2017.05.24

マダガスカルで考える、文化と無形文化遺産

飯田卓 人類学

国際 #等身大のアフリカ/最前線のアフリカ#マダガスカル

シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「最前線のアフリカ」です。

文化遺産という言葉は、1980年代以前、耳にすることはほとんどなかったように思う。しかし近年は、マスメディアの影響もあり、身近に感じられるようになっているのではなかろうか。

昨年2016年には、「ル・コルビジェの建築作品」を構成する資産のひとつとして、東京の国立西洋美術館が世界遺産リストに記載された。また、日本の33ヶ所でおこなわれている「山・鉾・屋台行事」が、ユネスコの「代表的な無形文化遺産」リストに記載された。一般には気づかれぬ価値を持つものが、今後も、文化遺産のリストに含められていくことになろう。そしてそのたびに、われわれは、その「文化遺産」にあらたな目を向けなおすことになろう。

しかし、そもそも文化遺産とは何なのか? 誰かが文化遺産と呼ばなければ価値を生じないものなのだろうか? もしそうだとしたら、いったい誰が文化遺産を決めるのだろうか? これらの問いに答えるにあたり、この小論では、アフリカ大陸の東に位置する島国マダガスカルのユネスコ無形文化遺産に目を向けてみたい。

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無形文化遺産とは

ユネスコ無形文化遺産は、よきにつけ悪しきにつけ、有形の世界遺産とは異なる性格をもっている。端的にいえば、ユネスコ無形文化遺産は、歴史の教科書に載るような有名性(世界遺産条約の文言では「顕著な普遍的価値」と表現されている)を備えておらず、誰が見てもすごいと思えるようなものではない。

しかし、わずかながらも熱心な人びとに支えられてきた伝統は、その遺産の担い手に誇りをもたらす(無形文化遺産条約の文言では「社会及び集団に同一性及び継続性の認識を与える」と表現されている)ため、文化的な価値がある。そうしたローカルなものを人類共有のものとして維持してこそ、世界全体で文化の多様性が維持される、というのがユネスコの考えかただ。

この意味では、祭や芸能、工芸技術といった文化現象の担い手がまず「われわれの文化を無形文化遺産と認めてもらおう」と発議し、ユネスコの耳に届けば「代表的な無形文化遺産」リストに記載されるというのが理想である。しかし、現実にリスト記載の提案をおこなうのは、その無形文化遺産が見られる場所を領土内に含む国家である。理由のひとつとしては、ユネスコの考えかたがじゅうぶん普及していないため、担い手から自薦の声が上がりにくいということがあげられる。

しかしいっぽうで、ユネスコの理念がかりにもっと普及したとしても、さまざまな文化の担い手が名乗りをあげるようになり、文化遺産のリスト記載作業が追いつかなくなるだろう。じっさい、ユネスコ無形文化遺産に関する政府間会議が新規にリスト記載できる物件は、年間にせいぜい40件ほどである。このため、無形文化遺産の候補はまず国レベルでふるいにかけられたのち、国際会議の場に踊りでることになる。

無形文化遺産条約を批准している国家が無形文化遺産のリスト記載を推挙する場合、その国家は、締約国の資格で国際会議に提案する。とはいえ締約国は、自国の無形文化遺産について情報を完全に保持しているわけではない。無形文化遺産はそもそも担い手の意識に関わることだから、そのひとつひとつを国家が関知するのは容易でない。

ただし、無形文化遺産があるていど商品化されており、担い手以外の人たちに消費されているなら、締約国による情報収集も可能である。祭や踊りが観光資源となっていたり、工芸の作品が民芸品などとして流通するような場合である。こうした場合に締約国は、担い手自身の売りこみ文句を手がかりとして、無形文化遺産の価値を判断できる。

また、間接的にではあるが、観光資源や工芸の評判を参考にすることもできよう。日本の工芸を例にとるなら、ユネスコ無形文化遺産の代表的一覧表に記載されている小千谷縮・越後上布、結城紬、石州半紙・本美濃紙・細川紙などは、すべて多かれ少なかれ商品化が進んできたものである。

しかし、担い手が誇りを持つ文化というのは、商品化されたものにかぎらない。むしろ、貨幣尺度によって評価しにくいものに目を向け、文化の多様性を維持することにこそユネスコの目標はあるのだから、そうしたいわば「知られざる文化」をどのように見いだしていくのか、力のない担い手をどのように支援していくのかが議論されなければならない。

