2015.08.11
集団的自衛権の「問題点」を一気に学ぶ
国連PKO上級幹部として、東ティモール、シエラレオネの戦後処理を担当。また日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除の任に就き、「紛争解決請負人」「武装解除人」として、戦場でアメリカ軍、NATO軍と直接対峙し、同時に協力してきた東京外国語大学教授の伊勢崎賢治氏。日本人で最も戦場と言う名の現場を知る氏が昨年刊行した本『戦場からの集団的自衛権入門』の中から、重要な部分を引用する。(構成 / 編集集団WawW ! Publishing 乙丸益伸)
安保法制懇
対テロ戦争は、アメリカ自身に大きな打撃を与え、日本の自衛隊派遣の活動内容に多くの課題を残しました(「集団的自衛権の歴史」を一気に学ぶ
)。しかし、それに対する真摯な検証は一切されないまま、「なお一層アメリカに協力をしないと有事の際に助けてくれない」というイメージが先行する形で、日本は集団的自衛権の行使容認に向け、ひた走っています。
しかしその動きは、本当に正しいのでしょうか?
* * *
本記事では、その根本的な問題を検討していくために、まずは、これまでどういった経緯で、安倍首相が集団的自衛権の行使容認に動いてきたかを振り返ってみたいと思います。
安倍首相が本格的に動き出したのは、第一次安倍政権の時代の2007年5月、安保法制懇(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)の初の会合が開催されたあたりからでした。(略)安倍首相による集団的自衛権の行使容認議論は、この安保法制懇がリードする形で推し進められてきました。懇談会は、2007年8月30日の第5回会議まで開催されました。
第一次安倍内閣退陣後の2008年には報告書をまとめ、当時の福田康夫首相に提言をしましたが、議論は一旦、棚上げになっていました。しかし、2012年12月26日、再び安倍(第二次)政権が発足すると、安倍首相は、かつてとほぼ同じメンバーで有識者会議を行います。
当初は、憲法改正要件を定める憲法96条を改正し、憲法改正のハードルを下げようとしましたが、国民から多くの批判を浴びたことで方向転換。次は、憲法9条の解釈変更に動き出します。(略)
なぜ憲法改正ではなく、解釈の変更なのか?
では実際、安保法制懇はこれまでにどんな主張をしているのでしょうか。その中身は、2008年6月と、2014年5月の2回に分けて提出された「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の2回目の報告書の次の記述を見ればわかります。
〈集団的自衛権について〉
「政府のこれまでの見解である、『(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき』という解釈に立ったとしても、その『必要最小限度』の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、『必要最小限度』について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではない。
事実として、今日の日本の安全が個別的自衛権の行使だけで確保されるとは考え難い。したがって、『必要最小限度』の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである。」
〈国連PKOへの参加について〉
「憲法第9条が国連の集団安全保障措置への我が国の参加までも禁じていると解釈することは適当ではなく、国連の集団安全保障措置は、我が国が当事国である国際紛争を解決する手段としての武力の行使に当たらず、憲法上の制約はないと解釈すべきである。」
「国連PKOの活動の性格は、『武力の行使』のような強制措置ではないが、紛争当事者間の停戦の合意を維持し、また、領域国の新しい国づくりを助けるため、国連の権威の下で各国が協力する活動である。このような活動における駆け付け警護や妨害排除に際しての武器使用は、そもそも『武力の行使』に当たらず、憲法上の制約はないと解釈すべきである。」
つまり、「集団的自衛権の行使を容認し、それと同時に、今までは禁止されていた国連PKOでの軍事行動である本体業務に自衛隊が参加するのを認めるべき」と提言しているのです。
日本の報道では、集団的自衛権の行使容認の話ばかりにスポットライトが当てられていますが、決して見逃してはいけないことがもう一つあります。それは、安保法制懇の提言のなかには、「集団的自衛権の行使容認」の他に、「国連的措置であるPKOの活動の幅を、これまでも行っていた後方支援活動から、海外での軍事的行動を含む本体業務にまで広げるべき」というものも含まれていることです。
私が先の記事で、「国連による集団的安全保障は、国連的措置と呼ぶべきである。なぜなら、国連的措置とは全く異なる概念である集団的自衛権と名前が似ているため、混同が起きかねないからだ」としたのは、そのためです。(「安保法制について考える前に、絶対に知っておきたい8つのこと」の「1.集団的自衛権と集団安全保障は明確に違うもの」( https://synodos.jp/international/14646 )参照;構成者注)
我々国民は、集団的自衛権の行使容認の話と、PKOで軍事行動を行っていいかの話を、きちんと別個のものとして認識し、その上で、それぞれの是非を考えていかなければいけないのです。
様々な反対意見と「限定容認論」
では、これまで実際の政策論議の場では、何が起こってきたのでしょうか。一度、時系列で整理しなおしたいと思います。
当初、憲法9条の解釈変更については、自民党内部から反発がありました。これまで長きに渡り、政府が堅持してきた姿勢を一内閣が崩すというのですから、「強引すぎる」と、戸惑う声が後を絶ちませんでした。また、憲法改正ではなく、解釈の変更というのも批判の的でした。厳しい条件をクリアして、正当なルートで法を変えるべきだというのが彼らの言い分です。長年守ってきた憲法解釈を変えることに対し、国民の意見も揺れ動いていました。
そこで自民党は、2014年3月31日に、集団的自衛権の行使容認を議論する安全保障法制整備推進本部(本部長・石破茂幹事長〔当時〕)の初会合を開きます。この時、高村正彦副総裁が持ち出したのが「限定容認論」というものです。
これは、集団的自衛権をすべて認めるのは国民の忌避感が強いので、限定的に集団的自衛権を認める方向で、憲法の解釈を変えましょう、ということです。
4月1日の毎日新聞の記事では、高村副総裁は次のように語ったとされています。
「『「必要最小限度」には集団的自衛権の範囲に入るものもある。個別的自衛権はいいが、集団的自衛権はダメと、内閣法制局が十把一からげに言っているのは間違いだ』と批判。」
「容認の範囲については『(地球の反対側には行かないなど)地理的範囲は国民の納得のためならあり得ない話ではない』と指摘した。」
いわば、「必要最小限度であれば集団的自衛権の行使を認めよう。また、自衛隊がどこまで出ていくかについては、地理的にその限定範囲を決めることを検討“しなくもない“」ということです。これに対し、自民党の初会合に出席した156人の議員からの目立った異論は出ませんでした。
そうして「限定容認論」は、世論をも動かすようになっていきます。
自民党の会合直前の3月29、30日の2日に渡って行われた毎日新聞の全国世論調査によれば、集団的自衛権の行使容認に57%の人が反対し、賛成する人は37%にすぎませんでした。
ところが、自民党の初会合が終わった後の、4月19、20日の全国世論調では、「限定容認論」が出てきたことで、集団的自衛権の行使容認に反対の人が38%にまで減り、限定的になら賛成という人が44%に達したのです。
では、この限定容認論の「限定」が、具体的に何を指しているのか理解できている人はいるでしょうか。私は、「集団的自衛権を限定的に容認する」という話を聞いた時、多くの人が、次のように受け止めたと思っています。
「必要最小限度の集団的自衛権に〝限定して〞、自衛隊が出ていく範囲も日本近海周辺までに〝限定〞するんだろうな」
しかしそもそも〝必要最小限度の集団的自衛権〞とは何なのでしょうか? 本当に、自衛隊の出ていく範囲が日本近海周辺に限定されるのでしょうか?
