2013.05.10
アウンサンスーチーの来日とミャンマー政治の現在
アウンサンスーチー来日
アウンサンスーチーが2013年4月13日から19日にかけて、外務省の招聘を受けて日本を訪問した。よく知られていることだが、彼女は長年ミャンマー(ビルマ)で民主化運動を指導し、1991年にはその活動によりノーベル平和賞を受賞している。しかし、軍事政権からの弾圧により長年にわたって自宅軟禁下にあった。2003年からつづいた3度目の軟禁から、2010年11月に彼女はようやく解放された。その後、2011年3月に新政権が発足してから、急速に政府と民主化勢力との対話が進み、2012年4月には、自身が議長を務める国民民主連盟(NLD)から補欠選挙に立候補して当選、現在は野党NLDの党首として政治活動をつづけている。
彼女はノーベル平和賞受賞以来、圧政と戦う民主化運動の世界的シンボルとなっており、昨年5月のタイでの国際会議への出席を機に外遊活動をはじめ、その後、欧米各地を訪問して盛大な歓迎を受けた。東アジアでは今年2月に韓国を訪れている。そしてついに日本への訪問が実現したわけである。
アウンサンスーチーは、まず東京で在日ミャンマー人に向けて講演を行い、そのあと京都で2日間を過したのち、東京に戻って東京大学、国会、毎日新聞社などを訪問して皇太子さまとも面会した。19日木曜日には安倍首相と会談するなど、その扱いは国家元首級であった。彼女の行動を連日メディアが報道し、アウンサンスーチーブームに近いものがあった。わたしが勤める京都大学東南アジア研究所にも、かつて1985年から1986年にかけて在外研究をされていた場所ということもあり、再訪してくださった。わずか10分ほどであったが、かつて滞在された部屋で懐かしく当時を思い出していただけたと思う。
さて、本題である。今回の日本訪問をどう評価すればよいか。アウンサンスーチーの国際的知名度は絶大であるが、とはいっても公的な地位は野党の党首である。彼女が持っている公的な権限は決して大きいものではなく、政府間の外交について実際的かつ具体的な成果を期待していたわけではないだろう。
今回、外務省が彼女を日本に招いた狙いは、日本政府のミャンマーに対する考え方や支援のあり方を理解してもらうことだったのではないだろうか。日本政府は昨年以来、同国が持つ延滞債務の解消を支援し、さらに500億円を越える援助を打ち出すなど、積極的にミャンマーの改革を後押ししてきた。ただ、アウンサンスーチーがそうした日本政府の動きをどのように理解しているのかについては、いまひとつよくわからなかった。少なくともこれまでの外交日程を見る限り、欧米への訪問を優先して、日本訪問はずいぶんずれ込んだように見える。
欧米の制裁を解除することが最優先の外交課題であったことを考えれば理解できなくはないが、1988年以来、3度の自宅軟禁措置を受ける一方で、政権への援助をつづけてきた日本政府に対して(ただし、2003年5月からは人道的援助を除く新規案件は実施見合わせ)、アウンサンスーチーが必ずしもよい印象を持っていないことは関係者内ではよく知られている。民主主義や人権といった理念よりも、経済開発で国民の生活水準を地道に上げていくことを強調しがちな日本政府の外交姿勢は、彼女をはじめとした一部の民主化活動家からは軍政支援と批判されてきた。
米国とEUが日本とは対照的に、軍政の正当性をはっきり否定し、さまざまな制裁を課してきたこともあり、日本政府の立場が大変難しいものだったことは事実だ。しかし、当然のことながら、圧政を敷く軍事政権が長くつづくことを日本政府が望んでいたわけではない。また、アウンサンスーチーが、後述するように、場合によっては2015年にも大統領に就任する可能性が出てきたために、日本政府が急に姿勢を変えて彼女に接近をはかったわけでもない。日本の対ミャンマー外交が戦略的に一貫してきたとは決して言えないが、かといって、日和見的に権力者や将来の権力者候補とばかり友好な関係を築こうとしてきたわけでもないのである。
管見のかぎり、日本政府がそのミャンマー政策の意義について、これまで彼女を十分に説得できなかったというのが実際のところのようだ。したがって、今回のアウンサンスーチーの訪日を通して、日本のミャンマー政策の真意を理解してもらうことがとりわけ重要だった。4月19日の会談で安倍首相は、「大変困難な状況の中で、スーチー議長のリーダーシップによって、ミャンマーの民主化を大きく前進させてこられたことに対して、敬意を表したいと思います」と述べたという。こういったかたちで首相自らが、彼女が体現する民主主義や民主化という政治的価値に肯定的な見解を示した意義は重要だろう。
今回の訪日が彼女の日本政府に対する見解にどういった影響を与えたのかを判断するのはまだ早い。仮にそれほど効果がなかったとしても、信頼醸成には時間がかかるものだ。日本のミャンマー支援の意義を粘り強く彼女に訴えていくことが今後も求められる。というのも、日本にとってミャンマーは戦略的に重要な国であり、アウンサンスーチーはその将来の地位に関わらず、国内世論、国際世論に大きな影響力を持つからである。
昨年まであまり注目を浴びることがなかったミャンマーについて、今回のアウンサンスーチー来日を機に関心を持たれた方も少なくないだろう。そこで、以下では、おそらく多くの人が疑問に思っている以下の問いについて、筆者なりの答えを示しておきたい。問いは、「どうして政治経済改革がはじまったのか?」「ミャンマーで起きている変化は民主化か?」「アウンサンスーチーは変わったのか?」の3つである。ミャンマー政治に関する今後の報道を見る上で参考になれば幸いである。
どうして政治経済改革が始まったのか?
