2013.10.08

ドイツとイスラエルの和解とパレスチナ問題

武井彩佳 ドイツ現代史、ホロコースト研究

国際 #ホロコースト#ドイツ#パレスチナ#イスラエル#ナチス#ユダヤ

「呪われた土地」から「唯一無比の関係」へ

「記憶」「和解」――こういった言葉が現実の政治において、ある意味ではアジア諸国以上に、重く響いてきた国家関係があるとすると、それはホロコーストの「加害者」と「犠牲者」としてのドイツとイスラエルの関係ではなかっただろうか。ヨーロッパで戦争が終わった1945年、ドイツ人とユダヤ人は最も修復困難な関係の入り口に立っていたに違いない。ユダヤ人にとってドイツとは親兄弟の血の染みた「呪われた土地」となり、両者の間に横たわる600万人の死者は、和解へのいかなる試みをも挫くと思われた。他方、ヒトラーに世紀の指導者を見たドイツ人は、昨日まで自身の世界観の一部であった反ユダヤ主義を脱ぎ捨てる用意はできていなかった。

それからあと少しで70年になろうとする現在、ドイツとイスラエルの関係は良好である。イスラエル建国60周年の2008年に、独首相メルケルはイスラエルの国会クネセトで演説を行い、イスラエルとの関係をホロコーストへの反省と責任に基づく「特別な、唯一無比の関係」と表現した。さらに踏み込んで、イスラエルの安全保障はドイツの「国是(Staatsräson)」であるとさえ語っている。これはイランの核開発やハマスのテロを念頭に置いた発言だが、ユダヤ人国家の安全を自国の問題とまで言い切る関係とは、かなり特殊と言ってよい。

実際、イスラエルの対パレスチナ政策が批判を浴びる中、和平交渉の推進役を期待されたオバマ政権への失望が広がる一方で、イスラエル批判を強めるEUとアメリカの間に立つバランサーとしてのドイツの存在感は増している。2012年末に首相ネタニヤフがベルリンを訪問した際にメルケルは、ヨルダン川西岸や東エルサレムの入植地建設に強い反対を表明し、「われわれは意見が異なるという点で一致した」との談話も発表している。パートナーであっても言うべきことは言うという、両国間の関係の成熟を物語るエピソードだ。

では、ホロコーストという大犯罪の後、ドイツ人とユダヤ人はどのように関係を結び直したのか。それは「和解」であったのだろうか、それとも道義的な次元とは別の、戦略的同盟であったのか。どのような要因がドイツとイスラエルの関係を規定したのか。本稿は、戦後日独社会の比較においてよくなされるように、ドイツを過去と真摯に取り組んできた優等生として、日本が習うべきモデルであると主張するものではない。なぜなら以下に明らかにしてゆくように、ドイツとイスラエルの関係の裏側には、パレスチナ問題というもう一つの問題が潜んでいるからである。

西ドイツとイスラエルをつなげたもの

1948年に建国されたイスラエルと、1949年に東西分断の中で成立したドイツ連邦共和国(以下西ドイツ)の間には、1965年まで国交がなかった。それはユダヤ人の反独感情からして当然ともいえ、当初、イスラエルのパスポートには「ドイツにおいて無効」という但し書きがあったほどである。しかし、関係の「不在」とは外交上の話であって、実は西ドイツはイスラエルという国の基盤確立に、正確には、中東紛争の中での「生き残り」に、深く関わっていた。

最初に加害者と被害者をつなげたものは、ホロコーストの事後処理とも呼べるものであった。強奪されたユダヤ人財産の返還と、ナチ迫害の償いとして西ドイツが行った金銭補償から生まれた経済関係が、両者の関係の原点となっているのだ。具体的には、まず西ドイツ領内のユダヤ人残置財産の移転である。終戦時、国内には多数のユダヤ人財産が残されていたが、その中には所有者が殺害されて相続人のないものや、ユダヤ人共同体が消滅したため放置された公共財産も含まれていた。こうした財産は放っておけばドイツ国庫に入ってしまうため、ユダヤ人団体はこれを売却し、収益をホロコースト生存者の福利厚生の目的で主にイスラエルへと移転したのである。この時はまだ外貨交換による送金は認められていなかったため、代わりにプレハブ住宅などが購入され、イスラエルへ送られた。

その後、1952年のルクセンブルク補償協定で、西ドイツがイスラエルに対して30億マルクを物資で支払うことを合意し、両国の経済関係は拡大した。支払いの根拠は、イスラエルがヨーロッパからのユダヤ人難民を受け入れたことで生じた経済負担に求められているが、これは実質的には、戦争時にまだ存在していなかった国に対する国家賠償であった。物資での支払いという形をとったのは、外貨交換による資本流出を避け、回復途中にある経済を守るためである。ただしここにはもう一つのロジックがある。このシステムでは、イスラエルが国家として必要なものをドイツ企業に発注し輸入し、代金は西ドイツ政府が支払う。支払いの原資が国民の税金である以上、補償も一種の公共事業と言え、ここでは罪の清算とともに自国の経済発展が意図されているのだ。

