2014.03.15

落語における怪談とは

五街道雲助さんインタビュー

情報 #synodos#シノドス#芸術選奨文部科学大臣賞

芸術分野で優れた業績を挙げた人に贈られる芸術選奨文部科学大臣賞を、落語家の五街道雲助さんが受賞した。これを記念して、8月15日のα-Synodos130+131号より、インタビューを転載する。(聞き手・構成/山本菜々子)

「怖い」を押しつけない

―― 今回は、雲助師匠に落語における「怪談噺」についてお話伺えればと思います。雲助師匠といえば三遊亭圓朝(1839‐1900)作の怪談噺に積極的に取り組まれており、夏場は師匠の怪談を聞くために多くの方が集まります。落語といえば、笑える話ばかりのイメージが強いですが、怪談などの怖い話もあるんですよね。

そうですね。「落語」というと滑稽な「落し噺」を多くの人は想像しますが、「怪談噺」や「人情噺」と呼ばれるものもあります。

今の寄席は10日間の興行ですが、昔の寄席はだいたい一か月間も興行が続きました。どんな落し噺の名人でも、一か月連続で、お客を呼び続けるのは大変です。「今日はいいや、雨降っているから辞めよう」とお客さんが来なくなってしまう。どうやったらお客さんがずっと来るのか考えた時に、次の日にまたいで続く噺を思いついた。今の連続テレビ小説みたいなもんで(笑)。「この後は、また明日申し上げます」と良いところで切り上げて、ひと月お客さんを引き続けることをやっていた。

私はそれらの「落し噺」には入らない続きものの噺を「世話噺」と命名しています。この中に、いわゆる怪談噺の要素が入ったものがあるんです。この続きものの噺で有名なのが、三遊亭圓朝師匠です。師匠がつくった噺には笑いの要素が少ない続きものが多い。それらの噺はよく「圓朝もの」といわれます。

―― 一日では終わらない話を「世話噺」と名付けているということですね。

私がいう「世話噺」は、昔は「人情噺」と呼ばれていました。でも、「人情」と言うと勘違いしてしまう人が多いんです。昔はよく「人情噺ができないと真打じゃない」と言われていましたが、それはお客さんを泣かせないとダメだという意味じゃない。一か月の間お客さんを引きつけられる力があるから「真打」という意味だった。でも、今はやたらお客さんを泣かせにかかる噺家もいる。お客さんもそういうものだとおもっているふしがある。泣かせるだけが人情ではなく、喜怒哀楽といったさまざまな人間の情を織り交ぜて、ストーリーをこさえていくもんなんだけどね。

だから、私は「怪談噺」というのも厳格には区分けしていないんです。「圓朝もの」の中に怪談のようなストーリーがありますが、圓朝師匠としては怪談としてつくったわけではないと思っていて。何話もある話の中の、一席だけを取り出して、怪談噺といってやるようになったんです。

―― 雲助師匠自体には怪談をやっているという認識はあまりないということですか。

私の中では無いですね。一言で「怪談」といっても、さっき言ったような世話噺タイプの怪談もありますし、お化けが出て来るコミカルな落し噺の怪談もあります。

そもそも、怪談噺をしようと思っていたわけではなく、世話噺を勉強しようと思っていたんです。圓朝ものの「真景累ヶ淵」の中に「豊志賀の死」という一席があるのですが、お客さんに「怖い噺ですよね」と言われ初めて気づきました。自分としては怪談だと認識していなかったけど、展開が怖いようですね。

アメリカのホラーだったら、光や音で脅かす部分がありますが、日本の「怪談」って情念が絡み合ったところに怖さがあると思います。「豊志賀の死」も男と女の情念の絡み合いです。たぶん、「怖いだろう」と観客に怖さだけを押しつけて、情念を粗末にしてしまったらちっとも怖くない。情念をしっかり描けば自然と怖くなるような気がしますね。

