バウルという生き方――ベンガル地方の「もうひとつのライフスタイル」

わたしがおよそ30年間にわたって追いかけている研究テーマは、インド文明の人類学的研究である。とくに、ベンガル地方の「バウル」とよばれる宗教的芸能集団に焦点をあてて研究をすすめている。本稿では、ベンガルのバウルを紹介しつつ、「バウルという生き方」について考察する。

 

 

風狂の歌びと

 

バウルがベンガル社会にあたえているイメージは、わざと社会の規範からはずれようとする狂人のイメージである。バウルはカーストやカースト制度をいっさいみとめない。またバウルは、偶像崇拝や寺院礼拝をいっさいおこなわない。彼らの自由奔放で神秘主義的な思想は、世間の常識や社会通念からはずれることがあり、人びとからは常軌を逸した集団とみなされることがおおいのである。実際に、ベンガル語の「バウル」という語は、もともと「狂気」という意味である。そしてその語源は、サンスクリット語のvâtula(「風邪の熱気にあてられた」、「気が狂った」)、あるいはvyâkula(「無我夢中で」、「混乱した」)に由来するようである。

 

バウルの歴史がどこまでさかのぼれるかは不明である。しかし中世のベンガル語の文献では、バウルという語は、牛飼い女のゴーピーがクリシュナに恋をしたように、「(神に恋をして)狂気になった人」という意味でつかわれはじめている。たとえば、16世紀のベンガルの熱狂的な宗教運動の指導者チャイタニヤ(Caitanya 1485-1533)の伝記には、「我、クリシュナのはてしなき甘露の海にさまよい、狂気(バウル)となれり」といったような文脈でしばしばでてくる。しかしバウルという語が、そのころに狂人のような宗教的態度の「個人」をさしていたのか、あるいは「宗派」としての意味をもちはじめていたのかどうかは、まったくあきらかでない。

 

現代のベンガルでは、バウルという語にはまだ「狂気」というふかい意味がひそんでいるが、その語はもっぱら「バウルの歌と音楽を伝承する一群の人びと」、あるいは「バウルの歌と宗教を伝承する一群の人びと」をさす、といってさしつかえない。このような、バウルという語の語源や中世の文献での使われ方、そして現代での意味合いやイメージを考慮して、ベンガルのバウルのことを、「風狂の歌びと」とでも名づけておこう。

 

 

村で門づけ・托鉢をするハウル

村で門づけ・托鉢をするハウル

 

 

マドゥコリの生活

 

さて、そのバウルとよばれる「一群の人びと」が、いったい何人いるのかあきらかではない。インド政府が10年に一度おこなう国勢調査の数字にあらわれてこないほど、バウルは少数である。それにもかかわらず、バウルはベンガル社会で、はっきりと目立つ存在なのである。バウルがベンガル社会で目立つのは、彼らのライフスタイルが、一般のベンガル人のそれとは根本的に異なっているからである。そのちがいは、「生活費の稼ぎ方」である。

 

バウルは、世俗的な意味で非生産的である。彼らは農業労働や工業生産、手工芸作業、商業活動などに、いっさい従事していない。バウルは、一般のベンガル人に経済的に依存し「マドゥコリ」をして生活費を稼いでいるのである。ベンガル語の辞書は、「マドゥコリ」という語を、「蜂が花から花へと蜜を集めるように、一軒一軒物乞いをして歩くこと」と説明している。すなわち、ベンガルのバウルとは、「みずからバウルと名のり、バウルの衣装を身にまとい、門口でバウルの歌をうたったり、あるいは神の御名を唱えたりして、米やお金をもらって歩く人たち」のことである。バウルは、世捨て人のようなゲルア色(黄土色)の衣装を着て、「門づけ」や「たく鉢」をして生活費を稼いでいるのである。

 

 

バウルの道

 

マドゥコリの生活は、ひとりの人間が「バウルになる」ためにも、また「バウルである」ためにも不可欠の要件である。これは彼らが選んだライフスタイルである。そしてこのライフスタイルそのものが、彼らが主張する「バウルの道」(バウル・ポト)の基本なのである。バウルの道とは、「マドゥコリの生活にはじまり、神との合一という究極の目標にいたる道」である。それは「人間の肉体は、真理の容器」という彼らの信仰に基づいている。

 

この信仰をもうすこし整理すると、ふたつの原理に分解できる。

 

(1)人間の肉体は、宇宙にあるひとつの「もの」であるだけでなく、宇宙の「縮図」である。

(2)人間の肉体は、神の「住処」であるばかりでなく、神を実感するための唯一の「媒介物」である。

 

つまりバウルは、人間の肉体を小宇宙とみなし、みずからの肉体に宿る神と合一するために、みずからの肉体を駆使して「サドナ」(成就法)とよばれる宗教儀礼を実践するのである。このサドナには、ヨーガの呼吸法や坐法を通じておこなわれる性的儀礼や、宇宙を構成する五粗大元素(すなわち「地」、「水」、「火」、「風」、「空」)を、人間の器官や分泌物にたとえておこなわれる儀礼などをともなう。そして、サドナに関することがらは、もっぱらグル(師)から弟子へ、こっそりと伝えられるのである。

 

 

ヴィシュヴァ・バーラティ大学の寄宿舎に招かれて歌うバウル

ヴィシュヴァ・バーラティ大学の寄宿舎に招かれて歌うバウル

 

 

バウルの歌

 

バウルの宗教はバウルの歌に表現されている。しかしバウルの宗教には秘密のことがらがおおいので、その秘密をうたいこんだバウルの歌には、しばしば「なぞめいた用語」(サンダー・バーシャー)が使用されている。つまりバウルの歌には、表面上の意味の奥ふかくに隠された「真の意味」を表現するために、暗号のような語句や表現が意図的に使用されているのである。このためバウルの歌は部外者にとっては難解で、いくつもの解釈が可能であったり、あるいは意味不明のことが多い。その反面、部内者には「なぞ解き」をするようなおもしろさがあるといわれる。

 

ときどき夕方などに、グルのアーシュラム(庵)に弟子たちが集まってくることがある。そこでもサドナについて議論されることがあるが、それは主としてバウルの歌の解釈を通じてである。彼らはバウルの歌をうたい、バウルの歌の「なぞ解き」を楽しんでいるのである。しかし、歌の「真の意味」は秘密とされ、議論はグルとその弟子たちのあいだにかぎられるのである。【次ページに続く】

 

 

 

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