それにもかかわらず、日本をはじめとする多くの国では、商品に競争力をもたらすブランディング制度として無形文化遺産制度が機能することが多いようだ。結果としてそのようになるのは致しかたないし、認知度が高まることによって維持できる文化があることも事実だが、商業的なもくろみから発案されたために無形文化遺産の概念を混乱させるような例もある。販路拡大のためにリスト記載を目ざすような運動や、それを助長するような報道はいったん慎み、ユネスコが目ざすことの理解をもっと進めてよいように思う。

ザフィマニリの木彫り知識

さて、わたしがマダガスカルのユネスコ無形文化遺産をとり上げようとする理由は、商品化の歴史がきわめて浅く、まさしく「知られざる文化」としての性格が顕著だからだ。その文化遺産とは、ザフィマニリと呼ばれる人たちが伝えてきた、木彫りについての知識である。

ザフィマニリ人は、1万人を超えるか超えないかくらいの小さな民族集団で、人口2000万を超えるマダガスカルのなかで少数を占めるにすぎない。彼らが住む地域は、首都アンタナナリヴからの距離は300キロメートルほど離れているだけだが、アンタナナリヴの人でもザフィマニリを知らない人たちはまだまだ多い。

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ザフィマニリの人たちが住むのは、人口が比較的多い中央高地部(おおむね標高1200メートル以上)が東海岸に向かって落ちこむ急斜面にあたりで、険しい山に囲まれている。このため平地が少なく、人びとは山の斜面の焼畑でトウモロコシなどを耕作してきた(ただし近年では、棚田での稲作も一般的になっている)。また、交通の便が悪いため、自動車による物資の輸送が限定されており、生活必需品を自分たちで自作しなければならない。地域の入り口にまで車が通うようになった現在では、その町の週市に行けばさまざまな工業製品を買うことができるが、それでも山道を何時間も歩かなければならない。

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写真撮影:上羽陽子

主として男性がおこなう木彫りは、水辺の草を使って女性がおこなう組み編みと並んで、生活必需品を作りだす技術だった。それらに関する知識は、多かれ少なかれ、誰もが身につけていたのである。

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象徴的なのは、彼らが住む家屋だ。マダガスカルにも多様な木造住居建築があるが、たいていは粗末なもので、雨季に訪れるサイクロンの前には耐えられないことがある。しかしザフィマニリの家屋は、しっかり建てられてさえいれば、せいぜい屋根が被害を受けるだけで倒壊することはない。

こうした木造家屋は19世紀後半頃まで中央高地に広く分布していたようだが、レンガという新素材が入ったことと木材価格が高騰したことにより、いまやザフィマニリの人たちが伝えているだけだと言っても過言でない。彼らの住居は、原則としていっさいの金属を使わず、ほぞとほぞ穴の組みあわせだけで建っている。大きな組み木細工とみなせるかもしれない。その加工は熟練の大工だけがほどこしたが、木材の調達や材の組みたて、仕上げなどは、施主の家族が総動員しておこなった。

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普請の仕上げのひとつは、開き戸式の木製窓にほどこされた幾何学的な浮彫り模様だ。この写真を見た日本人には、魔除けや家紋ではないかと訊く人もいる。しかしそうした意味合いよりも、家の個性を際だたせる装飾の意味合いのほうが強いようだ。

ほとんどのモチーフは方形と円形の組みあわせだが、なかには動物や鳥をあしらった具象画のこともある。熟練の彫り師に製作を頼むこともあるが、家の個性を際だたせるのが目的だから、下手でも自分で彫る人もいる。いずれにせよ、これらのフォトジェニックな模様は、無形文化遺産のリスト記載に大きく貢献した。フランスでは、木製窓だけの展覧会も開かれているほどである。

無形文化遺産化と商品化

ザフィマニリの木彫りが地域外で知られるようになったのは、いまから半世紀ほど前である。この頃、ザフィマニリの人たちを相手に活動していたフランス人神父のペルトロ=ヴィユヌーヴが、凶作時に農民たちの現金収入を確保するため、木彫りを商品化した。そしてその直後、アンタナナリヴ大学の芸術=考古学博物館が組織的な民族誌資料の収集をおこない、フランス語圏にザフィマニリの木彫りを紹介した。

