2013.08.17
空襲の記憶を「つないでいく」ということ――日本とドイツにおける慰霊・記念碑から映像作品まで
本稿では、日本とドイツの空襲記憶に関する前提知識から両国の慰霊・記念・表象のあり方を紹介しながら、それらを比較し、空襲記憶の未来について考えたい。
結果として、多岐にわたる事項の羅列になってしまっている。しかし、これらは互いに絡み合う問題であり、また相互に関連付けて接続していくことこそ、将来の戦争記憶についての知恵を生み出すのではないだろうか。
いわば、本稿は「今、自分のいる場に引きつける」あるいは「引き受ける」ための材料の整理といった側面を持つものである。
まずは「今」に引きつけるために、約70年前という大空襲時からではなく、ほんの数年前に世界が体験した空襲から話をスタートさせたい。
はじめに――日独の空襲を語る前提
2011年のリビア空爆。テレビやネット上で流れた空爆映像が記憶に新しい方もおられるだろう。そのリビア空爆の100年前、1911年に人類は、エンジン動力の有人航空機からの爆弾の投下「空爆」を戦争ではじめて用いた。しかも、これはリビアでの出来事であった。
その後、飛行機と爆弾が組み合わされた爆撃テクノロジーは飛躍的な進歩をみた。第一次世界大戦では、主に英独で約2200人の民間人の死者数(*1)だったが、約20年後の第二次世界大戦では少なく見積もっても70~80万人の民間犠牲者を数えている(実数は未だ不明)。そして、先の大戦の空襲犠牲者の大半を占めたのが、ドイツと日本の犠牲者であった。
(*1)イギリス側で1414名。ドイツで746名と言われている。
これから日独の空襲記憶のあり方について考える前に、まずは歴史的な前提である国家間の関係性を押さえておくことが必要だと思う。
第二次大戦中、ドイツはイギリスを空爆し、イギリスはドイツを空爆した対照関係にあった。いわば独英は相互に国土と民間人を爆撃しあう関係にあった。これに対して日本の様相は異なる。後に触れるアニメーション映画『風立ちぬ』(宮崎駿監督、2013年)で映し出されていたように、日本は中国を爆撃したが、中国大陸からは、アメリカの爆撃機が日本に飛来したものの、中国から日本の民間人が爆撃を受けたわけではない。
また、アメリカの存在は、ドイツに対しても、日本に対しても同じような加害・被害の関係図式に当てはまるが、イギリス空軍主体であったドイツ空襲に対して、日本空襲はアメリカ軍が主体となっているという違いがある。さらに、冷戦下の国際関係では、ドイツは地理的にもイデオロギー的にも東西に分裂したが、日本の場合、冷戦の境界線が東シナ海と日本海という海上に引かれていたのである。
日独の空襲犠牲者に対する国家レベルの追悼――忘れられた犠牲者?
では、上記の前提を踏まえた上で、日本とドイツの空襲はそれぞれの国でどのように扱われ、いかに記憶(記念)されているのだろうか。まずは、空襲犠牲者の国家的な追悼から見ていきたい。
日本では姫路市手柄山中央公園内に「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」が建てられている。詳しくは首相官邸ホームページに記載されているが、この塔が完成したのは1956年10月26日であり、毎年同日には、太平洋戦全国空爆犠牲者追悼平和祈念式が挙行されている。本慰霊碑に刻まれている「死没者数509,734人、罹災人口9,551,006人」は一種の公的な空襲犠牲者数と捉えてよいだろう。
ただし問題は、この塔や10月の慰霊式典がどれだけの人に認知されているかということであり、それは数にすれば少数だと思われる。認知度という点では、毎年8月15日に武道館で行われる全国戦没者追悼式の方が高いのではないだろうか。
次に、ドイツの空襲犠牲者に対する国家的な追悼・慰霊についてご紹介したい。
1993年以降、11月の第3日曜日を国民哀悼の日として、ベルリンの目抜き通りウンター・デン・リンデン沿いの施設「ノイエ・ヴァッヘ」では、空襲犠牲者を含む戦争犠牲者の追悼式典が行われている。同施設は、別名「戦争と暴力支配の犠牲者のための国立中央追悼施設」と称される。このノイエ・ヴァッヘの追悼対象は広く、「戦争により迫害を受けた各民族」「戦争捕虜」「ユダヤ」「シンティやロマ」「同性愛者」「病弱者や障害者」「ナチス体制への抵抗者」などが含まれる。