これに対して、イスラエルでは補償協定の締結には国内に猛烈な反対があり、「血の付いた金」を受け取ることは死者の尊厳を踏みにじるとして連日デモが繰り返された。しかしベングリオン政府は、死者の大義より国民の生活を優先して、反対を押し切った。こうしてイスラエルは主に金属などの原料、機械など鉄鋼製品、化学製品、燃料などを輸入し、物資で国のインフラ形成を行った。国内の事業者はイスラエル政府からドイツの物資を購入し、政府は売上を再び国内の産業育成や国土開発につぎ込むことで、雇用が創出され、利潤が循環した。賠償を支払う側、受け取る側双方の経済発展という二つの目的に奉仕させるやり方は、他国の戦後処理においても見られるものである。日本の戦後処理がアジア諸国の開発と、これへの日本の技術と資本の投下による日本製品の市場開拓と不可分に結びついていたことが思い出されるが、西ドイツとイスラエルの場合も、補償協定とは実態としては貿易協定であった。

補償問題とパレスチナ問題

こうしてドイツの名を公の場で口にすることもはばかられた国では、ドイツ車が走り、身の回りのドイツ製品が生活の向上を示すバロメーターになっていった。しかし、生まれたばかりの国で人びとの生活を安定させ、彼らの安全を保障するとは、実際には何を意味したのだろうか。

イスラエル建国後、空いたアラブ人の住宅に最初に入居したのは、ヨーロッパから到着したホロコースト生存者であった。もしくは、アラブ村落は先住者の痕跡を消し去る形で破壊され、移民のための住宅が建設された。つまりドイツから送られたプレハブ住宅がホロコースト生存者に雨露をしのぐ屋根を与え、補償によって道路や水道が敷かれ、送電線が張り巡らされ、その延びる先にヘブライ語の名を持つ新しい町が生まれるとき、それはパレスチナ人がいなくなった土地にユダヤ人の実効支配が確立されることを意味していた。

それだけではない。イスラエルが機械を輸入し、産業を興し、輸送網を整備すれば、結果としてイスラエルの軍事力が高まるのは当然である。確かに補償の枠内で武器を購入することは禁じられてはいたが、軍事目的での原料加工を阻むのではなかった。建国直後の時期、イスラエルの軍事費は国家予算の四分の一ほどを占めていたという。補償の一部がイスラエルの軍備へと姿を変えてゆくのは、ドイツ側にも暗黙の了解事項であったのだ。

実際、アラブ諸国は補償協定締結以前から、補償が中東の軍事バランスを崩すとして危惧し、ユダヤ人犠牲者に対する補償の中から、土地や家屋を失ったパレスチナ難民への補償をねん出すべきだとか、補償支払いを国際管理に置くべきなどと主張していた。ドイツはこうした意見を十分に承知していたが、むしろ補償問題とパレスチナ問題を切り離す方針を取った。なぜなら、第一の犠牲者への補償で第二の犠牲者を補償するという理論は、ドイツの罪であるホロコーストとパレスチナ問題の関連性、さらには後者への間接的な責任を認めるに等しい。加えてホロコーストの原罪を背負うドイツとしては、イスラエルのパレスチナ政策を批判するには気が引ける。さらに、冷戦下での西側統合が西ドイツの政治原則とされる中、自分たちはナチ・ドイツとは違うと国際社会に印象付ける必要がある。

したがって、補償の履行には西ドイツの国際的な評価がかっているのであり、これを間接的に巻き込まれているにすぎないパレスチナ問題と同じ次元で扱うことはできないのである。パレスチナ難民問題が未解決である以上、イスラエルは補償を受ける権利はないとアラブ側が主張していることに対し、首相アデナウアーは、1953年に連邦議会にルクセンブルク協定の批准を求めた際に次のような言葉で政府の立場を表現している。

「これ(補償とパレスチナ難民問題:筆者)は、異なり、互いに独立すると見なされるべき二つの問題である。ナチ迫害を逃れたユダヤ人難民の補償の問題は、連邦共和国とユダヤ民族の間で解決されるべき問題だ。連邦共和国には、アラブ・パレスチナ難民の問題のひとつひとつに立場表明をするなど、権利もなければ機会もない。」

こうしてナチのユダヤ人迫害に起因する事柄と、パレスチナ難民問題の分離は、ドイツの公式な姿勢として踏襲されてゆく。事実、1956年のスエズ危機においてイスラエルがシナイ半島に侵攻し、さらなる難民が発生した際も、ドイツの補償支払いが滞ることはなかった。