必要最小限度の自衛権とは何か
まずは、必要最小限度の自衛権とは何か? について確認していきましょう。「必要最小限度」に関する、内閣法制局長官の解釈を引き出したのは、奇しくも安倍首相本人でした(当時は、第一次安倍内閣発足前の一議員)。話は、2004年1月26日の国会論戦にまでさかのぼります。
安倍首相は当時、秋山收(おさむ)内閣法制局長官に対し次のような質問をしました。
「『憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。』(略)こういうふうにありますが、『範囲にとどまるべき』というのは、これは数量的な概念を示しているわけでありまして、絶対にだめだ、こう言っているわけではないわけであります。とすると、論理的には、この範囲の中に入る集団的自衛権の行使というものが考えられるかどうか。その点について、法制局にお伺いをしたいというふうに思います。」
これに対し、秋山長官は次のように答弁を行っています。
「憲法九条は、戦争、武力の行使などを放棄し、戦力の不保持及び交戦権の否認を定めていますが、政府は、同条は我が国が主権国として持つ自国防衛の権利までも否定する趣旨のものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を保有し行使することは認めていると考えておるわけでございます。その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。
我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。」
つまり、秋山法制局長官は、「必要最小限度」=「三要件の範囲内」であると、明確に解釈しているのです。
簡単にまとめると、「必要最小限度の実力の行使は、
(1)我が国に対する武力攻撃が発生したこと
(2)この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
(3)その上で、実力行使の程度が必要限度にとどまる限りにおいて行っていいもの
だから、「他国が攻撃されているから日本が助けに行くという意味での集団的自衛権の行使は、(1)の要件を満たしていないので、必要最小限度の幅を超えている――現在の憲法下において、集団的自衛権の行使はできない」と、そう言っているのです。
この時、秋山長官に質問しているのは、安倍首相本人です。つまり首相は、これまでの政府の解釈で、「必要最小限度」とはすなわち「三要件の範囲内」であるという解釈を知っているのです。
にもかかわらず、安倍首相は「必要最小限度の〝集団的〞自衛権」という、これまでの政府の解釈にはない新しい概念を持ち出してきている。これは明確に、安倍首相が考えている「必要最小限度」の範囲が、これまでの政府解釈からの逸脱を意味しているということです(略)
では、安倍首相は、何をもって「必要最小限度」と考えているのでしょうか? 安倍内閣は、安保法制懇の第2回報告書が出された後の7月1日に、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」――すなわち、集団的自衛権と今後の国連的措置に対する自衛隊の関わり方に関する閣議決定を行いました。
閣議決定全文の中から、その答えを探してみると、次のような記述が見つかります。
「こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。」
すなわち、今回の閣議決定によって安倍政権は、「必要最小限度の自衛権の範囲」を、次のように広げようとしているのです。
〈安倍内閣の指針〉
1.我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、
2.これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、
3.必要最小限度の実力を行使する
安倍内閣は、
「必要最小限度の自衛権」を「専守防衛的な、自分の身を守るための必要最小限度の行動(個別的自衛権の発動)」というかつての意味から、
↓ ↓ ↓
「アメリカ(などの日本と密接な関係にある国)が、他国から攻め込まれた時に、(日本に明白な危険がある場合)アメリカなどと一緒にその国を叩く(集団的自衛権の行使)」
という意味に変更する指針(閣議決定)を出したのです。
言ってしまえば、これは単に、「集団的自衛権の行使を認める」と言っているだけにすぎず、「何かを限定する話」は入っていません。
確かに、「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において」という文言が含まれているため、集団的自衛権が、〝その場合に限定して〞認められる――という意味で〝限定的に〞容認されている――ように感じられるかもしれません。
しかし、この閣議決定には、「では、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合とは具体的に何か?」、「どういった基準でその判断が下されるのか?」が、一切語られていません。
そのため、「(その後、原則として事前に国会の承認が必要とされているものの)そういった状態を判断するのは、その時々の政権しだい」ということに変わりはなく、結局のところ何も限定されていないのです。
さらに、昨今の国際情勢の変化によって、国際的な「(個別的と集団的の両方を含めた)自衛権」の意味が、本来の「正当防衛」という意味での自衛権からかけ離れた概念になりつつあるということにも注意が必要です。
例えば、これまで通り、日本が独自で自国を守るための個別的自衛権であれば、憲法9条の縛りがあるため、「個別的自衛権の行使=専守防衛のための武力行使」という構図が成り立っていました。これこそ、「専守防衛に〝限った〞個別的自衛権の行使」であり、真の意味で日本は、〝限定的な〞個別的自衛権を有した国だったと言えます。
一方、安倍内閣の「日本の存立が脅かされ、国民に明白な危険がある場合」という集団的自衛権の限定容認も、正当防衛の範疇(はんちゅう)であるかのように見えます。しかし、我々日本人は、アメリカ同時多発テロ後のイラク戦争で、アメリカを含むNATOが武力行使を行った法的根拠が、「集団的自衛権」であったことを忘れてはなりません。
NATO諸国は、〝密接な関係にある〞米への9・11テロ攻撃を、ムスリム過激派が移民として入ってきていたNATO諸国にとっても同根の危機――すなわち〝我が国の存続が脅かされる〞危機――と捉えていたからこそ、集団的自衛権を発動したのです。
今回の閣議決定の形で日本が集団的自衛権の行使を認める場合、同じロジックで、何千キロも離れた戦場に、それこそ地球の裏までも、自衛隊を送ることが可能になる決定がなされているということです。
また、集団的自衛権の行使容認を自ら進んで行った後に、次にイラク戦争のようなこと(アメリカの集団的自衛権の発露による戦争)が起こった場合、日本が「この戦争には大義がないので、参加しません」などという主体性を発揮できるか? という視点も大切です。
安倍内閣は自衛隊の派兵範囲を限定するつもりはない
では、「集団的自衛権の行使に際して、自衛隊が出ていく範囲を〝限定〟する」と言っていた、高村副総裁の限定容認の話はどうなったのでしょうか? 実は、今回の閣議決定に、自衛隊が出ていく範囲を限定する類の話は一切含まれていないのです。