やがて、ザフィマニリが自給的に木材を伐ったり加工したりする能力は地域の外でも評価されるようになり、木材伐採会社や製材会社がザフィマニリの人びとを季節労働者として大量に雇用するようになった。この動きは結果的に、ザフィマニリの木彫りが地域外で流通するのを加速し、ザフィマニリの知名度を高めた。

21世紀に入ると、ラヴァルマナナ大統領がリベラルな外交政策をとったため、マダガスカルを訪れる海外観光客の数が著しく増えた。この影響は、アンタナナリヴから300キロメートル足らずの位置にあるザフィマニリ地域にもおよび、商品経済から距離を置いて暮らすザフィマニリの村々を徒歩で訪ねるトレッキング・ツアーが催されるようになった。自動車道が通じる入口の村では、トレッキング・ガイドやポーター、料理人などが観光客を待ちうけるようになり、自動車の通らない村では、観光客を民家に泊めて謝礼をもらうようになった。

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観光客のために整備された道路(2012年)

ザフィマニリの木彫り知識は、2003年にユネスコの「人類の口承および無形遺産の傑作」に選ばれた。これは、2001年から2005年までの3回にわたってユネスコが選定したもので、この機会に選ばれた90件は、無形文化遺産条約が発効したのちの2008年に「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載された。

それ以来、ザフィマニリの木彫り知識は、ユネスコ無形文化遺産というブランドを背負うことになった。ザフィマニリの人たち自身は、ユネスコの活動や理念をほとんど理解しておらず、「無形文化遺産」という語にもほとんどなじみがないが、ユネスコの政策は観光客数や木彫り製品の需要をまちがいなく拡大した。

ザフィマニリ文化の商品化の流れのなかで、木彫りも否応なく変化していった。あらたな消費者の需要に応じて、これまで作られていなかったものが作られるようになった、というのがその変化のひとつ。たとえば、アフリカ大陸部で使われていた組みたて式の椅子が、1960~1970年代頃に「ザフィマニリ椅子」という名で市場に出まわるようになった。しかし、ほかにも、気づかれにくいが明らかに変わったことがらがある。次の1組の写真をご覧いただきたい。

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左も右も、春先に採取されたハチミツを運搬・保管するための容器である。用途は同じだが、時代が下ると、右のように幾何学的な浮彫りをほどこしたものが増えてくる。すでに述べたように、これはもともと木造家屋を飾るために使われていた模様で、ハチミツ容器のような日用品にはあまり使われていなかった。しかし観光客としては、携帯しやすい小物にザフィマニリ特有のこの模様がほどこされていれば、ザフィマニリの職人に会ったことの記念となる。

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この腰かけも同じである。ザフィマニリの人びとは、西欧のような高い椅子に腰かけて食事や作業をするのでなく、日本のように床にじかにすわり、低い位置で生活する。そこで来客があったとき、客に上記の腰かけを使うよう勧める。考えてみれば、座面に模様が彫られていてもじっくり見ることはほとんどないのだが、観光客むけの商品が普及したために、模様があっても不自然でなくなっている。よきにつけ悪しきにつけ、観光客のセンスが逆にザフィマニリの人びとに影響し、浮彫りの本来の意味を変えてしまっているのである。

こうしたことがらはほんの一例で、商品化によって木彫りはさまざまなかたちで変化した。人びとにとって木彫りは、農作業のあい間におこなう一時的労働にすぎなかったが、現在では畑の世話を小作人に任せ、農繁期にも木彫りをひたすら作りつづけるプロの職人がいる。こうした人びとは、自分の職業をアーティスト(作家)と称している。そうした人たちのなかには、容器や腰かけのような立体物をいっさい作らず、古民具に浮彫り模様をほどこすだけの人もいる。デザインに独創性を発揮するのであれば、たしかに職人というよりアーティストと呼んだほうが適切だろう。

とはいえ、彼らの地位は決して高くない。フランスのある美術商は、「アーティスト」の先人たちがデザインした木製窓をマダガスカルで大量に買いとり、フランスの「現代美術作家」に加工させて売っている。売買において評価されるのは、マダガスカルでの製作工程でなくフランスでの製作工程である。

この美術商は、収益の一部をザフィマニリの村の「景観修復」に役立てているが、そこでおこなわれているのは、木造以外の家屋をとり壊した世帯に木造家屋の材料費と工賃を支給するという「木造家屋化」である。ある村では、少なくとも55の世帯がこの助成に応募したため、村のようすはかなりのていど昔のような落ち着いたたたずまいになった。しかし、短期間に生じた建築ラッシュのために、特定の樹種が伐採され、木材資源の更新に支障をきたす恐れがある(注1)。ザフィマニリの木彫りの商品化は、さまざまな問題をはらみながら進行しているといえる。

