64年東京五輪「日の丸カラー」の選手団公式服装をめぐるもう一つの問題――石津謙介は監修者たりえたか

0.はじめに

 

2016年9月6日、Yahoo!ニュース特集に拙稿「64年東京五輪『日の丸カラー』の公式服装をデザインしたのは誰か」が掲載された。「1964年の東京オリンピックで日本選手団が身に着けていた赤と白の公式服装(開会式用ユニフォーム)は、メンズアパレルブランド『VAN』の創業者として知られる故石津謙介によるデザインであるというのが通説になっているが、当時の資料や関係者の証言から、東京神田で日照堂という洋服店を営んでいた望月靖之によるデザインであることが明らかになった。あのユニフォームが誕生するまでの歴史を辿ってみよう」というのがその趣旨である。

 

 

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1964年に全国の百貨店で行われた東京五輪開催記念ウィンドーディスプレイの様子を収めた写真。「デザイン 望月靖之」と書かれたプレートが置かれている。(ダイドーリミテッド所蔵)

 

 

そこで、筆者は、石津の親族の経営する石津事務所が「石津は監修者として選手団公式服装のデザインに関わった」と話していること、しかし、そのことを裏付ける資料は確認できていないということに触れた。媒体の特性と字数の限界から、そこでは、それ以上の情報を示すことができなかった。

 

一方で、2016年9月7日、『スポーツニッポン』によって、「64年東京五輪公式服デザインは仕立服店主だった!石津氏は監修の立場」というタイトルの記事が配信された。そこには筆者の名前も登場する。筆者は、『スポーツニッポン』の取材は受けたことがないので、おそらく、これは、前日6日付けで共同通信社が配信した記事の末尾の「監修したことを示す資料は残っていないという」という一文を掲載せず、新たに独自のタイトルを付けて配信したものだろう(注1)。困ったことである。こうしてまた歴史がいい加減に伝えられる。筆者の問題提起がきっかけとなって、これまで何の裏付けもなく「石津謙介デザイン」と言われてきたものが、今度は、何の裏付けもない「石津謙介監修」に書き換えられるなら、問題提起をした意味がなくなってしまう。

 

そんな経緯もあって、「石津謙介は64年東京五輪選手団公式服装の監修者たりえたか」というもう一つの問いに対する回答も含めて書くべきことを書くことにした。

 

先に結論を示すことにするが、石津謙介が64年東京五輪の選手団公式服装のデザインを監修していた可能性はきわめて低く、そのデザインが決定される過程に彼が何らかの形で関わりを持った可能性はあるが、それは、決して、監修と呼べるような中心的役割ではなかっただろう。

 

服飾史研究に付きまとう困難として、こうした著名なブランドや服飾デザイナーをめぐる物語の書き換えは、しばしば、それを愛好する人々の感情的反発を招くことがある。通説の誤りが指摘されてなおその〝焼き直し〟が続けられることもある(注2)。服飾というものが個人のアイデンティティに深く関わる領域であるがゆえの困難だろう。本稿もまたそうした反応を引き起こすかもしれないが、重要なことは、「これまでそう言われ続けてきたから」ということにとらわれず、何が実証可能な歴史であるかを見極めることだ。

 

(注1)2016年9月6日(夕刊)の『東京新聞』にはこの末尾の一文までを含む記事が掲載されている。

 

(注2)64年東京五輪の選手団公式服装が望月靖之と彼の率いるテイラーたちの仕事であることは、既に、2014年1月の段階で、服飾評論家の遠山周平のブログで指摘されており、また、それ以前から、望月の出身地である山梨県版の新聞ではしばしば彼の功績が取り上げられてきた。

 

 

1.問題を見誤らないための前提

 

この問題をめぐって、しばしば、「デザイン」というものの定義の難しさを指摘する声に出会うことがある。服飾における「デザイン」と「制作」の線引きは極めて難しく、それゆえ、「64年東京五輪の選手団公式服装をデザインしたのは誰か」という問いの答えは容易に見つからないだろうという指摘である。

 

「デザイン」の定義が難しいというのはその通りである。「デザイン」と「制作」の線引きが難しいというのもよく言われることだ。しかし、そのことはこの問題と全く関係がない。