そもそも、ドイツがパレスチナ問題に対して公平な第三者として臨むことは、不可能であったと言える。もしユダヤ人が本当に「海に追いやられ」、第二のホロコーストが起こるようなことがあれば、これはドイツに無関係ではなかった。ユダヤ人が新たな故郷で安心して暮らせることが、ある意味ではドイツが国際社会への復帰を許される前提条件であったのだ。したがって、イスラエルの安全保障は必然的にドイツの関心事であった。それが端的に示されたのが、ドイツによるイスラエルへの武器供与である。

「ドイツの武器によって身を守る」こと

現在、米国がイスラエルの最大の軍事支援国であることは知られているが、米国がイスラエルの安全保障に深くかかわり始めるのは、1960年代のケネディ政権以降のことである。イスラエルは、建国前後の時期はチェコスロヴァキアから、後には主にフランスから武器を調達していたが、どちらも後に親アラブ路線に転じたように、安定的な武器供給源の確保は死活問題であった。

そこで第三の道、ドイツとの連携が探られた。しかし、両国間には1952年の補償協定の締結後も国交は樹立されず、NATOに加盟できないイスラエルは、国際的な軍事協力機構の枠においてもドイツと接点がなかった。イスラエルは西ドイツの経済的・軍事的な協力を欲していたが、対して後者は、冷戦下の事情から、ユダヤ人国家との国交を望まなかった。というのも、西ドイツは東ドイツを承認する国とは国交を断絶するという「ハルシュタイン原則」を掲げており、イスラエルと国交を樹立すれば、多くのアラブ諸国が東ドイツの承認にまわると考えられたためだ。しかし同時にユダヤ人国家に対しては道義的な責務があると思われ、こうしたジレンマを回避しつつイスラエルの防衛に貢献する手段が、国交不在の埋め合わせとしての武器供与であったのだ。

1957年、首相アデナウアーの黙認の下、当時のドイツ国防大臣フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスと、後のイスラエル首相・大統領シモン・ペレスの間で、有償・無償の武器供与が合意された。ところで、西ドイツの憲法である基本法は、紛争地帯への武器の輸出を原則禁じている。したがってこの件が議会に諮られることはもちろんなく、ドイツ外務省でさえ蚊帳の外におかれていた。秘密裏にイスラエルへと送られた武器は、機関銃から高射砲、対戦車砲、戦車、潜水艦を含んでいた。

また取引は一方通行ではなく、イスラエルからは国産銃ウージーなどが輸出されている。人的な支援もあり、ドイツ内でのイスラエル軍将校の訓練、後にはドイツ連邦軍とイスラエル国防軍の共同軍事訓練へと発展していった。こうした取引はマスコミの報道で表面化し、1964年に中止に追い込まれたが、その後もイスラエルが他国から購入した武器の代金を西ドイツが肩代わりしたため、ドイツを介した武器調達は続いた。

ホロコーストの傷も生々しく、国民の大半がドイツに対して悪感情を抱く中、ドイツの武器により身を守るという選択は、イスラエル建国期の政治家による徹底したリアルポリティックスを抜きにしては理解されない。西ドイツとの関係強化を望むベングリオンの主張は、ナアデナウアーのドイツをナチに抵抗した「もう一つのドイツ」と見なすことに根拠をおいていた。しかし西ドイツ社会は明白にナチ時代の連続性の上にあり、特に官僚機構や司法における連続性は深刻で、かつてのナチ裁判官が今度は民主主義的な法に基づいて判決を下す状況だった。

確かに暴力的な反ユダヤ主義は影をひそめていたが、それはドイツ国民が過去を真摯に反省し、民主主義的に生まれ変わったというよりは、ユダヤ人に対する反感を実践する政治的・法的手段を奪われたためであった。実際、世論調査では1948年でも約半数の人びとが「ナチズムはよい理念だが実行の仕方が悪かった」と考えていたのである。こうしたドイツの現状はイスラエルの指導者らの知るところでもあり、ベングリオンがドイツの反ユダヤ主義を過小評価することには批判も強かった。

しかし、ベングリオンは実利を取った。西ドイツ政府に紛れ込んだナチはイスラエルの実存的な脅威ではなかったが、隣のエジプトはそうであったからだ。武器供与に関連して、彼はイスラエルの国会で次のように語っている。

「イスラエルの繁栄のためには、ドイツとの普通の関係が必要だ。なぜなら、われわれは昨日の世界ではなく、明日と向き合わねばならないからだ。過去の記憶ではなく、未来が求めるものと、過去の事実ではなく、常に移り変わる具体的な現実と取り組まねばならないからだ。そして今日のドイツは、この現実において重要な役割を果たしている。」

