日本の道徳教育、どこが問題なのか?

パン屋が和菓子屋に

 

荻上 さて、今回の教科化に伴って、文科省による道徳教科書の検定が実施されました。その際、一部の出版社が教科書全体の表現について指摘を受け、その結果、文科省の意図を汲み取る形で“忖度”し、表現を改めたことがニュースとなりましたね。

 

いくつかの例を挙げますと、たとえば、東京書籍社の小学校4年生の教科書に掲載されている「しょうぼうだんのおじさん」というタイトルのお話。これに対しては、学習指導要領が求める「高齢者に尊敬と感謝の気持ちを持って接する」という扱いが教科書全体に不足している、ということで、「しょうぼうだんのおじいさん」に変え、挿絵を高齢の男性に差し替えたという訂正がありました。

 

また、今回とくに話題となったケースとしては、東京書籍社の小学校1年生向けの教科書で、全体として「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」という点が足りないと指摘を受け、パン屋を和菓子屋に変更したところ検定に通ったとのことでした。また、学研教育みらい社の小学校1年生の教科書も同様の指摘を受け、アスレチックのある公園の画像を和楽器店の画像に差し替えたところ検定に通ったという事例があります。

 

こういった修正について、池田さんはいかがお感じですか。

 

池田 どれも取ってつけたような内容になっていますよね。そもそも、形式さえ整えればよいといったことになってしまっているのが問題だと思います。結局、教科書を作ろうとすると、こういうことになってしまうのだと思います。

 

本来、道徳は生活に根ざしているものです。具体的な人間関係や社会的環境に応じて「優しさ」や「思いやり」といった価値観の中身も変わってきます。この場面ではこの行動が優しさのあらわれかもしれないけど、違う場面では異なるかもしれない。そういった部分も見ていかなければいけないのに、教科書にはそういうことは具体的過ぎて書ききれないので、結局、実際の複雑な価値判断の部分は排除して、単純化した、しかも子どもたちの生活から遊離した場面での特定の徳目を示すだけになってしまいます。道徳的判断には柔軟性が要求されますが、教科書になることで、かえって子どもの方も融通が利かなくなってしまうのではないかと思います。

 

たとえば、今回の教科化のきっかけにもなったいじめ対策ですが、そもそも、いじめが悪いことだと知らない子どもなんていません。「仲良くする」という価値を知らないからいじめているわけではないんです。子どもは、言葉を覚えると同時になんらかの価値もセットで覚えています。

 

たとえば幼稚園生の遊びの場面でも、「○○ちゃん、ずるい」と言ったりしますよね。すでに、ずるいかずるくないかの価値判断をしているということです。ただ、その判断基準は人それぞれ異なります。そして小学校に入学すると、その基準が周りの人とぶつかり合うかもしれません。その時に、みんなと生活する場面をどう調整していくのか。それは、形式的な道徳教育ではなく、市民教育という範囲で調整していくべき課題になると思います。

 

荻上 今回の教科書検定の基準となっている、学習指導要領が定める22の内容項目というものがあります。これはどういった内容なのでしょうか。

 

池田 自立、正直、節度などさまざまな項目がありますが、これらの項目自体は、これまで教科ではなく「道徳の時間」であった時のものと大きく変わっていないんですね。言わば、それが今回の教科化で文科省が「今までとあまり変わりませんよ」と言える根拠の一つではあると思います。

 

ただ、学習指導要領は法律ではありませんから、簡単に変更することができるんです。教科化さえ実現されれば、さまざまな内容項目も後からいくらでも変えることができる。評価に関しても、文科省は「数字・記号での評価はしない」と言っていますが、今後どうなるかは全くわかりません。国旗・国歌法の時と同じで、当初は強制しないと言っていたのに、実質はそうなっていない、ということになりかねません。

 

荻上 今回の学習指導要領は他の教科でも話題となっています。たとえば歴史の教科書で「聖徳太子」という表記を、「厩戸王(聖徳太子)」に変えようとしたところ、「児童が混乱する」「ナショナルアイデンティティーが損なわれる」という反対の意見が集まり、見送られたという経緯がありました。

 

また、セクシュアルマイノリティの人権について保健体育の授業で教えるべきという意見が出ていたのですが、これに対しては、「まだ国民の理解が得られていない」という理由で不採用となりました。しかし、「誰もが異性に関心を持つ」というのは、多様な性を生きる人が存在するという確かなファクトがあるので、社会科学的に見ても誤りだと言えます。道徳教科書の訂正についても言えることですが、国の側が、科学的根拠に基づかない“なんとなくの空気”で判断していることが問題ですよね。

 

池田 そう思います。道徳を教科にするとはいっても、今回のものは倫理学や哲学の研究を背景としているわけではないので、どうしても教科にはなりえないのです。文部科学省としてもそれは分かっているからこそ、「特別の教科」と言わざるを得なかったのではないでしょうか。実践としては、どうやら徳目と言われている事柄を読みもの教材を中心に形式的に示していくことになりそうですし、「議論する道徳」だと言われても、評価の重圧があるので、議論の多様性は実際には確保できないでしょうから、今後の動向はまったく楽観視できない状況だと思います。

