東日本大震災、仮設住宅に移るまでに起きたこと

はじめに


前回の投稿「東日本大震災、体育館避難所で起きたこと」では、震災から4年以上が過ぎているにもかかわらず想像をはるかに超える反響をいただきました。

 

「自分も考えます」「家族と話してみます」というコメントが多く、防災や減災に取り組んでくれる人が多い、思ったほど風化していないと感じることができ嬉しく思っています。防災の基本は家庭教育だと思っています。備える・身を守る・避難する・二次災害を防ぐ。これは、学校で短期間に学ぶよりも家庭で子どもや孫に繰り返し「刷り込む」ように教えることが効果的だと思います。

 

一言で「防災」といえども、災害の種類によっても対策が異なります。地震のように現在の科学では詳細な予測が不可能なものから、台風・豪雨・豪雪のようにある程度予想可能なもの。津波や噴火や豪雨など、逃げることが有効なもの。深夜の豪雨や豪雪のように逃げることに危険を伴うもの。すべての災害に有効な手段はないとも言えます。

 

万が一に備えて、多くの情報を手に入れてほしいと思います。私のように過去の災害時の様子や対応を発信している人や、専門家の方も多くいますので、地震だけではなく、他の災害についても、ぜひ探して読んでみてください。

 

今回も米崎小学校の体育館避難所で起きたことを紹介します。前回は主に災害発生から避難所前半を中心に書きましたが、今回は避難後にどのようなトラブルがあったのか。また、避難所から仮設住宅に移るまでのことを書きたいと思います。今後の避難所運営マニュアル策定の参考や各家庭で防災や減災を話し合うきっかけしていただければと思います。

ただし、ここに記すことは避難所運営の一例であり、最善の策ではないこと、ここの避難所では起きなかったトラブルもあるということを心に留めて置いてください。また、ここに記すことは、私個人が思いついたことではなく、運営役員を担ってくださった皆さんが感じ、考え、自分に相談してくださった結果だということも記しておきます。

 

 

どのように生活環境を確保したのか

 

<マットやゴザをしきつめた>

 

米崎小学校の体育館は中学校の体育館に比べて一回り狭いサイズです。バレーのコートを二面並べてラインが引いてありますが、サーブする場所に立つと手が壁にぶつかるくらいと言うとイメージできるでしょうか。3月12日には、フロアスペースに300人以上が泊まりました。

 

米崎小学校は避難所の設定がされていなかったので備蓄倉庫はありませんでした。ですが、住まいを流され学校に寝泊りしていた副校長に相談にのっていただき、学校の備品をお借りしました。加えて、初日に避難していた中学校の柔道用の畳や体操用マット、ダルマストーブなども小学校に運び使わせていただきました。

 

体操のマットや敬老会などの地域行事に使うための長いゴザも敷物に使い、狭いながらもほとんどの人が床に直接寝ることなく過ごせました。5、6年生が太鼓を叩いているため、太鼓保管と運搬用に20枚くらいの毛布も用意されていて寝る時や防寒に使いました。

 

電気を使わないタイプの灯油ストーブが小学校にもあり、灯油の備蓄も18リットルポリタンクで3~4本あったと思います。しかし、天井の高い体育館では熱は上に逃げてしまい、室内を暖めることはできません。それでも凍えた指を暖めることはできます。ヤカンや金属のタライに水をいれて乗せることにより乾燥防止と調理用のお湯の準備にもなりました。

雨風をしのげる場所はできましたが、電気なし、電波なし、情報なし、帰る家などもちろんありません。当初は、ここで何日過ごすか、いつ支援が来るのかも定かではありません。横になると余震への恐怖とこれからの不安で気持ちがいっぱいになり、すすり泣きがあちらこちらから聞こえてきました。

 

 

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<土足生活から土足禁止へ>


東日本大震災の時のマグニチュード9,0と最大震度7は皆さんの記憶にしっかりと刻まれていると思います。

 

しかし、それ以外にも震度5を超える余震は短期間に何度も襲いました。米小避難所で恐ろしかったのは何度も襲う余震により体育館が揺れることを中にいながら見ていたことでした。体育館が倒壊するのではないか、体育館の上のほうにある大きな窓が割れて頭の上から降ってくるのではないかという恐怖感とも戦っていました。

 

そのため、ガラスが降ってきても、いつでもどの出入り口からでも避難できるように体育館内をみな、土足で生活していました。

 

しかし、寝たり食事をとったりする空間に土ぼこりが舞う生活は体に良くありません。看護師さんの知識を生かし、喉の防塵と寒さ対策を兼ねて支援物資で届いたマスクをして寝ることにしましたが、マスクをして寝たことがない人には苦痛のようでした。2~3日もすると、ほとんどの人はマスクをせずに寝ていました。

 

震災から一週間目には余震も少なくなったので、10日目に体育館内を土足禁止にしました。あわせて、各世帯の並びを変えて、地域ごとに区画を作ってお互いに健康管理に目を配ってもらうように配置換えをしました。

 

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<医療>


治療と健康管理を目的に日本赤十字チームや岩手県の医療チームが定期的に回ってきてくださいました。

 

しかし震災直後は電波もなく救急車を呼ぶことができません。その対応として(どちらの計らいか分かりませんが)大船渡市の自動車専用道路から岩手県立大船渡病院に降りる救急車進入専用道路を開放していただき、被災者の車を通していただき対応しました。

 

