2017.03.02
中国移植ツーリズムとは何か
はじめに―問題の所在―
臓器摘出対象とされる死刑囚(や法輪功学習者)、さらには金銭のために臓器を売る貧しいドナーたちの人権は声高に語られる。私も、及ばずながら、それらについて拙文を物してきた(注1)。
しかしながら、移植のためにアジアに出向く患者の人権についてはあまり、というか、ほとんど関心をもたれていない。それどころか、彼らは悪人のイメージで見られ、後述するように帰国後、診療拒否にさえあっている。
果たしてそれでよいのか、彼らは倫理的非難に値するのか(後述するように、私は値しないと考えている)、仮にそうであるとしても、彼らにも人権があるのではないか、などというのが私の問題意識である。本稿はこれらの点について、主として生命倫理の視点から管見を述べるものである。
アジア移植ツーリズム(注2)
(1)移植ツーリズムとは何か(注3)
移植ツーリズムは、美容整形ツーリズムや生殖医療ツーリズムなどと並んで、医療(メディカル)ツーリズムの一種である。この医療ツーリズムにはもちろん、手術や健康診断などのための国外渡航(注4)も含まれる(日本から外国に渡航するケースだけでなく、外国から日本にやってくるケースもある)。
医療ツーリズムとは一言でいえば、医療を受けるために国外渡航すること(あるいは、国外渡航して医療を受けること)である。そうだとすれば、移植ツーリズムとは、臓器等の移植を受けるために国外渡航すること(あるいは、国外渡航して臓器等の移植を受けること)、ということになる。いわゆる「渡航移植」(=臓器移植目的の国外渡航)とほぼ同義である。
ただし、例えば、広く知られている「イスタンブール宣言」(注5)はこの概念をさらに限定して、下記のような特殊な定義をしている。
「移植のための渡航 Travel for transplantationに、臓器取引や移植商業主義の要素が含まれたり、あるいは、外国からの患者への臓器移植に用いられる資源(臓器、専門家、移植施設)のために自国民の移植医療の機会が減少したりする場合は、移植ツーリズム Transplant tourism となる。」(注6)
これは、倫理的、社会的に問題のありそうな国外渡航移植全体に規制の網をかけようとするものである。しかしながら、このような特殊(かつ奇妙)な定義は概念の混乱を招くものである。それゆえ、以下ではこの定義は用いず、前記のような一般的な用語法に従うことにする。
(2)移植ツーリズムは違法か(注7)
我が国には移植ツーリズム一般を禁止したり規制したりする法律はない。つまり、外国に出向いて移植を受けること自体が違法であるわけではない。法律によって禁止されているのは当該移植ツーリズムが臓器移植法上の「臓器売買」にあたる場合である。これは当然、違法(臓器移植法違反)である(注8)。
外国に出向いて死刑囚から提供された臓器の移植を受けること(=いわゆる死刑囚移植)も、我が国には禁止する法律がないので、(少なくとも国内法的には)違法ではない。したがって、日本人患者が中国に渡って移植を受けても、違法ではない。
ただし、日本移植学会は死刑囚移植を禁止している。正確には、「日本移植学会倫理指針」は、「受刑中であるか死刑を執行された者からの移植の禁止」と題して、「受刑中の者、あるいは死刑を執行された者からの移植は、ドナーの自由意思を確認することが困難であることから、国内外を問わず禁止する」と規定している。
ただ、この指針の対象は日本移植学会会員のみであり、患者や、同学会会員ではない医師らは対象ではない。もちろん、この指針には法的効力(ないし拘束力)はない。なお、厚生労働省は直接、死刑囚移植を禁止しているわけではない(積極的に認めるというスタンスでも認めないというスタンスでもない)が、少なくとも学会倫理指針に何らクレームを付けてはいない。この点を鑑みれば、この日本移植学会倫理指針が我が国の実質的な移植政策(の根拠の一つ)になっていると言って、過言ではあるまい。
一般に、この学会倫理指針策定の背景には、臓器提供の自給自足を求めたイスタンブール宣言(前出)があるとされている。同宣言は、「臓器取引と移植ツーリズムは、公平、正義、人間の尊厳の尊重といった原則を踏みにじるため、禁止されるべきである」と述べている(注9)。
また、「弱者である個人や集団(識字能力をもたない人々、貧困に苦しむ人々、不法滞在の移民、受刑者、政治的経済的亡命者など)を生体ドナーになるよう誘導する行為を許すことは、臓器取引や移植ツーリズム、移植商業主義に反対する立場からは認められない」とも述べている。この宣言自体も、もちろん、国内的に法的効力(ないし拘束力)をもつものではない。なお、WHOも同様な勧告を複数回、発している(注10)。