 

池田氏

池田氏

 

道徳教育はいじめ対策に有効なのか

 

荻上 また今回は、すべての教科書に「いじめ」に関する内容が盛り込まれました。教科書におけるいじめの扱われ方や、いじめ問題について池田さんはどうお感じですか。

 

池田 戦前にもいじめはあったわけですから、道徳教育を充実したからといっていじめがなくなるわけではないと思います。また、行動の面だけをとって「暴力はいけません」と言うのではなく、「いじめがなぜ起こるのか」についてもっと丁寧に見なければいけませんよね。

 

たとえば、なぜ暴力をふるってしまったのか、なぜ意地悪なことを言ってしまったのか、この子は日常の生活の中で簡単に他者には言えないような苦しい状況にあるのかもしれない、あるいは、学力競争でストレスが溜まっていて、つい心にもないことを言ってしまったんじゃないか。いじめのことを真剣に考えようとするなら、こういった子どもたちの置かれている環境を構造的に見なければいけないと思います。

 

現在の教育政策全般に言えるのは、見た目上の良さ・悪さばかりに着目して、それをモグラ叩き的に潰せばいいんだ、という考え方をしていることだと思います。

 

荻上 環境要因に着眼したいじめ対策では、どんなストレスがいじめにつながったのかを分析し、教室や学校の環境改善につなげようという議論が行われています。そのため、道徳の授業の時間だけではなく、学校生活のさまざまな場面でアプローチを取る必要性がある。しかし、道徳が教科化されることによって、「道徳の時間にいじめ対策をしているんだから、いいだろう」と学校側が気を抜いてしまう可能性があるような気がします。

 

池田 それは子どもたちの側にも言えることですね。授業だけで良い答えを言っていればいいと判断するようになってしまうかもしれません。一方で、個人の価値観に対して常に公的な眼差しを向けられている中で学校生活を送るというのは、子どもたちにとって非常にプレッシャーだと思います。

 

荻上 いじめに関してはさまざまな統計が取られていますが、同調圧力が強かったり、学校の先生が道徳的な価値観を押し付けがちな教室では、いじめが起きやすいことがわかっています。たとえば、「一人の失敗はクラスみんなの責任だ」と言って罰したり、服装チェックを厳しくする、集団行動を増やすといじめが増える傾向があります。一方で、多様性に寛容なあり方を教える教室ではいじめが少なくなります。

 

「道徳」と聞くと、一つの型にはめるものなのか、共生するための知恵を身につけるものなのか、全く違う二つの方向性が連想されますよね。この取り扱い方も、現場に委ねられてしまうのでしょうか。

 

池田 多様性という観点については、今の教育政策で盛んに取り上げられていて、文科省も尊重すると言っています。しかし、それが現場にどう降りてくるのかは難しいところですね。一方で、学力向上という目標もあるため、しかも新しくなった学習指導要領では、「できる・できない」が重要な基準になっています。また、本来は個人の自由であっていいはずの学ぶ意義についても踏み込んでいますし、教育方法にも踏み込んでいる。そこまで細かく決めておきながら、かつ多様性も尊重すると言われても、現場の先生はますます混乱してしまうと思います。

 

荻上 教科書を読んでいて、いじめに触れられている部分で気になる表記があったので一つ紹介します。教育出版の小学校4年生の教科書の「プロレスごっこ」という話の中で、「いじめを見て見ぬふりをする傍観者ではいけない」といった内容があります。

 

いじめ研究においては、「いじめの4層構造論」という有名な理論があり、いじめの被害者、加害者だけではなく、それをはやし立てる大衆と、見て見ぬふりをする傍観者がいて、いじめが成り立つとされています。この理論が誤って一人歩きするがために、「傍観者ではいけない。いじめを注意する仲裁者にならなくてはいけない」というイメージが広がってしまっています。

 

大人でも、目の前でトラブルが起きていたら自分で止めに入るのではなく、警察に通報するなどプロフェッショナルに頼りますよね。いじめにおいても、まずは先生に通報しやすい制度を作って、通報者となる子を増やす。あるいは、いじめられている子に対して、いじめられていないところで「私は味方だよ」とメッセージを出して居場所を作ってあげる。そういった様々な方法があるにも関わらず、十分な議論は蓄積されていません。

 

池田 いじめ研究は、現状を分析して記述しているので、そのことから必然的に望ましい行動のあり方が直接的に導かれるわけではありません。これは、とくに社会学的な研究が人々に誤解を与えてしまう点ですね。「傍観者」という存在がいじめの構造的分析によって明らかになったとしても、「傍観者でいてはいけない」という価値がそこから導かれるわけではありません。少なくとも、いじめを社会的な課題として設定すれば、今おっしゃったような多様なアプローチを示すことになっていくと思います。ただ、道徳はあくまでも個人の心の問題に着目するので、どうしても自分の行動のあり方の話になってしまう。そこが、人権教育と道徳教育の決定的な違いです。人権教育は、社会的な課題として問題状況に迫ろうとします。

