2020.07.13

新型コロナ感染症は「近代の終わり」を促すか?

岡本裕一朗 哲学・倫理学

社会

2020年初め、中国の武漢で始まった(とされる)新型コロナ感染症は、瞬く間に世界的な流行となり、3月以降には多くの国々で非常事態宣言を出すまでになった。しかし、5月になると、感染の終息傾向が見えだしたこともあり、宣言は次第に解除され、世界的にも日常生活が戻りつつある。この後、何事もなかったように、以前と同じ世界が始まるのだろうか。それとも、「ポストコロナの世界」は、今までとはまったく違ったものとなるのだろうか。

もちろん、今回の感染症は、あくまで第1波であって、第2・3波が予想されている。また、ワクチンや有効な治療薬の開発も関係してくるので、今のところ確定的なことは言えないだろう。死者の数からいって、過大評価・過剰対策すべきでないという意見だってある。もしかしたら、たんなる一時的な現象で、けっきょくは何も変わらなかった、ということになるかもしれない。したがって、「ポストコロナの世界」を語るのは、時期尚早の可能性さえあるだろう。

それでも、わずか数か月ではあったが、おぼろげながら見えていたものがある。それをここでは、「ポスト近代への予感」とでも呼んでおきたい。新型コロナ感染症は、今までの近代的な生活様式を直撃し、それに代わる新たな形態を要求するのではないだろうか。とはいえ、ポスト近代の世界は、今のところ、ポジティブな形で見出されているわけではない。

「近代の終わり」が宣言されてから、ずいぶん経った。ニーチェあたりから計算すれば、もう150年も過ぎている。最初は「神」が死んで、その後に「人間」も死ぬはずだったが、思いのほか「人間」はしぶとく生き残っている。しかし、今度こそ、ほんとうに近代が終わるのだろうか。

いやいや、それほど甘いものではない。非常事態宣言が解除されたら、昔ながらの近代が舞い戻ってくるに違いない。したがって、「予感」かもしれないが、今回の感染症で見えてきた「ポスト近代」の姿を、しっかりと目に留めておかなくてはならない。

 

1.新型コロナ感染症はポスト近代の夢を見る?

そもそも、新型コロナ感染症にかんして、どうして「近代/ポスト近代」を語るのか。おそらく、こう問われるかもしれない。そのために、まずミシェル・フーコーの議論を確認することから始めよう。

周知のように、フーコーは『監獄の誕生』(1975)のなかで、近代社会のモデルとしてベンサムが考案した「パノプティコン(一望監視施設)」を描いている。これは、人々を同じ場所に集め、多様な形で配分して、規律訓練する効果的なシステムだ。近代社会では、学校、工場、軍隊、病院、寄宿舎などが、監獄と同じ形式になっている。近代人は、こうした集団化のなかで規律訓練され、社会的な秩序を形成して生活している。

こうした近代的な「パノプティコン」を描くとき、フーコーの念頭にあったのは、ペストとの対応関係だった。たとえば、次のような記述を見れば、一目瞭然であろう。

「閉鎖され、細分され、各所で監視されるこの空間、そこでは個々人は固定した場所に組み入れられ、どんな些細な動きも取締まられ、あらゆる出来事が記帳され、中断のない書記作業が都市の中枢部と周辺部をつなぎ、権力は、階層秩序的な連続した図柄をもとに一様に行使され、たえず各個人は評定されて、生存者・病者・死者にふりわけられる――こうしたすべてが規律・訓練的な装置のまとまりのよいモデルを組み立てるのである。ペストの蔓延に対応するのが秩序であって、それはすべての混乱を解明する機能をもつ。」(*1)

こうした、近代社会に対応した病がペストだとすれば、それ以外はどう考えたらいいのだろうか。フーコーが語っているのは、近代以前の病であり、それを「らい病」と見なしている。

「らい病は排除の祭式をもたらし、その祭式は<大いなる閉じ込め>のモデルおよび言わばその一般的形式をある程度まで提供したのは事実だが、ペストのほうは規律・訓練の図式をもたらした。」(*2)

