているのに分極化していないという結果が導かれるケース、あるいはその逆のケースもあることが確認できたのである。
比較的わかりやすい例を、図bに示そう。100人の政治意識の分布が、ネットの利用によって、パターン(i)から(ii)に変化したとする。それぞれの分極化指数を計算すると、分布パターン(i)が1.18、(ii)が1.17になる。つまり、(i)から(ii)に変化することで、分極化指数は低下し、「穏健化」したことになってしまうのだ。
【 図b 】
分布パターン(ii)は、明らかに(i)よりも保守に偏っている。確かに両極に分かれているわけではないが、少なくともこれを「穏健化」とみなすには無理があるだろう。また逆に、(ii)から(i)に変化した場合には指数値が上がるため、0の穏健層が増え、保守とリベラルが均等化しているにもかかわらず、「分極化」が進んだことになってしまう。このように、分極化指数は多分に誤った解釈を導きかねず、信頼性に乏しいのである。
6.ネット利用は安倍支持を分極化している
なぜ分極化指数を用いた分析では、こんなことが起きてしまうのか? 統計数理的には実はかなり複雑な問題なので、ざっくり要点だけ述べると、元になった「ものさし」を折り返すときに、データがもっていた本来の情報構造もねじ曲げてしまうからだ。それを避けるためには、やはり元々のものさしを使って分析しなければならない。
しかし、それは一筋縄ではいかない。ネット利用の分極化効果とは、下の図cのように、保守寄りの層をさらに保守へ(+)、リベラル寄りをさらにリベラルへ(-)傾けるように作用するものであり、中間層(0)への作用は弱いと考えられる。それに対して、一般的な統計解析技法では、+か-いずれか一方向に等しく傾ける作用を想定して分析する。分極化効果のように、同時に+にも-にも傾ける作用は想定外であり、歯が立たないのである。
【 図c 】
だからこそ、分極化指数のような苦肉の策があみ出されるわけだが、それが使いものにならないとなると、より高度な解析テクニックでの対処が求められる。ここではそのひとつ、一般化順序プロビットモデルという手法を用いて、私たちの全国調査データを分析した結果を紹介しよう。
本稿冒頭でもふれたように、日本における保守とリベラルの「分断」は――政治的争点への賛否や思想的・イデオロギー的な対立というよりも――端的に安倍政権シンパとアンチの反目となって現れているように思われる。そこで、安倍政権を支持するかしないかについて、ネット利用の効果(影響力)を分析してみた。その結果を抜粋し、図cと同じ形で示したものが、図dである。
【 図d 】
矢印のなかの数値は、パソコンでふだんネットを利用している時間の長さが、政権の支持・不支持におよぼす影響力の強さを表している。その数値は、理論的に予測されるとおり、両極にいくほど大きくなっており、「やや支持」を「支持」に変える+0.27と、「やや不支持」を「不支持」に変える-0.18の効果は、統計学的にも意味のある(=誤差の範囲内とみなせない)大きさの数値だ。
政治関心度などの重要な第三の要因はひととおり分析モデルに含めてあるので、これはそれらを調整したうえでの「正味」の効果だと考えてもらってよい(分析の詳細については、私のウェブサイト http://d-tsuji.com/908/ にアップした学会報告時の配布原稿を参照)。また、専門家筋のためにひと言申し添えておくと、これは単なる「相関」ではなく、ネット利用が政権の支持・不支持に影響する「因果」であることを、操作変数法による別途の分析から確認している。
安倍政権の支持層と不支持層を、ネットは確かに分極化している、のである。
7.そもそも社会の「分断」とは何か
ここまで私は、つねに「分断」をカギ括弧に入れて、留保つきで使ってきた。最後にその理由を述べておきたい。それは、人びとの意見が両極端に分かれること(分極化)は、必ずしも端的に社会の分断を意味するわけではない、と考えるからだ。
