カリフ制樹立を宣言した「イラクとシャームのイスラーム国」の過去・現在・将来

2014年6月、「イラクとシャームのイスラーム国」[*1]の攻勢を前にイラク軍が脆くも敗走、イラク中部の諸都市や、西部のシリアやヨルダンとの国境通過地点が「イスラーム国」などの武装勢力の手に落ちた。

 

これを受け、「イスラーム国」やイラクの政情がにわかに注目を集めた。しかし、このようなできごとは、「イスラーム国」が突如イラクに現れたことや、イラクの政界で突如「宗派対立」が嵩じたことを意味しない。「イスラーム国」は少なくとも10年前にはイラクで活動していたし、イラクの政界も諸政治勢力の個利個略に基づく政争に明け暮れるようになってから久しかった。

 

むしろ、「イスラーム国」による攻勢が「大戦果」を収めたのは、イラクの政治過程の破綻と9.11以来の「テロとの戦い」の破綻の帰結であり、同派の主な活動地域であるイラクやシリアでその思想や実践が住民の支持を得ているわけでも、「スンナ派」という宗派共同体を代表してイラクやシリアの社会のその他の構成要素と権益を争っているわけでもない。以下では、「イスラーム国」がどのような経緯を経て現在のような状況に至ったかを明らかにした上で、同派や地域の情勢について展望する。(本稿は7月2日に脱稿しました)

 

[*1] الدولة الاسلامية في العراق و الشام 英語略称はISIS、またはISIL。「イスラーム国」やその前身となった組織が名称で使用した地名には、イスラーム世界や彼ら自身の活動地についての組織の思想が色濃く反映されているため、複数の組織名のうち注意を要するものは原語(=アラビア語)標記を併記した。なお、この団体は6月29日に発表した報道官の演説でカリフ国の樹立を宣言し、名称から「イラクとシャームの」を取り去って「イスラーム国」に改称した。本稿ではこの団体を以下「イスラーム国」と記す。

 

 

「イスラーム国」の“発展”

 

この団体の起源は、1980年代にアフガニスタンでソ連軍と戦おうとしたアラブ人義勇兵達(=ムジャーヒディーン)にある。このようなアラブ人のうち、その後、「イラクとシャームのイスラーム国」の前身となる組織を立ち上げたヨルダンのザルカー出身のアブー・ムスアブ・ザルカーウィー(本名:アフマド・ハラーイラ)が、1990年代にアフガニスタン領内に拠点を設置した。

 

このころ、既にムジャーヒディーンの間で指導者として名声を得ていたウサーマ・ビン・ラーディンの下、後にアル=カーイダと呼ばれる団体がアフガンに留まらず世界各地で活動していたが、ザルカーウィーのグループはビン・ラーディンに従う下位集団というわけではなく、半ば独立し、人材や資金などの資源の獲得を巡りアル=カーイダと競合・緊張関係にあった。

 

2001年のアメリカによるアフガン侵攻・占領はアフガンを拠点としてきたイスラーム過激派活動家にとって重大な転機となった。ザルカーウィーのグループは、「アメリカの次の標的」ともくされるイラクへ移動し、実際に、2003年にアメリカ軍がイラクを占領すると、アメリカ軍やその他の諸国・国際機関などへの攻撃を実行するようになった。ザルカーウィーのグループは、2004年春に「タウヒードとジハード団」を名乗りインターネット上で戦果や声明を発表するようになった。同派は、バグダードの国連事務所爆破事件、ナジャフのアリー廟爆破事件など、2003年に発生した重大な爆破事件にも関与していたと考えられている。

 

同派の活動は、極端なシーア派敵視、外国人の誘拐・斬首をはじめとする過激な闘争、インターネットを通じた動画発表のような積極的な広報を特徴とした。彼らに誘拐された外国人は、9割以上が交渉の余地がほとんどないまま短期間のうちに殺害された。日本も彼らの活動とは縁が深く、2004年10月には、同派によって日本人旅行者が誘拐、殺害され、被害者が斬首される模様の動画が発表されている。

 

同じく2004年10月に、「タウヒードとジハード団」はさらなる転機を迎える。ザルカーウィーが、ビン・ラーディンに忠誠を表明し、それが受け入れられたことを受けて組織名を「二大河の国のアル=カーイダ」(تنظيم القاعدة في بلاد الرافدين)に変更したのである。すなわち、ザルカーウィーと彼の率いる団体は、ここで初めて「アル=カーイダになった」のである。「二大河の国のアル=カーイダ」の誕生は、イラクでの反米武装闘争の激化を象徴するとともに、世界各地のイスラーム過激派武装勢力がアル=カーイダに忠誠を表明し、アル=カーイダの名義や威光を借りて活動を強化するというモデルの先駆けとなった。

 

 

「イスラーム国」の“衰退”

 

ザルカーウィー自身は2006年6月にアメリカ軍によって殺害されたが、その後も組織は活動を続けた。彼らは自派を中核として、地元の武装勢力や部族との連合を形成することを通じた拡大路線を取り、2006年1月に「イラクのムジャーヒドゥーンのシューラー評議会」(مجاس شورى المجاهدين في العراق)、次いで2006年10月に「イラク・イスラーム国」(دولة العراق الاسلامية)を結成した。

 