「牡丹灯籠」の「お露新三郎」もロマンチックですが怖い。両思いであったお露と新三郎ですが、お露が死んでしまい、幽霊となって新三郎のもとを訪ねるという話です。なんともいえない綺麗さがある。静かで怖いんですよね。圓朝ものは、情を絡めていくと、怖い怪談になっていく話が多いんです。

―― お客さんから「怖い話をやって」という要望はありますか。

夏場になると会の主催者に頼まれることが多いですね。お化けが出て来る滑稽な怪談をすることもありますし、怖いタイプの怪談噺を頼まれると、「豊志賀の死」や「もう半分」をやります。

じつは、「もう半分」は冬の噺なんですよ。私がやっているのは「正直清兵衛」という噺から取ったもので、そうとう古い形です。原典では八百屋のじいさんを殺すのが雪の中なんですが、頼まれるのは夏が多いので、雪を雨に変えてやっています。

不思議なことに、みんな怖い噺を聞きたがるんですよ。昔はよく、小学生や中学生の前で落語をする学校寄席に行っていました。その時に、「面白い噺」「じんとくる噺」「怖い噺」のどれが聞きたいかと、生徒たちに聞くと、必ずみんな「怖い噺」と言うんですよね。人間はどうも、怪談に興味があるのかもしれません。私が子どものころも夏になると近所のおじさんが縁側に近所の子ども達を集めてちょっとした怪談話をしていましたね。

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―― 昔の寄席などでは、セットがあったり、前座さんが扮した幽霊が登場して脅かしたりと、大がかりな演出がよくされていたと聞きます。雲助師匠はこのような演出はされていませんよね。

やりませんね。確かに、昔の寄席などでは、焼酎で火の玉をつくったり、前座が扮した幽霊が出てきてお客さんを脅かしたりとさまざまな演出をしていました。林家彦六師匠なんかが有名ですよね。現在でも一部で続けられています。

―― 前座時代、幽霊役をしたことはありますか。

私はあんまり駆り出されませんでしたね。やっぱり幽霊顔ってあるんだよね(笑)。幽霊顔の人が師匠に指名されてやっていました。

―― 幽霊顔ですか(笑)。師匠がそういった演出をしないのはなぜでしょうか。

そもそも、なぜ昔は大がかりな演出でやっていたのかというと、芝居のミニチュア版としての役割があったからなんです。昔の人は芝居が楽しみでしたが、値段が高くて頻繁には行けなかった。だから手軽な娯楽として、芝居風の演出を寄席で楽しんでいた。圓朝もそういったやり方を当初はしていたようですが、後期からは素噺になっていったと聞きます。

当人に会って話を聞いたわけではないから、明確な理由は分かりませんが、素噺のほうがやりがいがあるんですよね。話に深く入っていける。演出ももちろん面白いんだけど、素噺の深くつっこんで人間を語れるところがすごく面白かったんじゃないかなと思います。

ホントの怖いとこ

―― 怪談噺の演出などで気をつけていることはありますか。

毎年一回は昔の寄席のように燭台を立て、ろうそくの明かりだけでやっています。今の照明というのは、影をこさえないような照明です。影が出ていたらそこを消すように照明を組み立てていきます。昔から味気のないことを「陰影がない」と言いますが、影が無い照明なのですごく味気がない。ですが、ろうそくを立てると火が揺れるもんだから、それだけで雰囲気が出て来るし、顔をずらしただけで影ができる。ろうそくの明かりというのは素晴らしい照明です。

今は消防法があるので、ろうそくの講演はなかなかやらせてくれないのですが、日本橋劇場だけはスタッフがとても協力的なので、消防署に掛け合ってくれて毎回実現しているんです。

そうそう、気をつけることと言えば、お墓参りには必ず行くようにしています。これは落語だけではなく、他の舞台でもやっていますよね。行かないと裏方の人がケガをしてしまったなんて噂はよく聞きます。