(3)移植ツーリズムは倫理的非難に値するか
前述のように、近時、外国とりわけアジアに出向いて移植を受けることは「移植ツーリズム」として国際的な批判の対象になっている。ただし、一般に、欧米に出向く移植ツーリズムは社会的な非難の対象になっていない。それどころか、美談として取り上げられることもある。非難の対象になるのはアジアへ出向く移植である。
では、日本も含めて諸外国から中国、広くアジアに移植を受けに行く(行った)渡航移植患者を例えば「人道」に反するなどとして倫理的に非難することが可能であろうか。彼らは責められても当然なのであろうか。ひいては、帰国後、診療拒否をされても当然なのだろうか(この点については後述する)。
アジアへの渡航移植を「正しいか間違っているか」という二分法で問うなら、その多くは死刑囚移植や売買による移植であるから、そのようなケースについてはやはり、「正しい」とはいえないだろう。表現を変えるならば、倫理的に問題あり、ということになるだろう。しかしながら、もし「倫理的に容認されるか否か」と問う(注11)ならば、答えは微妙である。すなわち、即断できない。
ここで、考えさせられる一例を紹介する(注12)。
関東地方在住のFさん(女性、当時38歳)は肝臓病(原発性胆汁性肝硬変及び自己免疫性肝炎)で某医科大学付属病院に入院していたが、主治医(消化器内科)から「余命3ヵ月、内科医として手は尽くしました。もうやれることはありません。退院の手続きをお願いします」と宣告された。Fさんの夫は慌ててネットで渡航移植サポート業者を探し出し、その助力を得て中国に渡った。
私が(中国の病院で)最初に面会した時、Fさんは顔を含めて皮膚の色は暗緑色であった(会話は可能であった)。小水は焦げ茶色、総ビリルビン値は23.6(基準値:0.2~1.2)とのことだった。中国の担当医は、「なぜもっと早く連れて来なかったのか。体力のあるうちなら手術も無理なくできたのに」と述べたという。Fさんはその後、なんとか手術は受けることができたものの、すでにほとんど手遅れであり、結局、亡くなった。
彼女やその夫は責められるべきだろうか。倫理的非難に値するだろうか。私にはそうは思われない。もちろん、この1例を持って全体を評価することができないのは当然である。ただ、多くの患者は、国内で移植を受けられずに切羽詰まって渡航移植を選ぶ。ほかに選択肢のない患者に「座して死を待て(苦痛を甘受せよ)」と言うことが真の倫理といえるかどうか。
渡航移植患者帰国後診療拒否
(1)患者帰国後診療拒否の事実(注13)
フィリピンであれ中国であれ、アジアで臓器移植を受けて帰国した患者らの診療拒否は以前から報告されていた(注14)。それが近時、広く行き渡るようになってきた。アジア渡航移植患者も帰国後に診療を受ける倫理的ひいては法的権利がありそうだが、現実には我が国では、国立大学(付属)病院も含めて、ほとんどの医療機関がアジアで移植を受けて帰国した患者の、とくに、免疫抑制剤の処方も含めて移植後のフォローに関する診療を直接、間接に拒否している事実が多方面で指摘されている。
なお、筆者らの中国(広くアジア)移植ツーリズムに関するアンケート調査(注15)によれば、「帰国後に、中国で移植を受けたことを理由に診療拒否をされた経験があるか」との問いに、44%が「ある」と答えている。
(2)患者帰国後診療拒否は応召義務違反か(注16)
では、このような渡航移植患者帰国後の診療拒否は法的に正当といえるであろうか。具体的には、とくに法的に禁止される診療拒否に当たるか否か。我が国では医師は医師法上、応召義務を課せられている。すなわち、同法第19条は、「診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」と規定している。医師は正当事由がない限り、診療拒否はできない。
我が国のアジア渡航移植禁止政策(前述)に患者帰国後の診療拒否が含まれているか否かは定かではない。ただ、政策としては、「中国、広くアジアに行かせない」とのみする政策よりも、「帰って来ても面倒をみない(みさせない)」という政策を加えた方がより効果的であり、政策として一貫しているとはいえそうである。
これは、アジア渡航移植禁止政策を遂行するために、渡航移植患者にいわば出口から圧力をかけるものといえる。仮にこのようなことが政策として行われていないとしても、少なくとも、広く行き渡っている診療拒否の背景には、このアジア渡航移植禁止政策があることは間違いない。