この問いへの答えは、じつのところ、まだよくわかっていない。ミャンマー政府の公式発表だけを見れば、その起点は2003年8月、当時の国家最高意思決定機関であった国家法秩序回復評議会(SPDC)が「7段階のロードマップ」を発表した時点に遡る。一連の政権移譲(憲法制定、総選挙、議会招集、大統領選出)はそのロードマップに沿って行われた。だが、このロードマップに対する期待は当時それほど高くなかった。憲法も議会も持たない「むき出し」の軍事政権が、多少は制度を持った軍事政権になる程度だろう、筆者も含めた多くの観察者はそう見ていた。ところが、2012年3月末に政権を譲り受けたテインセイン大統領は、民主化勢力への歩み寄りや、二重為替の是正、外国投資法の改正など、矢継ぎ早に改革路線を打ち出して世界を驚かせることになる。
では、なぜテインセインが改革に動いたのか。事実は後年、歴史家が明らかにするだろうが、今のところ伝えられているのは以下のことだ。まず、1992年以来、独裁者として君臨してきたタンシュエが2010年11月の総選挙前から引退の意思を固めていた。この話自体は、真偽がはっきりしない噂ではあるものの、彼が1933年生まれで高齢であったことや、総選挙前の8月に大規模に軍人事を動かして若返りをはかったことを考えると、あながち根も葉もない噂とは言えない。結果、非常に保守的で、あらゆる変化を忌避しているようにさえ見えたタンシュエの政治的影響力が、新政権発足とともになくなり、タンシュエのもとで首相を務めていたテインセインに政権は引き継がれた。
テインセインも、タンシュエ同様、国軍出身の元将軍である。ただ、1945年生まれと12歳も若い。テインセインが改革をはじめることができた理由としては、タンシュエの引退が決定的に重要だが、その後の彼の指導力と周辺の幹部の支持を見ていると、おそらく「このままではまずい」というミャンマー政治経済に関する状況認識が、少なくともタンシュエより一回り下の世代にはある程度共有されていたのではないかと思われる。加えて、テインセインはイラワジデルタの比較的貧しい農村出身で、性格も生真面目でクリーンであるとされ、さらに、長年、SPDC第1書記、首相として、同国の外交を取り仕切ってきた。おそらく、ミャンマーがいかに周辺国の発展から取り残されてきたのかをよく理解していたのだろう。
まだ改革の初期、大統領主催のセミナーが首都ネーピードーで開催されたが、第1回のテーマが「貧困削減」、第2回のテーマが「マクロ経済運営」だったのは、彼の経済問題への関心の高さを伺わせたし、経済学者を大統領顧問に任命し、政治囚の解放や民主化勢力へ積極的に歩み寄り、欧米からの制裁解除と海外援助、海外直接投資の呼び込みに奔走したのもその流れで理解できる。当時のミャンマーにおいて、経済問題の根幹は欧米からの制裁、すなわち外交問題であり、欧米の制裁の根拠は国内民主化勢力への弾圧であり、国内民主化勢力との対話は、すなわちアウンサンスーチーの処遇の問題であった。
結果として、テインセインはうまくアウンサンスーチー率いる民主化勢力を体制内に野党として取り込み、諸外国との外交関係を急速に改善させていく。2012年11月には米国のバラク・オバマ大統領が、現職の大統領としてはじめてミャンマーを訪問した。欧米からの制裁もほぼ解除されるに至る。日本をはじめとした海外からの援助も拡大し、世界各国の要人やビジネスマン、観光客が今もひっきりなしに同国を訪れている。
ミャンマーで起きている変化は本当に民主化なのか?