「世界大戦での戦没者たち」という呼称の中に空襲犠牲者が位置するが、同時に兵士も含まれている(*2)。このようにドイツでは、空襲犠牲者が軍人軍属の犠牲者と区別されない場合もある。
(*2)世界各国の戦没者追悼についてのデータ: http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai7/7siryou1.pdf
後述するように、これは犠牲者への救援・支援(遺族年金など)にも反映されており、同一の扱いを受けている。ただし、ナチ指導部や虐殺に関連しては、国内法で裁かれたり、遺族年金などが支給されなかったりとの特別措置が講じられている。
各都市の空襲慰霊碑――記憶上の「爆心地」と都市間交流の可能性
空襲は、各都市・各地域に記念碑が建てられ、想起されることが一般的だ。
日本だと、比較的大きな施設としては、東京・墨田区にある東京都慰霊堂および「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が東京空襲の慰霊施設・記念碑として知られている。東京都慰霊堂は元来、1923年の関東大震災の犠牲者の納骨堂として1930年に完成した施設だった。
ドイツでは、教会施設が戦災教会として空襲後の廃墟のまま残されており、教会が都市や共同体の中心にあるという歴史的経緯からすれば、都市中心部に戦災遺跡が置かれていることとなる。もっとも知られているのは、2005年に再建されたドレスデン聖母教会、ベルリン(西ベルリン)の中心部にあるヴィルヘルム皇帝記念教会、そしてハンブルクのニコライ教会 などであろう。これら以外にもドイツ各地には戦災教会がいくつも存在している。
ドイツ西部・ルール工業地方の都市ドルトムントには、灰から再生するフェニックス(不死鳥)を刻んだ巨大レリーフが空襲犠牲者慰霊碑として墓地に屹立している。フェニックスを戦災とその後の復興のシンボルにする事例は、例えば「福井フェニックスまつり」のように日本にもある。
また祭事に関連させていえば、日本では、長岡や静岡安倍川の花火大会など、空襲犠牲者を慰霊する目的での祭りが実施され、ドイツ・ドレスデンでは花火大会の開催ではないが、キャンドルによる慰霊祭が行われている。なお、長岡の花火大会は、大林宣彦監督の映画『この空の花 -長岡花火物語』(2012年)でテーマとされていた(*3)。
(*3)ちなみに長岡市はドイツ・トリーア市と姉妹都市関係にあり、トリーアでは花火大会が行われるが、そこに空襲犠牲者への慰霊が含まれているかどうかは確認がとれていない。
日本では、木々の再生と空襲の記憶あるいは都市の復興がしばしば重ねられる。例えば、イチョウ、プラタナスそしてクスノキなどが全国各地で戦災樹木として、神社や公園そして小中学校などで保存されている事例がある。
対してドイツでは、戦災樹木は珍しい。確認した限りでは、戦災後に再び芽吹いたといわれる、ヒルデスハイム市のバラやスペイン・ゲルニカ市の樫の木の例などがあげられる。
次に、犠牲者の追悼・慰霊が自都市にとどまらず、他の都市と繋がった例について紹介したい。
ドイツ北部の主要都市ハノーファーは、1940年から1945年の間に88回の爆撃にさらされ、およそ6,800人が亡くなった。空爆で廃墟となった同市内のエギーディエン教会は、戦災教会として保存された。この教会には、空襲記念碑が置かれ、悲惨な出来事である戦争を二度と繰り返さないことが誓われているが、実は他にも二つの注目すべき碑が存在する。それは、8月6日の広島に対する原子爆弾投下を説明する石柱碑と、1985年に広島市から寄贈された鐘である。
広島とハノーファーの関係は、1968年に広島市の中学教師が当時の文部省と厚生省による日独青少年交流プログラムを利用し、ドイツ・ハノーファーに生徒を連れて行ったことにはじまる。その後も、交流は継続して続けられ、1983年にはハノーファー市と広島市は姉妹都市関係を結ぶ。一教師が始めた運動が姉妹都市関係締結にまで至った稀有な例だといえる。
現在では、8月にハノーファー日本人会の協力の下で、ヒロシマ追悼式典が開催されている。また、ハノーファー郊外の病院横には「ヒロシマ園林」と名付けられ、原爆に関する記念碑(芸術作品)が置かれている。ここには110本ほどの桜が植えられており、4月になるとジャパン・フェスティバルも開かれる。