その理由は明白です。安倍内閣はそもそも、「集団的自衛権の行使に際して、自衛隊が出ていく範囲を〝限定する〞つもりはない」からです。
そのことがよく分かるのが、安保法制懇の2回目の報告書に書かれた次の文章です。
「個別的又は集団的自衛権を行使する自衛隊部隊の活動の場所について、憲法解釈上、地理的な限定を設けることは適切でない。『地球の裏側』まで行くのか云々という議論があるが、不毛な抽象論にすぎず、ある事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるか、かつ我が国の行動にどれだけの効果があるかといった点を総合的に勘案し、個別具体的な事例に則して主体的に判断すべきである。」
集団的自衛権の行使容認に際して、自衛隊がどこまで出て行っていいかの判断は、これまた結局「その時々の内閣の判断に委ねられる」ことになっているということです。これは、自衛隊が出ていく範囲に関して一切のしばりがない(何も限定されていない)状態同然であるということです。
つまり、安倍政権が掲げている「限定容認」の真の意味は、「『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』と、その時々の政権が〝主観的に〞感じた場合に〝限定して〞、集団的自衛権を行使することを認める」という意味での〝限定〞にすぎないのです。
これは、何かを限定しているなどと言えるような代物でしょうか。繰り返しますが、そこには、「どういった場合が、日本の存立が脅かされ、国民に明白な危険がある場合に当たるか?」は一切示されておらず、「自衛隊が出ていく範囲」にもまったくしばりはかけられていないのです。
これは、「集団的自衛権の限定容認」などとは一切言えず、「単なる、集団的自衛権の行使容認」にすぎないものなのです。
毎日新聞の世論調査で「集団的自衛権を限定的に容認すべき」と答えた、国民の44%の人のうち、何%の人がこの事実を知ったうえで、そう判断していたでしょうか。
日本国内で、ここまで分解して、真剣に安倍内閣の閣議決定の内容を検討した人は、そんなにいないのではないかと思います。賛成するにしろ、賛成しないにしろ、戦後最大とも言える、日本の将来像を変えうる政府の方向転換に関して、我々国民は、あまりに無自覚だったのではないでしょうか。(略)
そして、ついに閣議決定へ
先にも少し触れましたが、2014年7月1日の臨時閣議で、ついに憲法9条の解釈変更が閣議決定されました。『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)』で2回目の報告書が出されてから、わずか1ヶ月半後というスピード決着でした。
中身の検証をここまで子細に行っているマスコミが少ないのは嘆かわしいことですが、安倍内閣の表面上の動きとして、マスコミで報道されているのは、おおよそここまでの話です。
しかし、現在の日本における「集団的自衛権行使容認是非論」には、その前提としてマスコミが大きく報じなければならない、ある決定的に重要なことの検証がスッポリと抜け落ちてしまっています。
それは、「そもそも安倍政権は、何のために集団的自衛権の行使容認が必要だと言っているのか?」ということと、「その理由は妥当なものなのか?」ということです。
これらの検証の必要性は、「集団的自衛権」と並んで、「国連的措置における自衛隊の所在」についても同様です。そもそも安倍政権は、何のために国連的措置における自衛隊の行動の幅を広げようとしているのか? その理由はそもそも妥当なのか? 私の知る限り、その部分を細かく検証しているマスコミ報道はほとんどありませんでした。
この2つの変更を推進し、支持している人たちは、皆一様に、「国益」のことを声高に叫びますが、私はそういった人たちが、なにが日本にとっての真の国益になるかを、現在の国際情勢の変化までをも勘案しながら仔細に検証した結果として言っているとは、どうしても思えないのです。
なぜ集団的自衛権の行使容認を必要としているのか?
そもそも安倍政権は、何のために集団的自衛権の行使容認が必要だと考えているのでしょう。その答えは、安保法制懇の1回目の報告書で大々的に記されている次の文章を見れば分かります。
「今日如何なる国も一国のみでは自国の安全保障を全うすることができず、特に我が国の場合には一層そうした事情が顕著である以上、日米安全保障条約を基礎とする日米同盟を維持し、継続的にこれを整備することが必要である。この点について、米国は、我が国が武力攻撃を受けた場合に、日米安全保障条約に基づいて我が国を防衛する義務を負い、また、極東の平和と安全に寄与するため我が国と協力する唯一の同盟国であることを忘れてはならない。このため、日米協力体制の信頼性向上が不可欠である。」
「特に近年、北朝鮮ミサイルを追尾する日米イージス艦の共同行動が行われているが、その際、我が国の海空自衛隊がこれを掩護できないこととなれば問題である。さらに、我が国のイージス艦がミサイル迎撃能力を得たにもかかわらず、必要な日米共同作戦を行えないということになれば、日米同盟の維持強化にとって大きな障害となり得ることを認識すべきである。」
つまり、安倍首相は、「集団的自衛権の行使を容認しないと、有事の際に、アメリカが助けてくれなくなって困る」と言っているのです。
閣議決定まで終わった「集団的自衛権の行使を容認する理由」がそれである証拠として、安保法制懇のメンバーの一人で、2004年1月に安倍首相と『この国を守る決意』(扶桑社)という共著を出している元外務官僚の岡崎久彦さんの言葉を引用しましょう。
彼は、2014年5月19日に、ハフィントンポストに掲載されたインタビューの中で、長野智子編集主幹の「(総理会見で説明された例はいずれも)個別的自衛権でそれは出来るじゃないかと指摘する反論があります」という質問に対し、次のように答えています。
「もう東アジアの安全保障というのがね、日中関係、米中関係なんてものはないです。中国対日米同盟、このバランスで全部考えなきゃいけない、共同で行動することを考えないかぎり、日本の安全は今考えられない。日本一人でもアメリカ一人でも守れないもん。アメリカ一人で守れと言ったらアメリカ引きますよ、だって勝てないもん。一番の問題は、日米同盟が危険にさらされた時ですよね、アメリカだけ、アメリカの第7艦隊がやられていて、日本が助けにいかなかったら、アメリカもう(同盟)やめたと、そうなる可能性はありますね、それが一番怖いですね。」
ここから読み取れる問題は、安倍内閣が「集団的自衛権の行使容認」に動いている理由が、「湾岸戦争のトラウマ」と、まったく同じ系譜にあるものだということです。
「湾岸戦争のトラウマ」が、日本の外務官僚の勘違いによってもたらされたものであったことは、すでにお話しした通りです(54ページ)。
※「湾岸戦争のトラウマ」については、前回の記事:『「集団的自衛権の歴史」を一気に学ぶ』の中の「湾岸戦争のトラウマ」以降を参照(https://synodos.jp/international/14738)(構成者注)
つまり、ここで真っ先に検証すべきは、「アメリカが本当に、日本に集団的自衛権の行使容認を求めているのか?」についてです。
もしもアメリカが、本当は、日本に集団的自衛権の行使を求めていないとしたら? それが日本側の単なる思い込みに過ぎなかったとしたら? それが真だとしたら、戦後最大の憲法に関する問題である、集団的自衛権の行使容認騒動は無益どころか、国益を大きく損なうことになってしまいます。
