2013.07.04
スウェーデンの移民暴動に関する報道をどう見るべきか
2013年5月19日以降、スウェーデンの首都ストックホルムで移民の若者らによる暴動があいついだ。同市北部のフースビー(Husby)で始まった若者らと警察との衝突は、周辺各地に飛び火するかたちで数日にわたって続いた。
その動向はイギリスのBBCをはじめとした外国のメディアで報じられ、日本でも朝日新聞の記事(http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201305220788.html)をきっかけに人々の知るところとなった。
とくに移民が起こした暴動という点に関心が集まり、ネット上でも話題になったが、スウェーデンについては日常的に伝えられる情報が少ない一方で、「平和な福祉国家」というイメージが定着しているぶん、実態を離れて議論が進みがちでもある。
そこでここでは、事実関係や背景を整理し、わたしたちがこの事件にかんする報道をどう受けとめるべきか考えてみたい。なお、以下でスウェーデンの移民事情を論じた部分については、松尾秀哉・臼井陽一郎編『紛争と和解の政治学』(ナカニシヤ出版、2013年)所収の拙稿「スウェーデンの移民問題と政治」と重複すること断っておきたい。
なにが起こっていたのか
フースビーでは、暴徒化した若者たちが百台を超える自動車に次々と放火したうえに、ショッピングセンターなど近隣施設を破壊し、駆けつけた警察官や消防隊に石を投げつけて抵抗した。消火活動は妨害され、警察側には負傷者もでた。暴動は数時間で沈静化したが、翌日以降、同様の動きがストックホルムの各地区で散発的に続いた。
市街地で火の手があがる様子など、現地メディアが伝えた映像は、日本に暮らすわたしたちに衝撃を与えるには十分なものであり、ネット上には「内戦状態」、「国家崩壊」といった書き込みもられた。しかし、まず注意しなければならないのは、今回のできごとは、スウェーデン国内でここ数年断続的に起こっているものと同種の騒動であり、深刻な問題ではあるが、同国の社会全体が混乱におちいっているわけではないということである。
これらの暴動は、基本的に、移民の若者の一部が、ままならない日常生活のなかで蓄積させていた不満を爆発させたものであり、その背後に政治的な思想があるわけではなく、大規模なテロ組織などとも関係はない。
今回の暴動の原因については(上述の新聞記事でも触れられているとおり)5月13日にフースビーで起きた事件への抗議行動だと伝えられている。すなわち、69歳の男性が刃物を振り回して暴れた後にアパートの一室に立てこもり、警察官が室内にいた女性を助けようと踏み込んだところ反撃されたため、男性を撃って死なせてしまったという事件であり、このときの警察側の対応が批判をまねいたとされていた。
しかし、その後伝わってくるさまざまな情報からも、暴動に加わった当事者たちがそのような問題意識をもっていた可能性は低い(この点はスウェーデン在住の経済学者、佐藤吉宗氏が分析するとおりであろう http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/01f7a834bd20f4a831de21e70024aaca)。
同国のメディア(主要日刊紙や公営放送局)による報道をみるかぎりでも、暴れているのは住民のごく一部であり、むしろそのような行為にいきどおりをあらわす移民の人々が多い。また、フースビーを含む移民の多い地区の多くでは、住民による自警団の活動や、若者の社会生活を支援する活動も盛んであり、地域コミュニティも機能している。
スウェーデンの移民事情
スウェーデンでは、第二次世界大戦直後から高度経済成長期の1960年代にかけて、他の北欧諸国や東欧・南欧地域から労働力としての移民を受け入れたが、その一方で、東西冷戦下にあって国連重視の中立外交を貫き、広く対外援助に取り組んだこともあり、早くから朝鮮戦争やハンガリー動乱、ベトナム戦争などによる難民や孤児を受け入れてきた。