(注1)詳しくは、2017年5月に臨川書店から刊行される『文化遺産と生きる』で述べたので、ご関心のむきはご参照いただきたい。

文化と文化遺産、複雑化していく相互関係

マダガスカルの文化遺産が示すように、文化遺産がはらむ問題は、状況に応じて異なった様相を呈する。日本の無形文化遺産は、あるていどまで人に見られることを意識しているから、工芸であれば商品化しているし、芸能であれば観光化している。それは悪いことでもなんでもないが、マダガスカルの状況とは異なる。マダガスカルの工芸は商品としての側面をもつものの、商品化されてから半世紀ほどしか経っておらず、いまだに生活必需品を作る技術という側面を残している。ふたつの側面の違いは大きく、文化あるいは文化遺産についての考えかたを複雑にしている。

商品としての木彫り製品は、それ自体が文化的商品として流通する。文化的商品はふつう、すべての消費者に効用をもたらすわけではなく、鑑識眼を持つ一部の批評家の審美的基準にかなうとか、生産地を訪れた一部の観光客にとっての記念になるなど、かぎられた消費者だけに満足を与える。つまり文化的商品の価値は、これら一部の消費者との「出会い」に依存するのであり、商品生産の背後で木彫り技術を伝える地域社会のありかたは製品の価値に反映しない。

いっぽう生産者にとって商品は、特定の消費者の選好にかなってさえいればよく、一般的に「役に立つ」必要はない。ザフィマニリの木彫りの場合、エキゾチックな魅力によって文化的他者を惹きつけさえすれば、商品はおのずから価値を帯びる。文化とはそもそも、複雑な経緯によって洗練された技巧をともなうものだが、文化的商品にはそれが集約されている(ときには見かけだけの場合もある)。このように商品に集約され、特定のコンテクストを離脱して流通する文化を、「アイコンとしての文化」と名づけることができよう。

いっぽう生活必需品としての木彫り製品においては、交換価値がほとんど意識されず、それ自体が文化的であるとは考えにくい。しかし、木彫り製品の製作や使用は、地域の社会関係や自然環境に照らして無駄のないかたちで洗練されており、その意味で、地域に根ざした文化に支えられている。こうした諸関係あるいは「システムとしての文化」のなかで、たとえば素材の減少という問題が生じたとき、人びとは素材を多様化させたり、少ない素材で製作したりするような工夫を積みかさね、システムに生じたほころびを繕おうと試みる。

その試みは失敗に終わることもあるが、生活必需品の調達が素材減少の理由ならば、変化のスピードは比較的緩やかなので試行錯誤する余地があるし、システムがあらたな均衡に導かれることもある。いずれにせよ、そうした試行錯誤の過程のなかで、木彫り製品の製作や使用のありかたは少しずつ調整されていくのだ。

木彫り製品そのものに体現されるアイコンとしての文化と、木彫り製品の背後に控えるシステムとしての文化。両者の相違は、天才による技巧の粋を意味する古典主義的な「文化」と、あらゆる人類が生活様式・行動様式として有するアメリカ文化人類学流の「文化」の相違に通じている。ここでは詳述する余裕がないが(注2)、文化の意味合いがまったく異なっていることに注意していただきたい。ザフィマニリの木彫りをめぐっては、このふたつの文化観がせめぎ合っている。あるザフィマニリの年長者は、ザフィマニリの木造家屋の価値づけを観光客に委ねるのでなく、次のように語って生活文化における意義を強調した。

(注2)詳しくは、2017年5月に臨川書店から刊行されるもうひとつの論文集『文明史のなかの文化遺産』を参照。

ザフィマニリの家は、部材を寄せあわせ、模様を入れて建てる。技巧をこらした伝統的な家では、理想が形にあらわれます。ザフィマニリは、そのことを重んじて、家を建ててきたのです。

協力と愛情があってこそ、はじめて家が建ちます。ザフィマニリの建築で大切な考えは、互いを愛し、尊ぶことです。東の柱を立ててはじめて、西の柱が立ちます。南の柱ができると、北の柱ができます。そうやって、家がひとつにまとまり、建ちます。建築には、愛と協調が必要なのです。