そのため次に、私が実際に、戦場でアメリカ軍と対峙し、協力する中で知りえた、「アメリカが日本に何を求めているかの真実」についてお話ししていきたいと思います。(略)
「戦争計画にウェットなものを持ち込むな!」
まず、安倍内閣はどうしてそんなに集団的自衛権にこだわるのか? どうやら、首相の頭の中には「アメリカとの双務性」という言葉があるようです。
安倍首相は2004年に『この国を守る決意』(扶桑社)という対談本を出しています。先述の岡崎久彦さんとの共著です。
その中で、安倍首相は次のように語っています。
「祖父の岸信介は、六○年に安保を改定してアメリカの日本防衛義務というものを入れることによって日米安保を双務的なものにした。自分の時代には新たな責任があって、それは日米同盟を堂々たる双務性にしていくことだ」
ここで言う「双務性」とはつまり、「日本は、アメリカに武力で協力していないから片務的である。ちゃんと兵を出して、アメリカと同じくらい武力で戦わなきゃいけない」ということです。
しかし、その意味での双務性を、アメリカは本当に望んでいるのでしょうか。また、安倍首相は同著でこうも言っています。
「軍事同盟というのは血の同盟であって、日本人も血を流さなければアメリカと対等な関係にはなれない」
この「血」というのは当然、ご自分の血ではなく「人」の血―自衛隊の「血」です。安倍首相が言う「双務性」が達成されるには、自衛隊に死者を出す必要があると言っているのです。
そもそも、NATOのような軍事同盟は、様々な国同士の「補完の関係」によって成り立っています。それぞれの国が国内に事情を抱え、強みや弱みを持つ以上、その国の長所を生かして、協力し合いながら「総合力」を高める。賢い指揮官なら当然の哲学です。
「血の絆」みたいなウェットで曖昧な関係は、私が接してきたNATOやPKOの統合司令部には存在しません。私がアフガニスタンで見たアメリカとNATO加盟国との関係は、各国が、各作戦に参加するかどうかは、そんなウェットな話ではなく、次のような要件によって、〝主体的〞に決めていると感じられるものでした。
一つめは、共通の「脅威の認識」があることです。仮にアメリカが攻撃されていても、「その事態を放っておいたらいずれ自国にも降り掛かってくる」という自国への脅威がなければ、攻撃には参加しないということ。
そしてもう一つは、脅威への対処の「方策」が一致していることです。対処の方策とは、地上戦はリスクが大きいから今回は空爆に限定しようとか、直接的な武力行使は外交的、政治的リスクが大きいから今回は紛争国内部の一勢力に軍事的支援をするに留めよう、などです。
少なくともこの2つの条件が成立しない限り、NATO加盟国といえど戦闘には参加しません。アフガニスタンでは攻撃に参加したけれども、イラクではそうしなかったフランス、ドイツが良い例です。
つまり、アメリカとNATO加盟国の〝同盟〞は限りなくプラグマティック(実利的)かつドライなものなのです。映画でよくあるバンド・オブ・ブラザーズ(戦場の絆)のような感覚は、一般兵同士の関係の話であり、ここで語っているのは「戦争計画」という国の政治についてなのです。政治の場に、安直にそんなウェットなものを持ち込まないでほしい、というのが私の偽らざる本音です。
さらに同盟関係において重要なのは、先にお話しした通り、アメリカとその同盟国の関係性は「補完的」なものであるということです。
NATO加盟国の中でも、平和外交の旗手であるノルウェーや、日本と同じような大戦の十字架を背負っているドイツに対してアメリカは、イギリスのように戦えとは絶対に言いません。
これは、例えば、ドラえもんがアメリカ的な総合指揮を執っているとして、しずかちゃんや出木杉君にジャイアンのように戦えとは言わない、ということです。そして、しずかちゃんや出木杉君の強みが、ジャイアンのような火力の強さではなく、敵の懐に入り込み、もしかしたら敵を懐柔できる非好戦性にあるとしたら、ドラえもんは、それを最大限に利用するはずなのです。
なぜなら、今我々が闘う敵は、これからお話するように、軍事力だけで制圧できるものではなく、敵が生まれる根本の原因に対処することを同時に行わなければならないと、当のアメリカが考えているからです。
それでは、日本が補完すべき「特性」とは何か。この章では、それについて考えていきたいと思います。
ノルウェーの平和外交、強みは「セーフプレイス」
ではなぜ、平和の象徴・ノルウェーに対しては、アメリカがイギリス並の犠牲を求めることはないのでしょうか(ちなみに、軍事力でアメリカとの双務性を果たそうとして集団的自衛権の行使に突っ込んでいったイギリスは、アフガニスタン戦争において453人、イラク戦争で179人の戦死者を出していることは、強く記憶に留めておくべきことです〈一方のノルウェーは、前者で10人、後者で0人〉(*1))
(*1) 数字は、慶應大学「延近 充の経済学講義」の該当ページ(【アフガニスタン戦争における犠牲者数】と【イラク戦争における米軍および有志連合軍の死傷者】)より
それはノルウェーが、自らの特性を最大限生かしているからです。ノルウェーはロシアと国境を接し、大戦後、冷戦下で不安な時間を過ごしました。そして大国の紛争に飲み込まれないための国防の力になっているのがノルウェーの「平和外交」です。交渉や介入の腕を磨き、他国の和解に役立つことで、「ノルウェーを敵に回したら、世界を敵に回す」という認識を浸透させているのです。
また、ノルウェーは移民が多く集まる国なので、国全体で異文化を受け入れる民力も培われています。例えば、アフガン難民が国際問題化した時には、一つの地方自治体が、率先して町ぐるみで難民を受け入れたぐらいです。ノーベル平和賞の委員会が設置されていることから、平和はノルウェーのブランドです。そのため、アフガニスタンでアメリカが依存したのは、ノルウェーが発揮する、タリバンやその他の敵対勢力との和平交渉力でした。
彼らの国際的なブランディング戦術の一つには、「セーフプレイスの提供」も含まれています。それは、敵対勢力をノルウェーに呼び、攻撃されることのない安全な場所を会議の場として提供することです。1993年、ノルウェーの首都、オスロで行われたイスラエルとパレスチナの会議(オスロ合意)も、その一例です。そうしてノルウェーは、平和の旗手としての立場を確固たるものにしてきたのです。
日本と似ているようで違う? 軍隊を出しにくい国、ドイツ
日本と同じく、ドイツは非常に軍隊を出しにくい国です。戦時中にナチスの台頭を許したという記憶に向き合う姿勢が社会全体に浸透しているからです。ヘイトスピーチや民族差別、ナチス礼讃は違憲行為とみなされ、海外派兵に対しても強い危機感と反対勢力が存在します。
それでも、1999年のコソボ紛争時には、第二次大戦以降初めて空爆に参加し、アメリカ同時多発テロ後のアフガン戦争の際は、陸軍を戦後初めて派遣しました。911によるアルカイダの脅威によって、歴史的にムスリムを多く抱える(ドイツを含めた)NATO諸国全体を、「明日は我が身」という危機感が支配したからです。
ただし、ドイツは、国連の決議を大変重要視します。これが日本とは大きく違う点です。
ドイツがアフガン戦争の時に軍を派遣した先は、対テロの一連の軍事作戦「不朽の自由作戦」(OEF)ではなく、「国際治安支援部隊」(ISAF)でした。先にお話しした通り、OEFは、アメリカ・NATO連合軍にとっての集団的自衛権の行使による出動です。一方のISAFは、すべての国連加盟国に向けた国連的措置であり、アフガニスタンの治安回復が目的です。