ところで、現在、医療者の間で「アジアから帰国した渡航移植患者を診療すると罰せられる」あるいは「帰国患者のことを通報しなかったら罰せられる」などという言説がまるで都市伝説のように流布しているが、もちろん、そのようなこと(=罰せられること)はありえない(注17)。
ただ、下記のように、各医療機関による患者帰国後診療拒否の根拠になっているかもしれない通達は、現に存在する。もちろん、ここには診療拒否せよとは一言も記されていない。
臓器移植対策室長から都道府県等衛生主管部(局)長あての「事務連絡 平成22年2月15日」は、「無許可での臓器あっせん業が疑われる事例について」と題して次のように述べている。「管下の医療機関で無許可あっせん業が疑われる事例が発生した場合は、当室あて御連絡いただく旨、周知願います。」(注18)
患者が帰国後に診療を受ける場合、その医療機関の選定は通常、渡航移植サポート業者が代行する。したがって、各医療機関はその時点で上記くちコミにしたがって業者を拒絶する(あるいは上記通達にしたがって、通報する)ので、結果的に診療拒否が起こる。
では、中国、広くアジアで移植を受けたという事実の存在、より端的には、アジアで死刑囚移植や売買による移植を受けたという事実の存在は、医師がその患者の診療を拒否する正当事由といえるだろうか。さらには、仮にアジアへ移植を受けに行く(行った)患者を例えば「人道」に反するなどとして倫理的に非難する(前述)ことが可能であるとしても、そのことが診療拒否の正当事由になるだろうか。
これまでに正当事由になる(なりうる)として判例や学説で認められてきた(ア)医師不在、(イ)専門外、(ウ)重症患者診療中、(エ)診療時間外、(オ)入院設備の不備、(カ)ベッド満床など(注19)と比較しても、上記理由は到底、「正当事由」とはいえないであろう。
(3)患者帰国後診療拒否は人権侵害か
患者帰国後診療拒否が法的に応召義務違反になるか否かという問題(前述)とは別に、それは倫理的に正当化されるか否か、という問題も提起される。この問題は、患者帰国後診療拒否は人権侵害(注20)といえるか否かという問題につながっている。
では、アジアで移植を受けて帰国した患者に対する医師(ないし医療機関)の診療拒否は倫理的に正しいといえるであろうか。仮にアジアに移植を受けに行く(行った)渡航移植患者を例えば「人道」に反するなどとして倫理的に非難する(前述)ことが可能であるとしても、そのことを理由とする帰国後の診療拒否、ひいては帰国そのものの拒否などが倫理的に正当化されるわけではない(注21)。
これらは、関連はあるが別の問題と考えられなければならない。例えば中国についていえば、中国の移植政策に死刑囚等の人権の問題があるとしても、それを良しとしない日本ないしWHO等の移植政策を遂行するために渡航移植患者にいわば出口から圧力をかける(前述)ことが倫理的に正しいとはいえないであろう。これは、日本やWHO等の政策が正しいと仮定して、そうだとしてもその政策実現のために具体的な目の前の患者に圧力をかけてよいのか、犠牲にしてよいのか、という問題である。私には、このような診療拒否は越えてはならないぎりぎりの一線を越えているのではないかと思われる。
臓器摘出対象とされる死刑囚等、さらには金銭のために臓器を売る貧しいドナーたちに人権があるように、自国内で移植が受けられずに外国に出向く患者にも人権があるはずである。前者が国家権力の下の弱者なら、後者は医療権力の下の弱者なのである(とくに日本の場合)。「人道」をいうなら、これも人道である。「倫理」を攻撃の武器として使うなら、それはその使用者にも向けられる。
以上からすれば、中国、広くアジアへの渡航移植患者の帰国後診療拒否は、法的視点から見て応召義務違反の問題があると同時に、生命倫理の視点から見ても、患者の人権侵害という大きな問題を孕んでいると考えられる。
おわりに―まとめに代えて―
1960年代、アメリカのヘンリー・ビーチャーHenry Beecher医師は、「倫理と臨床研究(Ethics and Clinical Research)」と題する論文において、世界的な一流雑誌に掲載された多くの人権侵害的医学研究論文を鋭く告発した(注22)(私はこれを「告発型生命倫理」と呼んでいる)。よく知られている例としては、肝炎の感染力の研究のため、ウィローブルックWillowbrook州立学校の知的障害児らを人為的に肝炎に罹患させた、という人体実験がある。このような告発はとても勇気のいる行動であったに違いない。おかげで、アメリカでは研究倫理状況が改善され、人権侵害的医学研究は減って行った(注23)。