これらが示すのは、原子爆弾のような一つの爆弾による「爆心」を持たず、複数回そして無数の爆弾による空襲を、どの「地点」で記憶するのかという問題だ。その際、教会、樹木あるいは病院や銀行などが記憶上の「爆心地」となっている例が多い。そして、先述したハノーファーの事例からは、空襲記憶の「点」としての都市は、他の戦災都市と「線」で結びつく可能性が示されている。戦災都市の結びつきはハノーファー市以外にも複数事例がある。
例えばドイツでは、ドレスデン市やキール市が同じ空襲被災都市のイギリス・コヴェントリー市と、またプフォルツハイム市がスペイン・ゲルニカ市と姉妹都市関係にある。筆者は、東京・ドレスデンや大阪・ハンブルクを空襲被災で括ってみて情報交換または民間交流を行う計画に着手し、今後も両都市を戦災都市としてつなげていきたいと考えている(ちなみにドイツ・ハンブルク市は大阪市と姉妹都市関係にあるが、「港町つながり」であって、戦災でつながっているわけではない)。これは、戦争の過去を「今、この場所」につなげる可能性の模索でもある。
また空襲の過去が加害者・被害者でつながっている希有な事例もある。例えば、静岡市の賤機山の頂上には静岡市戦禍犠牲者慰霊塔が立っており、その横にB29墜落搭乗者慰霊碑がある。ドレスデン聖母教会では、イギリス爆撃手の息子が教会再建に貢献している例も見受けられる。
空襲では、爆撃機上の「落とす側」と地上の「落とされる側」の両者が顔を合わせることはめったにない。これは、空襲という高度なテクノロジーを介した攻撃手段が今なお用いられている理由であると同時に、顔を合わせないからこそ、加害と被害がつながるチャンスにもなりうる。
もちろん、落とされた側、つまり被害側はその事実を忘れることなどないというのも事実だろう。だが、ここでは空襲被害・加害の交流を、21世紀の空襲記憶のあり方の一例としてあげておきたい。
以上の様々な事例が、今後の空襲記憶の可能性を探っていく際に参照できる素材になればと思う。
定まらない死者数と個々の死者――顔のない死者と顔のある死者
ドイツ・ドレスデン空襲では、冷戦下に旧東ドイツが空襲の悲惨さを強調し、西側諸国を非難しようとしたことで、空襲死者数が一時期は最大40万人にも膨れ上がった。今なお、日本の書籍やネット上では「15万人とも言われている」と記述されることもある。
この死者数の「水増し」は、左右両派ともに陥ってしまう「犠牲の陥穽」ともいえる。つまり、「ドイツもこれほど悲惨な出来事に見舞われた(ので他国も悪い)」とする右派側の相対化の欲望と、「これほど悲惨な出来事に見舞われた(ので反戦平和を主張すべきた)」とする左派側の欲望が合致する点である。
この死者数をめぐる論争に一定の区切りを付けるために、ドレスデン市では市制800周年の予算を用いて、ドレスデン空襲の死者数の公的な確定作業が進められた。長年ドレスデン空襲研究に携わっている歴史家や考古学者などが集められて委員会が結成され、その結果、ドレスデン空襲の死者数は約23,700名という見解が示された。この死者数をめぐる論争が終わったわけではないが、公的な指標が出されたことが重要だ。
実際、未だに多くの空襲被災地では、空襲犠牲者数が定まっていないか、現在もなお議論が交わされている。例えば、1945年3月10日の、いわゆる東京大空襲も死者数は約10万人とされているが、この算定作業はなかなか進んでいない。
しかし、数の特定と同時に重要なのは個々人の特定である。
東京では1990年代半ばから死者名簿を作成し、死者一人一人に焦点を当てようとする活動が行われている(*4)。この流れと関連して、空襲体験者が自分の体験を絵に描く運動も最近では盛んだ。
(*4)木村豊「空襲の犠牲者・死者を想起する―『せめて名前だけでも』という語りを通して―」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』69号 (2010), 15-33頁
犠牲者個人に焦点を当てる活動および研究は、実は東京大空襲の犠牲者が「皆同じ」犠牲者ではないことを暴露する。つまり、例えば「防空壕」(*5)に入ることを拒否されることもあった朝鮮半島出身の住人や労働者の存在なども明らかにするのである。
(*5)ただし、東京大空襲に関しては防空壕と呼べるものはほとんどなく、防空洞や建物の地下、そして道路に穴を掘った程度のものであった。
ドイツでは、90年代半ばに、空襲前後のドレスデンを日記に書いたユダヤ系の仏文学者ヴィクトール・クレンペラーの作品によって、被害一色のドレスデン像が批判されている。
国家補償――空襲は国民が等しく受忍?