※「集団的自衛権」と「国連的措置」の違いについては、「安保法制について考える前に、絶対に知っておきたい8つのこと」の「1.集団的自衛権と集団安全保障は明確に違うもの」(https://synodos.jp/international/14646)参照(構成者注)
ドイツは、国連の決議を尊重し、軍を出す法的な正当性を常に確保しようと努めていました(一方日本は、後方支援だから、安全だから、という単純な理由で、アメリカの集団的自衛権の発露であるOEFのほうに参加を決めました……)。
さらにドイツは、ノルウェーよりもさらに積極的に和平交渉役を買って出ています。911後の報復攻撃でタリバン政権を崩壊させた後、アフガンに暫定政権をつくるための会議のホスト役に名乗りを上げたのはドイツでした。2001年11月に、元は西ドイツの首都だったボンで開催した「ボン合意」がそれです。
他にも、アフガン新警察の創設の責任を負ったりと、兵を出したりしながらも、「NATOの中では比較的〝相手の言い分を聞く〞」という相手国側からのイメージを生かし、アフガンの内政に深く関わり、見事アメリカを補完してきたのです。
そんなドイツ軍にアメリカが無理をさせ、アフガン一般市民に重大な人権侵害を起こしてしまったら(実際、大規模でないものは起きてしまいましたが)、ただでさえ敏感なドイツの国民を、一気に厭戦ムード一色に染めかねません。結果、ドイツ軍が撤退するようなことがあったとしたら、アメリカにとって、これほどの痛手はないのです。
ノルウェーもドイツも兵は出していますが(そして犠牲も出していますが)、出兵の動機は、共通の〝脅威感〞があるからであり、〝方策〞が一致した時のみ、対テロ戦という戦争計画の政治の内部に深く関わるという〝主体性〞を発揮するのです。
それは、「血の結束」というような感情的なものでは決してありません。そして、両国ともに、見事にアメリカができないことで貢献しているのです。
日本政府に見えていない本当の日本
日米関係を語るとき、よく「日本(が出すの)は金だけでいいのか」という議論になり、日本人に肩身の狭い思いをさせています。しかし、戦争を始めるのにも終わらせるのにもお金が必要であるという状況の中で、日本がこれまで、アメリカの戦争に莫大な貢献をしてきたことを、日本人はもっと自覚するべきです。
また、「思いやり予算」こと、日本が負担する在日米軍駐留経費のことも忘れてはいけません。沖縄から飛び立った海兵隊が、イランやアフガニスタンに赴いているのです。我々の血税の一部が、海外の罪なき一般市民を殺すのに一役買っているという事実を、日本国民は実感を持って知らなければなりません。
さらに、世界の約5分の1を担当する世界最大の艦隊・米海軍第七艦隊が、事実上横須賀と佐世保を母港としているのをはじめ、在日米軍基地の担当範囲は非常に広く、アメリカが関与する紛争多発地帯をほぼ包括しています。さらに燃料や爆弾の貯蔵においても、日本は海外最大の保管庫になっています。アメリカはグローバル経済の旗手です。アメリカの〝財産〞は世界中に散らばっています。その意味で、アメリカが護るべき〝本土〞とは、世界経済そのものなのです。
その覇権の維持のための海外拠点として最大のものであり、在日米軍基地の運用において、自らの主権さえ放棄してくれる日本は、アメリカにとっては、もはや、「集団的自衛権」の同盟国ではなく、単に、アメリカ自身の「個別的自衛権」の道具の一つでしかないのです。くやしい話ですが。
だから、アメリカから日米同盟を解消することは、アメリカから日本を見放すことは、特に中国の存在が、地球を良い意味でも悪い意味でも支配する現在、そして近未来において、絶対にありえません。
アメリカは今、「日本の戦争に巻き込まれたくない」と思っている
一方で、アメリカ建国史上最長の戦争となったアフガン戦で疲れきったアメリカは、日本がアジアで起こす〝いざこざ〞に、戸惑いを見せています。
2013年2月、アメリカ軍の準機関紙「星条旗新聞(Stars and Stripes)」に、こんな記事が載りました。ちょうど安倍首相の初の訪米直前の記事です。
安倍はホワイトハウスに温かく迎え入れられるだろう。そしてこう告げられるだろう。「誰も住んでいない無人の岩のために俺たちを巻き込むのはやめてくれ」
以前でしたら、日米安保の話題になると、「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性」を論点に議論が交わされてきました。しかし、今はアメリカのほうが「中国は、同じスーパーパワーとして〝牽制〞は必要だが、日本が必要以上の挑発を行う必要はない」と言っているのです。
また、2013年12月、安倍首相が靖国神社に参拝した際、駐日アメリカ大使館が、「Disappointed」(失望)という強い言葉を使い、「日本は大切な同盟国であり友人である。それにもかかわらず、日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させる行動を取ったことに、米国は失望している」とのプレスリリースを出しています。
これは、「Show the flag」のような、日本側の早とちりではなく、そのものずばり、アメリカが日本に「失望している」のです。
アメリカは、アフガン戦とイラク戦を経て、当然ですが財政削減を迫られています。そんな状態で中国との関係が悪化することは、最も避けたい事態であり、自国の兵士をこれ以上犠牲にするなんて、国内政局上、想定もしていないでしょう。
オバマ大統領は来日した際、「尖閣は日米安保の適用範囲」と明言していますが、同時に日中の領有権問題に関与しないとし、双方に冷静な対応を求めています。
ただし、「余計な紛争に巻き込まれたくない」というのは時節柄本当ですが、その一方で、こんな〝好条件〞で、アメリカ軍を置かせてもらえる国なんて、日本以外にないのですから、北東アジアが「適度に」緊張することで、日本が引き続きアメリカに依存せざるをえない状況が続くことも同時に願っているのもアメリカです。
アメリカは、決して一枚岩ではないので、一面的で単純な見立てをしていると、足元をすくわれることになってしまいます。
アメリカの顔色を見すぎる日本
今回の集団的自衛権の行使容認騒動は、日本側の叶わぬ片思いのようなものです。恋い焦がれるがあまり、アメリカが欲していないものでも何でも貢ごうとする……。なんとも切なくなる話です。
選挙で有利に戦うための短期的な「利害」にしか興味ない政治家は、日本の専売特許ではありません。もちろんアメリカの政局をも支配しているものです。こういうアメリカの政治家にとって、自分で勝手に「湾岸戦争のトラウマ」を背負い込んでいる日本人は、たいへん好都合なのです。なにせ、これをチョット耳元で囁くだけで、日本人は簡単に震えかがってくれて、それだけで、お金をATMのように引き出せるようになるのですから。
つまり、アメリカは「恫喝外交」を展開することで、日本からお金を引き出したいだけのことなのです。私が、彼らの立場で、同じカモを前にしたら、全く同じことをやるでしょう。(略)
アメリカに振り向いてもらおうというだけの〝健気な〞努力。もう、そろそろ卒業しませんか? そこから卒業することこそが、真の戦後レジュームからの脱却だと、私は思うのです。
日本の「美しい誤解」が失われるのは惜しい!
