2017.08.17

核兵器と想像力――テクノロジーの〈いま〉を考える03

戸谷洋志 倫理学

文化

核兵器をめぐる議論が改めて熱を帯びている。2017年7月7日に国際連合で核兵器禁止条約が採択された。しかし、国際社会の足並みは揃っていない。一方、北朝鮮をめぐる情勢は緊迫化を極めている。こうした状況下で、唯一の被爆国である日本は、核兵器に対してどのような態度を取るべきなのかを、改めて問い直されているといえる。

ところで、そもそも、核兵器という巨大すぎる力は人間にとって何を意味しているのだろうか。何故、人類は依然としてこの危険すぎるテクノロジーをコントロールできないでいるのか。こうした問いを、哲学者ギュンター・アンダースとともに考えていこう。

人類は何故、核兵器をコントロールできないのか?

7月7日に、国連で核兵器禁止条約が採択された。条約では、核兵器の使用・保有・製造などが禁止され、これらの活動が幅広く違法化された。核兵器に関する国際的な条約は1996年に採択された包括的核実験禁止条約以来である。今回の条約採択が核廃絶へ向けた大きな一歩になったことは明らかであり、歴史的な画期的出来事であることは疑いえない。

その一方で、国際社会の間に広がる認識の隔たりも浮き彫りになった。唯一NATOとして交渉に参加したオランダは条約に反対し、シンガポールは棄権した。核保有国であるアメリカ、イギリス、フランスは共同声明を発表し、条約の現実的な有効性に対する疑念が述べられ、条約の署名に応じない姿勢を示している。また、アメリカの軍事力に安全保障を頼る日本も、同条約に署名しない見通しである。

条約に反対する国々の主張は一貫している。それは、たとえこの条約に参加したとしても、現実の核の脅威に対応することはできない、ということだ。たとえば、そうした脅威としては北朝鮮の軍事的挑発が名指しされている。結果だけ見れば、今回の条約採択は、核廃絶へ向けた世界の連帯を確認する、というよりは、安全保障を核に頼る国々と、そうではない国々との間に、埋めがたい溝があることを示した。

人類は、第二次世界大戦中の日本への原爆投下や、戦後のキューバ危機などを通じて、核兵器の危険性をすでに知っている。そうであるにも関わらず、依然としてそのテクノロジーに振り回され、議論は空転し、国際社会の連帯に混乱を生じさせている。何故、人類は核兵器を「コントロール」することができないのだろうか。この問題に正面から切り込んだ哲学者がいる。オーストリアの哲学者、ギュンター・アンダースだ。

想像力の有限性

アンダースは哲学者であると同時に、ジャーナリストあるいは反核活動家として知られている。学生時代はドイツで哲学を学び、ハイデガーから深い影響を受けている他、前回登場したアーレントと一度結婚している(その後離婚した)。ハイデガーやアーレントが技術に対して鋭い分析を繰り広げたのと同様に、あるいはそれ以上に、アンダースにとって技術は主要な問題関心であった。

アンダースは核兵器を現代の科学技術文明の象徴として捉える。ただし彼の問題設定は少し変わっている。彼は、核兵器の破壊力や殺傷能力の高さそのものを批判するわけではない。そうではなく、そうした破壊力や殺傷能力に対して、あるいは核兵器によってもたらされる破局の光景に対して、人間の想像力が十分に機能しなくなってしまうという現象を主題化するのである。アンダースは次のように述べている。

〔人間には〕水素爆弾を製造することはできるが、自分が製造したもののもたらす結果をまざまざと思い描く力はない。――同様に感情も行為におくれをとっており、何十万回も爆弾で破壊することはできても、死者を悼んだり後悔したりすることはできない。(ギュンター・アンダース『時代遅れの人間 上 第二次産業革命時代における人間の魂』青木隆嘉訳、法政大学出版局、1994年、p. 17-18)