 

この問題の核心は、「デザイン」「監修」「考案」「発案」「プロデュース」「ディレクション」いずれの言葉を使うにしても、64年東京五輪の選手団公式服装が決定される過程で石津謙介が中心的役割を果たしたということそれ自体に大きな疑問符が付くという一点に尽きる。そのことは裏付けられるのか裏付けられないのか。それが問題の核心である。だから、石津が中心的役割を果たしたという前提のもと、「どこまでが石津の仕事で、どこからが望月の仕事で、『デザイン』と『制作』の境界はどこにあるのか」という議論に時間を費やすことには意味がない。

 

もっとも、概念定義をめぐる指摘は、秩父宮と望月、あるいは、望月と「ジャパンスポーツウェアクラブ」のテイラーたちの関係については有効だろう(注3)。

 

以上の三者に大同毛織(現ダイドーリミテッド)を加えた四者が64年東京五輪の選手団公式服装の誕生に深く関わっていたという事実は、多くの同時代資料によって裏付けられる。そして、望月が、ヘルシンキ大会(1952年)の時に秩父宮から「公式服装には日本のナショナルカラーを表現すべきである」との示唆を賜り、その後、赤と白の二色こそが日本のナショナルカラーであるとの結論に至ったということ。さらに、彼が、ローマ大会(1960年)の公式服装として、襟に白い縁取りのある赤のブレザーと襟に赤い縁取りのある白のブレザーの二つを提案したところ、JOC(日本オリンピック委員会)は前者を却下し、後者を採用したということ。以上の経緯は、60年当時の新聞報道から裏付けられることで、それによって、64年のインタビューにおける望月の回想が〝後付け〟として語られたものではないことが明らかになる(注4)。望月は、そのリベンジとして、大同毛織とともに「赤」の研究を続け、イタリアやフランスの服地を参考に染め上げた赤いマットウーステッドの生地を披露したところ、JOCの「服装小委員会」で委員長を務めた青木半治が真っ先に賛成に回ったことから、四年後の東京大会においてようやく彼の悲願が実を結んだのである(注5)。

 

 

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ローマ大会の選手団公式服装として望月が提案した二つのデザイン(『東京中日新聞』1960年3月26日より)

 

 

たった今述べたように、公式服装にナショナルカラーを取り入れるというアイデアを最初に示唆したのは秩父宮であり、望月はそのアイデアを具現しただけであるから、デザインをしたのは望月ではなく秩父宮と言うべきであるという考え方もできなくはない。服のディテールは当然テイラーたちとの話し合いの中で決定されていったはずで、そのことを考慮に入れると、望月一人の仕事ばかりに光を当てるべきではないのかもしれない。こうした議論においては「デザイン」というものをどう定義するかが重要な意味を持つ。

 

(注3)「ジャパンスポーツウェアクラブ」とは、望月がヘルシンキ大会(1952年)の選手団公式服装の調整のために結成した「東京テーラース倶楽部」を前身として生まれたテイラーのグループである。なお、望月自身はテイラーではない。望月の洋服店である日照堂の関係者たちは、「望月さんはデザイン画は描いたが、型紙を起こすことはしなかった」と話す。ちなみに、望月の1991年の名刺には、「『愉しきもの』スポーツ、服飾デザイン、園芸、旅、読書、麻雀」とある。「望月は『仕立服店主』だからデザインはしていないのではないか」との声を耳にすることがあるが、服飾デザイナーの肩書で仕事をしている者だけが服飾デザインをするわけではない。

 

 

1991年の望月の名刺。「『愉しきもの』スポーツ、服飾デザイン、園芸、旅、読書、麻雀」とある。(個人蔵)

1991年の望月の名刺。「『愉しきもの』スポーツ、服飾デザイン、園芸、旅、読書、麻雀」とある。(個人蔵)

 

 