1970年代以降は、労働移民を制限する一方で、チリのクーデタ、レバノン内戦、イラン革命、イラン・イラク戦争といった政変や戦争で国を追われた人々については積極的に受け入れた。さらに1990年代には、内戦が続いた旧ユーゴスラビア地域やアフリカ北東部の紛争地帯(ソマリア、エリトリア)からもそれぞれ数万人を受け入れた。
2000年代にはいると、アメリカが軍事介入した後のイラクから10万人以上の難民を受け入れ、最近では内戦状態におちいったシリアからも数千人を受け入れている。また、1990年代末から2000年代にかけて、オランダやデンマークといった、かつて難民受け入れに寛容であった近隣諸国がその抑制へと明確に方向転換した後も、スウェーデンは人道的見地からその受け入れを続けている。
こうして多くの移民が流入し、また、すでに移り住んだ人々が親族を呼び寄せた結果として、国民にしめる移民の割合は増え続けた。中央統計局が発表している数値によれば、外国生まれの人の割合は1970年に6.7%、1980年に7.5%、1990年に9.2%、2000年に11.3%、2010年に14.7%となっている。さらに近年同国で「移民」の定義としてもちいられることが多い「外国生まれの人および両親が外国生まれの人」については、2010年末で19.1%となっている。今日では同国に暮らす人々のじつに2割ほどが「移民」なのである。
スウェーデンでは、こうした移民にたいして、教育や社会福祉などの公的サービスの受給権をネイティブの国民と同等に保障する社会統合路線をとってきた。また、非ヨーロッパ地域からの移民が増えるなかで、それぞれの出身地域の文化を尊重する「多文化主義的統合」を目指してきたが、それを象徴するのが、移民の子どもたちにスウェーデン語教育のみならず、それぞれの(両親の)母語の習得をも公費で補助する制度であった。
同国福祉国家の特徴のひとつは「普遍主義」であるが、それは経済その他の事情によらず多くの人を社会保障や福祉サービスの対象とすることを意味し、自活することが困難な者に限定して支援しようとする「選別主義」に対置される。「普遍主義」の制度設計は、理論上、受益者と負担者の分断を避けることによって、社会政策への支持を安定化させるとともに、異なる立場の人々を共存しやすくする。とくに同国の場合、福祉国家形成の初期から就労を通じた社会参加を重視する伝統もあり、移民を受け入れるにあたっても一貫して就労支援を軸に社会への包摂・統合を進めようとしてきた。
スウェーデンの移民問題
上述のように移民の社会統合を目指してきたスウェーデンであるが、やがてそれが順調に進まなくなる場面が目立ち始める。1990年代前半に同国が第二次世界大戦後最大の経済危機にみまわれると、経済成長はマイナスとなり、失業率はそれまでの3%前後から8%台へと上昇した。そのようななかでとくに移民層は深刻な影響を受けた。
スウェーデンの場合、教育や福祉など公的な制度の面で移民が差別されることはないが、このころから実質的な周辺化ないし排除が進んでいった。とくに雇用面では、移民の場合、製造業、飲食業、介護、家事補助などの分野での就労が多く、失業率はネイティブの2~3倍にのぼった。
くわえて移民の周辺化を目にみえるかたちであらわしていたのがその集住化であり、ストックホルム、イェーテボリ、マルメの三大都市それぞれに移民集住地区が形成されていた。それらはいずれも高度成長期に市の中心部から少し離れてつくられた労働者向けの公営団地であり、のちに各自治体が増え続ける移民の住居として比較的家賃の安いそれらの住宅をあっせんするようになると、同じ国や地域の出身者が集まろうとする傾向もあって、移民の割合が高まった。
同時にネイティブの人々がそれらの地区を敬遠し始めることにより、ますます集住化が進み、今日までに地区住民の8~9割を移民がしめるようになっている。ストックホルムでは、とくにリンケビー(Rinkeby)が知られるが、今回の騒動の発端となったフースビーも同地区に隣接し、同じ行政区分に属している。
これらの動きと並行して深刻な問題となっているのが移民の若年層(二世、三世)の周辺化である。すなわち、移民集住地区の青少年が住環境、教育環境、親からの支援などの点で不利な条件の下におかれ、ネイティブとのあいだの社会的・経済的亀裂が広がった。そのような境遇で育つ移民の若者のなかには、学校や社会に適応できずに不満をつのらせる者が多くなる。その一部に反社会的行動(公共施設の破壊や爆竹や花火による迷惑行為、窃盗など)に向かう者がではじめると、それがなにかのきっかけで集団化し、エスカレートしていくのである。