これは、敵対するアラブ諸国に囲まれて常に国家存続への不安を抱えるイスラエルが、どちらが「害」が少ないかを計算した結果であった。ドイツの「血の付いた金」と武器をもってしても強い国をつくる方が、死者への大義にこだわって国家滅亡の危機に陥るよりは、明らかに害が少なかったのだ。

対してアデナウアーやシュトラウスらドイツの指導者には、ユダヤ人に対しては道義的な義務があり、血が流される場所での支援こそ、ドイツにとっての「つぐない」となるという理解があった。ドイツ語で「補償」や「つぐない」のことをWiedergutmachungといい、その語源はwieder-gut-machen「再び・良く・する」ことにある。西ドイツとしては、ナチ・ドイツが「ユダヤ民族」の絶滅を試みた以上、ユダヤ人に対する贖罪においては、民族全体の再生が意図されるべきであり、それはユダヤ人国家の存続の保障を意味していたのである。

ただし、アデナウアーのユダヤ人に対する贖罪の姿勢は、国内政治における元ナチの融和という現実政策と並行していた。1952年の段階でユダヤ人に対する補償への支持は11%にとどまり、翌年の議会での協定の批准も野党の全面的協力がなければ不可能であった事実が示す通り、国民の中にナチズムと決別していない層を抱えていた。アデナウアーは彼らに過去との対峙を迫るのではなく、あえて過去を不問に付すことで彼らを中和し、民主主義的な社会の中に統合してゆくことを選択した。ドイツ国民は一種の政治的モラトリアムを与えられたのであり、彼らはその間に経済の再建に没頭した。懐にゆとりが出ると、過激な主張は自然と影をひそめるものである。こうして過去との取り組みは先送りされたのであった。

ドイツとイスラエル関係の影に置き去られたパレスチナ問題

このように、ドイツとイスラエルの関係の始まりは、むしろ政治主導で上からもたらされたものであった。これが個人のレベルでの和解を意味しなかったのは当然であり、特にユダヤ人のドイツに対する嫌悪感が消えるには、より長い時間が必要であった。キリスト教的精神に基づく和解への試みや、ドイツの若者によるイスラエルでのボランティア活動、共通の歴史認識のための教科書対話など、草の根的なアプローチが両者の関係を徐々にではあるが着実に修復していったのは間違いない。しかし経済的・軍事的な関係が政治的な和解、そして最終的には個人のレベルでの和解を用意したのである。

1965年、ドイツとイスラエルの間に正式に国交が樹立されるが、両国のつながりは既成事実化されていたとも言え、国交は先行していた関係を事後的に承認したにすぎなかった。ただし、こうしたドイツ=イスラエル関係の影に半ば置き去られていったのがパレスチナ問題であった。

国交樹立後、ユダヤ人国家に対する配慮が西ドイツ外交の一つの基本原則とされた。それは、国家として反ユダヤ主義や排外主義との闘いを掲げるだけでなく、ナチの罪としてのホロコーストと、中東紛争の一局面としてのパレスチナ問題は別次元の問題であると主張するイスラエルに同調することも意味した。イスラエル批判は反ユダヤ主義のそしりを受けかねず、反ユダヤ主義者でないことを示すためだけの「親ユダヤ主義」が、国内の政治規範として確立してゆく。このため、西ドイツはホロコーストを契機としてイスラエルが生まれ、並行してパレスチナ難民問題が発生したという因果関係には触れないまま、パレスチナ難民に対する支援を行うという、矛盾に満ちた立場におかれることとなった。

実際、西ドイツはパレスチナ問題の初期から、難民支援のために相当額を拠出してきた。これをドイツは政治を離れた「人道支援」であると強調してきたが、実はこうした援助のあり方自体が、非常に政治的な判断の結果であったのだ。置かれた困難な立場ゆえに、西ドイツ政府はパレスチナ問題に対する発言をますます控えるようになり、沈黙は加害国が示すべき「配慮」として、イスラエルから歓迎されたのである。こうしたいびつな関係は、ドイツが再統一され、名実ともにヨーロッパのリーダーとして認められるまでの半世紀の間、ドイツ=イスラエル関係を特徴づけていた。

サムネイル「Holocaust Memorial 4」Philippe AMIOT

http://www.flickr.com/photos/philippeamiot/5966989980/

プロフィール

武井彩佳ドイツ現代史、ホロコースト研究

学習院女子大学国際文化交流学部教授。早稲田大学博士(文学)。
単著に、今回取り上げる著書の他、『戦後ドイツのユダヤ人』(白水社、2005年)、『ユダヤ人財産は誰のものか――ホロコーストからパレスチナ問題へ』(白水社、2008年)、『〈和解〉のリアルポリティクス――ドイツ人とユダヤ人』、(みすず書房、2017年)などがある。

この執筆者の記事