(注4)「試作品できる:ローマ五輪のブレザー・コート」『朝日新聞』1960年3月18日。「白の上下に:五輪ブレザー」『朝日新聞』1960年3月19日。「ローマ五輪のブレザー:清潔か情熱かあなたはどちらを?」『東京中日新聞』1960年3月26日。「日本代表選手団ブレイザーコート完納パーティ盛会」『洋装タイムス』1964年10月1日。「ブレザー物語」『装苑』1964年10月号。「五輪服装史アテネから東京まで:桧舞台を飾る〝裏方さん〟達」『日繊ジャーナル』1964年10月号。

 

(注5)青木半治「真紅のブレイザーコート」望月靖之『ペダルを踏んだタイヤの跡』巻頭、栄光出版、1985年。望月靖之「オリンピック日本代表選手のブレザーの由来」『体協時報』1988年11月号。

 

 

2.資料を誤読しないための前提

 

以下は、ある資料をめぐるややこしい話である。ややこしい話ではあるが、それがきちんと踏まえられてこなかったこともまた、「石津デザイン説」の拡散の要因の一つであろう。

 

東京オリンピック組織委員会が1965年に編纂した『オリンピック大会資料1~6』という資料がそれだ。今回、調査を進める過程で、メディア関係者を含め、この資料を誤読している人に一人ならず出会うことがあった。

 

この資料の「被服」という項目を見ると、1964年2月1日に設置された「服装審議会」に関する記録が収められており、そこには、森英恵や芦田淳とともに、スタッフ用ユニフォームのデザインを手がけた人物として石津謙介の名前がある。スタッフ用ユニフォームには、審判、通訳、誘導、警備など様々な種類があり(注6)、石津のデザインは、審査の結果、作業員と用務員の男性用ユニフォームに採用されている。

 

 

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14種類からなるスタッフ用ユニフォーム。向かって右から二番目が石津のデザインした作業員および用務員の男性用ユニフォーム。色は黄土色である。(『オリンピック大会資料1~6』より)

 

 

(注6)ここでは、それらをまとめて「スタッフ用ユニフォーム」と表現することにするが、『オリンピック大会資料1~6』では「大会の運営に従事する者の制服」と表現されているほか、当時の新聞雑誌では「役員の服装」「役・職員が着用するユニフォーム」などと表現されている。

 

『オリンピック大会資料1~6』に選手団公式服装に関する記載はない。そのため、そこから、無理矢理に、「石津謙介の名前はあるから、公式服装をデザインしたのは石津で、何かの事情でそのことが書かれていないだけなのだろう」という解釈をする人がいるようである。

 

あらゆる資料を扱う時、その資料に何が書かれているかということ以上に重要なのは、その資料がどのような性質のものであるかということだ。この部分を押さえないまま資料の読解を試みると、しばしば、そのために、誤読や拡大解釈が起こる。

 

選手団公式服装の選考を主導するのは、東京オリンピック組織委員会の「服装審議会」ではなく、1963年8月28日に設置されたJOCの「服装小委員会」であるということ。まずこの点を踏まえておかなければならない。後述するように、「服装審議会」と「服装小委員会」の間では連携が取られることもあったようだが、こうした管轄の違いから、選手団公式服装とスタッフ用ユニフォームの選考過程に関する記録は別々の資料に収められており、前者については、JOCの上位団体にあたる日本体育協会が編纂した『第18回オリンピック競技大会報告書』を見ることになる。

 

そこには、望月の名前も石津の名前もない。そこから分かることは、「服装小委員会」が青木半治をはじめとする8名のJOCの委員たちによって構成されていたこと(注7)、そして、選手団公式服装の依頼先が「大同毛織(加工ジャパン・スポーツウェアクラブ)」だったということだけだ。これは別段驚くに値せず、オリンピックの公式報告書はその後もしばしば選手団公式服装のデザイナーを明記していないのだが(注8)、望月が64年東京五輪の選手団公式服装をデザインしたということはダイドーリミテッド所蔵資料をはじめとする同時代資料から裏付けることができる。一方、石津については、そうした裏付けとなる資料が見つけられず、むしろ、反証材料となる資料の方が多く残されている。

 

(注7)ちなみに、そこには、「監修」という立場が存在したことを示唆する記述は見られない。

 