患者の人権は「生命倫理(学)」の重大な関心事である。人権侵害は、誰かが言い出さない限り、何も改善されない。告発されるべき問題は、たとえ小さな問題であっても、告発されなければならない。ここでは、法律学や倫理学は人権状況改善のための道具に過ぎない。本稿が、本稿と対をなす拙文「臓器売買と移植ツーリズム」(注24)とともに渡航移植患者の人権状況の改善に少しでも役立つならば、それは筆者としては望外の幸せである。
脚注
(注1)中国において臓器を摘出される死刑囚の人権に関しては、私は1995年以降、現地実態調査や立法状況の調査等を行い、それらをもとに直接、間接に論じてきた(粟屋剛「中国における死刑囚からの臓器移植」法律時報第68巻第9号(1996年)28-34頁、粟屋剛「中国死刑囚移植と生命倫理―脳死と注射殺の組み合わせは何をもたらすか―」日中医学第22巻第1号(2007年)10-13頁など)。ほか、調査をもとにアメリカ連邦議会(下院)公聴会にて証言及び意見陳述を行った[1998年6月4日](アメリカ連邦議会下院国際関係委員会ホームページ 及び「労改基金会」ホームページ)など参照。日本語による詳細は粟屋剛「中国死刑囚移植についてのアメリカ連邦議会証言」徳山大学論叢第50号(1998年)177-189頁参照)。なお、同じく中国において臓器を摘出される法輪功学習者の人権の問題については、粟屋剛「『STATE ORGANS』日本語版刊行に寄せて」謝冠園 監修(デービッド・マタス、トルステン・トレイ編)『中国の移植犯罪 国家による臓器狩り』(自由社、2013年)[原題『State organs: Transplant abuse in China』14-17頁]参照。
フィリピンについても、現地実態調査等を踏まえて、金銭のために臓器を売る貧しいドナーたちの人権問題を直接、間接に論じてきた(粟屋剛「臓器売買―フィリピン・ニュー・ビリビッド刑務所の事例―」徳山大学論叢第39号(1993年)1-15頁、粟屋剛「フィリピンにおける臓器売買」法学セミナー第462号(1993年)26-30頁、Awaya T, Siruno L, Toledano SJ, Aguilar F, Shimazono Y, Castro LD, “Failure of Informed Consent in Compensated Non-related Kidney Donation in the Philippines,” Asian Bioethics Review [オンラインジャーナル], Vol.1, No.2, 2009)など)。
インドについても、現地実態調査等や立法状況の調査等を踏まえて、同様に論じてきた(粟屋剛「ビジネスとしての臓器売買」メディカル朝日第24巻第1号(1995年)14-23頁ほか)。なお、フィリピンやインドにおける臓器売買全般について、粟屋剛『人体部品ビジネス』(講談社選書メチエ、1999年)参照。
(注2)とくに日本人患者の中国への移植ツーリズムについては、私はすでに1997年、日本人移植(希望)患者・家族や渡航移植サポート業者らとともに渡中して現地調査を行い、それらをもとに諸議論を展開してきた(例えば、調査をもとにアメリカ連邦議会(下院)公聴会にて証言及び意見陳述を行った[前掲註(1)参照])。ほか、私は最近では中国ひいてはアジアで移植を受けてきた日本人患者に対する社会調査を実施している(①「中国移植ツーリズムに関する社会調査の実施とそれに基づくELSIの検討」(文科科研基盤研究(C)、代表:粟屋剛、2011年度~2013年度、及び、これに続く②「アジア移植ツーリズムに関する社会調査の実施とそれに基づくELSIの検討」(文科科研基盤研究(C)、代表:粟屋剛、2014年度~2016年度)。さらに付記するならば、本研究の概要が新聞(地方紙)に紹介された(山陽新聞2011年9月29日「中国での移植ツーリズム 国内初 実態調査へ」、山陽新聞2013年4月5日「中国へ渡航、臓器移植 大半後ろめたくない」)。また、2013年4月、NHK岡山が本調査についての番組を制作、放映した(4月5日ほか放映[25分間:「現場に立つ」、「フェイス」ほか(岡山及び中国地方のみ)])。
(注3)この項目の記述は拙稿「臓器売買と移植ツーリズム」甲斐克則編『臓器移植と医事法(医事法講座第6巻)』(信山社、2015年7月刊行予定)からの転載である。
