「集団的自衛権の歴史」を一気に学ぶ

国連PKO上級幹部として、東ティモール、シエラレオネの戦後処理を担当。また日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除の任に就き、「紛争解決請負人」「武装解除人」として、戦場でアメリカ軍、NATO軍と直接対峙し、同時に協力してきた東京外国語大学教授の伊勢崎賢治氏。日本人で最も戦場と言う名の現場を知る氏が昨年刊行した本『戦場からの集団的自衛権入門』の中から、重要な部分を引用する。(構成 / 編集集団WawW ! Publishing 乙丸益伸)

 

 

最初は禁じられていなかった「集団的自衛権」

 

ここでは、安倍政権“以前”、「集団的自衛権」がどのように扱われてきたかについて詳しく説明しましょう。

 

これまで、憲法9条をめぐる自衛権の解釈は、日本の安全保障環境の変化に伴い、絶えず変容してきました。憲法の制定当初、政府は憲法9条がいっさいの武力行使を放棄しているとし、「個別的自衛権」の行使すらも認めない姿勢でした。

 

1946年6月、帝国憲法改正案が審議される中、吉田茂首相は「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものだ」と主張しています。

 

ところが、1950年に朝鮮戦争が勃発し、アメリカ軍の主力がそっちにとられ手薄になった日本が、東西冷戦の脅威にさらされると風向きが変わります。

 

朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結直後、北側がソ連、南側がアメリカの占領下にあった朝鮮半島での、米ソの代理戦争と言う側面もあった攻防ですが、後に中国が北朝鮮に加勢し、53年7月の休戦協定調印まで続きました。この時の休戦協定により、北緯38度線と斜めに交わる軍事境界線(休戦ライン)が設定され、これが現在の韓国と北朝鮮の事実上の国境となり、南北の分断が固定化しました。

 

「集団的自衛権」の憲法における解釈について、初めて日本の国会で言及されたのは、この朝鮮戦争の最中の1951年、西村外務省条約局長の国会答弁の中においてです。

 

 

「集団的自衛権というものは一つの武力攻撃が発生する、そのことによってひとしくそれに対して固有の自衛権を発動し得る立場にある国々が、共同して対抗措置を講ずることを認めた規定であると解釈すべきものであろうと思うのであります」【出典:西村局長(第十回国会衆議院外務委員会議事録第六号)】

 

 

ただ、この時点でも「集団的自衛権」について説明するに留まり、日本国憲法との関係は明らかにされていませんでした。

 

しかし同年11月7日、ついに日本国憲法における「集団的自衛権」の解釈が登場します。

 

 

「日本は独立国でございますから、集団的自衛権も個別的自衛権も完全に持つわけでございます、持っております。併し憲法第九条によりまして、日本は自発的にその自衛権を行使する最も有効な手段でありまする軍備は一切持たないということにしております。又交戦者の立場にも一切立たないということにしております。ですから、我々はこの憲法を堅持する限りは御懸念のようなことは断じてやってはいけないし、又他国が日本に対してこれを要請することもあり得ないと信ずる次第でございます。」【出典:西村局長(第十二回国会参議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録十二号)】

 

 

「日本は集団的自衛権の権利を保有しているけれど、日本国憲法で使うことを禁じられている」。日本国憲法の公布から実に5年の月日を経て、ようやく原点ともいえる「集団的自衛権」の解釈が確立したのです。その後60年以上にわたり、この解釈が固定化されてきました。

 

一方の「個別的自衛権」に関しては、朝鮮戦争の休戦協定締結の1年後、54年に日本で自衛隊が発足したことを受け、当時の大村清一防衛庁長官が「自国に武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として武力行使することは、憲法に違反しない」とし、その行使を認めました。

 

 

守られ続けた集団的自衛権行使禁止の解釈憲法

 

集団的自衛権の解釈を確立した後、日本国政府は長きにわたり、「憲法で禁じられている」として、集団的自衛権の行使を許さない姿勢を堅持してきました。

 

以下、集団的自衛権における歴代の首相の発言をまとめてみました(各発言は、2014年7月1日の時事ドットコムより引用)。

 

 