それでは、フーコーが分析した「近代社会」は、現代でも有効と言えるのだろうか。それについて、ジル・ドゥルーズは次のように語っていた。

「私たちが「管理社会」の時代にさしかかったことはたしかで、いまの社会は厳密な意味   で規律型とは呼べないものになりました。フーコーはふつう、規律社会と、その中心的な技術である監禁(病院と監獄だけでなく、学校、工場、兵舎も含まれる)にいどんだ思想家だと思われています。しかし、じつをいうとフーコーは、規律社会とは私たちにとって過去のものとなりつつある社会であり、もはや私たちの姿を映していないということを明らかにした先駆者のひとりなのです。」(*3)

このようにドゥルーズが語るとき、フーコーのように感染症との対応は示していない。しかし、ここであえて語ることにすれば、今回の新型コロナ感染症がいちばん適切ではないだろうか。そこで、近代とそれ以前・以後を図式化すれば、次のようになるだろう。

近代がペストに対応する形で規律と訓練の社会を形成したとすれば、ポスト近代の社会はコロナ型の社会を形成するのである。そして、その技術となるのが、人々を分散させつつ管理する、デジタルテクノロジーである。

フーコーが想定していた近代社会は、直接目で監視し、手とペンで記録する、といったアナログ技術にもとづいている。ところが、ポスト近代の社会では、コンピュータとそのネットワークを使って、いつでもどこでも管理するデジタル技術が中心となる。

2.新型コロナ感染症への対策について

今回の新型コロナ感染症の流行に対して、世界ではどんな対策が取られているのだろうか。それを見ると、「ポストコロナの世界」への展望がひらかれるかもしれない。そのさい、有効なワクチンや治療薬が開発されていないことが、前提となる。もしこれが開発されていれば、今回の問題設定そのものが、意味をなさなくなるからだ。

さて、新型コロナ感染症への対策として、まず確認すべきは、アメリカやイギリス、フランスやイタリアなど、欧米諸国が取った方法である。非常事態を宣言し、都市封鎖(ロックダウン)を行なうのだ。通常の生活では認められる市民の自由を制限し、学校を休校にしたり、出勤を禁止したりする。特別の事情がないかぎり外出できず、違反すれば罰せられるのだ。(これを「ロックダウン型」と呼ぼう)

今回の感染症では、無症状の感染者の割合が多く、しかもそうした無症状の感染者から感染が広がっている。また、発症するまで潜伏期間が長いので、どこに感染者がいるのか、特定が難しい。こうして、唯一の防御策として取られたのが、他人との接触を断つことだった。この方法で、一定のあいだ人々が分散して生活すれば、病気の流行も終息へと向かうだろう。その結果として、非常事態が解除されることになる。

しかしながら、この方法で一時期流行を抑え込んでも、ウィルスそのものが消滅するわけではない。そのため、非常事態が解除されれば、やがて感染が広がるかもしれない。そうなると、再びロックダウンされることになる。こうして、同じサイクルが繰り返される。

そこで、こうしたサイクルを最初から拒否することも可能だ。これがもう一つの方法で、スウェーデンが採用する戦略である。ロックダウンのような厳格な行動制限を行なわず、通常の生活を維持しながら、国民が「集団免疫」を獲得するのを待つのだ。これは一時期イギリスも試みたが、インペリアル・カレッジの報告書(*4)を受けて、「ロックダウン型」へ転換した経緯がある。(これを「集団免疫型」と呼ぼう)

しかし、現在のところ、有効なワクチンや治療薬がないかぎり、「集団免疫」が最終ゴールであることは否定できないだろう。(*5)「ロックダウン型」にしたところで、封鎖が解除されれば、再び感染が広がり、何度も同じことが繰り返される。このサイクルの果てに、最終的に「集団免疫」が獲得されて、「ロックダウン」が必要なくなるわけである。この観点からすれば、「ロックダウン型」は「集団免疫」に至るまでの時間を、単に長引かせているだけと言えるかもしれない。

こうした二つの方法に対して、東アジアとくに台湾や韓国、あるいは中国(初期の武漢を除く)などで採用されたのは、「国民監視型」と呼べそうな戦略である。(*6)デジタルテクノロジーとそのネットワークを利用して、国民一人一人の情報(身体状態、位置、行動など)を登録し、全員をダイレクトに管理するのだ。国家がその情報を掌握するだけでなく、各人の情報がスマートフォン画面に反映され、相互にチェックしたりする。自分の周りに、どんな人がいるかも分かるので、人々がこれを確認すれば、感染者との濃厚接触も回避できる。