民主政の基本原則は、異なる意見を戦わせるなかから、たがいにとってより良い道筋を見いだそうとすることにある。すべての人びとが同じ意見をもち、一枚岩で政権を支持するような「分断」度ゼロの社会は、実際的には独裁国家のもとでしかありえまい。それが善き社会、善き政治のありようだとは、私には思えないのである。
確かに、人びとの意見が両極端に偏ると、折りあいがつきにくくなり、合意形成が難しくなるかもしれない。しかし、むしろ問題の本質は、相手の意見をはじめから否定してかかり、「敵」とみなして排除してしまうことにある。それこそが「社会の分断」というにふさわしい状況にほかならない。
社会学者の倉橋耕平氏は、1990年代以降の右派言論が「ディベート」の様式を強く帯びるようになったという、興味深い指摘をしている(『歴史修正主義とサブカルチャー』青弓社、2018年)。ディベートとは、敵手を言い負かすことを目的としたコミュニケーションだ。それは、対立しながらもたがいに納得できる結論を探しだそうとする「ディスカッション」とは、似て非なるものである。
現在、残念ながらネット上にあふれているのは、もっぱら敵を「論破」しようとするディベートのほうだろう。建設的なディスカッションをおこなうためには、相手に対する反発感情は抑制しなければならない。だが、ディベートはむしろ感情に訴えかけて、オーディエンスを「味方」に巻きこんだほうが、勝ち負けの判定に有利にはたらく。それもまた、ネット上でよく見かける光景だ。
ネットによる分極化は、こうした感情の次元をフックにして生じるのではないか、と私は見込んでいる。というのは、先の全国調査データを分析すると、安倍政権の支持・不支持だけでなく、安倍首相が好きか嫌いかについても、ネットの分極化効果がより明瞭な形で認められるからだ。一方、憲法改正などの政策的イシューにかんしては、あまりはっきりした分極化効果は見られない。それは、今のところ憲法改正などの政策論議が、私たちの感情の琴線にふれるところが少ないからではあるまいか?
むろん、これだけではまだ仮説の域を出ず、今後も検証を進めていかなければならない。だが、もしそれが当たっているとすれば、ネットのうながす感情的な分極化は、やはり社会の分断につながる可能性を大きく宿したものなのだ。
8.「ディベート」化するネット社会
本稿の冒頭での問いかけを、もう一度くり返しておこう。
はたして私たちは、近い将来、憲法改正の国民投票が現実のものとなったとき、社会の分断を免れることができるだろうか?
それがさし迫ってきたときには、論議は今よりもはるかに「ディベート」化し、敵と味方に分かれて、危機感や敵愾心を煽るような言辞がネットに飛びかうことだろう。テレビや新聞などのマスメディアにせよ、ネットを後追いして党派化しつつある現状を見るに、はたしてどこまで落ち着いた報道・論調が保てるか疑わしい。
ネットが社会の分断をうながすものではない――単なる分極化ではなく――とすれば、それでもレッセフェール(自由放任)にまかせておけばいいかもしれない。だが、そのような楽観論が誤っていたならば、憲法改正のような重大な進路の選択を迫られたとき、それは私たちの社会に深い傷を刻みこむだろう。
カール・シュミットいわく、政治の固有性は「敵、味方の区別」にある。それゆえに、そもそも政治的論争は「ディベート」化しやすく、感情に流されやすい。それを多少なりとも抑制し、ネット空間に、私たちの社会に、「ディスカッション」の余地を残すには、どうすればよいのだろうか?
民主政につきまとう旧き問題の新しき形での再来。
私たちがネット社会の混迷の淵源に見据えるべきは、それである。
プロフィール
辻大介
1965年生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程退学。専門はコミュニケーション論、メディア研究。共著に『コミュニケーション論をつかむ』(有斐閣、2014年)、『フェイクと憎悪 歪むメディアと民主主義』(永田浩三編、大月書店、2018年)、『基礎ゼミ メディアスタディーズ』(石田佐恵子・岡井崇之編、世界思想社、2020年)など。