ノルウェーの「平和外交」のブランドのことをお話ししましたが、実は日本にも、チョット脆弱で、日本人が意図的につくったものだとは言いにくいのですが、それらしきものが存在しているのです。私はこれを、「美しい誤解」と呼んでいます。
アフガニスタンにおいて実際に体験した話です。
通常、現地の武装解除は国連の仕事ですが、アフガニスタンの場合、国連は、アメリカが始めた戦争の後始末のために職員を犠牲にするのを避けたため、若干の政務官を駐在させているだけでした。そこで主要な占領政策は、NATO加盟国を中心に分担して行うことになりました。新しい国軍はアメリカ、警察はドイツ、そして、日本は非NATO加盟国ですが、武装解除の責任を負うことになりました。ここにも、金だけではなく、かといって自衛隊を地上部隊に出すのもチョット……という「湾岸戦争トラウマ」が働いたのです。
前述のインド洋上の給油活動はOEFの下部作戦でしたが、アフガン本土では全く知名度はなく、なんとカルザイ大統領も、私がその話を持ち出すまで、日本のその貢献を知らなかったほどです。
そんな事情もあって、「アメリカの戦争計画にもう少し直接関わりたい」、「これだったら日本にもできそうかな」と軽薄にも考えた日本の外務省の思惑と、NATO内で、武装解除の任務が、ババ抜きのババのように最後まで引き手がなかったという事情が重なり、日本が武装解除を担当することになったのです。
武装解除の仕事に、NATOのどの国も手を挙げなかったのは当然です。なぜなら、その時の武装解除の相手は、タリバンに勝利したばかりで鼻息荒く、タリバン戦での最大の戦利品である新国家の主導権をめぐって内戦を始めていた(一時的に「北部同盟」としてまとまっていたが、後に解散して好き勝手やっていたヒゲモじゃの)軍閥たちなんですから。
手を挙げた後、ことの深刻さに慌てた外務省は、アフリカのシエラレオネの国連PKOで、同じく武装解除を完了させて日本に帰国したばかりだった私に依頼してきた――。これが事の顛末でした。
武装解除とはいうまでもなく「国に準ずる武装組織」と直接的に対峙する軍事作戦の一環であり、国連PKOの部隊としてやっていても殉職者が出るものです。国連内部には、アフガニスタンにはあまり国連を関与させたくないという思いがあったため、国連平和維持軍はいませんでした。だから私は、武装解除の全てを、アフガン人による暫定政府(内戦やっている軍閥たちが集合写真に映っているアレです)を前面に押し立てる形で実行しなければなりませんでした。武装解除の具体的な手順と試行錯誤は、拙著『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)に詳しいので、よろしければ、そちらをお読み下さい。2005年に無事完了し、6万数千人が武装解除されました。(略)
アメリカもNATOも手を焼いて何もできずにいた軍閥間の戦闘に非武装で入り込んで行き停戦させ、スローではあるものの重火器の引き離しを着実に実現してゆく私たちに対し、いつしかアメリカ軍の関係者たちは「日本は美しく誤解されている」と言うようになったのです。
アフガンの軍閥は、冷戦時代から大国のエゴの真っ只中にいた連中です。アメリカを基本的に信用していません。しかし日本は、アメリカから独立しているものと思われていたのです。それは誤解もいいところなのですが、私たち日本には、アフガンの軍閥たちに見られる足元自体がなかったのです。
「日本に言われちゃ、しょうがない」
あの時、軍閥やその配下の司令官たちは、我々が武装解除に向かった先々で、例外なくこう言い、武装解除に従いました。
また、武装解除が終わった後、ノルウェーにも、ドイツにも、「あの武装解除は、地上部隊を出していない日本にしかできない役割だった。アフガンに地上部隊を出していた我々にはできない仕事だった」と言われました。
アフガニスタンに限らず、国連PKOが行う場合でも、武装解除の現場には、必ず、多国籍の非武装の将官たちによる組織(中立的な軍事監視団)が必要になります。軍人がその任に当たるのは、武装勢力が武器や兵員の数などについてウソの申告をしてきた場合に、毅然とした態度で――同じ〝軍人〞の立場で――〝ノー〞と言うためです。
またその際、非武装で臨むのは、任に当たる将官たちが、中立であることを体を張って体現するためです。その無言の圧力に屈し、軍閥は何もモノを言えなくなるのです。
アフガンでは、日本がNATO各国を説得し、駐在武官を出してもらい、軍事監視団を組織しました。中でも、日本の立場に最も共感してくれたドイツ政府は、一番積極的に人を出してくれました。
「自衛隊を攻撃することは反イスラム」
また、私たちの活動とは別に、イラクでは、日本の自衛隊が(基地にロケット弾が着弾しながらも)銃撃戦を一度も経験せずに任務を完了しました。なぜこれが可能だったかと言えば、地元のイスラム指導者が、「自衛隊を攻撃することは反イスラム」であるというおふれを出したからです。
日本は、イスラム圏において、それほどまでに良いイメージを持たれていたのです。なぜか? そのルーツの一つは、日露戦争にあるようです。私もよくアフガンの軍閥に言われたものです。「ジャパンはスゲーよな。俺らも勝ったけど」と。
また、アメリカにヒドイ目に合わされた経験があるイスラムの民は、日本に「勇猛な被害者」という印象も持つようです。日本は経済大国でありながら、彼らの痛みが分かる唯一の国だと、彼らは考えているようです。
今回の集団的自衛権の容認を契機として、このイメージがリセットされてしまったら? もしも、これと同じものをゼロから構築するとしたらどれだけのコストがかかるか? 一度、広告業界に試算してもらえばいいと思うのです。これからお話しする通り、日本の〝国防〞への影響が出ることによるコストも含めて。
「ウイニング・ザ・ウォー」ではなく、「ウイニング・ザ・ピープル」
日本独自の貢献の方法――しかもそれがアメリカの国益にもなるもの――とは何なのでしょうか? そのヒントは、COIN(アメリカ陸軍・海兵隊のフィールドマニュアル:Counter-Insurgency)にあります。
これは、イラク戦の最高司令官だったペトレイアス将軍(オバマ政権になってCIA長官になり、後にセックススキャンダルで退陣した彼です)が、泥沼化する戦況の中で「これはいかん」と、2006年に、それまでの米軍の戦略ドクトリン(教義)を方向転換させたものです。
