中国移植ツーリズムとは何か

はじめに―問題の所在―

 

臓器摘出対象とされる死刑囚(や法輪功学習者)、さらには金銭のために臓器を売る貧しいドナーたちの人権は声高に語られる。私も、及ばずながら、それらについて拙文を物してきた(注1)。

 

しかしながら、移植のためにアジアに出向く患者の人権についてはあまり、というか、ほとんど関心をもたれていない。それどころか、彼らは悪人のイメージで見られ、後述するように帰国後、診療拒否にさえあっている。

 

果たしてそれでよいのか、彼らは倫理的非難に値するのか(後述するように、私は値しないと考えている)、仮にそうであるとしても、彼らにも人権があるのではないか、などというのが私の問題意識である。本稿はこれらの点について、主として生命倫理の視点から管見を述べるものである。

 

 

アジア移植ツーリズム(注2)

 

(1)移植ツーリズムとは何か(注3)

 

移植ツーリズムは、美容整形ツーリズムや生殖医療ツーリズムなどと並んで、医療(メディカル)ツーリズムの一種である。この医療ツーリズムにはもちろん、手術や健康診断などのための国外渡航(注4)も含まれる(日本から外国に渡航するケースだけでなく、外国から日本にやってくるケースもある)。

 

医療ツーリズムとは一言でいえば、医療を受けるために国外渡航すること(あるいは、国外渡航して医療を受けること)である。そうだとすれば、移植ツーリズムとは、臓器等の移植を受けるために国外渡航すること(あるいは、国外渡航して臓器等の移植を受けること)、ということになる。いわゆる「渡航移植」(=臓器移植目的の国外渡航)とほぼ同義である。

 

ただし、例えば、広く知られている「イスタンブール宣言」(注5)はこの概念をさらに限定して、下記のような特殊な定義をしている。

 

「移植のための渡航 Travel for transplantationに、臓器取引や移植商業主義の要素が含まれたり、あるいは、外国からの患者への臓器移植に用いられる資源(臓器、専門家、移植施設)のために自国民の移植医療の機会が減少したりする場合は、移植ツーリズム Transplant tourism となる。」(注6)

 

これは、倫理的、社会的に問題のありそうな国外渡航移植全体に規制の網をかけようとするものである。しかしながら、このような特殊(かつ奇妙)な定義は概念の混乱を招くものである。それゆえ、以下ではこの定義は用いず、前記のような一般的な用語法に従うことにする。

 

 

(2)移植ツーリズムは違法か(注7)

 

我が国には移植ツーリズム一般を禁止したり規制したりする法律はない。つまり、外国に出向いて移植を受けること自体が違法であるわけではない。法律によって禁止されているのは当該移植ツーリズムが臓器移植法上の「臓器売買」にあたる場合である。これは当然、違法(臓器移植法違反)である(注8)。

 

外国に出向いて死刑囚から提供された臓器の移植を受けること(=いわゆる死刑囚移植)も、我が国には禁止する法律がないので、(少なくとも国内法的には)違法ではない。したがって、日本人患者が中国に渡って移植を受けても、違法ではない。

 

ただし、日本移植学会は死刑囚移植を禁止している。正確には、「日本移植学会倫理指針」は、「受刑中であるか死刑を執行された者からの移植の禁止」と題して、「受刑中の者、あるいは死刑を執行された者からの移植は、ドナーの自由意思を確認することが困難であることから、国内外を問わず禁止する」と規定している。

 

ただ、この指針の対象は日本移植学会会員のみであり、患者や、同学会会員ではない医師らは対象ではない。もちろん、この指針には法的効力(ないし拘束力)はない。なお、厚生労働省は直接、死刑囚移植を禁止しているわけではない(積極的に認めるというスタンスでも認めないというスタンスでもない)が、少なくとも学会倫理指針に何らクレームを付けてはいない。この点を鑑みれば、この日本移植学会倫理指針が我が国の実質的な移植政策(の根拠の一つ)になっていると言って、過言ではあるまい。

 

一般に、この学会倫理指針策定の背景には、臓器提供の自給自足を求めたイスタンブール宣言(前出)があるとされている。同宣言は、「臓器取引と移植ツーリズムは、公平、正義、人間の尊厳の尊重といった原則を踏みにじるため、禁止されるべきである」と述べている(注9)。

 

また、「弱者である個人や集団(識字能力をもたない人々、貧困に苦しむ人々、不法滞在の移民、受刑者、政治的経済的亡命者など)を生体ドナーになるよう誘導する行為を許すことは、臓器取引や移植ツーリズム、移植商業主義に反対する立場からは認められない」とも述べている。この宣言自体も、もちろん、国内的に法的効力(ないし拘束力)をもつものではない。なお、WHOも同様な勧告を複数回、発している(注10)。

 

 

(3)移植ツーリズムは倫理的非難に値するか

 

前述のように、近時、外国とりわけアジアに出向いて移植を受けることは「移植ツーリズム」として国際的な批判の対象になっている。ただし、一般に、欧米に出向く移植ツーリズムは社会的な非難の対象になっていない。それどころか、美談として取り上げられることもある。非難の対象になるのはアジアへ出向く移植である。

 

では、日本も含めて諸外国から中国、広くアジアに移植を受けに行く(行った)渡航移植患者を例えば「人道」に反するなどとして倫理的に非難することが可能であろうか。彼らは責められても当然なのであろうか。ひいては、帰国後、診療拒否をされても当然なのだろうか(この点については後述する)。

 

アジアへの渡航移植を「正しいか間違っているか」という二分法で問うなら、その多くは死刑囚移植や売買による移植であるから、そのようなケースについてはやはり、「正しい」とはいえないだろう。表現を変えるならば、倫理的に問題あり、ということになるだろう。しかしながら、もし「倫理的に容認されるか否か」と問う(注11)ならば、答えは微妙である。すなわち、即断できない。

ここで、考えさせられる一例を紹介する(注12)。

 

関東地方在住のFさん(女性、当時38歳)は肝臓病(原発性胆汁性肝硬変及び自己免疫性肝炎)で某医科大学付属病院に入院していたが、主治医(消化器内科)から「余命3ヵ月、内科医として手は尽くしました。もうやれることはありません。退院の手続きをお願いします」と宣告された。Fさんの夫は慌ててネットで渡航移植サポート業者を探し出し、その助力を得て中国に渡った。

 

私が(中国の病院で)最初に面会した時、Fさんは顔を含めて皮膚の色は暗緑色であった(会話は可能であった)。小水は焦げ茶色、総ビリルビン値は23.6(基準値:0.2~1.2)とのことだった。中国の担当医は、「なぜもっと早く連れて来なかったのか。体力のあるうちなら手術も無理なくできたのに」と述べたという。Fさんはその後、なんとか手術は受けることができたものの、すでにほとんど手遅れであり、結局、亡くなった。

 

彼女やその夫は責められるべきだろうか。倫理的非難に値するだろうか。私にはそうは思われない。もちろん、この1例を持って全体を評価することができないのは当然である。ただ、多くの患者は、国内で移植を受けられずに切羽詰まって渡航移植を選ぶ。ほかに選択肢のない患者に「座して死を待て(苦痛を甘受せよ)」と言うことが真の倫理といえるかどうか。【次ページにつづく】

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シノドス国際社会動向研究所

vol.222 特集:沖縄

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