今回のストックホルムでの動きの背景には、こうした移民を取り巻く諸事情があった。しかし、それが暴動へと発展したのは今回が初めてではない。たとえば、2008年に南部の都市マルメの移民集住地区ローセンゴード(Rosengård)で起こった暴動でも、若者たちが数日にわたって放火を含む破壊行為を繰り返し、駆けつけた消防隊に石を投げつけたり、ロケット花火を打ち込んだりした。
一時は消防隊が出動を拒否するなど、深刻な事態となり、その動向が連日大きく報じられていた。警察の捜査が進み、逮捕者がでるといったんは収まったものの、その後も同地区で1~2年おきに同様の事態が繰り返されているほか、他地域でも同種の事件が何度か起きている。
ただし、ここで確認しておくべきは、移民の周辺化や当事者の不満は相対的なものだということである。たとえば、移民集住地区の住居の多くは、鉄筋コンクリートの3~10階建ての集合住宅で、現在の住民の多くは衛星放送で出身国のテレビ番組をも視聴できる環境にある。
教育面での格差についても、統計局の資料で近年の大学進学率をみると、ネイティブのスウェーデン人が約45%であるのにたいし、移民二世(両親が外国生まれ)のそれは40%弱と、その差は5%程度であり、しかもこの10年間でその差は半分ほどに縮小されてきている。構造的な差別化傾向がみられるとはいえ、公的な支援体制はある程度整っており、移民の生活条件が一般的な意味で劣悪だとはかぎらない。
排外主義的右翼政党の台頭
2000年代にはいって政府も移民の自立支援をいっそう重視するようにはなっていたが、無償で提供される「移民のためのスウェーデン語講座」については、受講者間の学習経験の差が大きいうえに、十分な技量と経験を備えた教員を確保することが難しく、コースを修了できないまま辞めてしまう者も増えていった。
就労支援についても、語学教育との連携を強め、研修制度の充実をはかるなどの対策が講じられたが、経済状況や移民の増加もあって十分な実績をあげることができない状況が続いた。こうした点がマスメディアでもたびたび取りあげられるようになると、国民のあいだでも社会統合政策が十分に機能していないという認識が広まっていった。
他方で、社会民主党と保守党(穏健連合党)という左右の中心勢力を含む既存政党のあいだでは、多文化主義の維持という点での合意が揺るがなかったぶん、事態の改善に向けた議論が深まらない傾向があった。
そのようなかで台頭してきたのが移民排斥を掲げる右翼勢力のスウェーデン民主党である。自民族中心主義の運動に起源をもつ同党は、1980年代から組織として活動はしていたものの、長いあいだ、比例代表制でおこなわれる選挙での得票率が1%に満たない泡沫政党であった。
しかし2000年代にはいると、大陸に近く移民も多い南部地方を中心にいくつかの地方議会で議席をえるようになる。さらに、2005年に現党首のJ.オーケソンを中心とした若い世代が幹部になると、民主政治を尊重する姿勢をしめして国民の警戒心を和らげることに力を入れる一方、議会政治への参加を通じた移民政策の転換(多文化主義的統合路線の破棄)を目指して精力的に活動していった。その結果同党は、2006年の国政選挙で議席獲得要件の4%には満たなかったものの2.9%の得票率を記録し、続く2010年選挙で5.7%、20議席をえて初の国政進出を果たした。
スウェーデン民主党は、移民排斥を党是とし、さまざまな論点と結び付けて移民を批判している。たとえば、2010年の選挙公約では、「スウェーデン社会のイスラム化を阻止する」、「移民の支援にもちいる財源をネイティブの福祉(とりわけ高齢者福祉)に充てる」、「重大犯罪にかかわった移民は国外に追放する」といった主張が並んでいた。
他方で、製造業やサービス業の一部、高齢者の家事支援や介護など、スウェーデンの経済や社会がすでに移民なしには成り立たなくなっている面については語ろうとせず、政策的な主張の整合性を欠いたまま、民衆の不安や不満に訴えようとする傾向が強い。