 

 

フランスの市民教育と日本の道徳教育

 

荻上 池田さんはフランスの教育政策についても研究されているとのことですが、フランスにも道徳教育はあるのですか。

 

池田 英語に直せば「モラル・エデュケーション」と呼ばれるような教科はあります。ただ、フランスはもともと市民教育がベースにある国で、共和国としての価値観を大切にしているので、基本となるのは「みんなで共に過ごす社会を作るためのルールを教える」という内容で構成されることになります。ですから大前提として、個人の価値観に関することを公教育で取り扱うなんてありえないわけです。また、フランスでは知識を伝える場所が学校であり、徳育は基本的には家庭に任せるという大原則があります。日本の道徳教育と似ているように見えて、根本のところが違うわけです。

 

荻上 異なるルーツや宗教を持つ子が同じ教室で学ぶことも少なくないので、学校では特定の価値観を押し付けないことが前提となっているんですね。

 

池田 フランスで言われている「モラル」も、その教科書を見ると、一見すると日本の道徳教育と似ています。社会や国家との結びつきを重視する記述もあります。しかし、そもそも「国家」とは何でしょうか? 「日本という国を図で描いてください」と言われたら、みなさんは何を描きますか。大概の人は、日本列島の形、地図を書いてしまうと思うんです。一方で、ヨーロッパの言語では、英語で言えば、国とはState、つまり状態とか地位を意味の言葉で表されるわけです。要するに、システム、統治機構のことを指しているんです。ですから、「国を図で描け」と言われれば、たとえば三権分立の図を描くわけです。あるいは選挙制度の図を描くかもしれません。これが国家ということです。

 

フランスの憲法に「愛国心」と訳せる一節はあるのですが、正確にいうと、共和国を成り立たせている民主主義の原理に愛着を持ちましょうという意味です。しかし、「国家」として日本列島という土地をイメージしてしまう日本では、「国を愛する」と言うと簡単に「国防」という発想にスライドしてしまう。そして、日本という国は初めから、今日のような日本列島という土地の形で存在していたのであり、そこに初めから住んでいる人が日本人なのだ、というイメージになってしまいます。

 

荻上 そこに古事記やさまざまな神話が加わって、島の意識と国体のイメージが天皇制の元で結びついてしまう、ということなんですね。

 

池田 はい。国を描けと言われて三権分立の図を描くような人たちは、自分たちでどうやって社会を作ろうかと考えます。だからこそ、多様性を尊重しなければ自分たちの生活が成り立たないと認識しているわけです。それは、日本の道徳教育における、個人の価値観をコントロールしようという考え方とは全く違うわけです。

 

荻上 なるほど。最後に、これからどんな道徳教育のあり方を議論すべきだと思いますか。

 

辻田 具体的には、戦後すぐに導入された社会科を再評価すべきだと思います。本来は、まさに今お話にあったフランスのような市民教育を目指していたわけです。それを潰すために道徳が作られたわけですから、まずは社会科のあり方を考え直すことが、道徳教育について議論する上で参考になるかと思います。

 

池田 道徳は価値観の教育なので、当然、ぶつかり合うことがあります。そのぶつかり合いをどう調整するかを、しっかりと学校教育で取り組まなければいけません。

 

今の状況を見て、私個人としては、戦前の日本に戻ってしまったと感じています。2002年に健康増進法という法律ができましたが、日本国憲法25条では、健康は国民の権利と書かれているのです。しかしこの健康増進法では、健康であることは国民の責務、つまり義務だと書かれています。一人一人の生活習慣のあり方、たとえば何時に寝て、何を食べるかといったことまで公的に問題にしてよい、監視の対象としてよいということになりました。つまり、わたしたちの身体はすでに国家の管理下に入っているのです。

 

そして今回の道徳の教科化によって、心の中までも、公の眼差しのもとに晒されることになりました。そして昨年、安全保障法制も成立しました。健康にまず着目して生活の在り方を統制し、教育を通して心の統制をしていく、そして、武力行使可能な法整備もできた。これはまさに、かつてのドイツ、ナチスがやったことと同じです。非常に危機感を覚えます。政策の謳い文句として盛んに「教育再生」と言われていますが、その「再生」とは、戦前への「リピート」という意味だったことが明らかになったと思います。

 

荻上 そうした歴史の反復を避けるためにこそ、これまでの歴史を知る意義があります。そこから今後の国のあり方を考えることを、道徳を巡る議論の一連から学ばなくてはいけないなと思いました。池田さん、辻田さん、ありがとうございました。

 

 

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『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年』(文春新書)

辻田真佐憲

 

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『フランスの移民と学校教育』(明石書店)

池田賢市

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vol.220 特集:スティグマと支援

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