1987年に最高裁は、名古屋空襲で体に障害を負うなどの被害を受けた被災者が軍民との扱いに差があるとして国家賠償を求めた訴えに対して、「戦争犠牲ないし戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところ」としたいわゆる「受忍論」を示した。
その20年後の2007年には、東京空襲の被害者やその遺族が、国家補償を求める裁判が行われたが、最高裁の上告棄却というかたちで現在に至っている。他には大阪で訴訟が係争中だ。ここでつまびらかに説明することはできないが、これらの訴えの主旨は、軍人と民間人の間で戦後の待遇に差があることに対する異議申し立てである。また、争点のひとつとなった、国の定めた防空法による民間防空活動をどのように捉えるかも重要な要素だといえる。
ドイツでは、国民が自国に対して補償を求める運動は、管見の限りでは知らない。戦後西ドイツ(ドイツ連邦共和国)では、連邦援護法(1950)や負担調整法(1952)によって、民間人犠牲者に対して、金銭、医療、職業訓練などの様々な援助がなされている。
これには、民主主義体制の西ドイツがナチス独裁体制を自ら裁き、先の体制とは「異なる」ことを強調すること、さらには戦後の東西ドイツ両国は自国民の統合に苦心し、「等しく同じ手当」という点を強調したことが関係している。これらの理由により、国民自身が自国の責任を問うという法的な行動に結びつかないと考える。なお、イタリア等ではナチスによる民間人への暴力・虐殺行為について、ドイツ連邦共和国を訴えるケースも起きている点には注目すべきだろう。
では、日本での補償請求運動は何を示唆しているのであろうか。複数あげられるだろう。
先ほど例にあげた三つの裁判は、もちろん補償金を求めたものだが、そこには、空襲体験者が減少する中で自らの存在を世に示そうとする意識も働いていると考えられる。また、例えば、「『日本国家の責任』を問うならば、それはアメリカに対してではないのか?」という、素朴な疑問にどこまで取り組んでいけるかという問題にも接続しうるだろう。さらに、この訴訟運動が大規模化しなかったことは、時代背景を別にしても、今後の空襲記憶のあり方に問題を投げかけていると解釈することも可能だ。つまり、世代間の断絶とみなすこともできるかもしれない。
空襲の描写――クール「ダウン」・ジャパンの可能性
次に、非体験世代がどのように空襲を受け継いでいるかという問題について考えてみたい。
ドイツと比べて、日本の空襲記憶のあり方の明らかな特質は、多くのマンガやアニメで空襲が表現されているという点である。空襲とその後の焼け野原の風景はポップカルチャーやサブカルチャー作品の中で表象されている。
70年代以降、『はだしのゲン』が少年少女の心に「原爆」を刻みつけてきたとするなら、「空襲」はやはり1988年のアニメ映画『火垂るの墓』(高畑勲監督)が代表作といえるだろう。
『火垂るの墓』は、原作者の野坂昭如をして「アニメ恐るべし」と言わせしめた作品であった。さらに本作は、同時上映の宮崎駿監督『となりトトロ』を観て日本の田舎に郷愁や温かみを感じた人に対し、その過去に空襲があった事実を突きつけたという意味でも衝撃的な作品であった。
『火垂るの墓』は、映像作品における「空襲リアリズム」追求の極北を目指した作品だ。空から収束型爆弾をばらまく爆撃機、そして主人公・清太の視点でそれらが目視され、地面に降り注ぐ……。以後、これに近い空襲表現は、例えば防空ずきんをつけた母子が走り逃げまどう描写などで、平和教育用の各映像作品で繰り返し用いられることになる。
『火垂るの墓』の衝撃はその後の空襲描写を20年ほど決定づけていたが、2000年代後半に入ると、空襲表現は豊穣さをともなってくる。
2007年から連載された、こうの史代の漫画『この世界の片隅に』(双葉社)は戦時下の日常を淡々と、さらにユーモアさえ交えながらも、その中で空襲と日常世界との関係性を描き出した。
2006年から2010年まで少年誌で連載された小林尽『夏のあらし!』(スクウェア・エニックス)および2009年のアニメ『夏のあらし!』(新房昭之監督)では、喫茶店を中心とした日常系ギャク漫画・アニメでありつつも、同時にヒロインたちが横浜空襲の当日にひもづけられている幽霊として登場し、しばしば戦時下日本にタイムワープする。空襲当日にワープした話で、主要登場キャラクターの上賀茂潤は、極度の緊張によって視界がブラックアウトし、鼓動が鳴り止まないという内面描写がなされていた。
このように日本では、繰り返し空襲をフィクションの中で描いてきたが、他方ドイツでは、空襲をフィクションとして表現することに対しては距離を置いており、その点は90年代後半に小説家W.G.ゼーバルトが『空襲と文学』で指摘している。小説と同じく、ポップカルチャーやサブカルチャーで空襲が描写されることは、ほとんどない。