この問いにひとことで答えるのであれば、「民主化ではない」となるだろう。それは2008年に制定された憲法を読めばわかる。そもそもこの憲法は、1990年代前半に当時のインドネシア(スハルト政権下)の憲法をモデルに草案が練られており、たとえば、二院制の議会における議員の4分の1は国軍司令官が指名する。残りの4分の3の議席は選挙で選ばれた議員が占めるわけだが、2010年11月の総選挙では与党・連邦団結発展党(USDP)が圧勝した。
USDPの母体はかつての軍政の大衆翼賛組織で、公務員はほぼ強制的に所属させ、幹部は国軍の元将軍たちが務めている。総選挙はUSDPが勝利するように管理された選挙だったと言ってよい。もちろん、現体制では、かつての軍事政権よりはいくぶんか制度化され、政治過程に透明性が生まれたものの、1998年以前のインドネシアを民主的と誰も言わなかったように、今のミャンマーは制度的に見て民主的では決してない。
しかし、公式制度の外枠は移植したが、制度をどのように維持していくのかについては、必ずしもうまく移植されなかった。要するに、与党が選挙に今後も勝ちつづける仕組みができあがっていないのである。それは、昨年4月の補欠選挙で、USDPの票田であるはずの公務員が住民の大半を占める首都ネーピードーですら、争われた4議席をすべてNLD候補者が獲得したことが端的に示している。2015年には次の総選挙が予定されているが、公務員の票すらまとめあげられない状態では、仮に現在の政治状況がつづき、また自由で公平な選挙が実施された場合、与党はアウンサンスーチーの圧倒的な人気に屈さざるをえないだろう。
もちろん、この程度のことをUSDP幹部が自覚していないはずはなく、先月には青年組織を設立するなど、同党は次第に党活動を活発化させてはいる。しかし、今年2月にヤンゴンのある地区を訪れた際に筆者が見聞きした限りでは、いわゆる市民レベルの活動で言うと、NLDの方が党員の募集や、市民向けセミナーの開催など、ずっと活発で、その地区からはUSDPの議員が選出されているにもかかわらず、議員が地元に戻って支援者と交流することはないという。
もちろんこれは一例に過ぎないから、全国が同じ状況とは言えないが、印象としてUSDPの動きはおしなべて遅い。そもそも軍政時代の大衆動員組織を総選挙に際して強引に政党にしたこともあって、とくに理念があるわけでもなく、結集力に欠け、国民も多くがその背後に国軍の影響力を見てしまう。与党としての力を梃子に地方でのインフラ整備などによって、国民からの支持を獲得するという戦略もありえるが、今のところ、そうした動きは見られないし、仮に動きを起こしたとしても、次の選挙まで時間がなさすぎる。
アウンサンスーチーは変わったのか?
答えはイエスである。前述したように、テインセイン大統領は元将軍で、彼のみならず、現政権の有力者のほぼ全員が国軍出身者だ。人的な面では、かつての軍事政権と現政権との連続性は明らかなわけである。だが、アウンサンスーチーは2008年憲法体制への参加と、政権が進めようとする改革への協力を決断した。それは彼女が変わったからではないか。
たしかに変わった。その変化にはいくつかの段階があるように思われる。まず、2010年11月の解放時、彼女は、「人々の声を聞き、われわれが何をしたいのか決めたい」、また「わたしは自分を自宅軟禁においた人々に敵意は抱いていない」と発言し、軟禁前の発言に比べるとずいぶん穏当な印象を与えた。ただし、まだ政権への警戒を解いたわけではなかった。その後の新政権による政治囚の解放、さらに2011年8月にネーピードーでテインセイン大統領とはじめて会談を持ったことで、彼女は新政権への改革姿勢への理解を明確に示すようになる。そして11月には、政党登録を行い、翌年の補欠選挙に参加する意思を表明するに至った。
議員当選後も一定の緊張関係を保ちながら、基本的にはテインセイン大統領の改革路線を評価し、次第に政権の国際的なスポークスマンとして、進んで諸外国へミャンマー政府への支援を訴えかけていくようになる。欧米諸国が本来持つ、ミャンマーという国への国益の薄さを考えると、新政権発足からわずか2年足らずで、ほぼ全面的な制裁解除という外交的成果を上げられたことは、アウンサンスーチーの協力なしには説明できない。
かつて軍事政権へのあらゆる支援と投資に批判的だった彼女の姿勢を知っているものからすると、新政権の改革と同じくらい、彼女の変化は驚くべきことである。今年3月27日の国軍の日の式典に来賓として出席し、将軍たちと並んで歩くアウンサンスーチーの姿をかつて想像できた人はまずいないのではないだろうか。このような変化は、当然のことながら、一部の活動家たちの目には変節に映る。