この「国民監視型」の方法は、人々の接触を避けて、社会的な距離を保つという点では、有効に働いたように見える。じっさい、この戦略を採用する国々では、感染者の数が劇的に減少し、新型コロナ対策としては成功している。しかし、この場合、人々の個人情報が国家に常に把握され、管理されることは、覚悟しておくべきであろう。以上、3つの対策を図示化しておくことにしよう。

最初の二つは「近代」における二つの方法であり、最後のものは「ポスト近代」へ向かう方法と言えるだろう。欧米諸国は、近代的な生活に対して、非常事態を宣言していったん中断するか、そのまま通常生活を維持するか、いずれかの戦略を取ったのである。これと違って、東アジアの国々では、デジタルテクノロジーとそのネットワークの発展を背景にして、ポスト近代へ向かう新たな規制を採用したわけである。

では、日本の場合はどうだったのだろうか。基本的には、近代の戦略であったが、そのやり方は中途半端なもので、「半=ロックダウン型」・「半=集団免疫型」とでも表現できるだろうか。監視については、デジタルテクノロジーをほとんど活用できず、近代的な(「昭和型の追跡調査」)を行なったと言える。

3.新型コロナ感染症は近代の虚妄を炙り出した?

感染症は、最初は外からやってくる。その意味では他者であるが、気がついたときはすでに、他人事ではなくなっている。感染症のこうした性格が、近代社会のあり方を炙り出すことになった。何が分かったのだろうか。

第一に、近代の基本的な原理である「平等」の理念が、じっさいには「差別意識」を克服していなかったことである。病気が世界的な広がりを見せたとき、欧米諸国ではアジア人への差別意識が表面化し、「私はウィルスではない(#IamNotAVirus)」といった声が上がった。(*7)最初に感染症が流行したのが、中国の武漢だったこともあり、アジア系の人々と病気が短絡的に結びつき、日ごろから抱かれていたアジア人へ差別意識が排外主義として現れたのだ。「他者」のイメージを介して、ウィルスとアジアが結びついたわけである。(「ウィルス=他者=アジア人」)

こうした排外主義は、いったん内部で広がると、今度は感染者やその関連の人々に対する強烈な差別意識へと変わっていく。日本では、「クラスター探し」に奔走したこともあって、「誰がどこでどんな人たちと接触したか」追及された。これによって、仕事や居住にも影響を与えたのである。そのため、病気に感染したことが分かると、社会(世間)に「おわび」をしなくてはならなくなる、といった風潮が蔓延した。あるいは、そうならないために、病気に感染したことを隠すことになり、それがかえって感染を広げる結果につながった。何とも、近代どころか、前近代的な反応が起こったのである。

第二に確認したいのは、近代を支えていた「国家」が想像以上に強大であることだ。20世紀末になって、グローバリゼーションが進展し、「国家」の弱体化がしばしば指摘されてきた。ヒト、カネ、モノが国境を越えて自由に往来し、共産主義を俟たずとも国家は消滅するかもしれない、などと空想されることさえあった。「21世紀の共産党宣言?」と呼ばれたネグリとハートの『<帝国>』では、国家の役割はしだいに縮小するはずだった。(*8)ところが、今回の感染症が起こってみると、ポスト国家的な言説がじつのところ、砂上の楼閣にすぎないと分かったのである。国家を無視して、社会は動かない。この事実は、今後の社会を考えるとき、何よりも強調しなくてはならないだろう。

たとえば、資本主義を考えてみよう。今まで、資本主義経済は、あくまでも私企業にもとづくのだから、国家から独立した形で営まれると理解されている。ところが、帝国主義のような歴史の一段階だけでなく、資本主義は国家を前提にしてはじめて活動が可能になる、ということができる。その意味で、資本主義は常にすでに国家資本主義なのではないだろうか。

リーマン・ショックの時、アメリカ政府がさまざまな企業を救済したのを見て、スラヴォイ・ジジェクは「資本主義は社会主義になったのか!」と語った。(*9)しかし、そんなことは、何も今に始まったことではないだろう。株式市場や為替相場が官製相場になっているのは、全世界的なことで、驚くことではない。言ってみれば、国家という掌の上で、さまざまな企業も人々も活動が可能になっているのだ。とすれば、どんな社会構想を描くにしても、何よりまず国家のデザインが不可欠なのである。