(注8)例えば、アトランタ大会(1996年)の選手団公式服装は芦田淳がデザインし、監修を森英恵が務めたが、『第26回オリンピック競技大会報告書』には、「森英恵氏に監修依頼」としか書かれておらず、芦田淳が確かにそれをデザインしたということは当時の新聞報道によって初めて裏付けられる。

 

 

3.検証(1)―― 石津事務所を訪ねて

 

石津事務所は、石津謙介が64年東京五輪の選手団公式服装のデザインを監修したと主張している。少なくとも、筆者は、2016年8月10日にYahoo!ニュース編集部の記者とともに石津事務所を訪れた際にそのような説明を受けた。

 

取材に応じていただいたことには今でも感謝している。何かを暴いたり批判したりするために始めた研究でもない。しかし、歪んだ歴史が伝えられようとする危険が目の前に横たわっているのを見過ごすべきではないだろう。端的に言って、取材の前後を含めた彼らの発言には一貫性がなく、筆者に対してなされた説明はそれ自体が既に破綻していた。行きがかり上、そのことはどうしても明らかにせざるをえない。

 

 

3-1.取材の記録から

 

そこには、石津の長男である石津祥介氏(81)とともに、同事務所の広報を務める40代ぐらいの男性(以下、A氏と言う)も同席した。取材は1時間以上に及んだが、彼らが特に力を入れて主張したのは以下二点だった。

 

 

・他の著名な服飾デザイナーや建築家を見ても、その人物の名前を冠した仕事の全てを本人が手がけているわけではない。実際デザインをしたり図面を引いたりするのはデザイン事務所や建築事務所のスタッフである場合が多い。「本当は石津さんは(64年東京五輪の選手団公式服装を)デザインしてないんじゃないですか?」と言ってくるのは、そうした業界の仕組みを知らない人々である。

 

・石津謙介が、「監修者」あるいは業界的な言葉で言う「マーチャンダイザー」として、選手団公式服装を含む64年東京五輪のユニフォームの仕事を統率する役割を果たしたことは当時の資料から見ても事実である。

 

 

そこで、石津謙介が誰から何をどのような形で依頼されたかという疑問に対する明確な説明は得られなかった。祥介氏は、「赤にしたのは、国旗カラーですから、『何で?』ではなくて、『そうするのが当たり前』。今だって、アメリカとかイタリアはそれぞれ国旗カラーを主体にやるじゃないですか。あとは、ブレザーである以上、赤っていうのが一番ベーシックな色ですから」「エピソードみたいなのはあんまり聞いてないですね。というのは、あの仕事は、社長業を離れて石津謙介個人でやる〝先生業〟としての仕事ですから。あまり会社へは持ち込んできませんでした」と話した。また、A氏は、こちらが望月の存在を示唆すると、「数年前に、本当は望月さんがやったんじゃないですか?と言ってくる人がいて、うちでは、それ以来、できるだけ、『監修をした』と言うようにしてきました」と言った。

 

しかし、「石津本人から聞いていることや資料に基づいて言えることとして、監修をしたのは事実です」と言い、そこで、先に「資料を誤読しないための前提」として注意を促した東京オリンピック組織員会編纂の『オリンピック大会資料集1~6』のコピーが示された。

 

A氏は、「レディースに関しては森英恵さん、芦田淳さん、桑沢洋子さん、石津謙介さんは入場式のあの服及び清掃員のユニフォームも含めてとかいう形で依頼されたんだと思います。資料から見ると、選手団の服のデザイナーの隊長が石津謙介であり森英恵さんでありということなので」と説明し、資料に目を落としながら、望月が石津の指示を受ける従属的な立場にあったということを強調した。

 

 

3-2.「名前を冠した仕事」ということをめぐって

 

さて、「他の著名な服飾デザイナーや建築家を見ても、その人物の名前を冠した仕事の全てを本人が手がけているわけではない」という主張をめぐって、なるほど、後年、「石津謙介デザイン」ということが通説化していたのは事実だが(注9)、既に触れた通り、64年東京五輪の選手団公式服装が石津謙介の名前を冠した仕事であったということは同時代資料によって否定される。64年当時の資料にはそれをデザインした人物として望月靖之の名前があり、一方で、石津を主題に書かれた当時の文章に彼がそれをデザインあるいは監修したという記述は見られない(注10)。