(注4) 一般に「海外渡航」と表記されるが、国際的には医療ツーリズムは海を渡るとは限らないので、本稿ではこのように表記することとした。
(注5)「臓器取引と移植ツーリズムに関するイスタンブール宣言」(国際移植学会、2008年)。
(注6)この定義では移植ツーリズム Transplant tourismは「移植のための渡航Travel for transplantation」の一種ということになる。
(注7)この項目の記述は拙稿「臓器売買と移植ツーリズム」(前掲註(3))からの転載である。
(注8)ただし、倫理的視点からは臓器売買を禁止・処罰することの是非も問われうる(粟屋剛「臓器売買」倉持武・丸山英二編『脳死・移植医療(シリーズ生命倫理学第3巻)』 丸善、2012年)212-232頁参照)。
(注9)渡航移植禁止が果たして倫理的といえるのか、疑問なしとしない。この点に関して、私は「渡航移植禁止は倫理的か―中国移植ツーリズム調査結果をベースとして―」と題する報告を行った(第32回日本医学哲学・倫理学会、大阪歯科大学(枚方市)、2013年10月19-20日(19日))。
(注10) 最新のものとして、”Human organ and tissue transplantation” (WHA 63.22; 21 May 2010)。
(注11) この考え方は私の「倫理評価四段階説」による。行為の倫理性の評価を「倫理的か、非倫理的か」、あるいは、「正しい(正当)か、間違っている(不当)か」などというオール・オア・ナッシングの二段階(たとえば大学の成績でいえば「優」と「不可」のみ)で行うならば、思考は硬直化する。「倫理的」と「非倫理的」の間に「倫理的に容認される」と「倫理的に容認されない」の二つの段階を設け、この両者の間の線引き(倫理ハードル)を考えるならば、より柔軟に行為の倫理性を評価できる。これを「倫理評価四段階説」という(粟屋剛「輸血拒否の生命倫理―親が子供の輸血を拒否する場合に医師はその意向を尊重すべきか―」『臨床麻酔』第31巻第2号(2007年)175-180頁(178頁)。
(注12)これは現地(中国の某病院)での日本人患者インタビューの一つである(2013年6月7日聞き取り)。ほか、移植患者の発言として、「なぜ私たちは責められるのか。透析はつらく、苦しい。それを止めれば死ぬ。中国に臓器があった。だから移植を受けた。中国での臓器移植は、倫理的に問題があるかもしれないが、違法ではないのだ」(60歳代後半、男性、医師:2013年3月6日聞き取り[日本])というものや、「つらい透析で生きるより、刑務所に入ってもよいから中国で移植を受けようと思った(そして、現に受けた)。私たちをなぜ責めるのか。私は何も悪いことはしていない」(60歳代後半、男性、自営業:2013年6月8日聞き取り[現地:中国])などというものがあった。付記すれば、「中国移植ツーリズムに関する社会調査の実施とそれに基づくELSIの検討」及び「アジア移植ツーリズムに関する社会調査の実施とそれに基づくELSIの検討」(前掲註(2))によるところの中国で臓器移植を受けた日本人患者へのアンケート調査(有効回答55通[2015年2月18日時点])では、「中国で移植を受けることに葛藤や迷いがあったか」との問いには53%の人がYESと答え、中国で移植を受けたことを後悔しているか、との問いには91%の人がNOと答え、「中国の(今は亡き)ドナーに感謝しているか」との問いには98%の人がYESと答えている。これらのアンケート調査に関しては注意すべき点がある。それは、データにバイアスがかかっている可能性があるという点である。なぜなら、当然のことながら、経過が思わしくなくてすでに亡くなっている患者や重篤な状態にある患者はアンケートに答えるはずもなく(よしもなく)、経過が良好である患者のみがアンケートに答えている可能性があるからである。
(注13)この項目の記述は拙稿「臓器売買と移植ツーリズム」(前掲註(3))からの転載である。
(注14)毎日新聞2007年7月9日、東京新聞2007年9月9日ほか。なお、診療拒否どころか、帰国拒否を主張する者もいる。ある外国人論者は、「各国政府は中国で移植を受けた患者の入国(=帰国)を拒否せよ」とまで述べている(マリア・フィアタロン・シング「医学の使命」謝冠園 監修『中国の移植犯罪 国家による臓器狩り』(前掲註(1))239-249頁)。
(注15)前掲註(11)に挙げた中国で臓器移植を受けた日本人患者へのアンケート調査。
(注16)この項目の記述は拙稿「臓器売買と移植ツーリズム」(前掲註(3))からの部分的転載である。