第三に踏まえておきたいのは、新型コロナのような感染症に対処するには、デジタルテクノロジーとそのネットワークが必要となることだ。今さらでもないが、日本はこの点で、とても立ち遅れている。病気に対処する方法が、何ともアナログだったことは繰り返さない。しかし、そもそもパンデミックを回避するため、人々が集まる(接触)ことを禁止したとき、どうなっただろうか。

社会がほとんど停止してしまったのだ。学校にしても、会社にしても、今まで皆が一堂に会し、そこで一緒に活動するといった近代的なスタイルをとってきた。そのため、休校になったり、出勤できなくなったりすると、何もできなくなったのである。人々が分散しても社会が維持できるように、設計されていなかったのだ。

 

日本にしても、デジタルテクノロジーの導入については、今まで少なからず取り組んできたはずだった。ところが、ふたを開けてみると、学校ではオンライン授業ができず、企業ではリモートワークが進まず、官公庁では互換性のあるデジタルネットワークが確立していなかった。「マイナンバー」制度を導入しても、ほとんど活用できない。選挙にしても、自粛中にもかかわらず、投票所に出向いて紙に書いて投票する。例を挙げればキリがなく、ほとんどの制度が旧態依然のアナログ技術にもとづくものだった。ちょうどそこに、アナログでは対処できない今回の感染症が発生したのだから、機能停止に陥ったわけである。

このように見たとき、「ポストコロナの世界」で、今後何が中心となるのか、おのずと明らかだろう。「人々を一定の場所に集めて共同して活動する」といった近代的なスタイルそのものが、根本から変更を余儀なくされるのだ。今回の感染症が一過性のもので、過ぎ去ってしまえば元通りの生活が取り戻せるのであれば、あらためて問題にすべきことはなくなる。そうではなく、同じような感染症か、あるいはそれ以上に強力な感染症がやってくるとすれば、どうだろうか。

そのとき、「人々が同じ場所で集団的に活動する」という近代的スタイルから、「人々が集団的な活動を避けて分散して活動する」といったポスト近代的なスタイルを選択することになるはずだ。学校も、企業も、工場も、病院も、軍隊も、刑務所も、・・・その他、いたるところで変わっていくことになる。

たとえば、最近では、「IoT」の名のもとで、工場の無人化も進み、モノづくりの場面でも、人々の分散化が進んでいる。もちろん、国会にしても、選挙にしても、現在の近代的な制度は、ことごとく変えていかなくてはならないだろう。それ以外にも、具体的な問題は多々あるが、基本的な方向性としては確認できるのではないだろうか。

4.欧米優位の終わり、近代の終わり?

今回の感染症を歴史的に見ると、どんな方向が見えてくるだろうか。それを考えるために、ジャレド・ダイアモンドが1997年に出版した『銃・病原菌・鉄』を取り上げてみよう。その中で、彼は次のように述べている。

「世界史では、いくつかのポイントにおいて、疫病に免疫のある人たちが免疫のない人たちに病気をうつしたことが、その後の歴史を決定的に変えてしまっている。天然痘をはじめとしてインフルエンザ、チフス、腺ペスト、そのほかの伝染病によって、ヨーロッパ人が侵略した大陸の先住民の多くが死んでいるのだ。」(*10)

やや単純化して言えば、近代におけるヨーロッパ中心主義は、病原菌とともに可能になった、となるだろう。では、同じことは、新型コロナ感染症についても言えるのだろうか。

それを確かめるため、欧米とアジアでの新型コロナの感染者数と死亡者数について解明した最近の論稿を参照してみよう。(*11)それによると、それぞれ人口10万人当たりの感染者数と死亡者数は次のようになっている。(2020年5月16日付の資料)

これを見て分かるのは、欧米とアジアでの感染者・死亡者数の歴然とした差である。いずれも、桁数が二けた違うのである。この原因が何かについては、やがて解明されるかもしれないが、今のところ明確な対比については確認することができる。

この資料から予感できることを、ダイアモンドの文章を参考にしながら、次のように言いかえることにしたい。

「世界史では、いくつかのポイントにおいて、疫病に免疫のある人たちが免疫のない人た ちに病気をうつしたことが、その後の歴史を決定的に変えてしまっている。今回の新型コロナ感染症では、アジア人に比べてヨーロッパ人の多くが死んでいるのだ。」