◎1960年3月安倍晋三首相の祖父・岸信介、国会での答弁

「特別に密接な関係にある国が武力攻撃された場合に、その国まで出かけて行って防衛するという意味における集団的自衛権は、憲法上は日本は持っていない」

 

◎1972年10月田中角栄、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとの見解を表明

「憲法が自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない。その措置は必要最小限度の範囲にとどまるべきものだ」

 

◎1981年5月鈴木善幸、答弁書に明記

「集団的自衛権行使は、その(必要最小限度の)範囲を超えるものであって、憲法上許されない」

 

 

このように権利としては持ってはいるけれど、あくまでも使うことができないと解釈されてきた集団的自衛権。では、一体どのような過程を経て、その解釈に議論が生まれてきたのでしょうか。

 

 

集団的自衛権とアメリカとの関係

 

集団的自衛権の問題は、アメリカとの関係に左右されると言っても過言ではありません。つまり、アメリカに国際的な事件が起きるたびに、日本は集団的自衛権の解釈について頭を悩ませてきたのです。決定的な事件は、ご存知2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロですが、そこに至るまでにも、アメリカと日本の間には何度も転機が訪れました。

 

では、これまでアメリカがどのような行動を起こし、日本はどのような対応をしてきたのかを、二国の関係性も含めて振り返ってみましょう。(略)

 

世界的には当初、集団的自衛権がどのような過程で行使されてきたかがよく分かる事例といえば、1979年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻です。

 

当時のアフガニスタンで政権を持つ政権党であったアフガニスタン人民民主党は、ソ連の支援を受けている共産主義政権でした。しかし、この政権党に対する反乱がアフガニスタンで頻発したことにより、共産主義政権の維持が怪しくなってきました。その時、アフガニスタン人民民主党を助けるという名目で軍を送り込んだのが、同じ共産主義を掲げるソ連でした(ソ連によるアフガニスタン侵攻)。

 

ソ連によるアフガニスタン侵攻は、「共通の共産主義思想を持つ隣人たるアフガニスタン(=アフガニスタン人民民主党)が、ソ連に助けを求めたため、ソ連は集団的自衛権を行使する」という名目で行われたものでした。つまり、ソ連軍がこの時アフガニスタン国内に入ってきて、軍事行動を行う根拠としたのが、集団的自衛権という考え方だったのです。

 

1980年代前半は、ソ連軍が優位を保っていました。しかし、反政府イスラム教徒ゲリラ(ムジャヒディン)は、同じくイスラム教国である隣国パキスタンの政府を通してアメリカやアラブ諸国の援助を受けたことで力をつけ、戦闘は長期化。後の1988年4月のアフガニスタン和平協定が結ばれ、翌年2月にソ連軍は完全に撤退しました。

 

その後、アフガニスタン人民民主党は3年以上政権党の座にいましたが、1991年末にソ連解体が起きたことで、ソ連からの支援が終了。力を失い、1992年4月に、ムジャヒディーン9派の連合のイスラム教徒たちによる暫定政権の発足に至りました。

 

このアフガニスタンの顛末は、後のアメリカ同時多発テロにつながっていくのですが、いずれにしても、当時ソ連は国連の五大国、すなわち常任理事国の一角を占める国でした。責任を持った地位にいるわけですから、いかにソ連といえども国際法を無視して、一方的にアフガニスタンに攻め込むことはできません。

 

しかも国連は、常任理事国のうち一国でも反対すれば、他の全理事国が賛成しても、その議案は否決される「大国一致の原則」をとっています。そのため、もしソ連が国連にアフガニスタンへの侵攻を申請しても、アメリカが反対して否決されるのは目に見えていました。

 

そこで、ソ連がアフガニスタンへの侵攻を正当化するために持ち出された概念が、「集団的自衛権」だったのです。これが、大国が安保理の決議を経ずに集団的自衛権を行使した、最初の例となりました。

 

 

象徴的出来事となった湾岸戦争

 

その後、集団的自衛権の運用において象徴的な出来事になったのが、1991年1月に起きた湾岸戦争です。

 

