2014.01.09
インドIT産業とグローバル化の幽霊――繋がること、切りはなすこと、そして折りたたまれる世界
テレビや新聞でごく自然に用いられ、ありふれた表現となった「グローバル化」。しかし、この言葉が何を指しているのかは漠然としています。もちろん経済自由化を基盤にした交易範囲の拡大、インターネットを通じた情報の共有、地球規模の環境問題への取り組みといった個別のトピックは思い浮かびますが、ではそうした現象が私たちの生活をどのように変えてきたのかは必ずしも明確ではありません。ここでは、インドIT産業の発展とそこで働くインドの青年たちの日常生活をみていくことで、グローバル化が私たちの生きる世界にいかなる影響を与えているのかについて考えていきます。
グローバルな協働
インドのIT産業は、国外市場向けのソフトウェアの輸出を中心として成長してきました。ただし、ここで言う「輸出」は、この言葉の一般的なイメージとは大きく異なるものです。IT企業が販売するソフトは、顧客の要望に応じて開発され導入されメンテナンスされ、それらの作業の多くは、おもに欧米に本拠をおく顧客企業のサーバーに直接アクセスすることで行われます。さらに、国外企業の業務の一部をインド企業が代替するBPO (ビジネスプロセスアウトソーシング)や、カスタマーサービスを代替するコールセンターなどのIT-es(IT enabled service)企業もまた、インドIT産業を構成する重要な要素となっています。
このように、インドITの産業形態は、情報ネットワークを介して国外企業のIT部門や業務の一部をインド企業が担当するものであり、単なる輸出やアウトソーシングというよりも、ITを基盤とするグローバルな協働として把握できるものです。こうしたグローバルな協働は、まずもって労働の成果や対象をコンピュータが扱うことのできるデータ(デジタルな数列)に置き換えることで可能になっています。インドで開発されたソフトはデジタルな数列であるからこそ、顧客企業のサーバーに直ちにアップロードされ、修正やメンテナンスを随時ほどこすことができます。BPO 企業による顧客企業の業務の代替もまた、業務のステップやルールがあらかじめ実装されたソフトを用いて行われます。
出身地域や文化的背景が異なる人々が世界各地でおこなう労働の対象や成果が、均質なデータに置き換えられることで繋がっていく。インドITにおけるグローバルな協働を支えているのは、まずはデジタルな数列を介した労働の標準化であると言えるでしょう。
標準化と多様化
とはいえ、デジタルな数列にもとづいて標準化されたグローバルな労働空間において、文化的・社会的な背景が完全に消え去るわけではありません。むしろ、協働のプロセスが標準化されるからこそ、労働に関する常識や慣例の些細な違いが大きな問題となり、協働を担う人々の文化的な多様性が注目されるようになります。納期を守れなかった際の対処、上司との関係、仕事に対する責任の所在、オンサイト業務(顧客企業を訪れて行う業務)での勤務時間外のつきあい方など、誤解やあつれきが生じるポイントは無数に存在します。
インドのIT企業がグローバルな協働を円滑に進めるためには、顧客企業における異なる考え方やふるまいにうまく適応しなければなりません。こうした必要性は広く意識されており、インドIT企業の多くが「Cultural Sensitivity Training」などと呼ばれる研修セミナーを通じた通文化マネジメント(Cross-Cultural Management)を行っています。
これらのセミナーでは、しばしば、欧米とインドの文化的な違いを構成する様々な要素が列挙されます。「物質主義/宗教的」、「進歩としての変化/伝統への依拠」、「個人的達成の重視/親族などの人間関係に根ざした労働」。対立的に把握されたこれらの要素において、ITワーカーたちは後者を維持しながら前者に適応するように教えられます。自分たちの文化的伝統を捨て去る必要はないけれども、IT産業で成功するためには「彼ら」(顧客企業で働く人々)の文化や慣習を理解し、彼らの考え方やふるまい方にあわせて柔軟に対処しなければならない。繋がること、切りはなすこと、その両方を使い分けることが不可欠になるわけです。