ヨーロッパの諸国が、大航海時代にアジアやアフリカやアメリカ大陸などに進出して、植民地を獲得しながら、近代が始まった。ところが、今回の感染症では、アジアに比べ欧米諸国の人々が感染者も死亡者も多い。近代が欧米の覇権時代だとすれば、新型コロナ感染症とともに、近代の終わりが見えてきたのかもしれない。

おわりに ポストコロナの世界と管理社会

2020年初めに、新型コロナウィルスによる感染症が世界的な流行となって、ポスト近代的な管理社会が予感されるようになった。人々の直接的な接触を回避するため、デジタルテクノロジーとそのネットワークを活用して、分散管理することが必要となってくるのだ。

しかしながら、デジタルな管理社会を要請することには、注意が必要であろう。(*12)かつて、スラヴォイ・ジジェクは次のように語ったことがある。

「いまやほとんど忘れられてしまったオーウェルの<ビッグ・ブラザー>という概念が生活のデジタル化の生み出した脅威によって近年息を吹き返している。(‥‥)実際、われわれの日常生活のデジタル化は、<ビッグ・ブラザー>的コントロールを可能にしており、これに比べれば、かつての<共産主義>秘密警察による監視など、子どもの遊びに見えてしまう。」(*13)

今回のパンデミックで明らかになったのは、人々に恐怖心が芽生えると、全体主義的な監視でさえみずから求めることであろう。国民自身が、政府に監視を強化するように要求するのだ。こうして、<ビッグ・ブラザー>的なコントロールを、人々がいとも容易く望むことになる。

とすれば、「ポストコロナの世界」は、私たちをどこへ導くのだろうか。一方で、デジタルテクノロジーを駆使して、管理社会を築くことになるだろう。病気に対処するにも、社会を維持するためにも、生活のデジタル化は緊急のものだ。しかし、他方で、そうした管理社会化は、人々を四六時中監視するだけでなく、全体主義への欲望も生み出すのかもしれない。とすれば、感染症に対処するためとはいえ、デジタルな管理社会を安易に考えることはできないだろう。

あらためて、管理社会そのものを問い直す必要がある。

1.M.フーコー『監獄の誕生―監視と処罰―』(田村俶訳、新潮社,2009)199頁以下。

2.同書、200頁。

3.G.ドゥルーズ『記号と事件―1972-1990年の対話』(宮林寛訳、河出文庫、2014)350

頁。

4.これについては以下を参照。   https://www.imperial.ac.uk/media/imperial-college/medicine/sph/ide/gida-fellowships/Imperial-College-COVID19-NPI-modelling-16-03-2020.pdf

5.スウェーデン式の「集団免疫」戦略については、評価が分かれているが、早晩はっきりするだろう。https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/05/post-93307_2.php

https://www.gizmodo.jp/2020/05/corona-virus-sweden.html

6.以下のものを参照。台湾は、http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/428212.html

韓国は、https://www.bbc.com/japanese/52489356

中国はhttps://jp.reuters.com/video/watch/idOWjpvCARKYU3VX7SSNKL10CXDLX13PY

7.これについては、https://www.jiji.com/jc/article?k=2020013000238&g=int

8.これについては、次のものを参照。岡本裕一朗『ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会』(ナカニシヤ出版,2005)

9.S.ジジェク『ポストモダンの共産主義』(栗原百代訳、ちくま新書、2010)

10.J.ダイアモンド『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎―』(倉骨彰訳、草思社文庫、2012)上141頁。

11.これについては、次のものを参照。菅谷憲夫「日本の新型コロナ対策は成功したといえるのか―日本の死亡者数はアジアで2番目に多い」(日本医事新報社)

https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=14724

12.新型コロナ感染症に対する倫理的問題については、次のものを参照。

https://www.nature.com/articles/d41586-020-01578-0

13.S.ジジェク『全体主義―観念の(誤)使用について』(中山徹、清水知子訳、青土社、2002)292,303頁

プロフィール

岡本裕一朗哲学・倫理学

玉川大学名誉教授 、博士(文学)。最近の著書として、『世界を知るための哲学的思考実験』(朝日新聞出版、2019)『哲学の世界へようこそ。』(ポプラ社,2019)

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