Insurgencyとは、テロリストのことです(私は、アメリカが、彼らをテロリストと呼ぶ動機がとても主観的なものなので、彼らをテロリストとは呼びたくないのでInsurgencyと呼んでいます)。すなわちCOINとは「対テロ戦マニュアル」のことなのです。
なぜアメリカの圧倒的な軍事行動をもってしても、軍事力ではとるに足りないテロリストに勝てないのか? その理由の一つは、テロリストの側に、我々にはない圧倒的なまでの「非対称な怒り」が存在していることです。
外地に赴く要員は、私のような民間人も、多国籍軍の兵士たちも、国家から与えられた使命感こそあるかもしれませんが、(基本的には)個人的な怒りを原動力として何千キロも離れた土地に赴くわけではありません。それに対し、我々を迎えるあちら側は、我々を傍若無人な侵略者(特に、イスラム教にとっての異教徒)であると見なしています。
我々が黙ってそこに立っているだけで、彼ら個人個人とその集団を貫くのは、彼らのアイデンティティを賭けた怒りです。しかもそれは、我々の攻撃による同胞や家族の犠牲によって増幅し続けるのです。この「非対称な怒りの増幅」こそが、テロとの戦いに終わりがない所以です。
そこで生み出されたのが、COINだったのです。そもそも、なぜInsurgencyもしくはInsurgentは、イスラム世界に、こちらが手を焼くほど強烈な根を張れているのでしょうか。
どんな国でも、一般民衆は、不安な「銃による支配」ではなく「法による支配」の下で生活したいと思うでしょう。それが普通です。でも、その「法」の維持には、やはり「銃(統制力)」が必要です。みんなが信頼を寄せる国家が、国軍を持ち、法が支配する安全な環境を外敵から護ってくれる。そして、警察が、日常生活の中の法の違反者を取り締まってくれる。つまり、国軍と警察からなる最強の武力を国家が独占している状態――、それを私たちは「秩序」と呼んでいるのです。
しかし、内戦などで国が混沌とし、その「秩序」を提供する国家自体が存在していない状態になると、そこにInsurgentたちがスーッと忍び込んでくるのです。
人間は、集団で生きる限り、夫婦喧嘩からお隣との土地争議まで、紛争の種をつくり続けます。そして、それらへの「沙汰」(裁きを下す者)を常に必要とします。
平和な国で、もしも近所に手が付けられない暴れん坊がいたら? 警察に相談したらいいでしょう。でも、その警察が機能していなかったら? 何もしてくれないだけでなく、ワイロを強要されたり、逆に、その暴れん坊とつるんでいたりしていたとしたら?
そこに、さらに裏の実力者がいて、そちらに頼んだら、ある朝、その暴れん坊と、腐敗している警察がボコボコにされて木から吊るされていたら?
こうやって、Insurgentは、国家の「沙汰」の空白に、自分たちの「沙汰」を提供することで入り込んでくるのです。日本のかつての田舎町で、ヤクザの親分が羽振りをきかせているみたいな感じで。
それをきっかけに、Insurgentは、少しずつ彼らの「教義」を民衆に浸透させていきます(原理化)。それはいつの間にか、恐怖政治に姿を変え、住民たちを服従させていくのです。
その過程で、住民の中から職にあぶれたいきのいい若者を手下に引き込んで仲間にし、恐怖政治を確固たるものにしていきます(過激化)。これが、1990年代後半に、タリバンが急速にアフガニスタンを支配して政権を樹立し、現在でもISIS(イスラム国)などが世界中の不安定な場所に浸透していく構造なのです。
COINは、こういう仕組みをちゃんと理解し、Insurgentが巣食う社会に根本的な変革をもたらす軍事戦略を目指すものです。
ここでよく参照されているのは、毛沢東の言葉です。いわく「魚が水の中を泳ぐように、ゲリラは民衆の中を泳げ」。
毛は、これで抗日戦に勝利しました。つまり、テロリストが「民衆という名の海を泳ぐ魚」なのです。すなわちテロリストたちは、民衆を人心掌握することで、民衆(海)の中に潜んでいく魚になる戦略をとっている。であれば、民衆を我々の味方にすれば、魚は干上がる……。嘘みたいに簡単な話ですが、これがアメリカの対テロ戦の軍事ドクトリンなのです。
COINが訴えるのは、「Winning the War:ウイニング・ザ・ウォー」(敵を軍事的にやっつける)ではなく、「Winning the People:ウイニング・ザ・ピープル」(人心掌握戦に勝つ)です。
これには、Insurgentの提供する「沙汰」に負けない、優良な国軍と警察を擁し、ちゃんとした「沙汰」を提供し、「秩序」を保つことのできる――すなわちInsurgentが入り込んでくる隙間のない――現地政府をつくるしかないのです。
と、言うのは簡単ですが、実際にInsurgentと戦いながらこれをやるとなると、めちゃくちゃ難しい。
色々な武装集団が群雄割拠する混乱状態で、こちら側に味方になってくれそうな連中――これがまたInsurgentとの区別が難しいため厄介なのですが――に飴を与えて、一緒に戦ってもらう。そうこうしながら、ご褒美として国軍にしてあげたり、警察にしてあげたりということもしていきます。
これは、〝ネーション〞(国家)という概念が存在しなかった無法地帯に、それ(ネーション)を打ち立てるという作業なのです。
この時、最も確実で分かりやすい方法が、自分たち(民衆たち)の「領土」をしっかり護ってくれる国軍と、法による公平を布いてくれる警察を作ることです。
そのためにはまず、国軍の兵士と、警察の人員に、安定した給料と生活というアメを与えることで、ネーションへの帰属意識を高めていく必要があります。そして、国軍と公平な警察を中心に「秩序」を形成し、国民に安心を与え、福祉政策も実施し、国民が自ら安心してネーションに帰依できる政府をつくる――。
気の遠くなる作業で、我々はまだ成功にはほど遠い状況ですが、対テロ戦の〝闘い方〞は、これしかないのです。
「ジャパンCOIN」を
〝ネーション(国家)〞づくり。アメリカは、イラクにおいてに失敗し、続くアフガニスタンでも失敗しています。特にアフガニスタンは、世界で流通するケシの9割を生産する「人類史上最強の麻薬国家」と化していて、国民のネーションへの帰依を期待するどころではありません。
しかしこれは、失敗というより、まだ成果をあげていないと言わなければならないものです。なぜなら、COINに代わるドクトリンはまだ出現しておらず、恐らくこれ以上の方法は、将来に渡って出現しないだろうからです。