例えば、2006年に二夜連続で放送されたドイツのテレビドラマ作品『ドレスデン』のDVD付属の作品解説では、歴史的事実を重視する姿勢が強調されているが、今生きる非体験世代に伝えるために「ラブストーリーが必要だった」と、制作サイドは語っている。本作品は、全3時間のうち30分程度がカットされ、『ドレスデン、運命の日』として日本で公開された。
また、ドイツでは戦争に関するドラマが流される際に、証言や研究者のコメントをまとめたドキュメンタリーも同時に放映される。これは、最近の日本の歴史ドラマにも当てはまるだろう。
日本と同様にドイツも、空襲体験者の減少に直面し、今後の空襲記憶のあり方を模索中だ。日本側としては、先に紹介したような空襲コンテンツをドイツに、そして世界に問うていくことで、いわゆる「クールジャパン」が双方向的になり、あるいは世界における日本の状況を「クール・ダウン」して考える契機となるかもしれない。
さいごに――持続可能な戦争記憶の可能性
本稿では、比較を通じて、日本とドイツの空襲記憶のあり方を考えてきた。互いを参考にしたり、交流したりする材料を提供したにすぎないが、意識的に驚きや刺激を重視して記述してきたつもりだ。本稿をきっかけに、読者各位がさらに考えを深めていただければと思う。
また、当然ながら本稿で論点のすべてを提示できたわけではない。ここで、空襲記憶の展望を書かせていただくなら、空襲の記憶は今後、互いに繋がりながら、多様な考える場や機会の中で生成されていくだろう。その中で重要なキーワードが「持続性」だと思う。
空襲には、ほぼ年間を通じて想起されるという特性がある。日本の場合、戦争記憶が「8月」に一斉に思い起こされるのとは異なり、空襲には10月の沖縄空襲、3月の東京空襲、5月の横浜、6月の静岡など8月以外も想起可能な時点がある。
8月で想起された戦争は、その後1年間をかけて社会的に想起の強度を失い、また次の8月に似たようなコンテンツが繰り返される……。空襲記憶は、この状況を批判的に見る視座を提供してくれるかもしれない。
日本の戦争記憶コンテンツは次々に消費され、すべてとは言わないが大半は忘れ去られていく。例えば、広島平和記念資料館には感想ノートが置かれてあり、そこには「悲劇を二度と繰り返さないように」や「平和の大切さを知った」という中高生から大人までの感想がびっしりと書き込まれているが、これは持続的なのだろうか。その場の一時の感情にすぎないのではないか。
ここで一時の感情を非難したいわけではなく、持続的な想起の重要性をこそ考えてみたいのだ。
例えば、宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』を観れば、そこに映し出されていた飛行機の美しさと宮崎自身の反戦思想という矛盾した立場を読み取ることはできる。そして矛盾の読み取りに留まらず、新たな問いを発し、それを継続的に大切にしたい。これは、空襲もしくは戦争の何を想起し続けられるのか、という問いにも発展するだろう。
本稿で示したように空襲の記念碑や記憶は、約70年前の人々の記憶だけではなく、都市や地域の記憶とも密接に結びついている。映画『風立ちぬ』は名古屋周辺の記憶としても読み込むことも可能だろうし、飛行機(航空)と人間の関係史という一歩引いた視点からの問いも可能だろう。
強制はできないが、このように空襲に関するニュース、記念碑、そして作品に触れたときに、「今、自分のいる場に引きつける」あるいは「引き受け」て、自分自身とつなげ、現在とつなげて「持続可能」なものにすれば、空襲記憶のあり方の新たな地平へとつながっていくのではないだろうか。
参考文献
こうの史代『この世界の片隅に 上』双葉社、2008年。
小林尽『夏のあらし!』スクウェア・エニックス、2007年。
橋本毅彦『飛行機の誕生と空気力学の形成: 国家的研究開発の起源をもとめて』東京大学出版会、2012年。
イェルク・フリードリヒ(香月恵里訳)『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』みすず書房、2011年。
松本彰『記念碑に刻まれたドイツ: 戦争・革命・統一』東京大学出版会、2012年。
プロフィール
柳原伸洋
京都府出身。東海大学文学部ヨーロッパ文明学科講師。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。在ドイツ日本大使館専門調査員を経て現職。ドイツに関するライター・伸井太一としても活動。東西ドイツの製品文化を扱った著作『ニセドイツ』シリーズや、『ペンブックス21 ロシア・東欧デザイン』(分担執筆、阪急コミュニケーション)など。