石油の問題と領土問題で、隣国クウェートと揉めていたイラクのサダム・フセイン大統領は、1990年8月にクウェートに攻め込みました(クウェート侵攻)。これに対し、国連安保理は、イラクに対して経済制裁を決議すると同時に、1991年1月15日までに、イラクがクウェートから無条件で撤退することを求める決議を行います。しかしフセイン大統領はこれを拒否。同年1月17日に、アメリカを代表とする多国籍軍は、イラクに対する空爆とミサイル攻撃を開始しました(砂漠の嵐作戦)。

 

このことにより始まったのが湾岸戦争です。後にイラク軍は敗走し、イラクは4月6日に停戦に合意しました。

 

国連安保理は、イラクのクウェート侵攻を、イラクによるクウェートの「侵略」だと受け取りました。つまり湾岸戦争は、国連憲章成立後、初めて国連が主導して国家(イラク)を叩く戦争になったのです。

 

ソ連のアフガニスタン侵攻は、国連の決議がなかったわけですから、国連的措置ではなく、集団的自衛権に基づく行動でした。対して湾岸戦争は、国連安保理の決議が出ていたため、国連的措置――すなわち国連が旗を振り、有志連合が戦争をした最初の例になりました。

 

※「集団的自衛権」と「国連的措置」の違いについては、「安保法制について考える前に、絶対に知っておきたい8つのこと」の「1.集団的自衛権と集団安全保障は明確に違うもの」(https://synodos.jp/international/14646)参照(構成者注)

 

その背景には、当時のジェームズ・ベーカー米国務長官の獅子奮迅の働きがあったといいます。彼は、武力行使に向けた国連の決議を得るため、シャトル外交と呼ばれるほどの勢いで、各国への交渉、根回し、説得活動を行っていったのです。そして1990年11月、安保理議長のポストがアメリカに回ってきたタイミングで、すかさず「武力行使容認」の決議案を通したのです。

 

本来、国連憲章の精神から言えば、攻められている国であるクウェートの個別的自衛権と、近隣諸国――例えば隣国であるサウジアラビア――とクウェートの共同による集団的自衛権が行使された後、必要であれば国連安保理が決議をし、国連的措置を取るのが国連憲章の上で一番わかりやすい形です。

 

つまり本来は、自衛権の行使と国連的措置の決議には若干のタイムラグがあるのが概念上一番分かりやすい姿です。しかし、湾岸戦争開始時には、そのタイムラグがありませんでした。ご近所でなくてもフセイン政権をやっつけたい有志連合を含めた集団的自衛権の発動と、国連的措置の決議が一体化して行われる最初の例になったのです。

 

全世界が協力して悪魔のような国を叩き潰すという、国連主導の戦争が、ここから始まりました。

 

これはいわば、国連が自ら集団的自衛権を行使したようなもので、国連的措置と集団的自衛権の限りない接近が始まった瞬間でした。とはいえ、アメリカがやるんだと言っている以上、誰もその動きを止められるものではありませんでした。

 

1991年、ペルシャ湾に掃海艇派遣湾岸戦争に際して、日本は130億ドル(約1兆7千億円)もの資金協力を行いましたが、お金を出すだけでは足りないと判断した日本国政府は、湾岸戦争後の1991年に、自衛隊法第99条に基づく措置としてペルシャ湾に掃海艇を派遣することを決定しました。

 

この時の自衛隊派遣の法的根拠は、「公海上での作業になるので、海上自衛隊による通常業務であるため問題はない」という解釈でした。「自衛隊を敵と見なす勢力は誰もいない」、「フセインがボコボコにされ、生物化学兵器や弾道ミサイルの破棄、国連の査察の受け入れなどの停戦の条件を呑んだ後だから、戦争時ではなく平時である」、「だから、自衛隊の派遣は、集団的自衛権や国連的措置の武力行使云々を当てはめる状況ではなく〝通常業務〞である」としたのでしょう。

 

そして、掃海する地域に含まれるすべての沿岸諸国――クウェートとイラクはもちろん、イランなど――からも正式な合意を得て、自衛隊は活動を開始したのです。これは「湾岸の夜明け作戦」と呼ばれ、自衛隊創設以来、初めての海外実任務の事例になりました。

 

ヨーロッパ勢は同年7月に引き上げましたが、日本とアメリカは協力して掃海作業を継続。派遣から約三ヶ月半で、イラクの敷設した1200個の機雷はすべて処分されました。(略)【次ページにつづく】

 

 

 

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