しかもこの家は、釘を使わずに建てます。釘などを使わずに、部材が支えあい建つのです。それは、心がひとつということ。愛情がひとつということ、ひとつの家族ということです。旅行者が私たちのところに来たら、この、ひとつの心という考えをわかってくれるはずです。これは家の形だけでなく、人のくらしについてもいえることです。(原文はマダガスカル語、傍線は引用者)

彼らの家屋は、観光客がエキゾチックな商品に一方的なかたちで付与する価値のみならず、ザフィマニリの道徳を反映した価値をも有するというのである。この年長者が家屋に付与する価値は、生活必需品としての使用価値でもないし、観光収入を得るための商品価値でもない。

その価値は、文化的他者に対して提示されてはいるものの、みずからの精神生活を含めたシステムとしての文化を後ろ盾としている。消費者の顔色をうかがって意味や価値をとり決めるのでなく、生の現実をあるがままに込めようとしているのだ。生産者と消費者の交渉が文化現象を形づくっていく日本の文化状況と異なって、マダガスカルでは、消費者に妥協することなく文化を担っていこうとする動きを垣間見ることができる。

むすびとして

日本とマダガスカルの文化的状況を、やや対立的に描きすぎてしまったかもしれない。しかし、文化をめぐる状況が経済をはじめとする他の因子と強く関わること、そしてそれが担い手の意思にも大きく影響することは示せたと思う。むすびにあたって、冒頭の問いにたち返り、文化遺産をめぐる問題について現時点でのまとめをしておきたい。

まず、文化遺産とは何なのか。すでにみたように、文化のありかたは、地域をとりまく諸条件によって変わってくる。文化遺産も、一定の地域システムやネットワークを構成する一要素として、地域システムとしての文化に埋めこまれて維持・発展していく(FAO=食糧農業機関が提唱する世界農業遺産などの場合も、地域システムのなかのサブシステムとみなせる)。

しかし同時に、文化遺産は、地域の文脈を離れてアイコンのように流通していく場合もある。ザフィマニリの木彫り知識の場合は両方の側面を持っていて、地域の自然環境や社会関係の総体が商品を生みだすと同時に、地域システムと商品が相乗的に文化遺産を形づくっている。

次に、文化遺産は、誰かが文化遺産と呼ばなければ価値を生じないものなのだろうか。これはそのとおりである。ザフィマニリの場合のように、文化遺産の担い手自身が意識しないものでも、ユネスコのような外部団体が文化遺産と言えば文化遺産になってしまう。ザフィマニリの人たちにしてみれば青天の霹靂かもしれないが、交通と通信が世界の隅々を結びつけている現在では、ユネスコが言いださなくとも誰かが木彫りを文化的商品に仕立てあげてしまう。

最後に、誰が文化遺産を決めるのだろうかという問いがある。ザフィマニリの文化遺産の場合は、ユネスコの判断が決定的になったことはまちがいない。しかし、だからといって、文化遺産の指示対象がひとつの決断だけで決まってしまうわけではない。

ザフィマニリの年長者は、すでに外部の人たちに知られている文化遺産の指示対象(たとえば、エキゾチックな浮彫りモチーフ)をずらしつつ、外部の人たちとは別のかたちで文化遺産を(たとえば、愛や協調といった規範的な人間関係として)定義しようとしている。ここでは、いったん地域システムから遊離した文化的商品を地域システムのなかに再回収することが試みられている。このように文化遺産は、アイコンとしての文化とシステムとしての文化が相互交渉するなかで、たえず変貌していく。

日本では、アイコンとして流通していく文化遺産イメージが顕著ではあるが、それは決定的なものではない。システムとしての文化に根ざした文化遺産イメージを構築していくことも可能である。それは、商品経済に慣らされたわれわれの生きかたを再考し、文化創造に積極的に参加することにほかならない。自給経済にたち戻らなくともよい。自分にとっての生きかたを見つめなおすことで文化は異なった意味を帯びはじめるのである。

プロフィール

飯田卓人類学

国立民族学博物館准教授、総合研究大学院大学文化科学研究科准教授(併任)。京都大学大学院人間・環境学研究科研究指導認定退学。博士(人間・環境学)。専門は漁民研究、視覚メディアの人類学、文化遺産の人類学。視覚メディアの問題がはらむ空間性と、文化遺産の問題がはらむ時間性をとおして、人びとの経験や社会の成りたちを考えつづけている。知的活動の原動力になっているのは、昔も今も、フィールドで聞く物知りの話。

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