インドITの成長を説明する際には、政府によるバックアップ、英語話者の多さ、数学的・論理的な思考能力の高さ、安く優秀な大量の労働力の存在などが挙げられますが、文化的な差異にフレキシブルに適応する能力を持った人材が育成されてきたこともまた、成長の大きな要因であると考えられます。
文化をのりこなす
労働空間の標準化をとおして多様性があらわになり、文化的な差異に適応するフレキシビリティが重要になっていく。こうした状況は、研修セミナーのような企業内の活動だけでなく、インドIT産業で働く人々の日常生活にも広くみられるものです。
2009年に調査を初めて以来、私は「インドのシリコンバレー」と呼ばれる南部の都市、バンガロール(現地名ベンガルール)においてIT産業で働く人々に対する聞き取り調査や参与観察を行ってきました。そのなかでも、北部の出身で20代後半の青年ITワーカーたちと親しくなり、彼らがシェアするアパートの一室に滞在しながら調査を行いました。
共同生活をおくるなかで見えてきたことは、彼らの日常生活が複数の異なる空間と繋がりながら構成されているということです。IT企業やBPO企業で働く彼らの顧客の多くは、欧米に本拠地を置く企業です。インドと米国西海岸は約12時間、米国東海岸では約9時間、西欧諸国とは3~5時間の時差があります。シリコンバレーがある西海岸との時差が半日程度のため、インドのITワーカーが夜まで働いてサーバーにアップされた成果を米国企業が朝から引き継ぐという分担制がとられていることはよく知られていますが、同じタイミングで行う必要のある業務がないわけではありません。東海岸や西欧の顧客企業と連携する際にも夜間・早朝勤務が不可欠となります。このため、青年ITワーカーたちの勤務時間も非常に不安定なものとなり、しばしば彼らは早朝に帰宅し、深夜に出勤していきます。
24時間営業のコンビニやファミレスを備えた日本の都市とは異なり、バンガロールには深夜営業の店舗がほとんどありません。青年ITワーカーたちは、街が寝静まる時間帯に会社が手配した送迎車両に乗って出勤し、帰宅します。こうした生活時間のすれちがいは、彼らと地域社会とのつながりを弱くする一因となっています。
ただし、土地にねざした人間関係が生活の中心を占めるインドにおいては、地域住民と全く関係しないわけにはいきません。彼らもまた、現地の若者を料理人として雇い、週の大半は彼が作る夕食を食べていました。しかし、おもに北部の言語(ヒンディー語やベンガル語)を話すITワーカーたちとおもに現地語(カンナダ語)を話す青年コックとのあいだにはすれ違いや軋轢が生じることも多く、しばしば無断で欠勤する料理人との付き合いは彼らを悩ますものでもありました。繋がること、切りはなすこと。その両方のあいだでいかにバランスをとるかという問題は、欧米の文化に対してだけでなく、インド国内の社会関係に対しても生じるのです。
欧米諸国と地域社会のあいだを、接続と切断を繰り返しながら横断していくITワーカーたちの姿は、彼らが過ごすバンガロールという都市の姿と重なりあうものでもあります。「インドのシリコンバレー」という異称で知られるバンガロールですが、その言葉からイメージされる均質なハイテク都市ではありません。もちろん、大手IT企業が拠をかまえる中心部や郊外には、高層オフィスビルや国外のブランド品が充実した巨大ショッピングモール、牛や豚などの肉料理も扱う高級レストラン、バンガロールをパブカルチャーで有名にした各種のバーやクラブが立ち並びます。しかし、そのすぐ近くにはチャイや菓子を売る小さな商店、八百屋やタイヤ修理屋といった小売店からなる商店街、現地住民が集う寺院や教会、ピーナッツやスパイスを売るリヤカーの物売りといった昔から変わらない風景がひろがっています。
地元の人々が集まる店舗では一杯数十円でチャイを飲めますが、そこから50メートルも離れていないシネマコンプレックスの施設内にあるスターバックス風のコーヒーチェーンでは国外ブランドで身をかためた若者たちがハリウッド映画の開演時間をまちながら一杯200円のコーヒーを飲んでいる。インドと欧米、伝統と近未来がモザイク状になった、こうした風景はバンガロールのいたるところで見られるものです。