(注17)このような言説は、アジア渡航移植患者に対して医療者が抱く「けしからん、うさんくさい、いかがわしい」などというイメージも相まって、くちコミで伝わっていったと推測される。
(注18)厚生労働省健康局疾病対策課臓器移植対策室監修『逐条解説臓器移植法 臓器移植・造血幹細胞移植関係法令通知』(中央法規出版、2012年)158頁。
(注19)菅野耕毅『医事法学概論(第2版)』(医歯薬出版、2004年)322頁。
(注20)ここで論じるのは法的人権(=憲法上の人権)ではなく、「倫理的人権」(=日常的人権)である(粟屋剛「先端医療技術の臨床応用の際の虚偽情報の提供等と患者の人権侵害に関する一考察」財団法人兵庫県人権啓発協会研究紀要第7号(2006年)65-77頁参照)。それは、「人間が人間らしく幸せに生きていくための権利」などと定義される(人権教育啓発推進センター『人権について考える2015―人権って何だろう?―』(人権啓発パンフレット、2015年)3頁ほか)。
(注21)私はかつてこの点について国際学会で論じたことがある(Awaya T, Transplant ethics: Is it ethically acceptable for medical doctors not to give transplant-related treatment to patients who have undergone organ transplants in China?, 14th Asian Bioethics Conference: Ethics in Emerging Technologies to Make Lives Better together, Loyola College, Chennai, India, Nov. 19-23(20) 2013)。
(注22)The New England Journal of Medicine 274(24): 1354-60, 1966。彼は、非倫理的な22の臨床研究論文を例示した。
(注23)ただし、論文画像・データ捏造などのいわゆる「研究不正」は現在、日本を含めて世界中で横行している(代表例:STAP細胞事件)。
(注24)甲斐克則編『臓器移植と医事法(医事法講座第6巻)』(信山社、2015年7月刊行予定)[前掲註(3)]所収。
参考文献(註で引用したもの以外)
・カール・ベッカー「中国における臓器移植の倫理問題」生命倫理第9巻第1号17-24頁(1999)
・小林英司・福嶌教偉・江川裕人・高原史郎・篠崎尚史・長谷川友紀「渡航移植者の実情と術後の状況に関する調査研究」(厚生労働科学研究費補助金特別研究事業平成17年度総括・分担研究報告書)1-32頁(2006年)
・松野直徒・長尾桓「アジア渡航腎移植の現状」今日の移植 [Transplantation Now] 第19巻第5号583-586頁(2006年)
粟屋剛「アジア諸国における生体臓器の提供・移植に関する法制」法律時報第79巻第10号71-75頁(2007年)[後,城下裕二編『生体移植と法』日本評論社193-203頁(2009年)に収録]
・木村良一『臓器漂流―移植医療の死角』(ポプラ社、2008年)
・城山英巳『中国臓器市場』(新潮社、2008年)
・デービッド・マタス、デービッド・キルガー(桜田直美訳)『中国臓器狩り』(アスペクト、2013年) [原題『Bloody Harvest』]
※補足 本稿は法政論叢第51巻第2号257-269頁(2015年)からの転載である(原題:「アジア渡航移植患者の人権」)。
プロフィール
粟屋剛
1950年山口県美祢(みね)市生まれ。1969年山口県立大嶺高等学校卒業、1973年九州大学理学部卒業、1978年同法学部卒業、その後、宇部短期大学助手、西南学院大学大学院法学研究科博士課程、徳山大学経済学部教授等を経て、2002年4月より岡山大学大学院医歯(薬)学総合研究科生命倫理学分野教授。専門は生命倫理及び医事法。現在、日本生命倫理学会理事、日本人権教育研究学会理事、日本医学哲学倫理学会評議員等。著書は、単著、編著、共著を含めて約40冊。最近では、2007年1月、アメリカの『生命倫理百科事典(Encyclopedia of Bioethics)』全5巻3000頁の翻訳[約300人の分担翻訳]を編集代表として出版。その後、生命倫理学全分野を網羅する 『シリーズ生命倫理学 全20巻』 [総執筆者約250人] を編集代表としてリリースした(2013年配本完結)。