たとえば次のような思考実験をしてみよう。誰かが誤って自分の指に針を刺したとする。そうした状況を想像してもらいたい。あなたはきっと、その人が感じるであろう痛みを、かなりはっきりと思い浮かべられるはずだ。では、それが包丁だったらどうだろう。まだ想像できるかも知れない。しかし、その結果その人が死んでしまうとしたらどうだろう。だんだんと想像するのが難しくなるのではないだろうか。死んでいくその人の苦しそうな顔や仕草を思い浮かべることはできるだろうか。

たとえば、そこで死ぬのが1人ではなく、2人だとしたらどうだろう。殺人の場面でも構わない。あるいは3人だったらどうだろう。想像力が逞しい方なら、もしかしたらまだ想像できるかも知れない。しかし、それが100人や200人だったら、きっとあなたが思い浮かべる光景には、何のリアリティもなくなっているだろう。たとえあなたが、1人が死ぬことと2人が死ぬこととの違いをはっきりと理解できるのだとしても、100人が死ぬことと101人が死ぬこととの違いは理解できないだろう。端的に言えば、それが人間の想像力の限界である。

広島に投下された原爆はたった1発で10万人以上を殺害した。当然、人間にはその光景をありありと想像することができない。もちろん、10万という数字の意味を数学的に理解することはできるし、それが悲惨な事件であることは理解できるだろう。しかし、そこで見えていたであろうもののディティール、その場に立ち込めていたであろう臭い、様々に入り混じっていたであろう音は、私たちには表象することができない。それは人間の想像力を超えた出来事なのである。

しかし、アンダースに拠れば、その核兵器を作ったのも同じ人間である。人間は、10万人を殺害する機械を製作することが可能でありながら、10万人の殺害を想像することはできない。ここに示されているのは、技術的な製作能力と、その産物に対する想像力との間に、埋めることのできない隔たりが存在するということである。アンダースは次のように述べる。

あらゆる能力には量と程度との特有の関係がある。「容量」「感度」「性能」「射程」がそれぞれに異なる。たとえば今日、大都市の破壊は、簡単に計画され、私たちが作った破壊手段で実行される。しかし、その結果を想像し、把握することはごく不十分にしかできない。――それにもかかわらず、想像できる煙や炎、残骸の曖昧なイメージは、破壊された都市を考えて感じられ、責任を負えるものの少なさに比べれば、それでもなお非常に多い。――あらゆる能力には性能の限界があって、それを超えると働かなかったり、変化を認められなくなったりする。諸能力の射程は完全に一致するものではない。(ギュンター・アンダース『時代遅れの人間 上 第二次産業革命時代における人間の魂』青木隆嘉訳、法政大学出版局、1994年、p. 280)

 

アンダースは、こうした技術的な製作能力と想像力の間にある「性能の限界」を、「プロメテウス的落差」と呼ぶ。プロメテウスとは、ギリシャ神話に登場する神の一人であり、人間に火を分け与えたことから、しばしば科学技術を象徴する存在として語られる。人間の諸能力にプロメテウス的落差があるからこそ、人間には核兵器がもたらす破壊力を想像することができず、その破局の可能性を前にして、奇妙なほどに無感動になってしまう。アンダースはここに科学技術のもたらす本質的な危機を洞察するのである。

落差を乗り越えるために

プロメテウス的落差は核兵器だけに固有の現象ではない。むしろ、圧倒的な破壊力をもつテクノロジーに対して、この落差は危機に対する無感動として常に現前する。たとえば、核兵器とは異なる例としてアンダースによって挙げられるのが、原子力発電所である。

たとえば原子力発電所は(意図的に世間の目から隠されているのではなくても)「何であるか」が分からないような外観を備えている。それは、煙突つきのモスクのように見える。そして少なくとも(これもその裏の事情の一部だが)それが何を成し遂げ、何事を引き起こすか、それがどういう法外な機能を秘めているか、どういう恐ろしい危険を隠しているかを示さない。原子力発電所関係者がいつも宣伝パンフレットに牧歌的な建物の写真をつけて、いかに安全であるかを「証明」しようとするのは決して偶然のことではない。(ギュンター・アンダース『時代遅れの人間 下 第三次産業革命時代における生の破壊』青木隆嘉訳、法政大学出版局、1994年、p. 471)