この3月にアウンサンスーチーが委員長としてまとめたレッパダウンの銅山開発に関するレポートが、彼女の変化をよりいっそうはっきりと示した。レッパダウン銅山開発はミャンマー中部にあるザガイン地域で、数年前から中国の国営企業とミャンマー国軍所有の企業が共同で進めてきた事業である。一部の地元住民が、収用された土地の補償額の低さや健康被害を理由に、昨年11月に事業の中止を求めて座り込みを行ったところ、当局に強制的に排除されて多くのけが人を出していた。この事件と事業の継続に関する調査委員会の委員長を、アウンサンスーチーが務めたわけである。
議会に提出された報告書の結論は、住民の訴えに一定の理解を示し、事業内容の改善を条件にしたうえで、銅山開発事業自体については、自国の国益と国民の利益にかない、環境への負荷も大きなものではないとして、銅山開発の継続を提言した。また、報告書には海外からの投資への悪影響に対する懸念についても触れられ、その背景には中国政府への配慮もうかがわれた。報告書発表後、彼女が地元に説明に訪れた際に、反対派住民から激しく糾弾される様子は今までに見たことがない光景であった。
民主主義や人権といった信念を貫き、軍事政権という「悪」に敢然と立ち向かう「正義」としてのアウンサンスーチー、というわかりやすい構図は、もうそこにはない。彼女自身、政治家として、さまざまな利益の調整役を引き受けることを決断したのであろう。彼女の訪日中、筆者が直接出席した講演でも、政治というのは複雑であること、自身がすべての問題を解決できる母親のような存在ではないことを強調していた。また、日本記者クラブでの会見では、「政党の党首で国のトップになりたくない人がいるのでしょうか」と、大統領への意思を改めて表明し、権力への意思を示した。
この権力への意思は、彼女が最近とみに批判されがちな、国内のムスリム問題や少数民族問題などへの態度、すなわち、耳触りの良い言葉を除けばそれらの問題に積極的に発言しないことにも深く関連している。自身を党派的な争いに巻き込みかねない政治的に微妙な問題については、言質をとられないようにはっきりした意見を示さない。この姿勢は、正義を目指す活動家としては理解できなくても、権力を目指す政治家としては理解可能な行動だろう。もちろん、それが常に適切かどうかはわからないが。つまり、彼女に何を期待するのかによって、彼女の変化への反応は異なるわけである。ある人は彼女が変わったことを変節と批判し、ある人は同じ状況を見て、彼女が現実を見据えた政治家になったと評価する。
おわりに
今起きているミャンマーブームがこのあとずっとつづくことはないだろうが、今後の同国の行く末に注目している人は日本でも少なくないだろう。短期的に見れば、これから3年から5年が同国の政治の大きな転換点となる。上述したように、2008年憲法が国軍の政治的役割を制度として保証しているものの、その仕組みが安定してつづく仕組みは脆弱だ。さらにカリスマ的な野党リーダーが現在の制度的基盤を脅かす。この、制度とカリスマとの相克が、これからの政治のひとつのポイントになるだろう。
ただ、その一方で、50年間にわたって軍事政権が残した負の遺産は大変に重い。1人のカリスマをもってしても、真の民主化をもってしても、そう簡単には解決できないだろう。日本政府としては、ミャンマーでこれから始まるジグザクの政治経済発展を、より長期的かつ広い視野から支援していくことが望まれる。そのためには、アウンサンスーチーの理解を得ながら、同国の発展を目指すことは大変重要な課題である。
プロフィール
中西嘉宏
東南アジア地域研究。1977年兵庫県生まれ。東北大学法学部卒、京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了(地域研究博士)。日本貿易振興機構・アジア経済研究所研究員を経て、現在京都大学東南アジア研究所准教授。著書にStrong Soldiers, Failed Revolution: The State and Military in Burma, 1962-1988 (National University of Singapore Press, 2013)、『軍政ビルマの権力構造―ネー・ウィン体制下の国家と軍隊(1962−1988)』(京都大学学術出版会、2009)、共著に『ミャンマー政治の実像―軍政23年の功罪と新政権のゆくえ』(日本貿易振興機構・アジア経済研究所、2012)など。