 

彼らが例に挙げた建築事務所の場合に即して言えば、いつの間にか、巷で、ある仕事の発注先として当時の資料に登場する無名の建築事務所とは別の著名な建築事務所がその発注を受けたかのように語られていたというのと同じである。だから、業界の仕組み云々は全く関係がない。

 

(注9)「石津デザイン説」がいつ頃どのようにして拡散されたかということについては別途検証が必要だが、今後の検証のための覚書として以下のことに触れておきたい。1995年に開催された「戦後のライフスタイル革命史:永遠のIVY」展と同時に日本経済新聞社から刊行された同名の書籍には、「VAN」の関係者や愛好者による60年代当時の回想が多く収められている。しかし、そこでは、誰も、64年東京五輪の選手団公式服装のことを話題にしていない。Yahoo!ニュース特集の記事でも触れたように、同年にパルコから刊行された『ストリートファッション1945-1995:若者スタイルの50年史』には、「VANの石津謙介が東京オリンピックの男子選手用のブレザーをデザイン」とあることから、この頃には、既に、「石津デザイン説」が通説化していたと考えられるが、一方で、当時は、まだ、「VAN」の歴史を語る言説と「石津デザイン説」との間に距離があったということになる。

 

(注10)1964年度のFEC(日本ファッションエディターズクラブ)賞受賞者は石津謙介だった。FEC賞とは、様々なメディアのファッション担当記者たちがその年最も業界に貢献した人物一人を選んで贈る賞であるが、石津の受賞を報じた当時の新聞雑誌の記事は、彼の一年間の仕事を振り返るくだりで選手団公式服装について何も言及しておらず、彼の活躍を最も詳細に記述している1964年12月7日の『朝日新聞』の記事でもスタッフ用ユニフォームのことしか触れられていない。ちなみに、石津謙介の自伝『いつもゼロからの出発だった』(PHP研究所、1998年)でも、スタッフ用ユニフォームの仕事については言及があるが選手団公式服装については何も触れられていない。

 

 

3-3.裏付けとして示された資料をめぐって

 

次に、「石津謙介が選手団公式服装を含む64年東京五輪のユニフォームの仕事を統率する役割を果たしたことは当時の資料から見ても事実である」という主張をめぐっては、A氏が裏付けとして示した東京オリンピック組織員会編纂の『オリンピック大会資料1~6』が裏付けとなりえないということを指摘しておかなければならない。

 

ここで、再び、この資料に注目しよう。そこおける石津謙介の位置を確認することは、いきおい、そこにおける石津と望月の関係を確認することでもある。何故なら、望月もまた、服装審議委員の一人として、スタッフ用ユニフォームの選考に携わっていたからである。

 

「服装審議会」は、伊東茂平、諸岡美津子、丹下健三、秦万紀子、今和次郎、勝見勝、望月靖之、有馬真喜子の8名にJOCの委員で「服装小委員会」のメンバーでもある柴田勝治と近藤天、さらには、東京オリンピック組織委員会事務局総長と次長の2名を加えた合計12名の委員によって構成されていた。ちなみに、これら12名の委員のうち、主導的役割を果たしていたのは伊東茂平と諸岡美津子(ともに服飾デザイナー)で、1964年2月8日、彼らによって、スタッフ用ユニフォームの指名コンペに参加する服飾デザイナーおよびテイラーが選出された。安東武男、芦田淳、石津謙介、伊東達也、小林秀夫、久我アキラ、国方澄子、桑沢洋子、西田武男、宮内裕、森英恵、斎藤主司、今井文治の13名である(注11)。つまり、「服装審議会」において、石津は、望月を含む12名の服装審議委員によって審査される立場にあった。

 

先述の通り、この資料に選手団公式服装に関する記載はなく、石津と森に優越的役割が与えられていたと読める記載もないわけであるから、A氏が裏付けとして示した資料は、A氏の主張を否定する材料にはなりえてもそれを裏付ける材料にはなりえないということになる。

 