「豊志賀の死」をやった時に、豊志賀のお墓参りに行かなかったことがありました。まずいかなと思いつつもなかなか行けずにいたんです。そしたらある日、当時小さかった一番下の娘が豊志賀と同じ左目を腫らしているんです。どうしたの!? と聞いたら、「蚊にさされて腫れちゃった」と。蚊にさされたくらいでよかったけど、あれには驚いたね。すぐにお参りにいきました。

―― 怖いですね……。

それと、「真景累ヶ淵」の豊志賀と、「四谷怪談」のお岩さんは、一緒にやってはいけないことになっているんです。お岩さんは右目が腫れていて、豊志賀は左目が腫れている。一緒にやってしまうと祟られてしまうようなんです。それをすっかり忘れてしまって、鈴本演芸場で同時に「これをやります」とネタを提出してしまった。

すると、その10日前に倒れて入院してしまって。「二つ並べちゃまずいでしょ」と誰かに指摘されて、ああいけねぇ、と慌ててお岩さんを演目からはずしてもらいました。

そういう怖いところはありますね。一応、豊志賀をやる時には、全生庵にある圓朝師匠のところに頭を下げに行くし、お岩さんをやる時には田宮神社にいってお岩さんにお参りします。入院した時も事前にお参りはしたんだけど、お岩さんのところで千円札が無くなってしまったんで、「これで勘弁してください」と500円入れたんです。もしかしたら、それで祟られてしまったのかもしれませんね(笑)。

原作に忠実に

―― 「世話噺」に取り組もうと思ったきっかけはなんだったのでしょうか。

二つ目の時に、地方の落語会に呼ばれて行ったとき、当時は生意気な盛りだったから、「落語というのは(古今亭)志ん生みたいなもののことを言って、(三遊亭)圓生のようなものは稽古したらだれでもなれる」と打ち上げの席で言ったんです。

そしたら、そこに圓生師匠のファンがいて、「それじゃあ、あなたは圓生がやったように、『真景累ヶ淵』はできるのか、『鰍沢』はできるのか」と言われたんです。圓生師匠といったら、圓朝ものの名手ですからね。でも私は圓朝ものをやったことがなかったんです。「やってみてから言ってみろ」と叱られて。ああ、そうか、じゃあやってやろうじゃないかと思ったんです。

私がいうのは確かに正しかったんです。圓生には稽古したらなれる。でも、稽古の量が半端じゃない。

「世話噺」に取り組んだお陰で、基礎に立ち戻ることができました。落し噺というのは腹があって、それをカリカチュアライズするものだと思うんです。その腹の部分を勉強できたというか。いきなりピカソのような抽象画はかけないから、デッサンからはじめていく。このデッサンを勉強できたので、落し噺をしても腹の部分をしっかり演じられるようになった。それは大変ありがたくて、やってよかったと思います。

―― どちらも昭和を代表する名人と言われていますが、圓生師匠はまじめで写実的な感じて、志ん生師匠は自由で奔放な感じがします。

そうとも言えるだろうね。志ん生師匠や(桂)文楽師匠は、すごい名人だったと思うんだけど、亜流と言えなくもないんですよね。すごく良いのだけど、外れたところにいる。やはり、本筋としては三遊亭にあるんだと思います。その代り突拍子のない面白さはないと言えるのかもしれません。まぁ、三遊亭からも、川柳川柳さんのような人が出て来るからわかんないけどね(笑)。

―― 雲助師匠は、今はされていない昔の噺を発掘する作業もされていますよね。どのような方法をとっているんですか。

いろんな方法がありますが、私の場合は速記本を基にしています。まずは、圓朝師匠の速記本を古本屋で手に入れます。速記というのは圓朝師匠がしゃべったことをそのまま書いているので、もちろん間違えている部分やダブっている部分もあるんです。そこを自分で添削しながらやっています。