こうしたスウェーデン民主党にたいしては、これまでほかのすべての政党が、人権感覚を欠いた非民主的勢力として一切の協力関係をもたないことを明言してきた。2010年選挙においても、他党は左右を問わずスウェーデン民主党の移民批判の議論には応じないという態度をとり続けた。
他方、スウェーデン民主党は、ルールにのっとって活動している自党を排除する既成政党こそ非民主的であると反論しており、社会統合政策の内容に踏み込んだ議論にはならない状態が続いている。今回のストックホルムでの暴動をめぐっても、スウェーデン民主党は移民集住地区の監視や取り締まり強化を中心とした強硬策をとるよう主張したが、暴力行為自体への批判はべつとして、ほかに同調する勢力は無く、少なくとも公式の言論空間のなかでは同党が孤立している。
こうした点で、たとえば朝日新聞社による続報( http://www.asahi.com/international/reuters/RTR201305260002.html )に「スウェーデン民主党の躍進は、同国民の意見を二極化させてきた」とあったことについては、これまでのところ、移民の受け入れや寛大な市民権付与の是非について各党や有権者が賛否を論じ合っているというわけではないので注意が必要である。ここ数年、選挙や世論調査でスウェーデン民主党が支持を伸ばしていることは事実であり、今回のような騒動が続くなかで世論が移民批判へと傾く可能性も否定できないが、現時点でそのような見方を強調しすぎるのは適当ではないというべきだろう。
今回の事件をどう見るべきか
近年、世界各地で移民をめぐる問題がとりざたされているが、その背景は各国ごとに異なる。ヨーロッパを見渡しただけでも、かつての植民地支配が大きく影響している国から、労働力不足をおぎなおうとした国までさまざまであるが、この点でのスウェーデンの特徴は難民の比重が大きいことである。異なる文化や社会環境のもとで育った人々とともに暮らす場合に、さまざまな点で摩擦が生じることは避けがたいが、難民を受け入れるさいには、外国人労働者を招く場合とは異なり、将来にわたって自国社会に包摂するという決断をくだしているのである。
もちろん、それは少子高齢化による人口減少への対応という意味をもつし、難民として入国した人々が後に産業労働者やケアワーカーとして同国の社会経済に貢献する部分もある。歴史的にみれば、小国スウェーデンが難民を引き受けることで国際社会における地位や発言力の強化を狙ったという面もある。
しかし、それらを差し引いてもなお、50年以上にわたって世界の紛争地域から住む場所を失った人々を受け入れ、普遍主義的な福祉国家に包摂・統合しようとしてきた同国の挑戦は、国際的にみてもユニークなものである。現在のスウェーデンが従来の路線の維持をめぐってきわめて困難な状況におかれていることは間違いないが、わたしたちがそれを「寛容すぎる移民政策に最初から無理があった」というような論調で片付けてしまうのは、公正さを欠く態度だといえないだろうか。
今回の暴動は、首都ストックホルムで起こったことから、これまで以上に国際的に注目されることとなった。もちろん、それがスウェーデン社会の抱える構造的な問題をあらわしていることを軽視すべきではないが、すでに述べたように、いまのところ社会全体に混乱が生じているわけではない。過去の経緯からみても、この種の騒動は今後も断続的に起こるであろうが、わたしたちはスウェーデン政府や同国社会の対応を冷静に見守っていくべきであろう。
サムネイル:Henryk Kotowski
プロフィール
渡辺博明
1967年岐阜県生まれ。名古屋大学大学院法学研究科博士後期課程修了。大阪府立大学人間社会学部教授などを経て、現在、龍谷大学法学部教授。主な著作は、『スウェーデンの福祉制度改革と政治戦略』(法律文化社、2002年、単著)、『選挙と民主主義』(吉田書店、2013年、共著)、『ヨーロッパのデモクラシー(改訂第2版)』(ナカニシヤ出版、2014年、共著)、『ポピュリズムのグローバル化を問う――揺らぐ民主主義のゆくえ』(法律文化社、2017年、共著)。