 

アンダースが主張する通り、原子力発電所は、悲惨な事故を起こす可能性を秘めているにも関わらず、「『何であるか』が分からないような外観を備えている」。その無害な外観から、事故発生時の光景を想像することは容易ではない。だからこそ私たちは、原子力発電所が引き起こしうる事故を具体的なものとして想定することができないし、その想定を根拠にした対処を講じることもできないのである。言い換えるなら、原発事故は常に「想定外」のものとして立ち現れるのである。

こうした状況に対して、私たちには何もなす術がないのだろうか。そうではない、とアンダースは主張する。科学技術の危険性は、その破壊力そのものにあるのではなく、その破壊力に対する人間の想像力の有限性にある。それが彼の立場だ。そうである以上、この危険性を克服するためには、破壊力を低下させることだけではなく、その破壊力に見合った想像力を養うことが必要である。アンダースは次のように述べている。

事態がこうである以上、すべてが消え去ってはならないとすれば、今日の重要な道徳的課題は、道徳的想像力を形成すること、すなわち、「落差」を克服して、想像力と感情の能力や可塑性を、私たち自身の所産の規模や、私たちが引き起こしうるものの見渡しがたいスケールに合わせ、想像力と感情を有する者を製作者である私たちと統合しようとする試みにあるのだ。(ギュンター・アンダース『時代遅れの人間 上 第二次産業革命時代における人間の魂』青木隆嘉訳、法政大学出版局、1994年、p. 186)

ここでアンダースは、プロメテウス的落差を克服し、科学技術の破壊力に適合した想像力のあり方を「道徳的想像力」と呼んでいる。この想像力はあくまでも「形成」されるべきものであり、意図的に育まれるもの、鍛え上げられるものである。科学技術を前にして、ただ漫然とそれを眺めているだけでは何も変わらない。重要なのは、その何でもないような外観を前にして、潜在的な破壊力を思い浮かべ、その破局の光景を思い起こす努力をすること、あるいはそうした訓練をすることなのである。

想像力は鍛えられなければならない

以上のようなアンダースの哲学を踏まえた上で、最初に立てた問いに答えよう。何故、人類は核兵器をコントロールすることができないのだろうか。結論から言えば、それは、核兵器によってもたらされる破局が人間の想像力を超えているからである。

しかし、そうした状況に抵抗することもできる。私たちには自らの想像力を鍛え上げ、柔らかにし、拡大させていくことができる。私たちは、今まで想像できなかったものを、違った仕方で想像する可能性をもっている。核廃絶を理想に掲げるとき、私たちに求められているのは、想像できないものを想像しようとするそうした努力に他ならない。

たとえば広島に残されている原爆ドームは、「道徳的想像力の形成」にとって非常に大きい意味をもっているはずだ。核兵器とは何かを考えるとき、ロケットの形をした爆弾そのものを眺めるよりも、原爆ドームを直接に眺める方が、あるいは、その一枚の写真を眺める方が、私たちははるかに明瞭に核兵器の本質へと迫ることができるだろう。そうである以上、核兵器をめぐる議論において、歴史の記憶を真摯に反省する姿勢が格別な意味で要求されているのである。

プロフィール

戸谷洋志倫理学

1988年、東京都世田谷区生まれ。専門は哲学、倫理学。大阪大学大学院博士課程満期取得退学。現在、大阪大学大学院医学系研究科 医の倫理と公共政策学教室 特任研究員。現代思想を中心に、科学技術をめぐる倫理のあり方を研究している。第31回暁烏敏賞受賞。近著に『Jポップで考える哲学―自分を問い直すための15曲』(講談社/2016年)がある。

この執筆者の記事