分からない言葉もあるので、いろんな資料を照らしあわせながら、ああでもないこうでもないとやっていくと、だんだんとその意味があぶり出されていく。今は使われていない言葉もあるので、うまく伝わるように、でも雰囲気は損なわないように言い変えています。

―― 途方もなく、地道な作業ですね。

そうですね。そこから覚えていきますから、もう大変です。誰かに教わることができたらまだ楽なんだけど、一から掘り起こさないといけない。

たとえば、圓朝ものだと、圓生師匠がやっている噺も沢山あるんですよ。でも、圓生師匠のやっているもので覚えてしまうと、味が無くなってしまうんですよね。なんだか軽いような気がします。圓生師匠で完成している芸だからコピーしても仕方がない。圓朝師匠がつくったものを忠実にやりたいんですよ。それと、絶対に自分の言葉でやらないようにしています。一度覚えて自分の言葉に置き換えてやると、すごく楽なんだけれど。やっぱりそれも味がなくなってしまう気がして。

―― 自分の言葉に置き換えないということは、一席ごとに一字一句噺を覚えなおしているということですよね。

そうそう。歌舞伎役者だったら一役のセリフを覚えればいいけど、何役ものセリフを覚えないといけないというのはけっこう大変ですね。

―― 「味がなくなるから」という理由だけでこんなに大変なことをできるものなんでしょうか。

たぶん、「原作に忠実にやりたい」という気持ちが私の中に抜け難くあるんだろうね。この前も、「はつ霜」という話をやったんです。これは宇野信夫先生が私の師匠(十代目・金原亭馬生)の為に書き下ろした作品です。最初はうちの師匠がやったテープを送っていただきました。念のため、「元の台本はないでしょうか」といって見せてもらったら、大分違っていました(笑)。とりあえずうちの師匠は置いといて、宇野先生のこさえた通りにやりましたね。

その人がつくったものを大事にしたいというか、「勝手に直すのはとんでもない」という気持ちがあります。自分なりにするのは簡単なんだけど、やっぱり嫌なんだよね。

―― 普通は、オリジナリティが大事だと、自分なりにしたい人が多いと思うんですよ。

原作に対する尊敬の念がやっぱりあるんでしょうね。圓朝師匠も大変な先達ですし、宇野先生も大変な劇作家です。オリジナリティよりも、原典の味を大切にしたい。ある意味、職人気質なのかもしれません。「古いものこそ新しい」じゃないけど、古いものに新鮮なところがあったりするんで。結構宝モノがうまっていたりするんですよ。それが、私が原典にあたる理由なのかもしれない。

―― 雲助師匠が今もなお、「世話噺」に挑戦するのはどうしてなのでしょうか。

一時は責任感というか、今やめるわけにはいかないという思いがあったんです。他に誰もやらないわけだから、私がやめたらここで終わっちゃうかなって。ここで終わってしまったら、自分達の年代の噺家の怠慢だと思ったんです。出来る限り後につなげたい。そういう気持ちもあったんだろうね。

はじめた当初は、こんな手間のかかるし、儲けも少ないし、万人に喜ばれるわけでもないことをするのは、私で最後だろうと思っていました。落し噺をやっている方がみんな喜んでくれるし、儲かりますから。伝承してくれるやつなんか誰もいないだろうって。そしたら、弟子の(隅田川)馬石がやる、(蜃気楼)龍玉がやる。へぇーって驚きました。なんとか後に繋げたんじゃないかなと。今は、少し肩の荷が下りて楽しんでやっていますね。まぁ、覚えるのは相変わらず大変ですけどね(笑)。

(2013年7月某日浅草にて)

プロフィール

五街道雲助落語家

1948年生まれ、東京都出身。幼いころから母親に寄席演芸になじむ。明治大学に入学後、話下手を直すために落語研究会に所属。明治大学中退後、故十代目馬生に入門。1982年に真打昇進。2009年文化張芸術祭優秀賞受賞。著書に自伝『雲助、悪名一代』(落語ファン倶楽部新書)

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