しかし、彼らが進めた拡大路線は、同時期イラクで活動していた様々な思想潮流に属する多様な武装勢力諸派にとっては、単なる他党派解体・併合路線に過ぎなかった。その上、「イラク・イスラーム国」は自派に合流しない武装勢力を、裏切りや背教と非難し、軍事的にも攻撃するようになった。こうして、「イラク・イスラーム国」は、同時期イラクで活動していた武装勢力のほとんどと敵対するようになった。

 

また、彼らの過激な闘争方針や、極端なイスラームの実践は、イラクの社会にとって親しみやすいものではなかった。彼らがイラク社会から支持されているわけではないということは、彼らの人材勧誘に反映されていた。2007年にアメリカ軍が押収した同派の非イラク国籍の戦闘員についての台帳には、2005年~2007年に受け入れた、約600名の情報が記載されていた。また、同派が広報用に製作・発表した殉教者[*2]列伝シリーズとして、2005年~2010年までに刊行された分で約90名の伝記があるが、このおよそ3分の1が明らかに非イラク国籍の者だった。これらの資料は「イラク・イスラーム国」の構成員数や非イラク人の割合を正確に表すものではないが、彼らがイラク以外の地域から戦闘員・構成員を勧誘し、組織的にイラクに潜入させていたことを示している。

 

[*2] 彼等は主に宗教的な動機に基づいてアメリカ軍やイラク政府と戦ったため、戦死者はイスラームに殉じた殉教者として称えられる。

 

ここから、積極的な広報活動が彼らの活動の特徴である理由の一つは、彼らがイラク社会で確固たる支持基盤を持たないため外部から資源を調達せねばならず、イラク以外の地域に対し情報を発信する必要に迫られていたからだと考えることができる。

 

上記の様にしてイラク社会や他の武装勢力の間で孤立した「イラク・イスラーム国」は、次第にその活動が低迷するようになっていった。その原因の一つは、アメリカ軍(後にイラク政府)が「イラク・イスラーム国」と敵対した武装勢力や地元の部族を買収し、覚醒委員会(サフワ)と呼ばれる民兵組織に再編、「イラク・イスラーム国」を筆頭とするアメリカに対する武装闘争を行う諸派の鎮圧や末端の治安維持を代行させたことである。

 

また、同派の活動に対する報道機関の関心も減退し、戦果や扇動・論説が報道で取り上げられる量・質ともに低下した。「イラク・イスラーム国」が暴力の行使やその扇動・威嚇によって自らの目的を達成したり、影響力を拡大させたりしようとしていたことに鑑みると、従来同派の活動を積極的に報じてきたアル=ジャジーラなどの関心が「アラブの春」と呼ばれるアラブ諸国の政治変動に移っていったことは、「イラク・イスラーム国」にとって致命的ですらあった。

 

さらに「イラク・イスラーム国」による情報発信の量・質も著しく低下するようになった。彼らは最盛期には様々な活動についての情報を広報部門に集約し、1日当たり100件を超す戦果発表をすることができたが、それが2011年ごろには1カ月につき10件に満たないことが常態化した。これには、2010年に「イラク・イスラーム国」の「首長」や「戦争相」を含む幹部が、相次いで殺害・逮捕されたことにより、政治的・社会的影響力の強い情報発信が困難になったことと関係している。現在の「イラクとシャームのイスラーム国」首長のアブー・バクル・バグダーディーは、こうした衰退局面で指導者に就任したのである。

 

確かに、2011年、2012年でも、1カ月に1、2回の割合で1度の攻撃で数十名~100名が死傷するような重大な爆破事件は発生し続け、それらの大半について「イラク・イスラーム国」が犯行声明を発表した。しかし、「イラク・イスラーム国」の作戦行動・情報発信が、日常的なものから間欠的なものへと変化したこと、そもそも同派に対する報道機関の関心が極度に低下したことを原因とし、イラク内外での「イラク・イスラーム国」の影響力は低下した。イラクの政治・治安情勢という文脈では、2012年ごろ「イラク・イスラーム国」は滅亡の危機に瀕していた。

 

しかし、ここで忘れてはならないのは、「イラク・イスラーム国」に代表されるイラクにおけるイスラーム過激派の武装闘争が衰退したにもかかわらず、イラクには平和と安定が訪れたわけではなかったことである。特に、政治・経済的な権益・役職の分配をめぐる諸政治勢力の対立・抗争が激化し、2010年に行われた前回の国会議員選挙以来、イラク政府の国防相、内相などの安全保障・治安担当の閣僚は国会の議決を経た正式な任用をされない「代行」のままだった。

 

この間国会に議席を持つ諸政治勢力は、組閣や予算編成の様な政治課題ごとに合従連衡を繰り返し、選挙戦を戦った選挙連合とは全く異なる院内会派を自在に組み替え続けた。これは、一般の有権者にとっては彼らの政治的要求や主張を実現したり、紛争を解決したりするための手段として、選挙や議会を通じた政治活動の意義が失われたことを意味する。

 

同じころ、イラクでも「アラブの春」を模倣し、デモなどの街頭行動によって政府に要求を突き付ける実力行動に訴える政治勢力が増加した。その中には、上で述べたサフワに属する民兵も含まれ、彼らは従来受け持っていた検問・パトロールなどの治安業務を放棄したり、時に直接治安部隊と交戦したりするようになった。こうして、イラクの治安情勢は、政治過程が行き詰まる中で次第に悪化していったのである。すなわち、現在のイラクの政治体制とそれに関係する全ての当事者は、「イラク・イスラーム国」が衰退局面に入ったにもかかわらずそうした有利な環境をイラクの政治・社会の健全な運営に結びつけることができなかったのである。

 

 

 

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