この対応は、すべての避難所に連絡が届いていたようで、避難所ごとに登録された車両の前面に緊急車両と書いた紙を貼り、急病人の際に通らせていただきました。特に、透析を必要とする人が米小避難所にも数人いたため、救急ルートを通していただけることが、とても助かりました。

 

 

<調理場>

 

米小避難所では当初、近くの保育園の調理室で食事の用意をしていました。小学校の調理場は校舎の壁がひび割れていたため、ガスの安全性に問題があったからです。しかし、4月と同時に保育園の再開予定が立ち、4月10日までに保育園を空けてくださいと連絡が来ました。つまり調理場を使えないことになったのです。

 

修理された小学校の調理場を使わせてもらおうかとも思いましたが、小学校も再開するでしょう。また、小学校の調理場は体育館から一番遠い所にあり、運搬の際に校舎を汚す可能性もありますので、別の方法を考えることにしました。

 

そこで、サッカーゴールを基礎にして津波で流れ着いた木材と支援で届いたシートを使い調理場を作ることにしました。役員の自宅の裏に保管してあったイベント用の長い流し台を運び込み、自作の調理場ができました。

 

4月11日に微弱ですが携帯の電波が届き出しました。そのタイミングで、自分が過去に務めていた会社(山形県米沢市)の社長から電話があり、大型の鍋を使える五徳とまな板数枚と包丁と大き目の鍋を送っていただきました。大人数の調理に非常に助かりました。

 

 

<防犯活動>

 

震災から半月ほどはガソリンも軽油も灯油も手に入りません。被災し流された車はいたるところにあり、その車の燃料タンクがこじ開けられ燃料を抜かれた車は数多くありました。それほど燃料に窮していました。災害時ですので、それが犯罪に当たるかどうか私には分かりません。小学校に駐車している車からガソリンが抜かれたこともあります。

 

こんな例もありました。

 

消防団が捜索活動をしていると、ドラム缶が瓦礫の中から半分見えています。漁業の町では、船舶の燃料をドラム缶にストックしているので、それが流れ着いていたのです。中身は軽油で、所有者の名前も書いてあります。それを所有者から許可をいただき、避難所の入り口近くに置きました。被災した道路を片付けている土建業者さんに渡したり、避難者のディーゼル車用にも入れたりと活用していました。

 

しかし、避難所の入り口近くに置いたそのドラム缶から軽油を抜かれました。声をかけてくれれば譲る物を内緒で持っていく。悲しい現実です。犯人が誰かはわかりません。怖いのは、軽油やガソリンを素人が内緒で扱うことです。火災の危険もあります。

 

そこで、米小避難所では毎晩、体育館周辺から駐車場や学校の校舎までを巡回しました。全員で当番を決めることも考えましたが、当番を決めることにより防犯の情報が外に漏れることを心配した役員の声もあり、私と声掛けした友人たちとの少人数で行いました。

 

避難所にいる人には毎晩巡回していることは知らせていましたが、巡回時間は知らせず、不定期な時間での活動でした。その後、燃料の盗難はなくなりましたが、4月中旬までは毎晩巡回していました。

 

 

運営役員決定


消防団の先輩に命じられて、運営役員を引き受けることになりました。そこで、すべてを一人で抱えない方法を考えました。

 

受付、あいさつと御礼、物資の管理と配布、避難所運営の決定と周知、食事の調理と配膳と食器洗い、生活環境の改善、看護、会計など、避難生活をやっていく上では、様々な役割があります。自分ひとりではできない事はわかっていました。

 

運営役員を他にも頼まないといけませんが、大変な仕事になるでしょうし、断られてしまうかもしれません。

 

幸運だったのは、祭りの際に音頭をとっていた人が多くいたことです。祭りの運営に関わっていると、地域の人とつながりを作ることができます。

 

隣の祭りの組でも運営に携わった人とは知り合いとなり、性格・職業・得意分野を知ることができます。祭りの際に音頭を執れる人はここでも頼ることができる。避難所で必要な役割は祭りでも必要な役割です。

 

選んだ役員候補に「運営役員になってください」と声をかけると、一瞬考えますが全員「わかった」と言ってくれました。そうして会長以下10人の役員を選任し、私は総務担当になりました。全体の不安を考えると、役員の選任は早いほうが良いのかもしれません。

 

被災者も運営役員だけが動いていたわけではありません。大工さんや看護師さんのように専門の知識を持つ人はその分野を優先に担当していただきましたが、他にも支援物資の搬入や整理、調理や配膳、食器洗い、生活改善とやるべきことはたくさんあります。

 

自分と家族の物をボランティアさんに運ばせるわけにもいきませんので、皆で力を出し合い、できることは各自でしてもらいました。

 

また、生活する中でゴミが出ます。毎朝、風が吹く前にそのゴミを焼却していましたが、数人で済む量ですが、10人以上が焼却作業に行きます。(田舎なので野焼きができました)それくらい「自分も何かしなくては」という意識を皆が持っていてくれました。

 

毎日迷うことが発生するなか、私が運営しながら心がけたことは二つです。

 

一つ目は、解決を明日にしていても問題は増えるばかり。明日の最善より今の次善と考え即断し、すぐ動く。ただし、疲れきっている避難者は無理に動かさない。ということ。

 

二つ目は、被災者全員のことを抱えるには自分には能力が足りませんので、「せめて、わが子が安心して居ることができる避難所にしよう」と頭に置き、選択に迷った時は、わが子の顔を頭に浮かべて決断しました。【次ページにつづく】

 

 

 

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