そして実際、NATOの一員として、アフガニスタンの激戦区の一つであるヘルマンド州の秩序回復の任に当たったイギリスは、その独自の経験から「英国版COIN」を生み出しました。
また、かつて国連PKO発祥の原動力になったカナダは、タリバンの発生拠点であったカンダハル州で、PKO的な民生活動で成果を上げ、こちらも独自の「カナダCOIN」をまとめています。
2014年末の軍事的勝利なき撤退を前にして、アメリカやNATOでは、COINのこれからを占う専門的な議論が盛んになりつつあります。しかし実は、2006年にCOINをまとめるヒントとなったのは、日本がアフガンで成功させた武装解除だったのです。
COIN制定の前、アフガニスタンのアメリカ軍関係者の間でよく言われていたのは、「アフガンの成功をイラクへ」でした。その「アフガンの成功」とは、私たち日本の武装解除の成功のことだったのです。この武装解除の成功こそが、当時、アフガンに〝ネーション〞を建設する一縷の希望になっていました。
日本が非武装で行った武装解除の成功が、ペテロイアス将軍の作ったCOINの元になったものなのです。
これが、アメリカが今、そして、これからも苦しみ続けるであろう「集団的自衛権の行使」の実態です。
今年2014年に、NATOは一応の区切りをつけますが、それは、単に経済的・政治的に(厭戦ムードが支配する)この戦争を維持できないからです。そして、「安倍政権の集団的自衛権」は、アメリカが陥っている現在のこの状況に、何の関心も払っていないのです! こんなことで、「アメリカの最も重要な友人」などと、よく言えるものだと私は考えています。
では、アメリカの国益になりながら、同時に日本が世界に貢献できる最上の方法とは何か?
それは、COIN創設のヒントとなった日本が、今こそ、日本版COIN――すなわち「ジャパンCOIN」――を引っさげ、世界に〝参戦〞することです。
私たちはまず、アフガンとイラクに対し、(鳩山政権時の誤った援助パッケージも含めて)日本がどんな損害を与えてきたのか? それと同時に、何がどれだけ役に立ってきたか? の総括を、きちんと国民全体を巻き込む形で討議すべきです。その上で、武力を前提にしない――非武装が原則だからこそできる――自衛隊の「補完力」と、相手の懐に入り込んでいくことのできる「親和性」を前面に押し出したジャパンCOINを、日本の政策ドクトリンとして生み出すのです。
それが、真の世界貢献と主体性獲得への第一歩になります。そのためには、「集団的自衛権の行使容認」など、一切必要なものではありません。
日本はアフガンにおいて、内政干渉だと反発されることなく行政改革を行い、民衆に信頼される〝ネーション〞を打ち立てることができるはずです。それは、アメリカを中心に、西洋社会がおしなべて苦手としていることです。その視点に立つからこそ私は、ここで、安倍政権だけでなく、正反対の護憲派に対しても、敢えて挑戦的に宣言したいと思うのです。
アメリカが試行錯誤し続けるCOINの戦略の中で、日本が行うべきことは、“武力を使わない”、世界に先駆けた、最新の「ポスト集団的自衛権の行使」である、と。
* * *
伊勢崎氏の立場をまとめると、次のようなことになる。
(1)そもそも集団的自衛権を容認しなくとも、アメリカが日米同盟を破棄することなどない。それは、アメリカの〝財産〞は世界中に散らばっているため、アメリカが護るべき〝本土〞とは、世界経済そのものである。その覇権の維持のための海外拠点として最大のものであり、在日米軍基地の運用において、自らの主権さえ放棄してくれる日本は、アメリカにとっては、もはや、「集団的自衛権」の同盟国ではなく、単に、アメリカ自身の「個別的自衛権」の道具の一つでしかないからである。だから集団的自衛権の行使を容認しなければアメリカに見捨てられるというのは杞憂にすぎない。
(2)また、アメリカとの双務性を獲得したいなら、今までのただの(盲目的な)対米追従政策ではなく、真の日本の主体性を発揮したジャパンCOINで! そちらのほうが、(将来に渡って日本の美しい誤解を損なわないという意味で)日本の国益のためにもなる。同時に物理的に(アメリカにできないことを日本が補完することになるので)アメリカの国益にもかなっている。かつ、真の世界益への貢献にもなる(さらにその行使には、日本の将来の国益を損ねる集団的自衛権の行使容認は一切必要ない)。
(3)集団的自衛権の行使容認はアメリカ自身が望んだものではなく、日本自身が勘違いして差し出そうとしているものである。またここで、いたずらに集団的自衛権の行使容認をしてしまうと、集団的自衛権の行使が認められていなかった今まででさえ、兵力を無駄に(しかも自ら)海外派遣してしまっていた日本のこと。(アメリカからの派兵要請を断れなくなるという話以前に)“自ら”無駄の上塗りをし続けることになるだろう。だから、今回の集団的自衛権の行使容認には反対である。
では、気になる【武力を使わない、世界に先駆けた、最新の「ポスト集団的自衛権”の行使」―日本の将来の国益を損なう「集団的自衛権の行使容認」に対する対案であり、アメリカの国益と世界益にもかなう――ジャパンCOINの具体的な中身とは? 記事を改めてお送りしたい。
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プロフィール
伊勢崎賢治
1957年東京都生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。東京外国語大学大学院「平和構築・紛争予防講座」担当教授。国際NGOでスラムの住民運動を組織した後、アフリカで開発援助に携わる。国連PKO上級幹部として東ティモール、シエラレオネの、日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除を指揮。著書に『インドスラム・レポート』(明石書店)、『東チモール県知事日記』(藤原書店)、『武装解除』(講談社現代新書)、『伊勢崎賢治の平和構築ゼミ』(大月書店)、『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』(かもがわ出版)、『紛争屋の外交論』(NHK出版新書)など。新刊に『「国防軍」 私の懸念』(かもがわ出版、柳澤協二、小池清彦との共著)、『テロリストは日本の「何」を見ているのか』(幻冬舎)、『新国防論 9条もアメリカも日本を守れない』(毎日新聞出版)、『本当の戦争の話をしよう:世界の「対立」を仕切る』(