ちなみに、森英恵事務所は、森が64年東京五輪の選手団公式服装のデザインあるいは監修に携わったということを明確に否定している。「森がデザインしたのは選手村の作業員の女性用ユニフォームのみです。選手団の方には関与しておりません。監修を任されたというようなこともありません」との回答だった。この回答は、『オリンピック大会資料集1~6』の記載内容と一致している。

 

(注11)『オリンピック大会資料1~6』には、「2月8日伊東委員から14名の服飾デザイナーの推薦があった」とあるが、その名簿を見ると、13名の名前しか記載がない。その後の審査の記録には名簿に名前のなかった杉野芳子が登場するので、記載漏れの可能性がある。

 

 

3-4.主張の一貫性をめぐって

 

それでも、石津事務所が長く一貫した主張を続けてきたのであれば、石津に近い人物の「証言」として、いくらか顧みるべきものがあるかもしれない。しかし、彼らの発言内容には変遷が見られる。

 

2007年4月に刊行された『DANKAIパンチ』第5号の記事において、A氏は、「東京オリンピックで日本選手団が着てた赤いブレザーって、謙介さんデザインなんでしょ」という問いかけに対し、「それ、この間も親父(祥介氏)と『どうなんだろ?』って話してたんだけど、たぶん監修をしたんだとは思う」と答えている。64年東京五輪の選手団公式服装と石津謙介の関わりについて、彼ら自身が確かな何かを把握しているわけではないということをうかがわせるやり取りである。

 

一方、2013年11月28日の『繊研新聞』に掲載された「赤いブレザーからそれは始まった」と題する広告記事では、『男子専科』元編集長の近藤恒介と祥介氏との間で、「石津謙介さんがデザインした真っ赤なブレザーが印象的だったことはたしかですね」「選手団のブレザーは親父がデザインし、生地は大同毛織製で300以上のテイラーが縫製して仕上げたと聞いています」というやり取りが交わされている(注12)。そこには、「監修」という言葉は登場しない。また、事実関係をめぐって不確かな部分があるということをうかがわせる発言も見られない。

 

 

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2013年11月28日の『繊研新聞』に掲載された広告記事

 

 

(注12)『繊研新聞』編集局の説明によると、この記事は、日本メンズアパレル協会が主催する「ベストドレッサー賞」の広告企画の一つとして持ち込まれ、その企画に基づき、石津祥介、近藤恒介、小久保恵司による鼎談の模様を同紙の記者が文章に起こしたものであるという。

 

しかし、2016年8月10日の筆者の取材に対し、彼らからは、先にまとめたような話とともに、「石津謙介がデザインしたということは周りがおっしゃっていることです」「うちは石津謙介がデザインしたということはそんなに主張していません」といういささか言い訳めいた発言があった。ちなみに、A氏は、2016年8月29日に別の報道機関が電話取材を行った際には、「『監修』に当たるのではないかと推測している」「関わったことを裏付ける確たる資料はない」「具体的に何をしたかはっきりしたことは分からない」「プロデューサーのような役割だったと思う」と回答したと聞く。

 

さらに、Yahoo!ニュース特集の拙稿や『東京新聞』の記事によって従来の通説に疑問が投げかけられた2016年9月6日には、石津事務所のホームページに掲載されている年表の「1964年(昭和39年)」の記載内容が特に説明もなく「オリンピック選手ユニフォームデザイン」から「オリンピックユニフォームデザイン監修」へと書き換えられた。また、同日中に、同事務所のFacebook公式ページには「下界では様々な話が出ているようですね。全部僕がやりました!なんて言ってないですよ僕は」「KEN from 天国」という投稿があった。 

 

以上のように、(1)石津謙介は64年東京五輪のどのユニフォームの仕事にどのような関わり方をしたのか (2)彼らの主張の裏付けとなる資料はあるのか (3)彼ら自身がこの問題について確信を持って主張できることがあるのか これら全てをめぐって彼らの発言には一貫性がない。

 

こうした発言内容の変遷も踏まえると、石津事務所の主張を信用のおけるものと判断することはできず、彼らから今後何か新しい発言が出てきたとしても、まずはそれを疑ってかかるべきだと注意を促さざるをえない。【次ページにつづく】

 

 

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