バンガロールのIT産業で働く若者の中には、農村に育ち他の地域の大学を卒業してからこの南部の都市にやってきて働きはじめる人が多く含まれます。親元を離れて言語や慣習の異なる地域に住み、深夜や早朝も働き、パブやクラブでの同僚とのパーティといった新しい遊びを覚え、他の仕事と比べると高いサラリーを手にする。彼・彼女の生活は、一面において非常に自由で享楽に満ちたものであり、インタビューを行った青年ITワーカーの一人(コールセンターで働いた経験のある20代前半の女性)は、まるで「とつぜん王様(King)になったようなもの」だと表現しています。
しかしながら、ITワーカーたちの「王様のような生活」は、農村の暮らしと比べてはるかに高い給与、行動の自由、マクドナルドやドミノピザでの飲食やパブでのパーティといった快適なライフスタイルをもたらすだけではありません。こうした華やかな側面の裏側には、現地の生活から切り離された孤独な日常、不規則な労働形態に起因する体調の悪化、うつ病やアルコール中毒、年配者の場合は家庭生活の破たんといった過酷な事態もまた生じています。
折りたたまれる世界
研修セミナーで教えられるように、バンガロールのITワーカーたちの生活には、「物質主義/宗教的」、「進歩としての変化/伝統への依拠」、「個人的達成の重視/親族などの人間関係に根ざした労働」といった対立的な要素が同時に含まれています。しかし、前者に適応しながら後者を維持することは簡単ではありません。ショッピングモールやコーヒーチェーンを備えたバンガロールの都市空間だけでなく、個人主義的な発想を基盤とする労務管理や、国外のオンサイト業務での顧客企業との付き合いを通じて、ITワーカーたちの日常には欧米的な思考や行動が、それを支える環境を欠いたまま、浸透していきます。
インタビューでは、「働くことは楽しいことでなければ」とか「一緒に働くみんながリーダーだ」といったシリコンバレーを彷彿とさせるようなフレーズが時に聞かれ、国外経験の豊富な年配のITワーカーは「もともとはベジタリアンだったけど、クライアントとの付き合いを通して、今では普通に肉を食べるようになったね」と言います。情報ネットワークを直接的/間接的に経由してITワーカーの身体に浸透する欧米的な思考や行動様式は、その内実が不明瞭なまま彼らの生活にたたみ込まれ、幽霊のように漂っているのです。
ただし、ITワーカーたちは欧米的な文化をそのまま吸収しているわけではありません。同居した青年たちとの日常的な会話においても、彼らは欧米的な個人主義に対して否定的な反応をみせることが多く、個人的な意思決定を単なるエゴイズムとして捉える者もいます。
彼らは、親族からは離れた土地で暮らしているものの、出身地域や出身大学の近い若者同士でアパートをシェアしており、ホーリーなどの祭日には市内に点在する友人たちのアパートを訪れてともに酒を飲み、夕食をとります。ナイキやアディダスの靴を履き、MTVインドのリアルライフ番組を食い入るように眺めることもあれば、お祈りのための部屋にこもり、ヒンドゥ教の神に詣でるためにヒマラヤ山脈まで旅に出ることもあります。インドと欧米、過去と未来、個人と集団のあいだで危ういバランスをとりながら、ITワーカーたちの快適で過酷な生活は営まれているのです。
デジタルな数列にもとづく標準化された労働空間の拡張が、むしろ地域にねざした文化的背景の違いを顕在化させ、様々な文化の違いに適応するフレキシブルな思考や行動が求められていく。しかし、そうした柔軟な生のありかたは、<いま・ここ>にある現実が、そうではない別のどこかにある現実を幽霊のように含みこみながら、流動化し変質していく事態をも招きます。標準化と多様化の狭間で自らのふるまいをフレキシブルに変化させながら生きるインドITワーカーたちの姿は、グローバルな関係性がその内実があいまいなままローカルな実践にたたみこまれていくという、グローバル化の新たな局面を私たちに示してくれているように思われます。
プロフィール
久保明教
1978年神奈川県生まれ。一橋大学社会学研究科専任講師。専門:文化人類学、科学技術社会論。大阪大学大学院人間科学研究科にて博士号取得。主な著書は、西井凉子編『時間の人類学――情動・自然・社会空間』(世界思想社、2011年、分担執筆)、春日直樹編『現実批判の人類学――新世代のエスノグラフィへ』(2011年、世界思想社、分担執筆)、檜垣立哉編『生権力論の現在――フーコーから現代を読む』(2011年、勁草書房、分担執筆)など。インドのIT産業と日本のロボットテクノロジーを対象として、コンピュータ技術の浸透が人々の生活に与える影響について調査と分析をおこなっている。